goo blog サービス終了のお知らせ 

Yokkiとはsaxの大森義基のこと

SAX吹き おおもりよしき
2005年12月~
blogのテーマは人、愛、感動、感謝、食、毎日更新!

追悼 百瀬治彦

2015年01月10日 | 出来事
「春を告げる木瓜の話」
百瀬治彦
(2013年コニカ友の会写真展出展)


特別企画
百瀬治彦の残したもの

以下はNHK プロジェクト Xからの引用です

いまやカメラは、使い捨てカメラから一眼レフカメラ、そしてディジタルカメラにいたるまで、日本人の生活に広く浸透している。しかし、昭和30年代までは必ずしも身近な道具ではなかった。汎用のカメラといっても高価なものであり、撮影技術も必要で、誰もが使いこなせるものではなかった。高度成長期、人々の暮らしに余裕ができ始め、レクリエーションに興ずるようになると、「一度しかないこの瞬間を写真に残したい」、そんな素朴な願いが人々に生まれた。
 そんな願いをかなえたのが、オートフォーカス(AF)カメラである。シャッターを押すだけで自動的にピントを合わせてくれるAFカメラは、かつて世界中の技術者から「夢のカメラ」といわれてきた。この「夢のカメラ」の商品化を、世界で初めて成功させたのは、小西六(現・コニカ)の若き技術者だった。
 昭和38年、AFカメラの開発は、一人の電気技術者・百瀬治彦の情熱から始まった。粘り強く研究を続ける百瀬、そしてその百瀬を陰で支えていたカメラ開発部リーダーの内田康男。二人を中心としたプロジェクトは、地道で気の遠くなるような技術を積み重ね、14年の歳月を経て、他社との激しい開発競争のなか、見事に世界初の栄光を手にした。
 これは、人々の「この瞬間を写真に残したい」という願いをかなえるため、闘いつづけた若き技術者たちの執念と、それを陰で支えつづけた家族のドラマである。

 カメラは「敷居の高い道具」であった

 ディスポーザル(使い捨て)カメラから、高級一眼レフカメラ、そして近年急速に普及したデジタルカメラに至るまで、カメラは日本人の日常生活に広く浸透している。子どもから老人まで、みな気軽にシャッターを押し、日々の思い出を記録にとどめる道具として使いこなしている。
 しかし、昭和三〇年代ごろまで、カメラは決して身近な道具ではなかった。汎用のカメラ機といえども高価で、なおかつ写す場所や被写体に応じた露出やピント合わせなど、一定の撮影技術を理解していなければ、いい写真を撮ることは難しかった。
 撮影条件に応じた露光を自動的に調節する「自動露出機能」を搭載したカメラは、汎用の一眼レフ、コンパクトカメラとも昭和四〇年代に普及したが、被写体とレンズとの距離を合わせる“ピント合わせ”は、レンズリングを手動で回して、ファインダー上でそのつど調節するほかはなく、その「瞬間」を捉えるといった撮影方法は、ごく一般のカメラユーザーには敷居が高かった。
 現在四〇代以上の人のなかには、カメラを向けられると無意識に肩に力が入り緊張してしまう人が少なくない。以前はごく簡単なスナップ写真でも、被写体は常にじっとしていなければいけなかったのである。シャッターを切る瞬間に少しでも動くと、いわゆる「ピンぼけ」写真になってしまったからである。
 ましてや子どもが運動会で元気に駆け回る姿をそのまま鮮明に写真に残すなどということは、極めて難しいことだった。初心者が瞬間的にシャッターを切ってもピンぼけしない写真が撮れるカメラがあれば、もっと多くの人たちにカメラは普及する。世界中のカメラメーカーの技術者たちは、みながそう考えていた。
 手動ではなく、あたかも人間の目のように一瞬にしてピントを合わせるカメラ。自動焦点装置(オートフォーカス=AF)機能の開発は、当時のカメラ技術者たちの見果てぬ夢であった。


 百瀬治彦という男


 のちにオートフォーカスカメラの生みの親となる百瀬治彦は、昭和一二(一九三七)年長野県松本市で七人兄弟の末っ子として生まれた。実家はリンゴ栽培を生業としていたが、六歳のときに父親を亡くし、家業を継いだ二〇歳年上の兄・成海を父代わりとして育った。
 幼いころから手先が器用で工作が大の得意だった。しかし兄の苦労を見るにつけ、自分も早く力にならなければと家業を手伝っていた治彦に、強く高校進学を勧めたのは成海だった。成海自身、もとは技術者志望だったが家業を継ぐために断念していたのだった。治彦ならきっと立派な技術者になれるはずだ、そして自分が果たせなかった夢を託してみたい。成海はそう考え、苦しいなかから学費を工面することにした。
 地元の松本工業高校に進学した治彦は、在学中に自分の進路を決める一つの運命的な出会いをした。同級生が持っていた“ニコンSP”である。一〇〇〇分の一秒まで切れる高速シャッターを搭載、また精巧なレンズやファインダーを備えた国産カメラとして、ドイツの高級カメラ、ライカを超えたといわれた名機である。
「その精巧さ、そしてボディのコントラストが何ともいえない感じで、とにかくきれいなカメラでした」
 技術者をめざす治彦にとって、その美しい工業製品は憧れの対象となった。自分でもあんなカメラをつくってみたい――そう思うようになっていた。
 高校卒業後の昭和三二(一九五七)年、治彦は国内屈指の総合写真メーカーである小西六写真工業、現在のコニカに入社することになった。上京する治彦に、成海は「一人前の技術者になれ。一度決めたら決して諦めるな」と言って送り出した。
 入社してまもなく、それまであまり触ったことのなかったカメラが社内貸し出しで借りられることを知った治彦は、さっそくその制度を使って、上京後下宿していた池袋周辺の街並みを撮りまくった。
「うれしかったですね。でも恥ずかしい話、借りたのはいいけれど当時のカメラはフィルムの入れ方が難しくて、結局近所のカメラ屋さんに教わりに行ったんですよ」
 カメラに思う存分触れ、あらためてカメラ技術者としての道を歩むことを確かめた百瀬だった。
一度しかないこの瞬間を記録に残したい、その素朴な願いを叶えたAFカメラ。シャッターを押すだけで自動的にピントを合わせてくれるAFカメラは、かつて世界中の技術者から「夢のカメラ」といわれてきた。この夢のカメラを商品化を、世界で初めて成功させたのは、小西六(現コニカ)の若き技術者たちだった。 昭和38年、AFカメラの開発は、たった一人の電気技術者・百瀬治彦の情熱から始まった。シャッターを切る僅か0,1秒の間に、被写 体までの距離を電気信号によって瞬時に読みとりピントの合う所にレンズを作動させるというAFカメラへの挑戦は、地道で気の遠くなるような技術の積み重ねを必要とした。思うように成果 を上げられない。百瀬への社内の目は厳しかった。次第に研究費は削りとられた。しかし百瀬は決して諦めようとはしなかった。 百瀬の粘りを認め陰で支えていたのはカメラ開発部リーダーの内田康男。内田の援助によって、AFの研究は上層部には秘密の「闇研究」で続けられたきた。完成まで14年、激しい開発競争の中で、みごと世界初の栄光を手にした技術者たちの執念と、陰で支え続けた家族のドラマである

臨時雇いの
百瀬治彦氏
昭和32年入社

自動焦点機構を14年かけて研究
開花させた

昭和38年
キャノンが自動焦点カメラの試作機を
作ったが実用化には遠かった。

彼は上司に
やらせて下さいといい
許可された。

最初は
キャノンの方式を研究したが
その方式では実用品に向かないことを
見つけた。
それから
苦闘が始まった。

やっとできたのは弁当箱2つ分のサイズ
冨広社長は文庫本1つの
ピッカリコニカに入れろという。
設計屋
飯島弥一は
「やってみるよ」と引き受けた。

冨広社長は
ハネウェル社の角砂糖大のICの使用権を取得

動力はモーターをあきらめ
素人の発想で電磁石で動きを止めた。
これでサイズは大幅に減った。

社長の指示で
高級製品ではなく
中級機ジャスピンコニカに搭載!


高級機を使うマニアには
マニュアルフォーカスは難しくない。

オートフォーカスは
素人にとってこそありがたい機能だった
だから
大ヒット

日本は
投資よりも
技術を追求することを
最優先にすることを
目指すべきではないでしょうか。
いくつもの世界最高の技術力があるのです。


読んで頂き有り難うございました

百瀬治彦の残したもの
カメラを手にしたら思い出して下さいね☆

哀悼の意を表します

2015年01月10日 | 出来事
1999~2011年の間に活動していたサクソフォンオーケストラ「グランボワサクソフォン倶楽部」初代部長の百瀬治彦さんが昨年秋に亡くなりました。

百瀬さんは会社を引退後に趣味の1つであった音楽を楽しむ為に下倉楽器八王子店に協力頂き大森と知り合いました。
テナーサックスのプライベートレッスンを重ねる中で一人だけでなく多くの人たちとアンサンブルする楽しさを知ってもらいたいと、当時若い生徒たち数名と百瀬さんと大森によってグランボワサクソフォン倶楽部を立ち上げる事になりました。

倶楽部の対外的なコンタクトは百瀬部長を中心に行われ、元となる規約も全てつくりだしてくれました。



部員や大森も人として尊敬しておりとても立派な方で、2011年グランボワサクソフォン倶楽部が解散した後も百瀬さんとは交流がありました。大森のコンサートにも足を運んでくれたり…

大変お世話になった百瀬さんが病気の為に亡くなりとても残念でなりません

宗教などの理由で家族のみの葬儀だったそうです

そんな事から今日やっと百瀬さん宅の仏壇に手を合わせることができました

楽器ケースが空けてあり御主人のいないテナーサックスが悲しげでしたよ

本人が居ないお宅にお邪魔するのは本当に変な感じがしました
奥様とお話ししてる最中も部屋の奥から本人が楽器持って出てくるのではないかと話していたくらい

本人は100歳まで生きるつもりだったと、病気で入院するまでは元気すぎる人だったようです
この入院が最後になるとは本人全く考えもしなかったようです
退院したら、先生にもう一度基礎から楽器を学ばないといけないと言ってたと聞きました

とても音楽が好きな方でしたからもう一度音楽の話をしたかったです

レッスンしたかった!


健康に気を付けて感謝の気持ちを忘れずに一日を大切に生きていかなければならないと思いました

百瀬さんと知り合えたことは大森の財産です


百瀬さん

あちらでもしっかり練習してね!

有り難うございました
m(__)m