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プラユキ・ナラテボー師 「よき縁ネット」

タイの日本人僧侶プラユキ師の公式サポートブログです 師の活動をサポートし、瞑想や仏法を学ぶ人をサポートしていきます

シェアリング

2017-05-03 | シェアリング

 プラユキ師講話


 ・「私たちは仏教の文脈で、自我をいじめすぎていませんか?」
   瞑想会でのプラユキ師の法話から

 ・スカトー寺での法話の音声データ集(タイ語)

 ・2015年10月、魚川祐司さんによりスカトー寺で収録されたツイキャス。
 「プラユキ・ナラテボー師との対話@スカトー寺」
 「姫が「女性」になるまで(スカトー寺での対話2)」

 一本目は主に魚川さんの私へのインタビュー・視聴者コメントへの応答。
 二本目は主に魚川さんのスカトー寺体験者へのインタビュー(+プラユキ師の解説付き)。
 親からの虐待を受けた子供時代の苦悩。そしてスカトー寺での修行や夢分析を通して、
 苦しみの淵から蘇っていくプロセスが仔細に語られています

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 公式イベントの報告

 ・2016年2月5日
   新刊『自由に生きる』出版記念講演会 主催:出版社サンガ

    当ブログ管理人による報告です。
    【シェア】「自由に生きる」の刊行記念講演会が開催されました

   参加された方の報告です。
   プラユキさんのサンガくらぶに行ってきました(その1)
   プラユキさんのサンガくらぶに行ってきました(その2)



 ・2013年11月30日 
   凱旋(!?)講演・瞑想会
   「こころワクワク人生を楽しむ「気づきの瞑想」 埼玉県本庄市
   主催者の報告
   「よき縁ネット」管理人の報告

 

 各種イベントの報告や感想などのリンク 
   執筆された方々、ありがとうございます。

 ・2017年3月18〜20日 瞑想リトリートin御岳山

  プラユキ師瞑想リトリートin御岳山 主催者の報告

  ブログ「ハッピーコラージュ」 参加者の報告

   ・プラユキ師の瞑想合宿に参加してきました

   ・個人面談(合宿1日目)

   ・気づきの食事と歩行瞑想(合宿2日目)

   ・合宿のまとめ(合宿最終日)



 ・2017年1月14日 子育て講座 「受容的かかわりを学ぶ」
  プラユキ師とのコラボ講演会を終えて 共演者・須賀義一氏の報告

  イベントレポートまとめ 主催者の報告

 ・2016年12月4日 浜松瞑想会
  智慧・慈悲・自由をテーマにした「気づきの瞑想会」 主催者の報告

  大盛況?プラユキ・ナラテボー師の浜松瞑想会! 参加者の報告
 
 ・2016年11月27日 マインドフルネス気づきの瞑想会」関西瞑想会
  マインドフルネスと瞑想|プラユキ・ナラテボーさんの講座に行って来ました
  歩行瞑想での気づき|瞑想難民にならぬプラユキ・ナラテボーさんの教え

  プラユキ・ナラテボーさんと魚川祐司さん対談会&プラユキ先生瞑想会(同志社大での魚川祐司氏との対談レポートもあり)

 
 ・2016年11月12日(土)「やすらぎの対話と瞑想レッスン」
  ご参加ありがとうございました。フォトレポート
  
  プラユキさんの「やすらぎの対話と瞑想レッスン」 イン 中野サンプラザ1
  プラユキさんの「やすらぎの対話と瞑想レッスン」 イン 中野サンプラザ2
  プラユキさんの「やすらぎの対話と瞑想レッスン」 イン 中野サンプラザ3
  プラユキさんの「やすらぎの対話と瞑想レッスン」 イン 中野サンプラザ4
  プラユキさんの「やすらぎの対話と瞑想レッスン」 イン 中野サンプラザ5
  プラユキさんの「やすらぎの対話と瞑想レッスン」 イン 中野サンプラザ6
  プラユキさんの「やすらぎの対話と瞑想レッスン」 イン 中野サンプラザ7
  プラユキさんの「やすらぎの対話と瞑想レッスン」 イン 中野サンプラザ8
  プラユキさんの「やすらぎの対話と瞑想レッスン」 イン 中野サンプラザ9


 ・2016年7月1〜3日 気づきのリトリート
  【ご報告】プラユキさんをお招きして、マインドフルネスを育む「気づきのリトリート(瞑想合宿)」を開催しました。


 ・2016年06月30日 『十二因縁』ワークショップ
  『十二因縁』ワークショップを開催しました
  『十二因縁』WS・ご参加の感想

 ・2016年06月20日 「ぽっちり舎スタートアップ講座 第二回」
  ぐらぐらしない場所に自分の土俵をたてる「タイの僧プラユキさん講座報告・ご感想」

 ・2016年06月04日 プラユキさんの「やすらぎの対話と瞑想レッスン」イン 志木ふれあいプラザ
  フォトレポート

 ・2016年05月18日 浜松瞑想会 
  人間関係とコミュニケーションがよくなる「気づきの瞑想(マインドフルネス)」

 ・2016年4月16日 One Day リトリート第2弾 東京
  「One Day リトリート 第2弾 開催しました」

 ・2016年1月23日 One Day リトリート 東京
  One Day リトリート開催されました①
  One Day リトリート 開催報告②
  One Day リトリート 開催報告③
  One Day リトリート 開催報告④

 ・2016年1月17日 講演会&瞑想ワークショップ 札幌
  プラユキ・ナラテボー師にお会いして

 ・2015年12月16日 夜のお話と瞑想の会 東京
  「自由に生きる」
 
 ・2015年12月15日 浜松瞑想会 静岡県浜松
  実学としての仏教と「いまここ」カウンセリング

 ・2015年11月28,29日プラユキ・ナラテボー滋賀気づきの瞑想会 滋賀
  プラユキ先生の滋賀での瞑想会で良き縁にふれました!

 ・2015年11月21日 プラユキ・ナラテボー師によるお話と瞑想会 東京
  プラユキ師 瞑想会が開催されました
  瞑想会の感想届いてます
  
 ・2015年11月21日 プラユキ・ナラテボー師によるお話と瞑想会 東京
  プラユキ・ナラテボー先生の瞑想会で瞑想方法を学んできた

 ・2015年6月19日 夜の瞑想とお話の会 東京
  【報告】プラユキ師「夜のお話と瞑想の会」

 ・2015年5月18日 浜松瞑想会 静岡県浜松市
  自我を超えて苦しみから自由になる

 ・2015年1月17日 新春の瞑想とお話の会 東京
  【報告】今年も灯明とともに!「新春のお話と瞑想の会」

 ・2015年1月6日 プラユキ師がネットラジオ「オシキリシンイチの脱力主義!」に出演され、
  レポートが公式サイトにアップされました。
   【ブログ-銀座】番組史上初☆お坊さんがスタジオに!

 ・2014年11月30日 カイロジャーナル創刊25周年記念イベント 
   特別講演会「カイロプロクテッィクと仏道の融合 ”今ここ” 」

 ・2014年11月28日 第12回サンガくらぶ
  プラユキ師法話会「よく生きること、よく死ぬこと」
  「慈悲パワーに満ちたプラユキ・ナラテボーさんのサンガくらぶ」

 ・2014年11月22日 東京
  日本トランスパーソナル学会主催「プラユキ・ナラテボー師来日講演&ワークショップ」
  当サイト管理人の報告 
 
 ・2014年11月22日 東京
  日本トランスパーソナル学会主催「プラユキ・ナラテボー師来日講演&ワークショップ」 
  「プラユキ・ナラテホーさんのお話をきいて」(学会関係者の感想)


 ・2014年11月16日 プラユキ師瞑想会 浜松
  プラユキ師瞑想会報告
  在家にふさわしいダンマの実践方法~真理と善性による「布施、持戒、瞑想」

 ・2014年10月25日 お話と瞑想の会 東京
   「プラユキさんの仏教超入門」


 ・2014年6月13日 夜のお話と瞑想の会 東京
   怒りの背後には切なさがあり、願いがある 

 ・2014年5月3~5日 気づきの瞑想合宿 静岡県浜松市
   手動瞑想(四念処)を学ぶ瞑想合宿~浜松「森の家」
   プラユキ・ナラテボー師 気づきの瞑想合宿

 ・2014年1月5日 東京
   「気づきとともにすごす1日~新春の『お話と瞑想の会』」 


 ・2013年12月20日~23日 沖縄
   「プラユキ・ナラテボー先生の瞑想会 in 沖縄」~“今ここ”にパッと気づく 心が軽くなる瞑想会~

 ・2013年12月3,17日 プラユキ・ナラテボーの気づきの瞑想 朝日カルチャー新宿校
   プラユキ・ナラテボーさん「気づきの瞑想」~衣食住編~
   プラユキ・ナラテボーさん「気づきの瞑想」~お勉強編~
   プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会に出て、サンガジャパンvol.11に帰る

 ・2013年11月23日 気づきの瞑想ワークショップ 大坂
   おもてなしマインドあふれる、「気づきの瞑想ワークショップ@大阪」 
   「私たちは仏教の文脈で、自我をいじめすぎていませんか?」師の法話から


 ・2013年11月17日 「深まる秋の瞑想会」 静岡県浜松市
   ブッダの四念処瞑想講義~プラユキ・ナラテボー師浜松瞑想会の要点

  
 ・2013年11月8日 夜の「お話と瞑想の会」 東京都世田谷区
   恐れ、不安との付き合い方 ~自己投影からの自由と活用

 ・2013年7月15日 海の日の「お話と瞑想の会」 東京都渋谷区

 ・2013年7月5~7日 瞑想リトリート in 穂高養生園 長野県安曇野市
   
 ・2013年5月17日 夜の「お話と瞑想の会」 東京都目黒区

 ・2013年4月27~29日 安曇野リトリート 長野県安曇野市

 ・2013年1月20日 浜松瞑想会 静岡県浜松市


 ・2008年11月20日 「混迷の時代を生き抜く手習い ~身・心・人間関係を活かす優れたインターフェイス作りとしてのブッタの瞑想技法~」 江戸川大学
  江戸川大学で講演したときの主催者の平山満紀先生(現在は明治大学で教鞭をとられています)のレポートです。

 ・参加イベント不明
  マインドフルネス ~呼吸瞑想の方法~ 

【業務連絡】
プラユキ師の瞑想会やリトリートを主催されている方にご連絡です。
開催後、自身や参加者のサイトで報告や感想などがアップされましたら、
ご連絡いただければ「シェアリング」のページで紹介いたします。


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 学びのシェアリング

 
 ・個人面談体験者の手記
  「手動瞑想を始めて1ヶ月で、40年来悩んだ母との関係が改善〜気づいた人から今すぐ働きかけよう〜」

 ・恋愛ユニバーシティ
 「嫉妬・プライド・恋愛感情」の罠にはまらないで!~仏教に学ぶ“感情に振り回されない3つの方法“
  雑誌『クロワッサン』のプラユキさんのコメントを引用しています。
  

 ・あたま出版HP
  タイのテーラワーダ比丘 プラユキ・ナラテボー師インタビュー
  「子育てにとって大切なこと」

 ・プラユキ師と人気ブロガーのイケダハヤトさん、ヒビノケイコさんの3人による鼎談が、
 電子書籍化されて発刊されました。収録についてお2人が記事を書かれています。

 イケダハヤトさん
 「プラユキ大長老にお会いして、ついに「お寺」の存在意義がわかっちゃった話。」

 ヒビノケイコさん
 「『人を萎縮させない話し方のひみつ』イケハヤさんと僧プラユキさんと3人で対談本収録したよ」


 ・ブログ『ヒビノケイコの日々。人生は自分でデザインする』より。16年春に収録したプラユキ師との対話を抜粋して、文字起こしした内容を中心に構成されています
 「自分らしさって何ですか?」対談・タイの僧プラユキナラテボーさん×ヒビノケイコ
 新しいことに挑戦する時、怖さを乗り越えるためには?僧プラユキ・ナラテボーさん対談2


 ・純粋仏教界、第三の波「手動瞑想とプラユキ師」の巻 ブログ「純粋仏教徒の妄想世界散策記」


 ・プラユキさんの法友である故カンポンさんの肉声が聞ける、魚川祐司さんによる貴重なインタビュー。通訳は浦崎雅代さんです。
 (第一回 2015/10/18)http://twitcasting.tv/neetbuddhist/movie/209501493
 (第二回 2015/10/19)http://twitcasting.tv/neetbuddhist/movie/209785000

  ・10月、魚川祐司さんによりスカトー寺で収録されたツイキャスが試聴できます。
 1).「プラユキ・ナラテボー師との対話@スカトー寺」
 2).「姫が「女性」になるまで(スカトー寺での対話2)」

  1)の内容は、魚川氏のプラユキ師へのインタビュー、ならびに視聴者コメントへの応答。
  2)の内容は、魚川氏のスカトー寺体験者へのインタビュー(+プラユキ師の解説付き)。
  親からの虐待を受けた子供時代の苦悩。そしてスカトー寺での修行や夢分析を通して、
  苦しみの淵から蘇っていくプロセスが仔細に語られています。


 ・人気ブロガー・イケダハヤトさんのプラユキ師関連記事
  「トラウマと戦っているのなら、いい師匠のもとで「瞑想」をするといいかも。」
  「プラユキ大長老にお会いして、ついに「お寺」の存在意義がわかっちゃった話。」

 ・人気ブロガー・ヒビノケイコさんのプラユキ師関連記事
 「『人を萎縮させない話し方のひみつ』イケハヤさんと僧プラユキさんと3人で対談本収録したよ」
 「『お寺はトレーニングジム、瞑想は自分を癒せる心の筋トレ」瞑想と仏教に触れて良かった20のこと」
 「『仏教と夢分析』悪いパターンから脱出して新しいパターンを作る方法「ネズミとネコの話」

 ・プラユキ師のインタビューが、超宗派仏教徒によるインターネット寺院「彼岸寺」に掲載されました。
  【インタビュー】彼岸寺に期待を寄せるタイの日本人僧侶、プラユキ・ナラテボーさん

 ・ 2015年1月6日(火)、プラユキ師がネットラジオ「オシキリシンイチの脱力主義!」に出演されたレポートが、公式サイトに掲載されています。
  【ブログ-銀座】番組史上初☆お坊さんがスタジオに!


 ・生き方つながるコミュニティーサイト「こころーたす」に、算命学カウンセラーの中森じゅあんさんによるプラユキ師のインタビューが掲載されました。

   仏教は生活に生かせる智慧(前編) 「今ここ」に焦点をあてる
   仏教は生活に生かせる智慧(後編)  思いやりのある言葉を

 ・カイロプラクティックの業界紙「カイロジャーナル」に掲載されたインタビュー記事です。
  「プラユキ・ナラテボー師 仏教を基盤に精神的にも物質的にも豊かに 上」
  「プラユキ・ナラテボー師 仏教を基盤に精神的にも物質的にも豊かに 下」
   カイロプラクティックの業界紙「カイロジャーナル」に掲載されたインタビュー記事です。

 ・「松下幸之助塾」記事からの引用されたプラユキ師の名言が紹介されています。
  「名言DB:リーダーたちの名言」
  
 ・主催者ざぼんさんによる報告です。写真やイラストも満載で、とてもわかりやすく構成されています。
  2012年11月17日 「気づきの瞑想」会 

  
 ・2005年12月19日 第8回フォーラム

 「苦しみを手放す「今ここ」の智恵 ~タイ森林寺の18年で見えてきたこと~」
  2005年に「地の人・仏教対話センター」で行われた講演の、
  主催者による文字起こしのページです。だいぶ前の講演のため、今日のプラユキ師の法話とは
  多少ニュアンスが異なる部分もありますが、写真付きでまとまった内容になっています。

 ・ヤマカフェオーナーのケイコさんのブログ「ヒビノケイコの日々。人生は自分でデザインする」に、プラユキ師との4コマ対談漫画が公開されています。→「タイ僧プラユキさん漫画」
  
 
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 本や雑誌記事の感想

 
「悟らなくたって、いいじゃないか」
 ・『悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門』(ブログ「徒然日記 ー横浜生活ー」)

 【書評】「悟らなくたって、いいじゃないか(著:プラユキ・ナラテボー、魚川祐司)」幻冬舎新書(ブログ「ゆ〜ろぐ」)


「自由になるトレーニング」
 ・イライラしやすい人におすすめな本!「自由になるトレーニング」 (ブログ「私は『土』になりたい」)

 ・「自由になるトレーニング」を読んで思ったこと。(ブログ「隠居系男子」)


「自由に生きる」
 ・「自由に生きる よき縁となし、よき縁となる。抜苦与楽の実践哲学」プラユキ・ナラテボー (ブログ「まるちゃんの めざせ!快適スローLife」)

 ・是誰庵のひとやすみ~プラユキ師著「自由に生きる」雑感-1
 ・是誰庵のひとやすみ~プラユキ師著「自由に生きる」雑感ー2
 ・是誰庵のひとやすみ~プラユキ師著「自由に生きる」雑感ー3
  (ブログ「wong0110's diary」)

 ・『身施』としてのプロボノと、タイの開発僧と、健康経営。『自由に生きる』プラユキ・ナラテボー(ブログ「猿ばかりが人ではない」)


「脳と瞑想」
 ・脳と心の使い方「脳と瞑想」(ブログ「パレオな男」)

 ・「脳と瞑想」から考える、瞑想のポジティブな副作用
(ブログ「原始仏教ガール's日記」)

 ・「脳と瞑想」書評(ブログ「智恵の海」)

 ・「脳と瞑想」のレビュー(ブログ「仏教の気付きの瞑想・マインドフルネスの世界)


「苦しまなくて、いいんだよ」
 ・「苦しまなくて、いいんだよ。」プラユキ・ナラテボー 
 ・「苦しまなくて、いいんだよ。」=「四聖諦」
  (ブログ「まるちゃんの めざせ!快適スローLife」)

 ・「気づきの瞑想」で「今ここ」を意識すれば予期不安も広場恐怖も消えるかもね[パニック障害](ブログ「エム氏のごグ」)
 
 ・不安と苦しさの正体とは?精神分析と仏教、瞑想を学ぶ2(ブログ「さすてなLABO」)

 ・読書感想「苦しまなくて、いいんだよ。」(ブログ「純粋仏教徒の妄想世界散策記」)

 ・プラユキ・ナラテボーさんの「苦しまなくて、いいんだよ」読んだ。良書です。(ブログ「kazk1979's diary」)

 ・瞑想および人生について──本当に『受容』するということは?(ブログ「U型改」)
 ・最強の権威による、権威主義の否定(ブログ「U型改」)

 ・「今ここ」に意識をおいて生きていこう~『苦しまなくていいんだよ』(ブログ「ユキヒラのブログ~人間らしい生き方をしたい~」)

 ・【読書感想】プラユキ・ナラテボーさん(タイの日本人僧侶)著「苦しまなくて、いいんだよ。」少し楽になれたし仏教が身近になった(ブログ「あうろーブログ」)

 ・オススメの本の紹介:色々辛くて自分の気持ちに落ち着く場所を見つけられない方に『苦しまなくて、いいんだよ 心安らかに生きるためのブッダの智恵』(ブログ「こころはからだのいれものだから」)

 ・鬱に効く本 「苦しまなくて、いいんだよ」(ブログ「まだ鬱病で消耗してるよ!~心の病と戦いながら働く、お父さんのblog~」)

 ・【オススメ本】苦しまなくて、いいんだよ(ブログ「未来少女日記」)

 ・本の紹介:「苦しまなくて、いいんだよ。」(ヒューマン・ギルド岩井俊憲の公式ブログ)


「気づきの瞑想を生きる」
 ・『「気づきの瞑想」を生きる』 プラユキ・ナラテボー著(ブログ「まるちゃんの めざせ!快適スローLife」)

 ・「気づきの瞑想」を生きる-タイで出家した日本人僧の物語(ブログ「Samtenの備忘録」)

 ・プラユキ・ナラテボー「気づきの瞑想を生きる」(ブログ「ブラフマチャリヤの力~静寂編~」)


雑誌などの掲載記事
 ・「大法輪」2012年11月号「プラユキ・ナラテボー師の夢分析」(ブログ「仏教の気付きの瞑想・マインドフルネスの世界)

 ・サンガジャパンVol.8「苦があること」と「苦しむこと」を混同するな(ブログ「釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~」)








 


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手動瞑想を始めて1ヶ月で、40年来悩んだ母との関係が改善〜気づいた人から今すぐ働きかけよう〜

2017-03-01 | シェアリング
(個人面談の体験者から、届いた手記を紹介します)

   「手動瞑想を始めて1ヶ月で、40年来悩んだ母との関係が改善〜気づいた人から今すぐ働きかけよう〜」

ストレス解消に瞑想を始めたいと思い、たまたま著書を拝見したご縁で、2017年12月初めから手動瞑想を開始。1ヶ月後に個別面談をお願いしました。

今ここに覚醒したときのリアルな見えかたを味わえたこと、怒りの背景の切なさや願いにも、思いがいたるようになってきたこと、等の効果や瞑想時の疑問、もっと早くに知っていれば人生変わったのに、という愚痴まで、優しい笑顔で、受容たっぷりに聞いていただけ、思いっきり甘えさせていただきました。

ただ面談の最後に、「母とは相変わらずケンカが多い、仕方ないですね」ともらしたところ、なぜかそこだけはかなり強くご指導いただいたんです。「正念場だから、そこに取り組んだ方がいい、そこを越えればぱーっと開けるから」と。

私はプラユキ先生の温かいお人柄や偏りのないご指導には、強い信頼感をもっていましたが、正直、母との関係改善には気が乗りませんでした。

というのは、母は被害妄想とヒステリーがあり、私と家族は長年苦しめられてきたからです。
幼少期からもう40年近くなので、それは性格で、治るものではないと、あきらめていました。最近は70歳という年のせいか、ヒステリーのパワーが衰えてきたので、よかったくらいに思っていたのです。

父は10数年前に亡くなっていますが、いつも朝から母のヒステリーにつきあった後、会社に出勤していてかわいそうでした。ひたすら忍耐の、優しい、そして少し気の弱い父でした。
私は顔も性格も父に似ているので、母とは折り合わないと苦手意識や反発心も強くもっていました。

また、プラユキ先生はああおっしゃられたけど、母に私から歩み寄ることには
かなり葛藤がありました。
なぜ子供であり、かつ苦しめられた私から?

でもでもプラユキ先生があそこまでおっしゃるんだからと、自分を奮い立たせました。

まずはいつもの朝の定番のケンカから改善しよう。

私は、手動瞑想もしてるし、昼は外出するので気分転換できますが、母は腰が悪く家にいることが多いので、朝のケンカはひきずってるんじゃないかと気になってたからです。スタートが肝心!

下らないことなんですが、朝の定番のケンカとは、お茶っぱのことなんです。

朝、母は私より早くおき、お茶を飲みます。後に起きた私は、母がいれた急須のお茶にもう一杯分お湯を注いで、飲みます。お茶を一杯で捨ててはもったいないので。
ただ、その際、念のため母に「お茶っぱ今朝入れ替えたよね?」と確認します。

そうすると、
母:
「何よ!入れ替えたに決まってるでしょ!私がそんなこともしない人間と思ってるわけ?□△!大体いつもね、あんたはそうやって批判ばかり~」

私:
「批判するつもりなんてないよ、でた、いつもの被害妄想!」

母:
「なんですって!よくも□△」

と激昂の連鎖に。
何故かお茶から、お父さんが早死にしたのはお母さんのせい、みたいなことまで口走ってたり。不毛でした。。

1日目
「お茶っぱ入れ替えたよね?」という表現だと入れ替えて当然と受け取られると、いやだということかな。では、語尾を変えてみよう。

私:
「お茶っぱ入れ替えてないよね?」

母:
「私が入れ替えてないっていうわけ!?
私はね、いつもしっかりやっているのよ。大体あんたは遅く起きてきて□△」

だ、だめだ、、

2日目
目的をまず伝えよう。そして丁寧さを加え、、

私:
「お茶の葉がもったいないので、一点だけ確認させてください。今朝、お茶の葉は変えましたか?」

母:
「面倒くさいわね!変えたに決まってるでしょ!大体ね、私はね、△□△、、」

3日目
どうしよう、何を言っても駄目なのでは、、もうどうしたらいいか分からない、、

その時がきて(大げさですが、朝のお茶の時間(笑))とっさに出た言葉に自分でも驚きました。

私:
「お母さん、私、分かったわ。お母さんが朝気分を害するなら、お茶っぱ無駄にすることくらい大したことじゃないね。お母さんが気分よく過ごすことの方が大事だね」


「…」

よく考えたら、そうですよね。なぜこんなシンプルなことにいままで気づかなかったんだろう?私。

しかも、不思議なことに、これ以降、母のヒステリーが、ほとんどなくなったんです。朝のお茶っぱのケンカを改善しただけなのに。
家事など、様々な対立をしていたのですが、対立どころかお互いに助け合うように。
「これをやっておいたわよ」
「あなたのこの家事のやり方はいいわね」
「あなたはこういう意図でいっているのね」
夢にまでみた思い遣りのある家族の様相に一転して、奇妙な位です。

何で自分から、と思っていましたが、気づいた人、できる人から働きかけることは、よく考えたら当たり前ですよね。
そしてすぐにやること。
自分の否を認め修正すること。
それができると、こんなにも平和な毎日が手にはいるんです。
自分や家族の無駄な苦しみが取り去られ、前向きなエネルギーが産まれます。
きっと未来が変わるんじゃないでしょうか。もちろん、よりよい未来に。

煩悩深い私は(笑)もっと早く知ってれば、と今度は後悔の苦しみに襲われたのですが、毎日が幸せなので、すっかりその気持ちも一週間で上書きされてなくなりました。

ささやかなエピソードですが、同じ悩みを持つ人のお役に立てたら幸いです。


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「まだ愛が足りないと嘆いて消耗してるの?」

2016-10-23 | シェアリング
「まだ愛が足りないと嘆いて消耗してるの?」

二月十四日、「バレンタイン・デー」。今年もチョコレートを一つももらえなかった。

まあ、当然と言えば当然である。世間とは距離の置かれた出家僧の身である。それに、ここタイにはバレンタイン・デーに女性が男性にチョコレートを贈るという風習がそもそもない。

実はタイでも、「バレンタイン・デー」は四十年ぐらい前から流行している。しかしこちらでは、チョコレートではなく、花を贈り、親愛の情を表現する。

しかも、男性から女性、女性から男性へとインタラクティブ(双方向)だ。恋人や意中の人には、愛のシンボルである赤いバラの花を贈る。また、子供やお父さんは、百合やカサブランカといった花を、親愛と感謝の意を込め、お母さんに贈る。

ものの本によれば、「バレンタイン・デー」のそもそもの起源は、二七〇年頃、ローマのテルニー主教の殉教を記念した日が、古代ローマの異教徒の祭りと結びつけられ、聖バレンタインを愛のシンボルとし、思いを寄せる人にカードを贈るという習慣が出来たのがその始まりだという。

しかし、当の聖バレンタイン御自身とは、直接関係がないというのが定説だそうだ。ちなみに日本では、高度経済成長に合わせ、欧米風の文化がどんどん流入してきた一九五八年頃よりその習慣が始まったという。

いずれにせよ、そんな大昔の異文化の風習が今日、アジアの国々で花開き、それぞれ各国風にアレンジされながら定着するにいたったという現象は興味深い。


一夜漬けで、愛について語る

バレンタイン・デーといえば、以前こんなこともあった。

所用で、古都チェンマイを訪れたときのこと。チェンマイ市内のパヤップ大学というところで教鞭をとられている先生のお宅に泊まらせていただいた。日・タイの大学生の様子などについて話が弾んでいたのだが、突然、

 「明日ちょうどバレンタイン・デーだ。どうだ、明日のわたしの哲学の授業で‘愛’について学生たちに話してくれないか?」
と、そんなご提案をいきなりいただいた。

 「オーケー」。興に乗って二つ返事で承諾したはいい。がしかし、当時は愛なぞという深遠なテーマについて、人様の前で話をした経験もなければ、また、深く考えこんだこともなかった。

「まあどうにかなるさ」。その晩瞑想をしながら一夜漬けで「愛」についての思念をめぐらし、話を組み立てていった。

翌日二月一四日、「聖バレンタイン・デー」。階段構造になっている大教室には大学生達が溢れていた。飽きさせないようにと思って、タイ人にとっては「アート」にも見える漢字を板書しながら、大学生達に向かって一席ぶった。

以下、その講義の大まかな内容。


仏教とキリスト教の「愛」

「キリスト教においては、一般的に「愛」という言葉にポジティブなニュアンスを漂わせている。一方、仏教においては「愛」という言葉は比較的ネガティブな色彩を持つ。

したがって.キリスト者と仏教者の間で「愛」についての意見が交わされる際、お互いが、「愛」という言葉の一般的ニュアンスだけにとらわれていると、「愛は素晴らしいものだ、いや、愛は苦しみのもとだ……」 と、そんな不毛な論争に発展しかねない。

しかし実際のところを詳しくみると、キリスト教においても仏教においても、大きく分けて二種類の‘愛’について語られている。

キリスト教では、それを「奪う愛」と「与える愛」、あるいは「条件付きの愛」と「無条件の愛」とに分け、それぞれ後者の「愛」が推奨されている。

一方、仏教では、「愛」を「愛執」と「慈愛」との二種に分ける。前者はとらわれの気持ちのある「奪う愛」で、後者は慈しみの気持ちから生じた「与える愛」である。そして、主に「苦」という点に焦点を当て、人間の諸々の苦悩の生じる原因を執着心にあるとみなす仏教では、前者の「愛執」を否定的に捉える。

一方、キリスト教の「与える愛」、「無条件の愛」に対応する「慈愛」は、仏教では「慈悲」という言葉で称され、最も大切な徳目の一つとみなされている……」

いかがであろうか。自分の中に[愛]らしきものが生じたとき、上記のような宗教的観点から、その「愛」を検討してみるのも、たまにはいいかもしれない。

さて、これと関連して、「癒しの時代をひらく」(上田紀行著)という本の中で、筆者は「愛」について次のような興味深いことを述べていた。

“「愛」という言葉を聞いて、われわれは「愛する」「愛される」のどちらを思い浮かべるだろうか。この日本社会においては、圧倒的に「愛される」ほうが優越しているというのが、ぼくの感触だ。

雑誌の恋愛特集でも、その中心はいつも「愛される」ほうである。「彼にどうしたら愛されるか」「こういう女は嫌われる」「彼女の心をつかむ方法」……。「どのように愛するか」という記事にはまずお目にかかったことがない。

つまり、われわわは、「愛されたい」共同体に住んでいるのであり、愛とはわれわれの多くにとっては受動態のものなのである。

誰もが愛に飢えている。しかし、「愛されたい」人ばかりがいて、「愛する」人がいないのではそれも当然だろう。これだけ巷に「恋愛もの」が溢れ、恋愛が語られているのに、「愛」は希少なものなのだ……。”

そして筆者は、「愛されたい」から、自ら「愛し始める」という行動へのシフトこそが、「人としての個を確立し、より創造的な関係を世界との間に築いていくためのわれわれにとっての『イニシエーション』である」と結論する。

ここで述べられている「愛される」から「愛する」へのシフトは、イエスの言う「奪う愛」から「与える愛」、そしてブッダの言う「愛執」から「慈愛」へのシフトに置き換えてもいいだろう。
 

「愛されたい」妻と、「愛が足りない」夫

私のタイのお寺には、日本からの訪問者も時々やって来る。さまざまな悩み相談にのっているが、そのなかには、「夫の愛情が足りない」「親から愛されていない」といったような訴えも少なくない。

たしかに現代の日本では、上田氏も述べていたように、「愛されたい」という需要に対して、「愛する」の供給が追いついていないのだろう。

ところで、「どんなときに旦那さんの愛情不足を感じるの?」とたずねると、こんな答えが返ってきたりする。

「たとえばわたしが子どものおもちゃにつまずいて転んでしまったとしますよね。そしたら主人はこう言うんです。『ちゃんと下を向いて歩け』って。もうひどいですよね。ぜんぜん思いやりがないんです。で、そのことを咎めると、『おまえは何言ってるかわからん』とか言ってくるんですよ。主人にとって私なんかもうどうでもいい存在なんです……」。

奥さんの方はきっと、「大丈夫、怪我しなかった?」とかの気遣いの一言が欲しかったのだろう。だが得てして男性は、そうした発想よりも、コトの因果関係を探り、問題解決を図ろうとする傾向が強い。

「ちゃんと下を向いて歩け」は、「妻が怪我して辛い目に合わないように」という旦那さんなりの思いやりの表現だったとも言えるのである。

このあたりは、相手の愛情不足を嘆いたり、「何言ってるかわからん」で済ませてしまうのではなく、相手の気持ちを汲みとってみたり、自分の気持ちを伝えてみたり、もう一歩踏み込んだコミュニケーションをお互いに心がけていく必要があるだろう。


自分の心に、愛情を育むために

さて、自分の心と向き合い、愛の出所とその影響を冷静に探ってみる。すると、こうした事実に気づいてくる。

人を条件なしに愛しているとき、その自らの愛情エネルギーによって、心は自ずと満たされてくる。一方、「愛が足りない。愛がほしい」と愛を渇望しているその瞬間、愛情エネルギーの枯渇を感じ、満たされない気持ちになる。

ゆえに、愛に満たされた気持ちになるためには、「愛される」ことを待つのではなく、自ら能動的に「愛すること」や「思いやりの気持ちを持つこと」が大事なようである。

しかしそうは言っても、「思いやりの気持ちがわいてこないのですが……」という人もいるだろう。「もっと愛情深い人になるためにはどうしたらいいのですか?」といった相談を受けたことも、私自身、二度や三度ではない。

ということで最後に、思いやりの気持ちや愛情を心に育むための仏教的レシピを紹介しておきたい。

①慈悲的行動の実践=みずからの言葉や身体を使って、温かい言葉がけや他者を
サポートする具体的な行動を繰り返す。そうした言動によって、他者への思いやりや共感力、慈悲心も自然に喚起されていく。 
 
②慈悲の言葉の復唱=対象をイメージしながら、祈りを込めて、「◯◯が幸せでありますように。◯◯の苦しみが消えていきますように」といった言葉を心の中で繰り返し唱える。

③心への受容的な対応=自分の心に生じてくるどんな感情や思考も否定せずに、あるがままに一つひとつ受けとめていく。これによって相手を素直に受容する気持ち、思いやりの心が育まれる。

④心のシステムの理解=心を観察していくことによって、たとえば、怒りなら、その奥に切ない思いや願いが潜んでいることに気づいていく。こうした理解によって、だれもが同じような原理で怒ったり、悲しんだりしてしまっているということに気づき、共感力が増し、自ずと愛情豊かになっていく。

 以上のレシピをご参考いただき、栄養価の高い「慈愛」を自らで生み育ててみてはいかがだろうか。

そして「愛する」側の人となり、一期一会(ルビ:いちごいちえ)の出会いにおいて、共感や思いやりの心をたずさえて、多くの人々のよき縁になっていただければ幸いである。


「自由になるトレーニング」 (プラユキ師、イケダハヤト氏、ヒビノケイコ氏の鼎談集:Evolving )より

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【シェア】「自由に生きる」の刊行記念講演会が開催されました(2016年2月5日)

2016-02-12 | シェアリング



2月5日(金)、「第21回サンガくらぶ」としてプラユキさんの新刊『自由に生きる』(サンガ)の刊行記念講演会が開催されました。会場は刊行を祝う40人以上の人が集い、華やかな活気にあふれていました。
講演のテーマは「自由に生きる。平和を生きる~智慧と慈悲に基づいた生き方とは」です。


・自由とは?

始めにプラユキさんは「自由とはなんでしょう?」と問いかけます。
そして辞書などの定義をもとに、一般にいうところの自由を以下のようにまとめられました。

・外的な束縛、拘束、妨害、支配がないこと
・自分の意(思い、心)のままに振る舞うこと。
・わがまま。勝手気まま。

でも、仏教における自由とは、以下のように一般的な自由とは相反するそうです。

・外的なことよりも、思考パターンや心のクセに支配されないという、内的なことを重視。
・自分の意(思い、心)のままに振る舞うことは、必ずしも自由ではない。
 →執着やハマりこみによる振るまい(心の奴隷状態)は、当然自由とはみなされない。
・「わがまま。勝手気まま」であることは、煩悩(我)に支配されている「放逸」状態とみなされる。


・自らを拠り所とせよ

世間一般で自由と思われていることが、必ずしも仏教的には自由とみなされないのですね。
それでは仏教でいう自由とは、どんな状態をさすのでしょうか?

プラユキさんによると、それは臨終をむかえるブッダが弟子のアーナンダに伝えた言葉に、端的に表されているそうです。

 汝らは、自らを灯明とし、自らを拠り所とせよ。『涅槃経』

自らを拠り所にするとは、気づきや智慧を拠り所に生きる、ということだそうです。そのためには心が奴隷状態、つまり渇愛に溺れたり、自我に執着していないことが大切。
そのように常に自らを拠り所にしてしっかりと気づいていれば、よりよい選択をすることができるようになります。

仏教ではこのレベルを、自由とよぶそうです。
それをプラユキさんは、ご自分流の言葉でまとめられました。

「仏教的な自由とは、『よき縁となす』ことができることです。
それにより、あらゆる縁(出会い)が生かせるようになります」


例えば、自殺は健康や経済、家族や人間関係などを原因とした苦しみにあるとされます。でも、それは仏教的観点では「原因」でなく、あくまでも「条件=縁」にすぎないそうです。
ですから、それを苦しみの原因ではなく、あるがままの現象としてとらえることができれば、まずはOK。
苦しみと思っていた現象をありのままに観ることができれば、そこから気づき(理解)が生まれ、智慧や慈悲へと育ち、より善き行動を選ぶこともできるようになるそうです。


・自由と平和

プラユキさんは自由と平和の統合について、私論と断られたうえで

「自由は智慧によって気づかれ、平和は慈悲によって築かれます」

と提示。
仏教の2つの輪ともいわれる智慧と慈悲に、自由と平和に対応させることで、それぞれが特徴をクッキリと浮かび上がらせました。

さらに、

「ブッダのヴィパッサナー瞑想は、煩悩との戦いではなくて、
非暴力による苦のブレイクスルーです」


とおっしゃいました。
瞑想実践においても、怒りや欲などのネガティブな反応に対して「ダメだ」、「あっち行け」と否定や抑圧をするのではなく、まずは、ありのままを受け入れて理解するという、平和的に対応していくことが大切なようです。

そして、

「真の平和とは、私たちの心の平和と慈悲の実践によってつくり出していくものです。
そういった一人一人の自覚的な行動が、平和な世界を作り出していきます」


とまとめられました。
私たち一人一人の在り方が世界の平和に貢献できるのかと思うと、実践に対する意欲(チャンタ)がさらにわいてきますね。



その後、瞑想実践と質疑応答が行われました。終了後のサイン会は新刊を購入した人の列ができましたが、早く帰る人を優先して、みなさん譲り合って並んでいました。
プラユキさんは一人一人と対話をして、メッセージをそえてサインをされていました。

終始、穏やかであたかい講演会になりました。心のこもった講演会を企画運営してくださった、出版社サンガのみなさんに、お礼を申しあげます。(文責:「よき縁ネット」管理人・森竹)

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ネットラジオ「オシキリシンイチの脱力主義!」に出演されました

2015-01-11 | シェアリング


2015年1月6日(火)、プラユキ師がネットラジオ「オシキリシンイチの脱力主義!」(17:00~18:30)に出演されました。
DJのオシキリさんを聞き手に、出家された経緯やタイのお寺での生活、そして気づきの瞑想まで広くお話されました。公式サイトに詳しいレポートが掲載されていますので、ぜひお読み下さい。
  【ブログ-銀座】番組史上初☆お坊さんがスタジオに!





裏話をひとつ。
DJのオシキリさんとプラユキ師は同世代。十代のころは深夜放送ブームで、お二人ともDJになりきってカセットテープに録音して遊んでいたそうです。そのころのノリを思い出して、今回の録音も挑まれたそう。お二人ともとても楽しそうでした。

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日本トランスパーソナル学会主催「プラユキ・ナラテボー師来日講演&ワークショップ」

2014-12-09 | シェアリング
 



 2014年11月22日、日本トランスパーソナル学会主催で「プラユキ・ナラテボー師来日講演&ワークショップ」が、杉並区産業商工会館で開催されました。心理臨床士やカウンセラーなどの参加者も多く、仏教から現場で役に立つ学びを得ようと、会場は期待であふれていました。


   プラユキさん解脱の境地を語る
 第一部の講演のテーマは「仏教における『パーソン』とは。『パーソナル』を超えるとは?」。ブッダの教えの基本を紹介しつつ、パーソン(我)からトランスパーソン(自我の超克)への道のりを、仏教の文脈から読み解かれました。
 なかでも、普段の瞑想会ではあまり語られることのない、解脱の第一段階である預流果について触れられたのが、特筆すべきことでしょうか。預流果になると有身見(この身体は自分のものだという思い込み)、疑(仏法僧への疑い)、戒禁取(儀礼や慣習などへの囚われ)の三結が脱落・消滅するそうですが、プラユキさんはこれを「パターンからの自由」と定義。さらに三結が消滅することで、「身体を大切にして生きる」、「言葉や概念を使いこなせる」、「儀礼や慣習に新たな命を吹き込める」ようになると読み解き、解脱という謎めいたものにリアルな視点を与えられました。

 
  プラユキさん“スケベ心”を説く!?
第二部は瞑想実践、続いて日本トランスパーソナル学会事務局長の向後善之さんと対談が行われました。悩める人の力になりたいという思いを待たれて活動するお二人の、笑いと学びに満ちた対談となりました。その一部をご紹介します。




向後さん
カウンセリングの勉強をしていて最初に言われるのが、鬱が治るのはクライアントさんの力によるもので、ボクらがやったのは見守っただけであるということです。それは水泳のコーチのようなもので、泳ぐのはクライアントさんで、僕らコーチはそばに立っていて、アドバイスや応援をするだけだです。
でもそう習いながら、いつの間にか「俺のおかげで治った」とか、「俺のカウンセリングをやめたら一生治らないぞ」とクライアントさんを依存させてしまう人がいます。どうして、そうなってしまうのでしょうか。

プラユキ師
 俗に言えば、ちょっとした”スケベ心”が出てしまうことがありますよね。自分の欲とか、承認欲求に無自覚でいると、知らないうちに罠にハマってしまいます。

向後さん
スケベ心があるということに、気づけばいいのですね。(笑)

プラユキ師
そうですね。一つ一つ自覚的に行動すればよい回路ができますが、していないと無自覚な行動を重ねていって、気づいた時にはそういう人間になっているという感じがありますね。

向後さん
完全にスケベ心が消えたら、それは悟りの境地ですよね。

プラユキさん
聖者の流れに入っている第一段階の預流果でも、貪瞋痴が残っているのですよ。二段階目の一来果で薄まってきて、第三段階の不還果でやっと消滅します。だから貪瞋痴のある聖者もいるのです。

向後さ
じゃあ、僕にスケベ心があっても許してあげようかな。(笑)

プラユキさん
仏教では欲や怒りが終息するまで0か100ではなくて、グラデーションをもって段階的に進む感じでとらえています。

向後さん
0か100でないと聞いて、とても安心しました。ボクもクライアントさんから「先生のおかげです」と褒められると、「えーっ」って舞い上がりそうになる時がありますので。

プラユキさん
褒められると、こちらも元気になりますよね。ですから、その言葉を受け止めて、それと同時に「そうやって素直に褒められるあなたって、すごくステキだね」と返すのがポイントだと思います。褒められたら、「いえいえ、ボクはそんなことありません」と頑なに拒否するのではなく、まずは受け止めて、さらに展開を相手に向けていくと、お互いが幸せになっていくのではないでしょうか。

向後さん
あっ、それいいですね。今度使わせていただいきます。(笑)


法話と瞑想実践、対談とバランスのとれた構成で、あっと言う間に3時間が過ぎました。また、一般向けの瞑想会ではかなわない、専門的な話題もお聞きすることができました。主催された日本トランスパーソナル協会のスタッフの皆さん、コーディネーターの松村憲さん、貴重な機会をありがとうございました。

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訃報 プラユキ師の恩師ルアンポー・カムキアン師が逝去されました

2014-08-29 | シェアリング



プラユキ師の師匠である、スカトー寺の前住職、ルアンポー・カムキアン師が8月23日午前4時45分、スカトー寺にて逝去されました。ご冥福をお祈りいたします。
写真はお元気なころのカムキアン師と、プラユキ師です。


ルアンポー・カムキアン師の死のニュースを伝えるバンコク・ポスト(タイで最も権威のある英字新聞)のウエブサイトです。
「森林僧は智慧の贈り物を残した」


またスカトー寺と長い交流のある、タイの大学教師・浦崎雅代さんが、カムキアン師の死を偲んで、関連の記事を連続でアップされています。どうぞ、お読み下さい。
ルアンポー・カムキエン師、最期の説法。
ふたりの手-師が支え、師を支える。
葬儀は、自らの気づきを試す場。
ルアンポーの育成術-徳をもって、叱る。
ジャータカ物語に、死の受け止め方を学ぶ。
開発の意味-ルアンポー・カムキエン師のドキュメンタリー。
ルアンポーは、もう逝くよ ー気づきをもって去っていく。
何ものかである、ものはない ーマイ・ペン・アライ・カップ・アライ
心を開いて辛抱する ールアンポー流、危機の過ごし方。
必ず当たる宝くじ ールアンポーが遺したもの。
ルアンポー最期の瞬間-自ら死に水を取る。
気づきは高尚な理想ではなく、ただ率直に知ること。



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2013年11月30日 凱旋(!?)講演会の報告 埼玉県本庄市 

2013-12-08 | シェアリング



当日は、雲ひとつない日本晴れでした


11月30日にプラユキ師の出身地である埼玉県本庄市で、地元の方々や本庄商工会議所の協力により、プラユキ師の講演会「こころワクワク人生を楽しむ 気づきの瞑想」が開催されました。300人収容の大ホールは人でビッシリ。地元の方だけでなく、私がお話しただけでも、新宿や横浜など遠方からの参加者がいらっしゃいました。
プラユキ師はまずタイで出家された経緯からはじまり、スライド写真とともにお寺での日常について話されました。裸足での托鉢、朝食をお布施する村人、お母さんにならって合掌をする子どもたち……現在の日本人にもどこか懐かしいタイ農村部の純朴な日常に、会場の人たちも心引きつけられたようです。
そして、会場があたたかくなったところで、ブッダの教えの基本である四聖諦や縁起について、日々の生活での例を交えながら、いつも以上に平素で親しみやすい言葉で話されました。(師のユーモアも全開。かつてないほど、ドッカンドッカンと受けていました)

第二部は瞑想編です。休憩時間をはさんだため会場がはじめはザワついていましたが、呼吸を見守る瞑想を終えると一変して静かで澄んだ空間になっていました。まるで、大きなホールが300人の気づき(マインドフルネス)の力によって浄化されたようです。
その後の手動瞑想は初めての方が大半だったためか、最初は戸惑われていた人もいましたが、師の穏やかな口調での指導のもとすぐに馴染んで取り組まれていました。

盛りだくさんの内容で3時間があっという間にすぎ、参加した方々も、みなよいお顔で会場を後にされていました。
これだけの大きな会を成功させるには、スタッフの方々は多大な尽力をされたのではないでしょうか。本当にお疲れさまでした。




会場は満員御礼



気持ちのよい笑顔で対応してくれた受付け係



多くの方が師の著書を求められました



托鉢について、スライドを見せながら話されるプラユキ師



なんと本庄市長も参加されました。市長は真言宗の僧籍をもち、また大学院で仏教を専攻されていただけに、初対面からプラユキ師とはツーカーで話が通じたそうです。



今回は撮影や録音がスムーズにできるように、「よき縁ネット」の腕章を作って参加しました。
取材や撮影に協力していただいたみなさん、ありがとうございました。


主催者のいしいせつこさんもブログで報告を書かれています。合わせてごらん下さい。
 「気づきの瞑想」講演のご報告




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「私たちは仏教の文脈で、自我をいじめすぎていませんか?」

2013-12-06 | シェアリング

「私たちは仏教の文脈で、自我をいじめすぎていませんか?」
        2013年11月23日 大阪で開催された「気づきの瞑想ワークショップ」での法話から



自我を嫌悪して「自我なんか捨てろ、捨てろ、捨てろ!」みたいになるのは、ちょっと自我をいじめすぎじゃないの、というのが私の見解です。仏教ってそんなふうに嫌悪する教えじゃないよ。戦って無きものにせよって教えじゃないんだよ。たしかに昔から、「これを消してしまえ!」ってコントロールでブレイクスルーしようとする考えはありました。
ところが、ブッダはそれに限界を感じたんだよ。それで発見したのが、ありのままの気づき。力を入れるのではなくて、はっきり見て洞察していって知恵を得て、知恵によるブレイクスルーを果たしたんだ。
私たちは仏教の文脈であまりにも自我をいじめていませんか。でも、自我意識は世俗諦の世界観の要としてあるんだ。ブッダは世俗諦をダメだとは言ってはいません。「世間における真実だよ」という感じです。だから自我は否定しているわけじゃないんですよ。
仏教の教えの中には7つのものを具えなさいという、七具足(※)というのがあります。戒を具足しなさい(戒具足)、善友を持ちなさい(善友性)、正しく理解する思考力、熟考力も持ちえなさい(如理作意具足)などありまして、そのなかには我具足という、我を整え、しっかりとした我を確立するという言葉も入っているんだよ。
ブッダは比喩でそれらが具えられていると、太陽が昇る前に前兆として曙光が射すように、苦しみからの解放の道が開かれると言っています。

ということは、西洋心理学ともバッティングしないということ。西洋心理学では自我はポジティブに扱われていますが、ちょっとニュアンスは違うけどブッダも同じようなことを言っている。
自我がなければ非常に大変なんだよ。私っていう構造をちゃんと確立していないと、終始一貫した行動がとれなくなってしまう。その時の感情のまま泣いたり、笑ったり、怒ったり……心には一貫性がないから、その時の感情で人格が変わってしまう。
でも、私という安定したものが持てると、一時的な現象でしかない感情に翻弄されずに、ちゃんと自分を守っていくことができるんだ。だから我をもっと尊重してあげて、というのが私の提案。
それを例えれば、植物の種が中身だけしかないと柔らかくて、土に植えてもすぐ虫に食べられてしまう。だけど殻があって守ってくれるので初期段階を生きながらえることができる。そして芽を出していくときには、ちゃんと殻を破るんだね。殻がなくてすぐ虫に食べられてしまったら、ドングリは大きな樫の木になる可能性を持ちながら、そのポテンシャルを活かすことなく終わってしまう。だから、最初の段階で守ってくれるのはありがたいんだよ。
そういう意味で自我を「思い通りにならない現実を調整するための機能として、仮構築されたもの」と表現してみました。私たちはパーフェクトじゃないよね。現実って色々大変だよ。そういう時に調整する機能みたいなものを構築しておくと守れるんだね、自分を。へたな混乱に翻弄されない。赤ちゃんは親の庇護を受けながら、ちゃんと初期段階を生きられる。自我もそんな感じです。



※補足
七具足(道の前想) →善き生き方の金銀の光 学習の曙光
 1、善友性→ 善友があること。
 2、戒具足→ 戒を備え、行為一般が善であること。   
 3、志欲具足→ やる気。知り、創造することに対する熱望。 志欲=チャンダ(Chanda)
 4、我具足→ 自己の開発。 自ら修練して自己の美徳を具えること。
 5、見具足→ (一切の因縁を)ありのままに見ること。 
 6、不放逸具足 →怠けず、つねに気づきを持っていること。
 7、如理作意具足 → 真実を見て、理にかなった思考をすること。賢明さ

参考:ポー・オー・パユットー著(仏教事典 仏法篇)

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