私はこの先祖調査については、記録として残していくこと、親族への調査内容の情報提供、関係者からの情報収集、そしてご興味のある皆様に沖永良部島や琉球の歴史を知って頂くために、こちらのブログに記事を投稿していっております。
毎回楽しみに記事を読んでくださっている方もいらして、大変嬉しく思っております。いつもお読み頂きありがとうございます。
このような目的を持ったブログなのですが、Twitterにも投稿しておりましたところ、先日思わぬ方からコンタクトがありました。この方は私の記事をいつも読んでくださっていたそうで、Vol.139で書いた出城のことで反応してくださったのです。
当家のご先祖様が居住してと言われる城跡の南側前方に、出城と呼ばれる小高い山があります。名前の通りずっと大昔に城があった時に砦としての役割があった場所のようです。その山が取り崩されることになったようで、その前に発掘調査が始まっていました。その山の持ち主の方からのコンタクトだったのです。
しかも、その山の持ち主は当家に繋がる方でしたので、驚きの驚きでした。
当家の屋号:上花城の墓石が置いてあるチュラドゥールと呼ばれるお墓を1700年代頃に一緒に作った一族の豊山家の方でした。
色々とお話を伺うことができて、大変嬉しく思っております。ブログでの記録が関係者の方々との繋がりを持つことにとても役立っているようで、非常に有難く便利なツールであると再認識したところです。
そんな出会いがあった豊山家について、ご紹介したいと思います。
島の研究では、豊山家についてはまだ多くは語られてはいないようですが、当家のお爺様の記録によれば、豊山家は琉球から沖永良部にやってきた一族のようです。その始祖になるのが、豊見城御殿(とみぐすくうどぅん)だと書かれています。尚貞王(在位:1669年 - 1709年)の次男・尚経(豊見城王子朝良:1662年 - 1687年)を元祖とする琉球王族です。第二尚氏の分家で、代々豊見城間切(現:豊見城市)の按司地頭を務めた家柄です。その一族の誰かが1600年代後半以降に島にやってきて、子孫の方々がそのまま島に居住されているのです。
島の記録にある薩摩時代の与人一覧に、1716年に豊山家から与人になった「豊峯」という方がいます。となると、この方が島での豊山家の始祖になる人なのか?それ以前に既に島で暮らしていたのかは不明です。
この「豊峯」がチュラドゥールの墓を作ったのではないかと言われています。
そして、当家の記録上の2代目の池久保の長女であった眞金が嫁いでいます。
当時の婚姻は、一族かもしくは同格の家柄での結婚になりますので、宗家と豊山家はいづれかの関係だったのでしょう。
当家の与人をしてた先祖の方々の与人就任の年齢は40歳位です。よって、この「豊峯」も1716年の就任時はそのくらいの年齢だったのかもしれません。
この「豊峯」について、もう少し情報を探し出すことが出来たらいいなと思っています。
次回は豊山家に伝わる伝承を書きたいと思います。