「歴史とは私が目覚めようとしている悪夢である」
(ジェームズ・ジョイス)
滅びの前の明らかな警告に気づかず、また過去の文明の滅び方を識ってはいながらも、滅びた文明が歴史上多々在り、しかもそれを繰り返していることは、疑いようがない事実だ。
自然の恵みはいつまでも限りなく豊かで、戦争は華々しい成功で幕を閉じ、常に物は多ければ多いほど良いなど、と、考えていた過去の世代たちの負の遺産(環境破壊やいまだに繰り返す戦争、人口爆発と資源の枯渇など)を、現在の世代の、私たちが引き継がなければ、滅びの途を辿った文明たちと違うと、どうして考えられるだろうか。
(→私はいつもこの問題を考えるとき、何故か、押井守監督作品、映画『スカイ・クロラ』のなかで「このままだと私たちずっと同じだよ」と草薙水素が銃口の先をある意味彷徨わせながら言うシーンを想い出す。)
このままであると、歴史から私たちが学んだことは、自分たちが歴史から学んでいないという認識そのものになる可能性が高い。
そして私たち人類は、最終的に、非常に高くまで上り詰めてから、ハンプティ・ダンプティのように転がり落ちる、という取り返しつかない惨事を経験する可能性すらあるのだ。
リンカーンは、幾度もの落選や困難に打ち克ちながら大統領となり、アメリカ例外主義のより高尚で向上心にあふれたと評される側面を、最もよく体現したとされる人物である。
しかし、リンカーンも歴史の皮肉が当てはまると言う点では、例外とはなり得なかった。
1963年11月に行われたゲティスバーグの演説を、リンカーンは、まったく不当な動機で最も不当な内戦のひとつを戦った、流血の戦場の一角だった場所で、人間と自らが導く国が抱える実に哀しい欠点を認識しながら決意を表明した。
しかし、それと同時に彼は、人間の良き本性を探し求め、頻繁にそれを見出し、貪欲さではなく、善良さにおいて「例外的な存在」となることを目指していた。
しかし、それから後も、
「過去は決して死なない。過ぎ去ってもいないのだ」
というリンカーンのことばは常に耳朶を打つように響くこととなるような歴史が連なる。
昨日、共和党の候補者たちの議論、というより口論をテレビで見かけた。
不在のトランプ前大統領の悪口のときだけ、4人の出演者は仲良しだった。
......。国家が何らかのかたちで危機に陥れば、団結する、その際に扇の要扱いをされる大統領の候補たちが......と悲しく思うと同時に、我が国日本の外交に対しての不安がただ増大しただけであったが......。
マーク・トウェインは、宗教に名を借りた「明白な運命」や「文明化の使命」という、宗教的偽善に隠されたアメリカの帝国主義を嫌っていた。
セオドア・ルーズベルトのことをマーク・トウェインは
「南北戦争以来、アメリカに降りかかった最も恐ろしい災難」と評し、
「神はアメリカ人が地理を学べるように戦争を生み出した」と痛烈な冗談を飛ばした。
ベトナム戦争や、アフガニスタン、イラク、ウクライナ、イスラエルにおける終わりのない戦争で、私たちが、人々が殺される理解など、出来ないことと同様に、トウェインは、フィリピンで人々が殺される理由など理解出来なかった。
アメリカ例外主義は、アメリカが関わった戦争を、アメリカ国民に、正しいものであるかのように思わせた側面を持つのかもしれない。
日本、そして私たちとて、歴史を鑑みて、考えること、感じることは多いであろう。
私たちは、物事を見たいように見ないことが多い、やはり自分が見たいように見てしまうのであろう。
ときに、あるがままに物事を見ない代わりに、商業的関心というレンズを通して物事を見ている。
そのとき、私たちは私たち自身のの貪欲さを理想主義の薄い膜で覆い隠して物事を見ているのではないであろうか。
ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
冬にしては気温もなんだか温かいかなあ、ニュースにしては政治もなんだか悲しいかなあ、海外のニュースはなんとも収まらない戦争戦争へのやり場のない焦燥感と、中南米の奇抜な大統領たち相次ぐ誕生やロシアとアメリカの大統領選挙の話題でなんだか不安だなあ、などと愚痴ばかりになるので、ニュースは見かける程度で、過去から学べるか、を、考えて描いてみよう、と思いました。
今日も寒暖差に気を付けたいですね。
今日も頑張り過ぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。