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先祖を探して

Vol.180 宗家に連なる人々5:宗義經(6)お爺様の旅立ち


刀事件

北九州の葛葉の山肌にある家で生活をしていた頃に、床の間の上の方に刀が置かれていたようです。壁にかけられていたのだそうです。
これは叔母の記憶ですが、お爺様がとあることで激怒した出来事があって、その刀を振り回したことがあったのだそうです。もちろん相手に切りつけるというようなことではなく、刀を持ち出して庭で一人でチャンバラみたいに振りまくっていたということです。
それまで叔母は子供だったし、床の間の上の方に置いてあった刀の存在には全く気が付いていなかったそうなのですが、この件があって初めて刀の存在に気が付いたとか。それが本物であったかなどは不明なのですが、かなりさび付いた感じだったそうです。

この刀ですが、現在はもうどこにあるか不明なのです。いったいいつの時代の物だったのか?どういう由縁があったのか?家族は誰も知りません。
島が薩摩支配の時代になってからは、島民は帯刀を許されていなかったので、おそらくお爺様が持っていた刀は琉球時代の物だったと思われます。
先祖代々、長い年月を子孫と共に過ごしてきて、島を出るのも一緒だった刀。いったいどこにいってしまったのか。
叔母たちによると、もしかして生活に困ってお婆様が売ってしまったのでは?なんて話をしていますが、どこかの骨董品屋で眠っているのかもしれません。
この刀があれば、ご先祖様のヒントが何かつかめたかもしれないのに、非常に残念です。会いたかったですね。

ちなみに、刀といえば島の世之主神社にも奉納されているのだそうです。これもまた錆びついた古い刀だそうですが、詳しく調べたら何か分かるかもしれませんが、確か鍔や鞘は無いようなことを聞いてます。う、、、んそれだったら調べようがないのかもしれませんね。いつか島に行った時に、見せてもらおうと思います。


子供たちの独立

9番目の一番下の叔母が独立してからは、お爺様夫婦は大阪に出ていたことがあったといいます。子供たちが数人大阪で生活していたこともあって、住み込みの工場で1年程働いていたことがあったようです。
その後はまた北九州に戻って生活をしています。
この頃は子育ても終わって穏やかな時間を過ごしていたのもあって、昔を思い出し夫婦で望郷の念がつのったようで、島に戻って生活を始めたようです。
昭和28年に屋敷は処分して島を出ていたので、いったんはお婆様の実家に居候したようです。しかし懐かしい島に戻っての生活は嬉しかったようですが、この時に既に60歳を超えていて、島には子供たちもおらずで、やはりこの先の不安も感じ、結局また子供たちのいる北九州へと戻ったのでした。


晩年のお爺様

先祖調査については、島を出たこともあって恐らくそれ以上の調査や新しい発見などはなかったと思われます。当時は今と違って情報を気軽に収集できる時代ではありませんでしたから、現地で生活をしていないと新しい調査は難しかったと思います。
お爺様の子供達である叔父や叔母の話では、暇さえあれば常に書き物をしていたそうです。晩年の早い時期は特にずっと書き物をしており、大事な書き物なので絶対に触らないように言われていたそうです。
島で生活していた頃には、まだ子供も小さくメモ程度は書けても、ゆっくりとまとめあげる時間も無かったのでしょう。それで時間が取れるようになってから、コツコツと調べてきたことなどをまとめ始めたのだと思います。
その記録の一部が、いま私の手元にあるのです。
なぜ一部かというと、段ボールいっぱいあったというほどの量の資料は残っていないからです。
私の手元にある資料のメインは、実は島にいる親族のところにアタッシュケースに入って預けられていました。


アタッシュケースに入っていた資料の一部

2015年にその話を聞きつけて、預かって下さっていた親族に連絡をし、こちらに送ってもらったのでした。
他の資料は北九州にいる叔父のところに少し残されていました。
叔父や叔母たちは、自分たちのご先祖様についてあまり詳しく聞かされてなかったことと、お爺様の書類の山がどれほど大切な資料であったのかを当時あまり把握出来ておらず、大量にあった資料類はメモらしきものを含めてお爺様が亡くなった時に処分してしまったのだそうです。
古文書も含め大事なご先祖様に関する史料も、興味の無い知らない人にとっては単なる紙屑。その資料の中に何か今以上の情報があったのではないかと、大変に悔やまれます。


お婆様の旅立ち

お婆様が先に他界しました。亡くなる数年前に癌を患ったようで、病院での入院生活が続いていたいたそうです。
お爺様は大変なショックだったようで、お婆様亡きあとはとても落ち込んでいたそうです。そのせいもあってか、少し認知症のような状態になってしまい、昼夜を問わず家から裸足で出ていき、行方不明になることもしばしばあったようです。この頃は三女の叔母宅に同居しており、叔母がいなくなったお爺様を必死で探していたそうです。
お爺様の行先は、かつてお婆様と暮らしていた家の方であったり、島に向かっていたつもりで森や山の中に入って行っていることが多かったようです。
北九州に移り住んでから最期までは30年程でしたが、やはり島の事は片時も忘れたことはなかったのでしょうね。生活が成り立つのであれば、いつでも島に戻りたかったのだろうと思います。

お婆様が亡くなったあと、時期ははっきりとはしないのですが、恐らく3年忌頃だと思われますが、島のチュラドゥールに納骨に家族で行ったそうです。
お爺様は島で神主をしていたこともあって、納骨前の儀式を自ら執り行っています。




実は一家で島を出たのは昭和28年4月頃ですが、沖永良部島がアメリカから日本に返還されたのは同年の12月25日です。義母や叔母たちが口々に言います。あと半年ほど待っていれば、、、、
もしかしたらお爺様の心の中にもそんな思いが駆け巡っていたのかもしれません。
でも、それも運命でしょう。半年待っていたとしても結果として島を出ていたかもしれませんし、そこは本当に分からない。いまお爺様の子供たちの家族がそれぞれに幸せに生活しているのであれば、それはそれで島を出て良かったのだと思います。
しかし、ご先祖調査という観点からすれば、島にいて欲しかったな。

そしてお婆様が亡くなってから4年後の昭和60年1月27日の夕方、同居していた三女の叔母の家で静かに84歳の生涯を終えて天国へ旅立ったのでした。

明治・大正・昭和の激動の時代を生き、戦争に行き、先祖調査をし、アメリカ統治時代の島での生活、北九州へ移住してからの生活など、本当に様々なことがあった人生だったと思います。

私はお爺様には会ったことはありませんし、ここに書いた家族の歴史は全て叔父や叔母から聞き取って記録しています。叔父や叔母によっては自分の家族のことであっても知らない話もありました。これからの子孫の為に、お爺様一家のことが少しでも記録に残せて良かったと思っています。
そして、一族やお爺様の願いを引継いで、私はまた気を新たに今年もご先祖調査を進めていこうと思います。




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