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Yokkiとはsaxの大森義基のこと

SAX吹き おおもりよしき
2005年12月~
blogのテーマは人、愛、感動、感謝、食、毎日更新!

もう少しで完成かな

2015年01月17日 | 出来事
今年初めて市立戸塚高校でレッスン!


高校生は当たり前だけどフレッシュだね♪

合奏をみっちりやる予定でしたがサクソフォン四重奏のレッスンやったら気になりすぎて…

色々心配になり結局合奏はほんの少ししかできませんでした…

ごめんm(__)m

サックス四重奏の皆さんがんばれー
(^_^)v

あと少しで完成ですかぁ
合奏棟?


吹奏楽合奏は今まで食堂などでやってたから長年の夢であった合奏場が出来るとあって今から楽しみ

卒業生や前顧問の先生方は羨ましがるだろうなぁ

駐車場は狭くなったよー

伴奏合わせレッスン!

2015年01月16日 | 出来事
午前中から桜美林大学で伴奏合わせのレッスンでした!


今月末に実技試験があるので生徒たち頑張っていますよ

ちと曲が難しいのかなぁ~
合わせる回数が2回だと厳しいねぇ


1年傳川くん
ロベール/カデンツァより

2年田中さん(テナー)
ヴィラ=ロボス/ファンタジアより

3年山田さん
クレストン/コンチェルトより

4年松本さん
シュルホフ/ソナタより

その他

皆頑張ってね!

伴奏の竹山さん今回もお世話になります
m(__)m

帰るわ…雨だね

2015年01月15日 | 出来事
昭和音大で今日もレッスンでした!

試験に向けてとにかく頑張るしかありません
生徒たちがんばれー!

インフルエンザの生徒たち身体の充電だと思って…

復活したら全力出せるように休養も大切だね


焦る気持ちをおさえて…


レッスン終えると外は雨だわ

今夜はラーメンかな


大桜行っとこかぁ
家系ラーメン



体が暖まったよ!

届きました

2015年01月15日 | 出来事
この間、下倉楽器でソプラノサックス選定したことをblogにUPしたのは記憶に新しいですよね

サクソフォン講師をされてる三重県の今村さんから写真が届きました!

「早速、ワクワクしながら楽器を取り出し、選定書の大森先生と同じポーズで写真を撮ってみました。
その写真を添付してメールを送信するのは、お見苦しくて申し訳無いと思いつつ、喜びを抑えられませんでした」

いえいえ、、、
嬉しさが伝わってきました
\(^o^)/

この気持ちっていつまでも大切ですよねっ

僕も自分の楽器に対して感謝の気持ちを一層強めたいとおもいます

写真有り難うございました!
そして、blogにUPの件も許可頂き有り難うございます

可愛がってあげてくださいませ(^_^)v

送ってくれました!

2015年01月15日 | 出来事
成人式の写真が送られてきましたよ~


この二人は昭和音大2年生の左から田所さんと白石くんで二人とも僕の門下生

これは横浜市の成人式かな?
横浜アリーナっぽいね


田所さん美しく、白石くんたくましくなってますね!

これからもどんどん成長してもらって自分の思う大人というやつに向かって頑張って生きていこうよ

これからは責任という言葉の重みが段々増してくる事に気がつくことでしょう

逃げずに立ち向かってくださいね

任せとけって言える人でいたいよね♪

がんばれ(^_^)/~~

もう一枚


白石くん呑んだくれのにいちゃんみたいになってませんかぁー
成人式で暴れてないよねぇ(笑)
横浜市は暴れん坊いなかったですかぁ?
ニュースでよくみる成人式に暴れてるやつ…(^^;)

写真有り難う♪

1年合奏授業終わったぁ

2015年01月14日 | 出来事
昭和音大合奏授業の吹奏楽にサックス1年生は乗れない為、週3日担当の先生別でサックスオーケストラを組みます

毎週水曜日は大森担当!

1年生の皆さん入学した当初は大学1年というより高校4年生(笑)のようでガチャガチャしていたように感じましたが、少し落ち着いたのかな…
え~、ウソーって声が聞こえてきそうなのでこの辺で…

体調不良も含めて数名お休みしていますが
他の皆は元気でしたよ♪


毎週会えなくなりますが皆のことは忘れんよー♪
これからも宜しくね☆


卒業の時まで入学した時のトキメキを忘れるなよ!
夢に向かって前進あるのみ

1年間お疲れさまでした
m(__)m

気分新たに…

2015年01月13日 | 出来事
自分は東京で独り暮らしを始めた時から気持ちを新たにする時はお部屋のレイアウトを変えると決めそれを続けてきました


今のところを買ってから10年以上経っています
ソファーやテーブルの位置を変えたり、家具を追加したり…

また、そんなときがきたのかなぁー

などと思いながら
先ずはテレビを移動し
そのあとは写真の棚を移動します

それにしても物が沢山増えているので移動も大変ですね

リビング大改造計画としてスタートです


何があった訳ではないのですが
気分かな…
新鮮な気持ちになれるとはりきっています
(^_^)v

クスクス

2015年01月13日 | 出来事
激励として

自宅で昭和音大大森門下4年生のレッスン&食事会を行いました

風邪で一人参加できず残念でした(T-T)
千葉県出身後藤さん大丈夫かな?

福島県会津出身渡部さんと愛知県名古屋市出身水野くん



シャンパンで未来に乾杯!

留学時代によく食べた
「クスクス」


楽しかったね!
また、やりましょう

行ってきました!

2015年01月11日 | 出来事
今日
大学時代のヴァイオリンの後輩大野くんがお店を出しましたよ

柔らかくて美味しく煮込まれた豚角煮がご飯の上にドーンと乗っかっています


労働者向きのパワーアップ間違いなし丼です
味噌汁も家庭の温かさを味わうことができるよ

更に追加でコールスローを頼みました!


美味しい豚角煮丼また食べに行きます!

大野くん頑張って下さいね☆

特に男子オススメ
(^_^)v

以下へ行ってみて下さい!

トロトロ屋
神奈川県相模原市中央区横山4-24-12

追悼 百瀬治彦

2015年01月10日 | 出来事
「春を告げる木瓜の話」
百瀬治彦
(2013年コニカ友の会写真展出展)


特別企画
百瀬治彦の残したもの

以下はNHK プロジェクト Xからの引用です

いまやカメラは、使い捨てカメラから一眼レフカメラ、そしてディジタルカメラにいたるまで、日本人の生活に広く浸透している。しかし、昭和30年代までは必ずしも身近な道具ではなかった。汎用のカメラといっても高価なものであり、撮影技術も必要で、誰もが使いこなせるものではなかった。高度成長期、人々の暮らしに余裕ができ始め、レクリエーションに興ずるようになると、「一度しかないこの瞬間を写真に残したい」、そんな素朴な願いが人々に生まれた。
 そんな願いをかなえたのが、オートフォーカス(AF)カメラである。シャッターを押すだけで自動的にピントを合わせてくれるAFカメラは、かつて世界中の技術者から「夢のカメラ」といわれてきた。この「夢のカメラ」の商品化を、世界で初めて成功させたのは、小西六(現・コニカ)の若き技術者だった。
 昭和38年、AFカメラの開発は、一人の電気技術者・百瀬治彦の情熱から始まった。粘り強く研究を続ける百瀬、そしてその百瀬を陰で支えていたカメラ開発部リーダーの内田康男。二人を中心としたプロジェクトは、地道で気の遠くなるような技術を積み重ね、14年の歳月を経て、他社との激しい開発競争のなか、見事に世界初の栄光を手にした。
 これは、人々の「この瞬間を写真に残したい」という願いをかなえるため、闘いつづけた若き技術者たちの執念と、それを陰で支えつづけた家族のドラマである。

 カメラは「敷居の高い道具」であった

 ディスポーザル(使い捨て)カメラから、高級一眼レフカメラ、そして近年急速に普及したデジタルカメラに至るまで、カメラは日本人の日常生活に広く浸透している。子どもから老人まで、みな気軽にシャッターを押し、日々の思い出を記録にとどめる道具として使いこなしている。
 しかし、昭和三〇年代ごろまで、カメラは決して身近な道具ではなかった。汎用のカメラ機といえども高価で、なおかつ写す場所や被写体に応じた露出やピント合わせなど、一定の撮影技術を理解していなければ、いい写真を撮ることは難しかった。
 撮影条件に応じた露光を自動的に調節する「自動露出機能」を搭載したカメラは、汎用の一眼レフ、コンパクトカメラとも昭和四〇年代に普及したが、被写体とレンズとの距離を合わせる“ピント合わせ”は、レンズリングを手動で回して、ファインダー上でそのつど調節するほかはなく、その「瞬間」を捉えるといった撮影方法は、ごく一般のカメラユーザーには敷居が高かった。
 現在四〇代以上の人のなかには、カメラを向けられると無意識に肩に力が入り緊張してしまう人が少なくない。以前はごく簡単なスナップ写真でも、被写体は常にじっとしていなければいけなかったのである。シャッターを切る瞬間に少しでも動くと、いわゆる「ピンぼけ」写真になってしまったからである。
 ましてや子どもが運動会で元気に駆け回る姿をそのまま鮮明に写真に残すなどということは、極めて難しいことだった。初心者が瞬間的にシャッターを切ってもピンぼけしない写真が撮れるカメラがあれば、もっと多くの人たちにカメラは普及する。世界中のカメラメーカーの技術者たちは、みながそう考えていた。
 手動ではなく、あたかも人間の目のように一瞬にしてピントを合わせるカメラ。自動焦点装置(オートフォーカス=AF)機能の開発は、当時のカメラ技術者たちの見果てぬ夢であった。


 百瀬治彦という男


 のちにオートフォーカスカメラの生みの親となる百瀬治彦は、昭和一二(一九三七)年長野県松本市で七人兄弟の末っ子として生まれた。実家はリンゴ栽培を生業としていたが、六歳のときに父親を亡くし、家業を継いだ二〇歳年上の兄・成海を父代わりとして育った。
 幼いころから手先が器用で工作が大の得意だった。しかし兄の苦労を見るにつけ、自分も早く力にならなければと家業を手伝っていた治彦に、強く高校進学を勧めたのは成海だった。成海自身、もとは技術者志望だったが家業を継ぐために断念していたのだった。治彦ならきっと立派な技術者になれるはずだ、そして自分が果たせなかった夢を託してみたい。成海はそう考え、苦しいなかから学費を工面することにした。
 地元の松本工業高校に進学した治彦は、在学中に自分の進路を決める一つの運命的な出会いをした。同級生が持っていた“ニコンSP”である。一〇〇〇分の一秒まで切れる高速シャッターを搭載、また精巧なレンズやファインダーを備えた国産カメラとして、ドイツの高級カメラ、ライカを超えたといわれた名機である。
「その精巧さ、そしてボディのコントラストが何ともいえない感じで、とにかくきれいなカメラでした」
 技術者をめざす治彦にとって、その美しい工業製品は憧れの対象となった。自分でもあんなカメラをつくってみたい――そう思うようになっていた。
 高校卒業後の昭和三二(一九五七)年、治彦は国内屈指の総合写真メーカーである小西六写真工業、現在のコニカに入社することになった。上京する治彦に、成海は「一人前の技術者になれ。一度決めたら決して諦めるな」と言って送り出した。
 入社してまもなく、それまであまり触ったことのなかったカメラが社内貸し出しで借りられることを知った治彦は、さっそくその制度を使って、上京後下宿していた池袋周辺の街並みを撮りまくった。
「うれしかったですね。でも恥ずかしい話、借りたのはいいけれど当時のカメラはフィルムの入れ方が難しくて、結局近所のカメラ屋さんに教わりに行ったんですよ」
 カメラに思う存分触れ、あらためてカメラ技術者としての道を歩むことを確かめた百瀬だった。
一度しかないこの瞬間を記録に残したい、その素朴な願いを叶えたAFカメラ。シャッターを押すだけで自動的にピントを合わせてくれるAFカメラは、かつて世界中の技術者から「夢のカメラ」といわれてきた。この夢のカメラを商品化を、世界で初めて成功させたのは、小西六(現コニカ)の若き技術者たちだった。 昭和38年、AFカメラの開発は、たった一人の電気技術者・百瀬治彦の情熱から始まった。シャッターを切る僅か0,1秒の間に、被写 体までの距離を電気信号によって瞬時に読みとりピントの合う所にレンズを作動させるというAFカメラへの挑戦は、地道で気の遠くなるような技術の積み重ねを必要とした。思うように成果 を上げられない。百瀬への社内の目は厳しかった。次第に研究費は削りとられた。しかし百瀬は決して諦めようとはしなかった。 百瀬の粘りを認め陰で支えていたのはカメラ開発部リーダーの内田康男。内田の援助によって、AFの研究は上層部には秘密の「闇研究」で続けられたきた。完成まで14年、激しい開発競争の中で、みごと世界初の栄光を手にした技術者たちの執念と、陰で支え続けた家族のドラマである

臨時雇いの
百瀬治彦氏
昭和32年入社

自動焦点機構を14年かけて研究
開花させた

昭和38年
キャノンが自動焦点カメラの試作機を
作ったが実用化には遠かった。

彼は上司に
やらせて下さいといい
許可された。

最初は
キャノンの方式を研究したが
その方式では実用品に向かないことを
見つけた。
それから
苦闘が始まった。

やっとできたのは弁当箱2つ分のサイズ
冨広社長は文庫本1つの
ピッカリコニカに入れろという。
設計屋
飯島弥一は
「やってみるよ」と引き受けた。

冨広社長は
ハネウェル社の角砂糖大のICの使用権を取得

動力はモーターをあきらめ
素人の発想で電磁石で動きを止めた。
これでサイズは大幅に減った。

社長の指示で
高級製品ではなく
中級機ジャスピンコニカに搭載!


高級機を使うマニアには
マニュアルフォーカスは難しくない。

オートフォーカスは
素人にとってこそありがたい機能だった
だから
大ヒット

日本は
投資よりも
技術を追求することを
最優先にすることを
目指すべきではないでしょうか。
いくつもの世界最高の技術力があるのです。


読んで頂き有り難うございました

百瀬治彦の残したもの
カメラを手にしたら思い出して下さいね☆

哀悼の意を表します

2015年01月10日 | 出来事
1999~2011年の間に活動していたサクソフォンオーケストラ「グランボワサクソフォン倶楽部」初代部長の百瀬治彦さんが昨年秋に亡くなりました。

百瀬さんは会社を引退後に趣味の1つであった音楽を楽しむ為に下倉楽器八王子店に協力頂き大森と知り合いました。
テナーサックスのプライベートレッスンを重ねる中で一人だけでなく多くの人たちとアンサンブルする楽しさを知ってもらいたいと、当時若い生徒たち数名と百瀬さんと大森によってグランボワサクソフォン倶楽部を立ち上げる事になりました。

倶楽部の対外的なコンタクトは百瀬部長を中心に行われ、元となる規約も全てつくりだしてくれました。



部員や大森も人として尊敬しておりとても立派な方で、2011年グランボワサクソフォン倶楽部が解散した後も百瀬さんとは交流がありました。大森のコンサートにも足を運んでくれたり…

大変お世話になった百瀬さんが病気の為に亡くなりとても残念でなりません

宗教などの理由で家族のみの葬儀だったそうです

そんな事から今日やっと百瀬さん宅の仏壇に手を合わせることができました

楽器ケースが空けてあり御主人のいないテナーサックスが悲しげでしたよ

本人が居ないお宅にお邪魔するのは本当に変な感じがしました
奥様とお話ししてる最中も部屋の奥から本人が楽器持って出てくるのではないかと話していたくらい

本人は100歳まで生きるつもりだったと、病気で入院するまでは元気すぎる人だったようです
この入院が最後になるとは本人全く考えもしなかったようです
退院したら、先生にもう一度基礎から楽器を学ばないといけないと言ってたと聞きました

とても音楽が好きな方でしたからもう一度音楽の話をしたかったです

レッスンしたかった!


健康に気を付けて感謝の気持ちを忘れずに一日を大切に生きていかなければならないと思いました

百瀬さんと知り合えたことは大森の財産です


百瀬さん

あちらでもしっかり練習してね!

有り難うございました
m(__)m

今日も音大でした

2015年01月08日 | 出来事


レッスン終わるとヘトヘト…
(^^;)

お腹空いたよ

今夜は何を食べますか?

とんかつを食べることに決定!

食べることばかりblogに載せてますが今夜も…


ここのとんかつはマイウー
国道16号線沿い

今日はいつもと違ってロースカツとエビの定食に決まり



とんかつ店の好きなところはキャベツおかわり自由なところ☆

それから
味噌汁も赤と白があり、おかわり自由☆
ご飯も白米かワカメと野沢菜まぜごはん、おかわり自由☆


美味しかったぁ♪

さてどこのお店?

神奈川県相模原市内
最寄り駅は横浜線矢部駅でしょうか


「かつ泉」でした!