やたろうの屈折劇場

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身近にこんな悲しい事件が

2009年11月30日 22時45分58秒 | やたろう蔵出し
悲しき介護殺人事件

---引用開始---
 年老いた親を抱え、介護疲れや生活苦などから親を殺し、自分も後を追うつもりが、死にきれなかったという事件が多くなった。世界一の長寿国の裏の顔でもある。長生きしてしまったが故の悲劇と言ったら言い過ぎだろうか。

 京都市伏見区納所町。京都競馬場の近くを流れる桂川の河川敷に、幅2メートルほどの舗装された遊歩道がある。今年2月1日の冷たい雨が降る朝、桂川に架かる宮前橋から遊歩道を60メートルほど下流に行った所で血まみれの男女が通行人に発見された。

 車椅子に乗った女性はすでに死亡していたが、男性のほうはまだ息があった。死亡していたのは片桐小ふじさん(当時86才)。男性は小ふじさんの息子・康晴被告(54才)だった。

 その初公判。この親子が追い詰められて行く過程や殺害時の状況が検察側の冒頭陳述で明らかにされたのだが、それは異例なものだった。小ふじと康晴の親子は2月1日の早朝、桂川の河川敷にいた。眠ったままの小ふじを乗せた車椅子を遊歩道に停め、康晴は躊躇していた。やがて目を覚ました小ふじに康晴は言った。

「もう生きられへんのやで、ここで終わりやで。」すると小ふじは「そうか、あかんか。」「康晴、一緒やで。おまえと一緒」と答えたという。「すまんな。すまんな。」と涙を流しながら謝るしかない康晴に「こっち来い康晴、こっち来い。」と康晴を抱き寄せ、自分の額と康晴の額をくっつけながら「康晴はわしの子や。わしがやったる。」と覚悟の言葉を口にしたという。

 この言葉を聞いたことによって康晴は殺害の決意を固めた。康晴は車椅子の背後に回り、母親小ふじの首をタオルで絞め付けて殺害しようとしたが果たすことができず、両手で絞めつけて窒息死させたという。しかしここで母親がけいれんするのを見た康晴は早く楽にしてあげなければと、自宅から持ってきた出刃包丁で頚部を切りつけたという。その後康晴は自らの頚部を出刃包丁やナイフで切りつけて自殺しようとしたものの、死にきれずに倒れているところを通りがかった人に発見されたという。

 静まり返る法廷で、冒頭陳述を読み上げる検察官もそれを聞いている裁判官や傍聴人からも涙が見られたという。

 片桐康晴被告は京都市中京区で西陣織の職人の子として生まれた。父親には「他人に迷惑をかけるな」「人に後ろ指を指されることはするな」と躾けられたという。結婚もせず、両親と3人暮らしだったが、1995年に父親が死亡してからは母親とアパートで暮らすことになった。その頃から母親は認知症の症状を見せはじめ、息子は介護をしながら派遣社員として勤めに出ていた。

 しかし症状は徐々に進み、2005年4月頃には昼夜が逆転するようになり、夜間に目を覚まして外出しようとしたり、息子が仕事に出かけている間に、2度にわたり徘徊先で警察に保護されることがあったという。近所の人は母親がテレビのリモコンを持って徘徊しているのを見たことがあると話してくれた。そんなことがあった為、息子は7月には勤め先を休職し、介護保険を申請してデイケアサービスを受けることになったのだが、昼夜逆転の生活は直らなかったという。

 息子はこのままの状態では仕事に復帰するのは無理だと考え、9月になって勤め先を退職し、失業保険を受け取ることにした。そして、介護のため生活保護を申請したのだが、失業給付金を受け取ることになるため、申請は受理されなかった。そこで失業保険とデイケアサービスを受けながら、ハローワークに通い、介護と両立できるような仕事を探したものの、時間的に都合の良い、思うような仕事は見つからなかったという。そして12月、失業保険の給付が終わり、カードの借り入れも限度額に達した。年が明けて今年1月、翌月のアパートの家賃が払えなくなり経済的に行き詰まってしまった。

 1月31日昼頃、出刃包丁やナイフなどを持ち、母親を殺し自分も死ぬ覚悟で、家賃が払えないアパートを出て行くことにした。母親を車椅子に乗せ、電車に乗り、三条駅で降りて、慣れ親しんだ京都の市街地を見せて歩いた。息子が母親にしてあげられる最後の親孝行だったという。そして夜10時すぎ、自宅近くの桂川の河川敷に母親を連れて行き、人通りが無くなるのを待ったという。それから母親と最後の悲しい会話を交わし、殺害するまでの長い時間。息子は真冬の寒空の下で、どんなことを考えていたのだろうか。

 近所の人は、「お母さんの手をとって散歩しているところを見かけたことがありますが、息子さんは母親思いの優しい人でしたよ」と口を揃えたが、そんなに困っているとは思わなかったという。近所のスーパーの従業員には「疲れた」という言葉を漏らしていたということだが、周囲に相談していた形跡はなかった。

 生活保護を受けるための相談に行ったという京都市保険福祉局を訪ねてみた。応対してくれた職員は個々のケースについては守秘義務があって話せないということだったが、条件が当てはまれば保護は受けられましたという回答だった。京都市保健福祉局の「生活保護のしおり」には、生活保護は国民の権利として世帯の収入の不足分を補う制度だと書かれている。出来る限りの努力をしても、なお生活に困っている場合は国で決めた条件を満たせば誰でも生活保護を受けることが出来る。

 ただし、その世帯の義務として、

1.働ける人は、まず働く。
2.年金や手当などをもらえる人は、まずそれをもらう。
3.預貯金や、最低生活に必要のない不動産、自動車、生命保険などの財産・資産を処分できる人は、まずそれを処分して当面の生活に役立てる。
4.親、子、兄弟、子供の父親などから援助の受けられる人は、まずそれを受ける。

 という条件がある。これらの条件を満たしていれば生活保護を受けることができる。収入がある場合は最低生活費から収入分を差し引いた額を受け取り、まったく無収入の場合は全額ということになる。

 この息子は54才、働ける年齢と判断されたようだ。しかし、まだ働ける年齢ということと、働く職場があるということは全く別のことだ。この年齢になると働きたいと思っていても、なかなか働く場所がないというのが現実だし、特に介護と両立できるような就労環境となれば、更に難しくなってくる。

 裁判に証人として出廷した親族は「なぜ相談してくれなかったんだ」と話していることから親族に相談したり、援助を受けようとはしていなかったことが窺える。

 片桐康晴被告は殺人罪(刑法199条……人を殺した者は死刑又は無期若しくは5年以上の懲役)ではなく、刑法202条の承諾殺人罪(承諾を得て殺すこと。その承諾は死の意味を理解できる者の自由な意思によるものであることが必要とされ、6ヶ月以上7年以下の懲役又は禁錮)で裁かれている。「母親の命を奪ってしまったが、もう一度生まれ変われるものなら、また母の子として生まれたい」自分の判断であり、同時に母親の判断でこのような結末を選んでしまったとは言え、大きな悔悟が感じられる。

 生真面目すぎたのか、もう少し図太さがあればよかったのか、何があっても生きてゆこうという気力の弱さなのか、その人が持っている生命力の弱さなのか……。

---引用終わり---

桂川は結構身近な存在(魚釣りしたり、川沿いを走ったり)なので
とても印象に残る事件でした

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