おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

「延長された表現型(The Extended Phenotype)」たちのうちのひとつを考察するために-ダーウィンと人間心理への理会①-

2023-11-26 06:20:10 | 日記
「どんな複雑な問題にも、
わかりやすく、単純で、間違った答えがある。」
(H・L・メンケン)

ダーウィンが、登場する前、彼ほど、現代の理論に通じる理論を語った者はいなかった。

また大雑把な観点からいえば、ダーウィン登場以降も、理論の細かい修正や実験による確認、臨床的応用を除けば、新たな内容が付け加えられることは、ほとんど無かった。

人間心理の理解における最も重要な前進は、
人間の精神生活の大部分が、理性や意志でコントロールされず、
自動的かつ無意識に営まれていると気付いたことである。

確かに、
ダーウィン前後の時代にも、多くの哲学者、科学者、そして作家が、
無意識の領域の研究を行っているが、
ダーウィン以外に、人間の心と霊長類の歴史を結びつけることによって、
それまで説明されなかった空白の部分の多くを埋めることが出来た人物が存在したであろうか??

プラトンにまで遡るすべての哲学者は、ある意味心理学者であるとも言える。

なぜなら、人間の本性に関する理論、つまり何が人間の行動や考え方を引き起こしているかを詳細に論じてきたからだ。

主観的な自己観察や、演繹的推論、イデオロギーを組み合わせて、
それぞれの哲学者は、「人間の心に関する独自のモデル」を作り上げようとしたが、
概してそれらは、「各自の心の輪郭や癖によって形成されたもの」であった。

あるモデルが、他のモデルに比べて洞察に富み、現実に見合っているということは在れど、
すべてのモデルは、それを生んだ哲学者の特殊な思考プロセスや信念を説明しているものであり、
人間が、今在る姿になるまでどのような道を辿り、
人間の心がなぜ今在るような形で働いているのか、
と、いう、根本的な質問には確りとは答えていないように、私は、感じてしまう。

そう、
誰もが、「人間の本性」については説明をしているのだが、
「その本性がどのように人間を人間たらしめているのか」については、誰も解き明かしてなどいないといっても言い過ぎではないであろう。

ダーウィンは、ビーグル号での航海から、ちょうど2年後のノートの余白に

「ヒヒを理解する者はロックよりも形而上学を極めるだろう」
とメモを残している。

ダーウィン前後にはない心理学上の深い洞察が、1838年のダーウィンのノート上の走り書きのメモには在った。

ダーウィンのいう形而上学は心理学を指し、彼が触れているロックは、ダーウィンの登場の2世紀ほど前に登場した、イギリスの哲学者、ジョン・ロックを指している。

ロックの心理学(?)では、
「人間はまっさら(≒rasa)な石版(≒tabula)のような心を持ち、生まれてきて、
そのあと、人間がどのように成長するかは、自分自身の感覚を通じて「経験したことだけに拠ってだけ」決まるという。

私たち人間にとって、ダーウィンの洞察が、ある意味衝撃的かつ屈辱的ですらあるのは、
人間が自由に生まれついておらず、私たちを動物だと言い切る点に大きな要因が在ることは疑いようがない事実であると思う。
つまり、ダーウィンは、
「石版はまっさらではなくて、持って生まれた遺伝情報で埋め尽くされている」
と言っているのだから、反感を買わない方が不自然ともいえる。
それについてのダーウィン自身の理解を、次回は起点とするとして、ロックのことばで、今回は締めくくることとしたい。
「心は、言ってみれば文字をまったく書いた白紙で、観念は少しも無いと想定しよう。
どのようにして心は観念を備えるようになるか。
人間の忙しく果てしない心想が心にほとんど限りなく多種多様に描いてきたあの膨大な蓄えを心はどこから得るか。
どこから心は理知的推理と知識のすべての材料をわがものにするか。
これに対して
私は一語で経験から、と答える」(ジョン・ロック『人間知性論』)

ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
今日は特に寒くて、スマホを打つ手が、かじかみます。
寒いので体調に気をつけたいですね。
今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。