「世を照らす真の光があって世に来た」と
福音記者ヨハネは主イエス誕生の意義を語ります。
このみ言葉は世が闇であることを示しています。
闇とは暗闇のことですから、主イエスなしには
ほとんど何もみえないということになります。
同じ福音書には
「あなたがたが見えると思っているところに罪がある」
(9章41節)
という主イエスのことばがあります。
このことばはファリサイ派に向けて語られたものですが、
私たちにもあてはまらないかどうか検討する必要がありそうです。
「見る」ということは人間にとって最も基本的な行為です。
それは簡単に網膜に対象が写るという以上に対象を認識し、
受け止め、理解することまでも含むはずです。
それなのに、ごくごく当たり前のことであるために、
自分には「見えている」と思い込んでしまうのでしょう。
しかし、自動車を運転しながら考え事をしていたために
交差点で赤信号なのに気付かなかったということが起こります。
何かが私の心をふさいでいれば、物理的に見えてはいても
認識までにいたらないということです。
ヨハネはそれを闇と表現しているのでしょうか。
語源的に言えば、闇とは「止み」であり、
呼吸が「病み」とつながっているのだそうです。
私たちの時代は「病んでいる」と
表現するしかない時代のように思えてなりません。
「世の光」は「癒し主」であるという関連を
ここに読み取ることが出来るように思えます。
「世の光」を受け入れ、病みを癒して頂けるように願いたいものです。
2006年12月3日 降臨節第1主日 司祭 サムエル 輿石 勇
福音記者ヨハネは主イエス誕生の意義を語ります。
このみ言葉は世が闇であることを示しています。
闇とは暗闇のことですから、主イエスなしには
ほとんど何もみえないということになります。
同じ福音書には
「あなたがたが見えると思っているところに罪がある」
(9章41節)
という主イエスのことばがあります。
このことばはファリサイ派に向けて語られたものですが、
私たちにもあてはまらないかどうか検討する必要がありそうです。
「見る」ということは人間にとって最も基本的な行為です。
それは簡単に網膜に対象が写るという以上に対象を認識し、
受け止め、理解することまでも含むはずです。
それなのに、ごくごく当たり前のことであるために、
自分には「見えている」と思い込んでしまうのでしょう。
しかし、自動車を運転しながら考え事をしていたために
交差点で赤信号なのに気付かなかったということが起こります。
何かが私の心をふさいでいれば、物理的に見えてはいても
認識までにいたらないということです。
ヨハネはそれを闇と表現しているのでしょうか。
語源的に言えば、闇とは「止み」であり、
呼吸が「病み」とつながっているのだそうです。
私たちの時代は「病んでいる」と
表現するしかない時代のように思えてなりません。
「世の光」は「癒し主」であるという関連を
ここに読み取ることが出来るように思えます。
「世の光」を受け入れ、病みを癒して頂けるように願いたいものです。
2006年12月3日 降臨節第1主日 司祭 サムエル 輿石 勇