前回のVol.153でご紹介した豊山家は、内城の古城跡地付近に居住し、その昔から素風家(そほうか:財産家)の家であったようです。当家のご先祖様のすぐ近所に居住していたようで、昔は屋号で金城と呼ばれていたようですが、いつの間にか花城と変わっています。
ある方の話では、金城(島では”かなすく”と読みます)の音が転じて花城(はなすく)になってのでは?ということです。
この豊山家の屋敷は、金城の五間殿内と呼ばれた大きな屋敷だったようで、当家のお爺様の記録によると、金城の五間殿内と宗の四間殿内が明治31年に島を襲った大型台風の前までは、この内城の地に屋敷が存在していたようです。
そんな豊山家の伝承が、「むんがたい」という和泊町老人クラブより平成2年に発行されていた冊子に記載がありました。
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花城の五間ドヌチ(殿内)
城下町内域切っての素封家花城では、世之主神社南の花城屋敷に住宅を建築することになり、建築技術の優れた沖縄から、専門の大工棟梁二人を招聴してその建築を依頼した。ところが、その大工たちは、毎日、毎日朝から晩まで飽を研ぐことばかりで一向建築に取りかからないので、花城の主人は怒って、その大工たちを呼び工事の解約を申し渡した。大工たちは、毎日、毎日懸命に研いた鈍で板を二枚削り、それをぴったり合わせて紐で結わえてから、それを池に投げ込み、「花城の旦那様、私共の技術をお目にかけない中に解約を申し渡され、残念に思います。どうか一年たってから、池に投げ込んである板の紐を解いて御覧になって、中に水が入っているかいないかで私共の技術をためして下さい。」と言って沖縄に帰った。それから一年して、池の中の板を引き上げて見たら、板は一年前に合わせたまま水一滴もしみ込んでいなかった。
花城の主人は大変喜んで、早速その大工たちを沖縄から呼び寄せ、壮麗善美な住宅を建設させた。 あまりの見事な出来映えに、土地の人々は整き、「花城の五間ドゥヌチ拝まちたぼり。」と言って見学に行った。花城の主人(竹玉寛氏母の父)が「どうぞ」と言って、垂れ下った紐を引くと、カラッ,カラッと音をたてて天井が廻ったそうである。
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豊山家にはこのような伝承が伝えられているそうです。垂れ下がった紐を引いてみせた花城の主人というのは、恐らく明治時代の当主だったのだと思われます。そのころまではやはり屋敷があったということですね。紐を引くと天井が廻とはどういう様子なのかよく分からないのですが、そのような仕組みを作りこむことが出来る素晴らしい大工をわざわざ琉球から呼び寄せて屋敷を建築できるほどの財力があったということでしょう。
そしてこの殿内ですが、殿内は、もともとは御殿と同じように親方家の邸宅を指す言葉であったそうですが、ここから転じて、親方家のことを「……殿内」と呼ぶようになったようです。そして脇地頭職にある親方家にも用いられたそうです。親方は琉球士族が賜ることのできる最高の称号です。
発音は濁音化してドゥンチ。例えば、小禄殿内(おろくどぅんち)の如くである。また、首里以外ではトヌチとも呼ばれており、沖永良部島ではドゥンチ・トヌチ・ドヌチなどと呼ばれていたようです。
豊山家、宗家の屋敷がが殿内と呼ばれていた背景には、琉球士族として地頭職をしていた可能性がありますね。
豊山家、宗家の屋敷がが殿内と呼ばれていた背景には、琉球士族として地頭職をしていた可能性がありますね。
そのあたりも調査対象となりそうです。