11月23日(土)に大阪で行われた、タイで出家された日本人僧のプラユキ師の「気づきの瞑想ワークショップ」に参加しました。
前半は法話、後半は瞑想実践、その後質疑応答というスケジュールで、穏やかな雰囲気のなか会は進行されました。
今回は「瞑想とは」をメインテーマに、止観瞑想の伝統的解釈と、実践をふまえたもう一つの解釈や、自我意識についてその活かし方や副作用についてのお話をうかがいました。
そのなかでも仏教を学んでいると落ち入りやすい「自我への嫌悪」について話された部分を、録音をもとに構成してシェアします。どうぞ、仏教の学びにお役立てください。
自我を嫌悪して「自我なんか捨てろ、捨てろ、捨てろ!」みたいになるのは、ちょっと自我をいじめすぎじゃないの、というのが私の見解です。仏教ってそんなふうに嫌悪する教えじゃないよ。戦って無きものにせよって教えじゃないんだよ。たしかに昔から、「これを消してしまえ!」ってコントロールでブレイクスルーしようとする考えはありました。
ところが、ブッダはそれに限界を感じたんだよ。それで発見したのが、ありのままの気づき。力を入れるのではなくて、はっきり見て洞察していって知恵を得て、知恵によるブレイクスルーを果たしたんだ。
私たちは仏教の文脈であまりにも自我をいじめていませんか。でも、自我意識は世俗諦の世界観の要としてあるんだ。ブッダは世俗諦をダメだとは言ってはいません。「世間における真実だよ」という感じです。だから自我は否定しているわけじゃないんですよ。
仏教の教えの中には7つのものを具えなさいという、七具足(※)というのがあります。戒を具足しなさい(戒具足)、善友を持ちなさい(善友性)、正しく理解する思考力、熟考力も持ちえなさい(如理作意具足)などありまして、そのなかには我具足という、我を整え、しっかりとした我を確立するという言葉も入っているんだよ。
ブッダは比喩でそれらが具えられていると、太陽が昇る前に前兆として曙光が射すように、苦しみからの解放の道が開かれると言っています。
ということは、西洋心理学ともバッティングしないということ。西洋心理学では自我はポジティブに扱われていますが、ちょっとニュアンスは違うけどブッダも同じようなことを言っている。
自我がなければ非常に大変なんだよ。私っていう構造をちゃんと確立していないと、終始一貫した行動がとれなくなってしまう。その時の感情のまま泣いたり、笑ったり、怒ったり……心には一貫性がないから、その時の感情で人格が変わってしまう。
でも、私という安定したものが持てると、一時的な現象でしかない感情に翻弄されずに、ちゃんと自分を守っていくことができるんだ。だから我をもっと尊重してあげて、というのが私の提案。
それを例えれば、植物の種が中身だけしかないと柔らかくて、土に植えてもすぐ虫に食べられてしまう。だけど殻があって守ってくれるので初期段階を生きながらえることができる。そして芽を出していくときには、ちゃんと殻を破るんだね。殻がなくてすぐ虫に食べられてしまったら、ドングリは大きな樫の木になる可能性を持ちながら、そのポテンシャルを活かすことなく終わってしまう。だから、最初の段階で守ってくれるのはありがたいんだよ。
そういう意味で自我を「思い通りにならない現実を調整するための機能として、仮構築されたもの」と表現してみました。私たちはパーフェクトじゃないよね。現実って色々大変だよ。そういう時に調整する機能みたいなものを構築しておくと守れるんだね、自分を。へたな混乱に翻弄されない。赤ちゃんは親の庇護を受けながら、ちゃんと初期段階を生きられる。自我もそんな感じです。
※コマメの補足
七具足(道の前想) →善き生き方の金銀の光 学習の曙光
1、善友性→ 善友があること。
2、戒具足→ 戒を備え、行為一般が善であること。
3、志欲具足→ やる気。知り、創造することに対する熱望。 志欲=チャンダ(Chanda)
4、我具足→ 自己の開発。 自ら修練して自己の美徳を具えること。
5、見具足→ (一切の因縁を)ありのままに見ること。
6、不放逸具足 →怠けず、つねに気づきを持っていること。
7、如理作意具足 → 真実を見て、理にかなった思考をすること。賢明さ
参考:ポー・オー・パユットー著(仏教事典 仏法篇)
・瞑想会全体の写真付きレポート
→おもてなしマインドあふれる、「気づきの瞑想ワークショップ@大阪」