徒然なるままに……日々の出来事を

身の回りに起こる驚きや、小さな発見

東海道あるき旅⑯(蒲原~由比宿~興津)

2015-11-21 | 東海道あるき旅

   今回は、前からずーっと楽しみにしていた”さった峠”に行きます。

 ”さった峠”は、東海道の中でも景色がいい所として有名です。広重の浮世絵に描かれているような素晴らしい富士山を

 是非、見たいと思っているのですが・・・・・?    本日も空は、厚い雲に覆われてしまっています・・・・

 

  では、前回の続き蒲原宿を出て少し進んだ所から出発です。

 JR蒲原駅を過ぎて少し進むと「由比宿」にはいります。

 ”由比”は、鎌倉時代からの宿場で、山と海に挟まれた街道沿いの村で漁業製塩業を生業としていたそうです。

 東海道にある53の宿場の中でも、小さいほうの宿場だったようです。

 現在も小さな町ですが、古い家が残り、静かな落ち着いた街並みが続き、宿場の面影がたくさん残っています。

 

                                   ★  由比宿東枡形跡

              
   由比一里塚跡・・・日本橋から39里目

 
     宿場の出入り口の見附は、道を枡形(かぎ手)に折り曲げて木戸を設け、万一の攻撃を防ぎ治安維持を図っていました。

       真っ直ぐだった道が折れ曲がっている様子がわかると思います。こうやって宿場の安全を維持していたのですね。

       (敵が真っ直ぐに侵入してこれないようにしているのですね。宿場でこのような形を備えているのは珍しいと思います。)

  

   この枡形に折れ曲がった東大木戸を抜けると、いよいよ宿場の町並みが始まります。

   本陣・脇本陣・問屋場・旅籠・茶屋・各種の商店が続きます。

  

 ★  御七里(おしちり)役所跡

    江戸時代、西国の大大名の中には江戸の屋敷と領国の居城との連絡に自前の飛脚を持つ大名がいました。

  ここは、紀州徳川家の飛脚の中継所跡です。江戸から和歌山までの間(584Km)に、約7里(28Km)ごとに中継所を置き、

  五人一組の飛脚を配置したので七里飛脚と呼び、その中継所を御七里役所といいました。

 
  江戸から和歌山まで8日、特急便は4日足らずで到着したそうです。   本当に、電車も車もない時代にこの速さとはビックリです。

 

 ★  由比宿本陣跡

    本陣跡地は由比本陣公園として整備され、正門・石垣・木塀・馬の水飲み場などが修築、復元されています。

  敷地内には「広重美術館」があり、浮世絵の展示がされていました。どの版画も色彩がきれいで素晴らしかったです。

  また、浮世絵の基礎知識についても学ぶことが出来、よかったです。

 

 

 
          本陣井戸                                「静岡市東海道広重美術館」          

 
        馬の水飲み場・・・のんびりと亀が甲羅干しをしていました。   

 

  

 本陣のすぐ前に”由比正雪”の生家といわれる紺屋がありました・

 

  

 

  
                         明治の郵便局舎(平野氏宅)  

   

 
            加宿問屋場跡                                脇本陣徳田屋

 

 
   桜えびの看板があちこちに目立ちます。          由比宿西枡形・・・旧道は左側に曲がっています。その先に西木戸がありました。

 

  ”由比宿”の西の出入り口 西木戸です。
  
  昔は、西木戸を出ると由比川の河原に出ました。普段は仮りの板橋を渡っていたそうですが、水かさが増すと徒渡しとなったそうです。
  現在は、コンクリート製の立派な橋が架かっています。

 

       現在、由比は桜エビ・シラス干が名産ですが、桜エビ漁は明治中期以降に始まったそうで、

                                      江戸時代にはまだ食べられていなかったようです。

               
               お昼ごはんは桜エビのかき揚げ丼です。とても美味しかったです。

 

 

 ★ 船造り(せがいづくり)と下り懸魚(くだりげぎょ)のある家(稲葉家)

    船造りとは軒先の長い屋根を支えるために、平軒桁に腕木を継ぎ足して出桁とし、垂木を置いた造りです。

   由比地方に多い特徴ある民家の造りです。

    下り懸魚とは、平軒桁の両端を風雨による腐食から守るために桁の両端に付けた雲形の板のことです。

 
                                  軒先の長い屋根

 
                                         軒桁の両端に雲の形をした板が取り付けられています。

 

 

 ★ 豊積(とよつみ)神社

   元旦から3日の朝まで行われている「お太鼓祭り」が有名だそうです。

 
                                                    社殿

 

 
                         本殿・・・流造(ながれづくり)の立派な屋根

 

 

 

  

 名主の家・小池邸・・・寺尾村の名主。名主は年貢の取立・管理、戸籍事務,他村・領主との折衝等、村政全般を扱い、村役人の中で
                                                                 もっとも重要な役割を担っていました。

 

 

 ★ 間(あい)の宿・西倉沢村

   西倉沢村は、由比宿と興津宿の間の宿で、”さった峠”を登り降りする人馬が休息するために、

  茶屋が10軒ほど並び、茶屋本陣・脇本陣がありました。

  

   
            現在は人通りもなくひっそりとしていました。

 

 

 ★ 藤屋望嶽亭(ふじやぼうがくてい)

   藤屋は、間の宿倉沢の網元で茶店をしていました。アワビ・サザエの壺焼きが有名で、

  茶店座敷からの富士山の眺めが良かったので「望嶽亭」と呼ばれたのだそうです。

 
            望嶽亭                        西倉沢一里塚跡・・さった峠東登り口に位置し、日本橋から40里目

 

  望嶽亭では、幕末のドラマチックなお話をご主人にしていただきました。

 江戸城無血開城の交渉のため、府中(静岡市)にいる西郷隆盛に会いに訪れた幕臣・山岡鉄舟は、さった峠で官軍に遭遇してしまいました。

慌てて引き返した鉄舟は、望嶽亭の蔵座敷にかくまってもらい、漁師に変装し、隠し階段より脱出したそうです。

この脱出劇に一役かったのが、あの清水の次郎長だったそうです。そして、鉄舟は無事に府中の旅籠・松崎屋で西郷隆盛と会談することが

出来ました。この会談が江戸城無血開城交渉の第一歩になったようです。まさにこの地が歴史の舞台になっていたと思うと、興味深かったです。

現在も、当時と変わらぬ建物が残され(隠し階段も)、鉄舟が残して行ったというピストルもあり、まるで時間が止まったかのようです。

ただ、蔵座敷の隠し階段のすぐ下にあったという海だけが、今は遠く離れてしまい、時の流れを感じさせてくれました。

 

 

  さあ、いよいよ”さった峠”に登ります。

 現在は、道も整備され思ったほど大変ではありませんでした。

 幸運にも、厚かった雲がきれ、富士山と青く輝く駿河湾を一望することができました。                                           

  

 

 

 
                                             広重の保永堂版「東海道五十三次 油井」

   (とても良い景色だったのですが、やはり富士山は白い雪を被っているほうが存在感があり素敵かもしれませんね。)

 

 

                  
                      途中見かけたみごとなお花    きれいでした。  

 

 

 ★ 興津川川越跡

   興津川の川幅は当時25間(45m)あり、徒渡しだったそうです。

  旅人は、越し札を買って、人足の肩車や蓮台に乗り川越えをしました。越し札は、その日の水深により値段が異なっていたそうです。

 

 

 

 ★ 宗像神社

   平安中期に創建されたと伝えられています。

  大きな松の木が生い茂った森は、漁師の灯台の役目をしていたそうです。

 

            
                        現在も境内には大きな松の木が生い茂っていました。

 

 

 

 ★ 身延道標・興津一里塚跡

   
     この追分から身延までは3里                          興津一里塚・・・日本橋から41里目

 

 この辺りから興津宿にはいります。

 

     ◇           ◇           ◇           ◇           ◇           ◇           ◇

 

 今回は、お天気にも恵まれ、富士山を始めとして、青く輝く駿河湾、鈴なりのみかん畑などいい景色をたくさん見る事が出来良かったです。

 また、広重美術館で浮世絵の美しさを知ることが出来本当によかったと思います。

 日本の文化の素晴らしさを見直したいと思いました。

   


東海道あるき旅⑮(原~吉原宿~蒲原宿)

2015-11-09 | 東海道あるき旅

   このところ忙しい日々が続いてしまい、ゆっくりとパソコンに向かう事ができませんでした。

  東海道歩きは、夏の暑さが少し遠のいた9月中旬頃から、また、始めてはいたのですが、アップすることが出来ずにいました。

  原から蒲原宿まで実際は2回に分けて歩いたのですが、今回はまとめてアップです。

 

  吉原宿は、日本橋から数えて14番目の宿場で、現在の静岡県富士市にあたります。

 原から次の吉原宿にかけて、昔は ”浮島ヶ原"と呼ばれる広大な湿地帯が続いていたそうです。

 海抜が低いために水はけが悪く、 胸まで泥に浸かって田植えをしなければならなかったり、苦労して植えた作物も海水の流入により

 ダメになってしまったりと、人々はとても苦労していたようです。

 江戸時代初期から新田開発が進められ、排水路防潮堤が作られたそうですが、その工事はとても困難を極めて大変だったようです。

 

 
        浮島沼の干拓のために作られた水路。海水の流入を防ぐ関門も設けられています。

 

 
                           植田新田開発に尽力した植田三十郎のお墓 

 

 

                雲に隠れていて見えなかった富士山が、やっと頭を出しました。昔から、雄大な富士山が眺められる地として人気があった”宿”だそうです。

 

 

 
 増田平四郎は 度重なる水害から村民を救済するため、浮島沼の大干拓を計画し、大堀割(スイホシというそうです)を完成させました。

 

 
 高橋勇吉は、近隣の三つの水田を水害から守るための排水用の堀を14年かけて完成させました。自分の田畑を売って工事費に充てたそうです。

 また、天文の知識や土木技術に優れていたので、村人はこの堀を「天文堀」と呼んだそうです。

 

 ★ 妙法寺(毘沙門天)

  香久山妙法寺。日蓮宗。

  主神毘沙門天像は、聖徳太子の御作といわれ、開運の守護神として篤く奉られているそうです。

  毘沙門堂は平安末期に富士修験の道場として開かれたという説がありますが、よくは分かっていないそうです。

  大祭は江戸時代中期から始まったとされ、旧暦正月に行われる「だるま市」は、高崎・深大寺とともに日本三大だるま市として知られ

  多くの人びとが訪れるそうです。

 

 
       和風、中国風、インド風の建物が同じ敷地内にあって不思議な感じがするめずらしい所でした。

 

 ★ 左富士

  東海道を江戸から京都まで旅するとき、富士山はいつも右手に見えますが、

  吉原の沼川を過ぎた辺りで道が大きく北へ向かって曲がっている為に、富士山が左側に見える所があります。

  それを「左富士」と呼ぶそうです。

 
 現在は、道の両側には工場が建ち並び、おまけに本日は雲も出てしまい富士山の姿を見ることは出来ませんでした。

 昔は、上の写真のように道の左側にちゃんと見えたんですね~。 長閑な感じでいいですね。

 

 

 江戸時代の吉原は、駿河半紙の産地だったそうです。明治23年、富士製紙工場が建てられ、近代製紙業の町へと変わっていったようです。

 そのため街並みも大きく変わり昔の面影は無くなっていきましたが、今でも江戸時代から営業している旅館が1軒だけ残っていました。

 

 
  次郎長や鉄舟がよく訪れていた宿「鯛屋旅館」です。現在も営業中。

  次郎長の写真や江戸時代に使われていたものなどが展示されていて歴史を感じました。

 

 

   
               現在の富士市内   土曜日だというのに人通りはあまりなく静かな感じ……

 


 

 
       常夜燈道標     ( 街道にはこのような常夜燈が置かれていました。 )

 

 

 ★ 雁 堤 (かりがねつつみ)

   江戸時代初期の富士川は、いくつもの支流があり、度々洪水を起こしていました。

  駿河代官・古郡重高・重政・重年の親子3代が新田開発と富士川治水工事を行いました。

  そして失敗を重ねながらも50年の歳月をかけ、大きな遊水地を持つ堤を築きあげました。

  大変な難工事で、富士川を渡ってきた千人目の巡礼僧が人柱になったという悲話が伝えられています。

  以来350年あまり雁堤は一度も決壊せず、下流域は洪水から救われたそうです。

 
   人柱になった僧を祀った神社「護所神社

 

 

 

全長2.7Kmの堤。 上から見た堤の形が、雁が連なり飛ぶ様子に似ていることから雁堤(かりがねつつみ)と呼ばれているそうです。

 

 
  堤に植えられた満開のコスモスのむこうには大きな富士山が見えました。 とても広々した気持ちの良い所でした。

 

 

 ★ 富士川渡船場跡

  慶長7年(1602)富士川の渡船が開始されました。

  東岸の川沿いには3ケ所の渡船場が置かれましたが、西岸には1ケ所だけが設けられました。

  主に東岸の水神社前におかれた渡船場が使われることが多かったようです。

 
                水神社

 

 

 

 

 
  現在の富士川に架かる橋                         富士川・・・川幅もひろく水量も多くゆったりと流れていました。

 
 川の向こうには富士山も見え、とてもいい景色でした。             対岸(西岸)の旧岩淵村

 

 

     ※          ※          ※          ※          ※          ※          ※          ※         

 

 富士川を渡り、橋の近くのお店で昼食です。本日はシラス丼とお蕎麦でした。桜エビものっていて美味しかったです。

 

     ※          ※          ※          ※          ※          ※          ※          ※

 

 

 西岸の岩淵村は、富士川を渡る前に、渡船準備のために人々が一時休憩をする間(あい)の宿でした。

 休憩施設としては小休み本陣、脇本陣、茶屋などがありました。

 

 ★ 小休み本陣跡(こやすみほんじんあと)・常盤家(ときわけ)

 

  

  

  
                                                            天然記念物のマキの木

 

 ★ 新豊院(しんぽういん)

  曹洞宗の寺院。布の大観音が有名。

 

 

 ★岩淵一里塚

  日本橋から37里目。

  この付近には岩淵名物「栗の粉餅」を売る立場茶屋が並んでいたそうです。

  栗を茹でて実をつぶし、裏ごしして粉状にしたものを餅にまぶしたもので、一皿12文だったそうです。

 

 
                                          栗の粉餅食べてみました。
                                          お餅の中には餡が入っていて、外側は栗の粉に包まれていました。

 

 

 いよいよ蒲原宿に入ります。

 ★ 蒲原一里塚跡

   日本橋から38里目。

 

 

 ★ 木屋三階建て土蔵(渡辺家)

  木屋の屋号をもつ渡辺家は、材木商でこの辺りの旧家です。

 この三階建の土蔵は「四方具(しほうよろこび)」または「四方転び」という柱組で、当時の耐震構造だったそうです。

 後の安政の東海大地震でも、この土蔵だけが無傷で耐えたようです。そのため江戸時代の貴重な資料を多く残す事が出来たそうです。

 

 

 

  蒲原は江戸後期の土蔵造りの町屋・連子格子の旅籠・明治大正時代の建物なども保存されていて、

 昔をしのばせる落ち着いた街並みでした。

 

  なまこ壁と「塗り家造り」の家

  

 

 

 ★ 蒲原夜之雪記念碑

  広重が描いた保永堂版「東海道53次」の中でも傑作といわれている「蒲原夜之雪」の記念碑。

 

 

 

 ★ 旅籠和泉屋(鈴木家)

   江戸時代の上旅籠。天保年間(1830~44)の建物で、安政の大地震でも倒壊を免れたそうです。

 

 

 ★ 西本陣跡(平岡家)

   黒塀に囲まれた建物は大正時代に建てられたものだそうです。

  

 

 

 

 
     手づくりガラスと総欅の家                       大正時代の洋館 「旧五十嵐歯科医院」

 

 

  

 西木戸にたどり着きました。蒲原宿もここまでです。

 

     ◇          ◇          ◇           ◇           ◇           ◇           ◇

 原から吉原にかけては、新田開発にかける人々の情熱と苦労を、地名や水路を見ることにより感じることが出来ました。

 富士川の堤防の素晴らしさ、満開のコスモスの花も見れてよかったです。

 蒲原のレトロな街並み・・・・・シラス丼 などなど・・・東海道を十分満喫することができました。

 残念なのは、思っていたよりも富士山を見られなかったということです。

 でも 、全体としては楽しいあるき旅となりました。

 


東海道あるき旅⑭(沼津~原)

2015-07-24 | 東海道あるき旅

  連日の猛暑に少々バテ気味で、何もする気が起こりませんでしたが、今日は頑張ってアップしてみることにしました。

もうだいぶ前に歩いたので記憶も薄らいできていますが、なんとか思い出してみるつもりです。

 今回は、沼津宿から原宿までです。

梅雨の終わり頃の、曇り時々雨というお天気のなか歩いてきました。

 

★  沼津城本丸跡

  沼津城本丸跡は、川廓通りから入ってすぐの所にあり、現在は中央公園になっていました。

周りはビルや家が建て込んでいて、公園の中には木々もあまりなく、「沼津城本丸跡」の石碑がなければスルーしてしまいそうな所でした。

 沼津城は、三枚橋城より規模は小さかったそうですが、二代目・水野忠成(ただあきら)が文政元年(1818)老中になり、

幕府の財政を立て直す業績を上げたために5万石に加増され、幕末まで続いたそうです。

 

 

 

 沼津宿は、川廓通りから西に14町(約1.5Km)続いていました。

狩野川河口の川湊から、今の清水や豊橋への航路が開かれると、江戸へ年貢米や竹木類を積み出しました。

江戸時代の沼津は、鰹の産地で鰹節の生産は日本一だったようです。

 

 

★  本陣・脇本陣跡

  本町通りには、本陣3軒・脇本陣1軒の標識がありました。この辺りが、沼津宿の中心地だったそうです。

今は、走っている車も少なく静かな通りでした。

 

  

 

 

 

★  丸子・浅間神社

 

 
     もともとは、浅間神社、丸子神社という別々の神社でしたが、明治時代に浅間神社があった当地に、

    丸子神社が遷座され、めずらしい一扉二社となりました。

    拝殿の左側には浅間神社の提灯が、右側には丸子神社の提灯が かかっていました。

   

 

★  千本山乗運寺

  戦国時代の天文6年(1537)増誉上人が開基となり創建されました。

増誉上人は知恩院で修業の後、諸国行脚に出掛けました。そして沼津にまで来た時、農民が塩害の被害に苦しんでいるのを見て、

海岸に砂防林を築くことにしました。念仏を唱えながら千本の松の木を植えたそうです。

農民達は、上人に感謝し庵を建てました。これが乗運寺の始まりとなりました。

 また、沼津に住んだ若山牧水の菩提寺でもあります。

  

 
     残念なことに、お寺の境内に入ることはできませんでした。若山牧水のお墓を、遠くからズームでパチリ。

 

 

★  千本松原

  松原は、幅180メートル、長さ15.6キロメートルもあり、

 狩野川から田子の浦にかけての海沿いに、長~く延々と続いています。

 本当に広くて、静かでいい所でした。

 増誉上人像若山牧水碑井上靖文学碑などがありました。

  

 
                                   増誉上人の像  

 
                  「一本植えては なむあみだ  二本植えては なむあみだ」 の文字が刻まれていました。

 

 
   海沿いに長く続く千本松原。 はるか向こうまで松林が続いています。そして目の前には広大な海がありました。
      ( 今にも雨が降りそうなお天気だったので、海と松原のいい写真が撮れませんでした。 )

 

 
             若山牧水の歌碑         

 
                                     井上靖 文学碑 

 

 
 海からの強風を受けて、松の木がみな同じ方向に傾いています。 この松原がなかったら本当に大変なことになりますね~。

 

 

★  千本浜合戦首塚

  明治33年(1900)、暴風雨の時に倒れた松の根元から多数の人骨が発見されました。

 これを弔ったのが、この首塚で、この人骨は、天正8年(1580)に、武田と北条で戦った千本浜合戦の際の戦死者のものだそうです。

 

 

 

★  六代松(ろくだいまつ)の碑

   六代とは、平家6代目を継ぐ御曹司のことです。ちなみに、平家3代目が清盛です。

 平家一門の滅亡により六代は捕えられ、鎌倉に護送の途中、千本松原で処刑されようとしましたが、

 文覚(もんがく)上人の命乞いにより赦免となりました。しかし、結局はその後文覚上人の謀反に連なり処刑されてしまいました。

 その首を、松の根元に埋め弔ったと伝えられています。この松を土地の人々は「六代松」と称したそうです。

 六代の処刑をもって、平家の血筋は途絶えることになりました。

 
    天保12年(1841)松の木が枯れてしまい記念碑が建てられたそうです。

 

 

                                                                      

折角の沼津です。お昼ご飯は、沼津漁港へ…… 

 

  

 海鮮丼をいただきました。やはりいつ食べても新鮮で美味しいです。

 食べるのにむちゅうになってしまい、写真を撮るのをすっかり忘れてしまいました。

 

 

 

★  沼津藩領境榜示

 
     「従是東」だけの部分が残っていました。下半分の「沼津領」はありませんでした。

 

 

                                                                     

 いよいよ沼津領をでてに入ります。

昔この辺は、浮島沼を中心とした湿地帯だったそうで、住民は海へ放水路を作ったり、新田開発に努めたりしたそうです。

その名残の川(水路)や地名(大塚新田)が見受けられました。

 

 

 

★  松長一里塚跡

     日本橋から31里目

 
        民家の門柱の脇にありました。

 

 

原宿は、特になんの産業もありませんでしたが、雄大な富士山が眺められる地として人気があったそうです。

この辺りから、雨がポツリポツリ降り出してきました。残念なことに富士山の姿を見るどころではありませんでした。

 

 

★  松陰寺

  臨済宗妙心寺派の寺。享保2年(1717)白隠禅師が住職になりました。

 白隠禅師は、臨済宗中興の祖といわれた人で、「原」で生まれ「原」で没しました。

 「駿河には過ぎたるものが二つある。富士のお山と原の白隠」と謳われたそうです。

 

  

 
                                     白隠のお墓

 

 
                                           白隠産湯の井戸

 

            
                           問屋場跡

     

 
              本陣・渡辺平左衛門家跡……門が閉じられ今は誰も住んでいませんでした。

 

 

         ◇          ◇           ◇           ◇           ◇          ◇          ◇

 

   あまり良いお天気ではなかったので、雄大な富士山をまじかに見られずとても残念でした。

 でも、沼津の千本松原は、思っていたのより大きくて広く素敵なところでした。

 かなり前ですが、井上靖の「しろばんば}を読んだ時、沼津の海岸の描写があったと思いますが、

 千本松原のような海岸を想像することはできませんでした。

 やはりいろいろな所に行って、実際に見て、見聞をひろめるということは、大事だと思いました。

 これを機に、この夏、また井上靖の作品を読んでみたくなりました……。

  


東海道あるき旅⑬(三島~沼津)

2015-06-28 | 東海道あるき旅

  今回は三島から沼津まで歩きました。約9キロの平坦な道なので気分的には楽勝です。

 三島までパスモを使って乗車してきましたが、熱海からはJR東海になるとのことで、改札で精算し直さねばなりませんでした。

 あ~、やっと関東を脱出して東海地方に来たのだという実感を味わう事が出来ました。

  
         三島駅前は、土曜日という事もあり、人々がのんびりとくつろぎ、長閑な感じがしていました。

 

  東海道からは少しそれるのですが、まず駅近くの「楽寿園」に行きました。

 ここは、明治維新に活躍された小松宮彰仁親王が明治23年に別邸として造営したものですが、

 明治27年より三島市が管理運営しているとのことです。

  園内には、約1万年前の富士山の噴火の際に流れ出た溶岩(三島溶岩)の上に生えた樹木や、

 富士山の雪解け水が湧きだす池や瀬があります。

 以前、これらの池や瀬は常に満水の状態だったそうですが、上流地域の地下水汲み上げ量の増加と供に、

 ここ4~50年は、地下水位が年々低下し、現在は一年のうち大半は渇水した状況だそうです。

 湧水は、滅多に見られず、満水になるのも7~8年に一度くらいだそうです。

          楽寿園正門           

 
                                       溶岩の上に根をはる樹木

  
                    渇水の ”小浜池”……池底の溶岩がすっかりと見えています。       

 

三島 「楽寿園」

  

 

 次に、東海道沿いにある三島大社にむかいました。

★  三島大社 

    境内はとても広く立派で、桜の名所としても知られているそうです。

   源頼朝が源氏再興を祈願し、旗挙げをしたことでも有名です。

 

  
  池には、沢山の鯉がいました。亀ものんびりと甲羅干しをしています。             厳島神社

 
          総門                                 芸能殿(旧総門)

  

 
      神門                               樹齢1200年 天然記念物に指定されている ”金木犀”

  
                                    本殿

 

 

★  三島市内

   
    この道路沿いを少し進んだ所に「三島宿問屋場跡」 「樋口本陣跡」 「世古本陣跡」 がありました。

  
    市内にはうなぎやさんが何軒もあり、うなぎのいい匂いがしています。行列のできているお店もありました。

 

 

 三島広小路の踏切を渡ると道は二手にわかれています。左側の道が東海道です。

 道なりにしばらく進むと、柿田川湧水へ行く道がありました。前に行った事が有るので、今回はパスすることにしました。

 

 これより清水町になります。

 この辺には伊豆・駿河の国境にあたる境川にかけられている、”千貫樋(せんがんどい)”があります。

 千貫樋とは、楽寿園小浜池の湧水をかんがい用水として清水町に送水するための掛樋です。

 創設については諸説がありますが、天文24年(1555)の今川、武田、北条三家の和睦が成立した時に造られたというのが、有力だそうです。

 はじめは木製であったそうですが、大正12年関東大震災の際壊れてしまったので、コンクリート製のものに造り替えられたそうです。

 命名の由来は   1  架設が巧なため銭千貫に価する。

             2  この用水が高千貫の田地を潤している。

             3  建設費が銭千貫を費やした。

 などと伝えられていますが、この疎水により清水町は多大な恩恵を受けることができたので、 2の説であると思いたいですね。

 

★  常夜燈

   弘化3年(1846)、名主をはじめ村人が防災の願いを込めて造ったものです。

   均整のとれた美しい姿の石灯籠です。きっと、東海道を行きかう旅人の安全も見守っていたのでしょうね。

 

 

★  伏見一里塚

  日本橋から29番目の一里塚。

  宝池寺一里塚と向かい側にある玉井寺一里塚で対をなしています。

 
      宝池寺境内には立場(茶屋)があり、道ゆく旅人に湯茶のサービスをしていたといわれています。

 

 

★  八幡神社

   境内には、頼朝と義経が対面した時に腰かけたといわれる”対面石”がありました。

 

 

 

 

★  長沢の松並木

   当時の東海道をしのぶことが出来る松並木。道の片側だけに残っています。

 

 

★  黄瀬(きせ)川

   黄瀬川は御殿場市を源流とし、沼津市のほぼ中央を流れている狩野川に合流します。

   川を渡ると、いよいよ沼津市です。

  

   

 

★  傍示石

  江戸時代、水野出羽守忠友が城主であった頃の沼津領東端を示しています。

 
      「 従是西 沼津領 」

 

  しばらくは、狩野川に沿って歩きます。

 

 

★  川廓(かわぐるわ)通り

    川廓通りは、狩野川と沼津城の間に、城郭に沿って通っていた東海道です。

   狩野川に舟運が開かれていた頃の舟着き場に隣接し、物資や人々の交流が盛んに行われるなど、

   江戸時代の宿場町、城下町であった沼津の中心的な地域として位置ずけられていたそうです。

   現在は、ひっそりとした静かなたたずまいですが、昔をイメージして整備された石畳が当時を偲ばせてくれます。

 

 

 

 

 沼津市でみかけたアートの数々

  

  

 

 

★  三枚橋城外堀跡

    三枚橋城廃城の跡地に沼津城が築城されたそうです。

 
            外堀の石垣                            外堀跡

 

 

                                                                      

 

 なんとか、沼津にまでたどり着くことができました。

 これから先も、楽しいことにいっぱい出会えますように!  良い旅となりますように!

 

  


東海道あるき旅⑫(箱根関所~三島)

2015-06-02 | 東海道あるき旅

   今回は、箱根関所から三島までを歩きました。 

 前日の天気予報では、ほぼ100%雨とのことでしたので、濡れた時のためにタオルや靴下、雨合羽などを用意して行きました。

 そして、なるべく荷物を軽くするために、帽子は必要ないと思い持っていきませんでしたが、

 いざ歩き始めると、雨が降るどころか薄日がさしはじめてきました。本当に、帽子を持ってこなかったことを後悔しました。

 万全の備えをしたつもりが、何処か抜けているという・・・・・・悲しい結果になってしまったのです。

    (なぜか他の人達は、皆~んな帽子を持ってきていました。)

 

  少し暑いくらいです・・・・が、 気をとり直して、箱根宿を出発で~す。 

 
                  芦ノ湖です。山の後ろに富士山が少し見えていました。

           
          テレビでよく見る箱根駅伝の往路到着地点。思っていたのより狭い所でした。

 

 

 
       昔、この辺りには、楓並木があったそうです。       当時、本陣があった所は 現在の箱根ホテルの所です。

     

 箱根宿は、小田原宿・三島宿から人々を半強制的に移住させて開いた宿だそうです。

 気候は寒冷で厳しく、平坦地に乏しく田畑がないので、住人の8割は宿泊業・往還稼ぎ・飛脚業・山稼ぎを生業としていました。

 しかし泊まり客は少なく昼の休憩が主だったので、生活は苦しかったようです。

 現在と違い街並みはひなびて粗末な造りで、湯本や畑宿の立場には及ばなかったようです。

      

★  駒形神社

   箱根神社の末社。箱根宿内の鎮守の神として信仰されていました。

 

 

 

 

  いよいよ、旧東海道に入ります。

   

 
 入口付近には「芦川の石仏群」と呼ばれる、数多くの石仏・仏塔がありました。

 

 この後、箱根峠まで急坂が続きます。

 

 

 

 

 

 

★  箱根峠

   標高846メートル。 相模国(相州)と伊豆国(豆州)の国境で境木がありました。

 ここから湯本側を東坂、三島側を西坂と呼びました。

 
                           現在は、神奈川県と静岡県の県境となっています。


  

 再び、箱根旧街道を歩きます。                                         

  
                                 萌えるような緑          「是より江戸二十五里、京都百里」の道標

  
                                 まるで、トンネルの中を行くようです。

  
   道の両側には篠竹が覆い被さるように生い茂り、なかなか風情がありました。

 

 

★  山中新田一里塚

       日本橋から26里目。 片側の塚が残っていました。

           

 

 

★  接待茶屋跡

   昔の旅人にとって、箱根の山越えはとても大変な事でした。

  箱根を往来する人や馬の苦難を救うため、人には湯茶・粥、馬には飼葉を無料で与えた所だそうです。

  寒い時期には、人足や貧しい人々にも粥を与え、焚火をして暖をとったりもしたようです。

 

 

 
            かぶと石                                      念仏石

 

 

       ◇         ◇         ◇         ◇         ◇         ◇         ◇         

 

 

  

 

 

★  雲助徳利の墓

   墓石に徳利と盃を浮き彫りにした風変りなお墓。    

   西国大名の剣道指南役だった人が、大酒飲みのためお酒で失敗し、藩外追放となりました。そして、箱根で雲助になったそうです。

  元来、教養があり剣の腕が立つことから多くの雲助に慕われたそうです。お墓はそうした多くの仲間達によって建てられたようです。

  雲助というと悪人というイメージがありますが、

  往時の雲助とは箱根の坂を登れない老人や弱い女性、病人の荷物などを運んだ人足のことで、

  決して悪い人ではなかったようです。

         

 

 

★  山中城跡

     永禄年間(1558~70)、小田原に本拠を置く北条氏康が築城した山城です。

   400年前の遺構がそのまま復元されている山城は全国的にも非常に珍しく、堀や土塁が良く残っています。

   箱根山の自然の地形を巧みに取り入れた山城の作り方には目を見張るものがあるそうです。

            
            宗閑寺は山中城三の丸跡にあります。

 

  
              三の丸堀


        

        
         特長のある”畝堀”と”障子堀”・・・ここは用水池も兼ねた水堀で、山城では非常に珍しいものです。

          

 

        

 

                              素晴らしい眺めでした。 
                             

     

        

 

 

 

★  富士見平と芭蕉句碑

      富士見平は、今も昔も富士山を望む景勝地と言われています。貞享元年(1684)、芭蕉が箱根越えした時に詠んだ句です。

 
 「霧しぐれ  富士を見ぬ日ぞ  面白き」              富士見平近くからの富士山

 

 

★  笹原一里塚

     日本橋から27里目。坂の上に左側の塚が残っていました。

 

 

 

★  こわめし坂

   あまりに坂が急なので背負った米が旅人の汗の蒸気で蒸されて、ついに強飯のようになってしまったという長い急坂です。

 本当に、ものすごく急な坂でしかも延々と長いのです。坂の両側には家家が並び人々が暮らしています。

 少々の坂では驚かない私でも、この坂にはビックリしてしまいました。

 坂を下ることに一生懸命なあまり写真を撮ることさえ忘れてしまいました。

 

 

★  松雲寺

   参勤交代で往復する西国大名や朝鮮通信使が休息する寺となり、寺本陣と呼ばれたそうです。

 

  
                             明治天皇お腰掛け石          お腰掛け石からの眺め→富士山が見えます

 

 

だいぶ、下ってきました。  もう少しです。  頑張りましょう!

 

 

 

★  初音ヶ原の松並木

   三島市内に残る唯一の旧東海道の松並木です。両側に約1キロ続いています。

 

 

 

★  錦田一里塚(にしきだいちりづか)

    日本橋から28里目。初音ヶ原の松並木の途中にあり、左右両側の塚が残っています。

  
              南側の塚                                         北側の塚

 

 

★  新町橋と三島宿東見附跡

   大場川に架かる橋。昔も今も富士山の見える景色の良い場所です。

  橋を渡った所に三島宿東見附があったそうです。

 
                                                     新町橋からの富士山

 

 

      ☆         ☆         ☆         ☆         ☆         ☆         ☆         ☆

 

   今回のコースは、いつもより距離が長く、

  しかも途中工事中のため迂回しなければならなかったりして、更に歩く距離が伸びてしまいました。

  箱根宿を出てからほとんどが下りの道なので、上りの時より楽なのではないかと思っていましたが、

  そんなことはなく、結構疲れてしまいました。

  でも、今迄に箱根から三島に抜けたことがなかったので新鮮な感じがして楽しかったです。

  とりわけ良かったのは、大きな富士山を歩きながら何度も見ることができたことです。

  そして、その度に疲れがとれたように感じられ、頑張ろうという気持ちになるのです。

  本当に、昔から人々に愛された不思議な力を持った山だと思いました。

  富士山 バンザイ です。

 


東海道あるき旅⑪(箱根湯本~箱根関所)

2015-05-20 | 東海道あるき旅

   箱根山の火山活動により、大涌谷は立ち入り禁止になっていますが、

 東海道は大丈夫ということなので、箱根湯本から箱根関所まで歩いてきました。

 湯本駅前には取材に訪れている報道人の姿も見られましたが、特段変わった様子もなく、

 平和ないつもの温泉街で、賑わっていました。

 

  

 

 

 まず、箱根湯本駅から早川に架かる三枚橋を渡り、旧東海道にはいりました。

  
  53次の浮世絵と比べてみると、遠くに見える山の形だけは、昔と変わらず同じでした。

 

 ★  早雲寺

  早雲寺は、小田原北条家歴代の菩提寺です。

 天正18年(1590)、小田原攻めの秀吉は、始め早雲寺に本陣を構えましたが、

 石垣山に一夜城を築いた後、早雲寺に火を放ち燃やしてしまいました。そして本陣も石垣山に移しました。

 北条氏は5代で滅んでしまいましたが、北条一門の狭山北条氏と玉縄北条氏が生き残り、

 江戸時代初めの寛永4年(1627)に早雲寺を再建しました。

 境内には有名な枯山水庭園や北条5代のお墓があります。

 (枯山水庭園は今回見ることが出来ませんでした。現在は公開されていないようです。?)

 
          惣門                               北条5代の墓

 

★  正眼寺(しょうげんじ)

  湯本地蔵堂として有名だそうです。

 曽我兄弟のゆかりの寺でもあるそうです。

  

  
                                                           曽我兄弟供養塔

 

★  湯本茶屋一里塚跡

    日本橋から22里目。

       

 

★  石畳道入り口

   ここから芦ノ湖湖畔までの間の所々に、当時の石畳が保存整備されて残っています。当時を偲びながら歩いてみました。

 

 

★  鎖雲寺(さうんじ)

  江戸時代の初め、早雲寺にあった庵を移築して開いた臨済宗大徳寺派のお寺。

 歌舞伎「箱根霊験いざりの仇討」のモデルとして有名な勝五郎と妻・初花のお墓があります。

 足が不自由になった勝五郎が夫唱婦随で父の仇討ちをこの付近の箱根道で遂げるという物語だそうです。

 ここ湯本には「初花」という看板が多く見受けられますが、きっと内助の功で夫に本懐を遂げさせることが出来た素晴らしい妻として

 人々に受け入られているからなのでしょうね。お墓にも、きれいな花が手向けられていました。

 

 
                                            勝五郎・初花の墓・・・寄り添うように並んでいます。

 

★  女転し坂(おんなころしさか)

   箱根道の難所のひとつであり、急な長い坂道で、馬に乗った婦人がこの付近で落馬し、

  死んだことから「女転し坂」と言われるようになったとのことです。

 

 

★  割石坂(わりいしざか)

   曽我五郎が、富士の裾野に仇討に向う時、刀の切れ味を試そうと、路傍の巨石を真二つに切り割ったところと伝えられています。

 

★  石畳み

  江戸幕府は、湯本の三枚橋から須雲川沿いに進み、畑宿を経て二子山の南麓を通り、

  元箱根に至る最短距離の古い山道を拡張整備し、東海道のルートとしました。

 当初の山道は雨が降ると道がぬかるみ、脛まで浸かる泥道となってしまったそうです。

 そこで幕府は「箱根竹」という細い竹を束ねて敷いたそうですが、竹なので1~2年で朽ちてしまいメインテナンスが大変だったようです。

 それで石を敷き石畳とし、同時に並木も造成したのだそうです。昔の街道に植えられた並木は杉が多かったようですが、海の近くでは

 潮風に強い松が植えられたようです。杉の方が松よりもお金になりやすく経済的に理にかなっていたのだそうです。

 

 
         石畳の構造も現代の土木技術に劣らないすぐれたものだったようです。

 

★  茶屋本陣茗荷(みょうが)屋跡

   畑宿の名主・畑右衛門家は「茗荷屋」と呼ばれ茶屋本陣を営んでいたそうです。

  庭園が美しく浮世絵にも描かれていたほどだったそうです。

  今は昔の建物もなく説明の立札があるのみでした。

 

 

 畑宿は宿の名が付きますが、正式には畑宿村といい江戸時代以前からの集落です。

 今は、箱根伝統工芸「寄木細工の里」として知られていますね。箱根駅伝の往路優勝のカップも寄木細工で出来ているそうです。

 

 

 

★  畑宿一里塚

   日本橋から23里目。

 道の両側に塚が残っているのは、とてもめずらしいそうです。

 塚の直径は約9m、高さは4.5mで、右の塚にはモミ、左の塚にはケヤキが植えられていました。

 

          
        モミの木                                ケヤキの木

 

★  橿木(かしのき)坂

  

 

 

★  猿滑り坂

 

 

  急坂が次から次へと続きます。もうすぐ甘酒茶屋があるはずなのですが……。 ガンバレガンバレ

 

★  甘酒茶屋

  甘酒をだす茶屋は箱根八里の間に13軒ほどあったそうですが、この場所は間の宿の畑宿と箱根宿との中間に位置し、

 四軒の甘酒茶屋が並び立場としてにぎわっていたようです。現在は江戸時代から300年続く甘酒茶屋が1軒のみです。

 

 
     昔の旅人のように、ここで一休みで~す。 とても甘い甘酒でした。 少し元気になれたようです。

 

★  於玉坂(おたまざか)

     
  お玉という娘が関所破りをして捕まり、この辺りで獄門にされたのでこの名が付いたそうです。

 

 

 

 
  途中、皆で「唱歌 箱根八里」を歌ったりして楽しかったです。 本当に歌詞のとおり山深いところでした。

 

★  杉並木

 
  樹齢400年、高さ30メートルほど。 うっそうとした木立の杉並木でした。約400本位残っているそうです。

 

★  賽の河原

   芦ノ湖の湖畔にありました。

 

 

★  箱根一里塚

   日本橋から24里目。

 

 

★  箱根関所

   やっと関所までたどり着きました。閉館時間ぎりぎりでしたが、なんとか間に合うことが出来ました。

 現在の関所は、発見された資料に基づいて幕末の姿に完全復元され、平成19年より公開されているものだそうです。

 徳川幕府は、全国53ヶ所に関所を設けましたが、その中でも中山道木曽福島(長野県)、碓氷(群馬県)、東海道新居(静岡県)、

 そして箱根(神奈川県)の4ヶ所は、規模も大きく、最も重要な関所と考えられていたようです。

 関所の役割は、「入り鉄砲に出女」を監視することです。

 つまり、江戸に入る武器類と江戸から出ていく女性に対して、目を光らせていたと言われています。

 しかし、ここ箱根の関所では、幕府が安定した3代将軍家光時代の寛永9年(1632)以降は、「入り鉄砲」の調べは止め、

 もっぱら「出女」を厳しく取り締まったそうです。

 
                                    江戸口御門

  
                                                          足軽番所

  
 人見女(ひとみおんな)                                   面番所(めんばんしょ) 

 【 女性の検査は厳しく、「人見女」が関所手形と照合し、更に密書などが隠されていないか髪をほどいたり

                                        時には裸にして性別をチェックしたりしたそうです。】

 

 
  小高い所にある遠見番所から見た箱根関所と芦ノ湖。 とてもいい景色でした。まるで昔にタイムスリップしたようでした。

 

 
                                    京口御門 

 

 
  関所を出たところのお土産やさん

 

 

                                                                    

 

 箱根八里とよくいわれていますが、小田原宿から箱根宿までの4里8町(16.6Km)、箱根宿から三島宿までの3里28町(14.8Km)の

 合計8里(31.4Km)のことを示しているそうです。(36町=1里)

 江戸時代の旅では通常、小田原から三島または沼津までを一気に歩いたそうです。

 本当に昔の人の健脚ぶりには、驚いてしまいます。

 

 この東海道あるき旅の中で、一番きついコースであろうと思われる「湯本から箱根まで」を無事に終えることが出来、

                                                                  本当によかったです。

 これから、いよいよ静岡県に入ります。きっと、東海道らしい景色に沢山出会えることでしょう。 

 期待に胸がふくらみます。 では、では……  加油加油(がんばれ、がんばれ)です。 

 


東海道あるき旅⑩(小田原~箱根湯本)

2015-05-04 | 東海道あるき旅

 四月中旬、小田原から箱根湯本まで歩きました。

曇り時々雨という天気予報でしたので、空模様の心配をしながらの一日でしたが、

幸いにも途中たいした雨に降られることもなく、無事に行って帰ることができました。

 小田原には、本当にず~っと前30~40年位前に行った記憶があるのですが、細かいことはほとんど憶えていません。

今回、小田原城を中心に小田原の街を歩いてきました。

 

  小田原城

 小田原城は、15世紀後半に西相模一帯を支配していた大森氏が築いた山城が前身で、

その後、戦国大名の小田原北条氏の居城となってから、支配地域を拡大しながら次第に拡張されていきました。

城下町全体を総構(そうがまえ)と呼ぶ9Kmにも及ぶ土塁で囲み、堅牢な城郭を築き難攻不落を誇りました。

しかし、秀吉に抵抗したため、天正18年(1590年)秀吉軍22万に包囲され、3か月以上籠城しましたが、

秀吉の石垣山一夜城の完成と降伏勧告に5代城主・氏直は降伏を決意し落城しました。

こうして小田原北条氏は5代・96年で滅んでしまったのです。

 北条氏滅亡後、家康の家臣・大久保氏が城主になると、城は改修され近世城郭の姿になります。

その後、大久保氏が改易され約50年間稲葉正勝が城主となり稲葉時代となりますが、

再び大久保氏が城主になり、明治まで180年間続きました。

 

 

 
   幸田門跡……小田原城三の丸の城門のひとつ        東側に続く三の丸土塁が小田原郵便局の裏側まで残っています。

 

 
   二の丸東堀                                     学橋

 
                                    二の丸東堀

 
        東堀に架かる学橋                   三の丸小学校が見えます。まるでお城の一部のようです。

 
  馬出門……二の丸正面に位置する門で、内冠木門と土塀で周囲を囲む枡形門の構造を持ちます。
          馬屋曲輪(うまやくるわ)へ通ずることからこの名が付いたようです。                                

 
                               馬出門を枡形の中から見た様子
                      

 
                                    住吉橋

 
   銅門(あかがねもん)……二の丸の表門、  門扉が銅板で筋状に覆われていたことによりこの名があるようです。

 

 
                    常盤木門……本丸御殿の正面にあり、城内で最も堅牢な門

 

 常盤木門を抜けると本丸御殿跡です。将軍宿泊専用の御殿で、畳だけでも670畳もあったそうです。

元禄16年の大地震で倒壊焼失し、その後は再建されなかったようです。

さあ、その先にいよいよ天守閣が見えてきました。

 

 
   天守閣は、戦時には望楼でもあり、また最後の戦闘拠点ともなりますが、平時は武具や食料の倉庫であったそうです。

 

折角なので、天守閣に上ってみました。

 

◇  報徳二宮神社

   幕末の農政家・二宮尊徳を祀った神社で明治27年(1894年)の創建だそうです。

   城内の一角、天守閣のすぐ隣にありました。

 

 
    お宮参りをしているご家族がいました。

  

  通称は金次郎。薪を背負って本を読む姿の像は、小さい頃見たことがありましたので、なんだか懐かしい気持ちになりました。

 金次郎は、天明7年(1787年)小田原郊外の豪農の家に生まれましたが、16歳の頃に両親と田畑を失い困窮する中、

 努力して勉学に励み、19歳で独立、23歳で父が失った田畑を取り戻したのだそうです。

 その後、 質素倹約を旨として報徳仕法と呼ばれる独特の合理的手法で小田原はじめ北関東の農村復興に尽力したのだそうです。

 

 

 

 
  三の丸小学校の校門、かっこいいですネ!                         箱根口門跡

 

◇  ういろう(外郎)

   創業600年。我が国最古の薬屋です。

  外郎家の先祖は中國「元」の官僚で、元が明に滅ぼされたので日本に渡り帰化したのだそうです。

  中国での官職名「礼部員外郎」から「外」の字を「うい」と読んで「外郎(ういろう)」と名乗ったそうです。

  家伝の薬「ういろう」は小粒の丸薬で胃腸・のどの痛み・痰に効き、船酔いにも効くといわれたそうで、

  旅人は常備薬として買い求めたようです。

  また、朝廷が外国使節を接待する際に供するお菓子を創り出し評判となり、それがお菓子の「ういろう」になったのだそうです。


       お店は、北条時代の8棟造りの姿をしていました。

 
  店内ではお薬とお菓子が売られていて、お客さんで賑わっていました。お薬の「ういろう」は一人二箱までしか購入できませんでした。

 

◇  小田原城総構早川口遺構

 
     城下町を囲んだ総構(そうがまえ)の土塁と堀の南西の虎口(城の出入り口)にあたる所です。

 

◇  大久寺

  小田原城主・大久保家の菩提寺。大久保寺の意味で「大久寺」と名付けたそうです。

  

 

◇  上方見附跡

  板橋見附とも呼ばれていたそうです。現在は信号の地名となって残っていました。

     

 

◇  板橋地蔵尊

 
                                  本堂右脇に木彫りの大黒天像がありました。

 

                                                                     

 

本日のお昼ごはんは、蒲鉾で有名な「鈴廣」でいただきました。一階の売店では色々な蒲鉾の試食が出来て、楽しかったです。

     
    
           金目鯛の炙り飯が美味しかったです。

 

◇  風祭一里塚跡

    日本橋から21里目の一里塚。  案内板の前の石仏は「小田原の道祖神」です。

     

    

◇  紹太寺と稲葉一族の墓地

  江戸時代の初期に3代・50年にわたり小田原城主だった稲葉氏の菩提寺。

 当時は広大な敷地に七堂伽藍があり黄檗(おうばく)宗では関東一の大寺院だったそうです。

 寺は、幕末と明治初年の火事で焼けてしまい、現在は稲葉一族と春日局のお墓が残っているだけのようです。

 
                             長い階段を上っていきます。

  
      上りきった所。    蜜柑の木が植えられた果樹園や山林になっていました。             

 
   樹齢330年以上のシダレザクラです。 もうすっかり若葉になっていました。 咲いているのを見られず残念でした。

 

                                                                  

 

 この後、箱根登山鉄道に沿うように歩いて箱根湯本駅に向いました。

若葉がしげる新緑のなかを歩くことが出来、とても楽しかったです。

車でしか来た事がなかった湯本に、歩いて来たという事が信じられませんでしたが、

すこしずつでも、一歩一歩進めば此処まで来られるのだという事が分かり嬉しかったです。

ういろう(お菓子)や蒲鉾も美味しかったです。

 


2015年 春爛漫

2015-04-04 | 散歩

 パソコン教室の帰り道、満開になった大岡川の桜を見に行きました。

川の両側の桜はみごとで、ポカポカとした暖かい陽気と相まって心から癒され楽しい気分になってきます。

お花見客を乗せた舟も見られました。舟から見る桜も格別でしょうね~

 

 

  

 

 

 

 翌日、俳優座劇場に演劇を見に行ったので、六本木ヒルズにも寄ってみました。

ちょうど”六本木ヒルズ春まつり”の最中で、音楽や和太鼓の生演奏が行われていて、賑やかでした。

六本木森タワーの前には、チューリップやパンジーなど春の花が咲き乱れきれいでした。

 

  

  

 

  
                                   毛利庭園の桜も満開です。

 

  夕方になり、ライトアップされてきました。

  
              和太鼓の演奏、迫力がありました。            会場のまわりでは、お酒やおつまみが販売されています。

 
                                  ライトアップされた森タワー

 


東海道あるき旅⑨(大磯~国府津)

2015-04-01 | 東海道あるき旅

   大磯は、平塚宿と小田原宿の間に位置し、海と山に囲まれた風光明媚な所ですが、

 その歴史は古く平安末期には相模国の国府が置かれ、鎌倉時代からは宿も形成されていたようです。

 江戸時代の人々は、上りの2泊目は小田原に泊まり、下りは平塚に泊まる人々が多かったので宿場の財政は苦しかったようです。

 明治になると、大磯はリゾート地として賑わうようになり、病気治療や健康増進を目的とした海水浴場も日本で初めて開かれました。

 また伊藤博文・山形有朋らをはじめとする政財界等各界の名士の邸宅が建ち並び、その数は150戸にも及んだと言われています。

 このように明治の別荘地としても有名です。

 
             大磯駅前には混血児教育に情熱を傾けた澤田美喜記念館がありました。

 
     JR大磯駅                                     ”日本最初の大磯海水浴場へようこそ”

 

 大磯から小田原、箱根にかけては、曽我兄弟にまつわる遺跡や話が多く残っています。

 ここ大磯には延台寺に”虎御石”がありました。 虎御前は兄・十郎の恋人だった美女です。虎石は、虎御前の成長とともに大きくなりました。

 十郎が仇の工藤祐経に襲われた時に、虎御石が十郎の身代わりとなって矢や刀をうけ命拾いしたと言われています。

 曽我兄弟の仇討は、曽我物語となり有名ですね。

 
  延台寺                                      虎御石のいわれが書かれています。

 
 この御堂の中に霊石「虎御石」が安置されています。

 

★  北組問屋場跡・小島本陣跡

 

★  地福寺

  境内には島崎藤村と静子夫人のお墓があります。

  藤村は昭和16年から大磯に住み、昭和18年8月22日71歳で他界しました。

  静子夫人は昭和48年77歳で亡くなりました。

  境内には梅の木が多く、藤村のお気に入りの場所だったそうです。

 

 
        藤村のお墓                                   静子夫人のお墓

 

★  尾上本陣跡

       
                           大磯名物「虎子まんじゅう」・「西行まんじゅう」・・・島崎藤村・吉田茂に愛されたお店だそうです。

 

★  新島襄終焉の地

  新島襄は、大磯町の旅館百足屋の一室で47歳の生涯を閉じました。

  徳富蘇峰の筆による碑が、かつての百足屋の玄関の一部だった所に建っています。

 

 

★  湘南発祥の地

   中国湖南省にある洞庭湖のほとり湘江の南側を湘南といい、大磯がその地と似ているところから湘南と呼ばれるようになったそうです。

 

★  鴫立庵

  西行法師が歌を詠んだ地に、小田原外郎(ういろう)の子孫・崇雪(すうせつ)が草庵を結んだのが始まり。

  京都の落柿舎・滋賀の無名庵とともに日本三大俳諧道場の一つと言われ、今も毎月俳句会が開かれているそうです。

 

  

 

  
            庭には沢山の句碑・歌碑がありました。

 

★  島崎藤村旧宅  ~静の草屋~

   藤村は、温暖なこの地が非常に気に入り、亡くなるまでの2年余りをここで過ごしました。

 

 
 「涼しい風だね」という言葉を最後に、藤村は亡くなったそうです。   壁にかかっている時計は亡くなった時刻午前0時35分をさしています。 
                                                                                                                                      

 
 庭には苔が一面に生えていました。                       藤村旧宅前の公園の桜花、満開でした。

 

★  旧東海道松並木と旧別荘地帯

  旧東海道の松並木の名残で、両側に高さ20~30メートルほどの松が並んでいました。

  木々の間からは雪を被った白い富士山」が見えます。

  松並木の海側は伊藤博文旧邸”滄浪閣”を皮切りに別荘地帯が続いていたそうです。

 
                                                近くで見ると本当に大きく感じます。

 

 


      伊藤博文旧邸”滄浪閣”跡

 

★  旧吉田茂邸

  一部工事中でした。とても広いみたいですが今回は庭園のみを見てきました。

 
                                                 兜門・・この門をくぐると庭園です。

  

  

 

★  城山公園(じょうやまこうえん)

   旧吉田茂邸の向かい側に城山公園があります。

   シイやカシ、ケヤキなどの木々が葉を広げる緑豊かな公園で、きちんと整備されている素敵な公園でした。

   展望台に行ってみることにしました。それほど急ではなく簡単に上れました。

   富士山をはじめ箱根連山・伊豆半島・相模湾と一望することが出来、本当にいい景色でした。

   海も山もある大磯が保養地になった訳がわかります。本当に素敵な良いところでした。

 
                                                  展望台からの眺め

 
                                                 海も見えたよ~

 
    富士山が見えた~!                                しばしの休憩                              

 

★  六所神社

   相模国の一の宮から四の宮までの4社と、平塚八幡宮の計5社の分霊と

   主祭神である柳田大明神を併せて祀ることから六所神社と呼ばれるそうです。

 

 

 

 

 

 大磯町に別れをつげ二宮町に入ります。

 

 JR二宮駅前に”ガラスのうさぎ”の像がありました。

 太平洋戦争終結直前の昭和20年8月、二宮駅周辺で機銃掃射を受け、何人かの尊い命が犠牲となったそうです。

 その時、目の前で父を失った12歳の少女が悲しみを乗り越え、けなげに生きぬいたという戦争体験記が、 大きな感動を呼びおこし

 戦争の悲惨さを人々に強く印象づけました。

 平和の尊さを後世に伝えるために、また少女を優しく励ました人たちの友情をたたえるために建てられたものだそうです。

 

 

 

★  等覚院(とうがくいん)

   別名 藤巻寺。 樹齢400年という古いフジの木がありました。

   まだ今の季節、残念ながら花が咲いていませんが、5月頃にはきっと素晴らしい花が見られることでしょう。

             

  
                                  藤棚

 

★  押切坂一里塚跡

  日本橋から18里目の一里塚。

 
                                             間の宿 梅沢の立場にあった茶屋本陣・松屋跡

 

いよいよ小田原市に入りました。道の左側に青い海が見えてきました。

 

 

 東海道から大山へ向かう大山道がありました。

 今迄にも、いくつかの大山へ向かう分岐道に出会ってきましたが、

 本当に、大山詣が、江戸時代の人々の間では盛んだったのだなと感じられます。

 
                           大山道への分かれ道

 

 

                                                                                                                            

 今回は、ここまでです。

 お天気もよく、早咲きの桜?の花や青い海、緑の山々を見ながら、のんびりと歩く事が出来ました。

 湘南地方の風は心地よかったです。

 

  


東海道あるき旅⑧(茅ヶ崎~大磯)

2015-03-09 | 東海道あるき旅

 茅ヶ崎は、思っていたよりも大きくて立派な街でした.

キョロキョロと周りを見回しながら、初めての街をワクワクしながら歩きました。

 

 街の中心街を少し過ぎたあたりに鶴嶺八幡宮の参道があり、その脇にある民家の庭の片隅に、弁慶塚がありました。 

頼朝の乗った馬が源氏ゆかりの鶴嶺八幡宮に差しかかった時、義経・行家ら一族の亡霊があらわれ、

それに驚いた馬が棒立ちとなり、頼朝は落馬してしまったそうです。  頼朝は重傷を負い翌年亡くなったと言われています。

そこで、里人は弁慶塚を造って、義経一族の霊を慰めたと伝えられています。

 

 

  南湖左富士(なんこひだりふじ)の碑

   

  江戸を出てから旅人は富士山を右手に見ながら旅を続けてきましたが、ここで初めて富士山を左手に見ることになります。

 そのわけは、西に向かっていた東海道の道筋がここから右に曲がり、道が北に向って進むわずかな距離があるからです。

 その間だけ、富士山が左側に見えるのです。

 上の石碑の写真で、お天気が良ければ車の向こう側に雪の富士山が見えるはずでした。

 残念ながら曇っていたので見ることが出来ませんでした。

 

☆  でかまん

  東海道名物の「でかまんじゅう」です。

 大きさは6種類あり、一番大きいのは縦32cm×横22cmもありました。

 見かけより美味しく、餡の甘さも上品でとても美味しかったです。機会があればまた是非とも食べたいです。

 

 

☆  旧相模川橋脚

 
関東大震災の時に、液状化現象により水田の中から鎌倉時代の橋脚が出現しました。
鎌倉時代の相模川は、今より少し東寄りのこのあたりを流れていたようです。
現在目にするのはレプリカで、実物は保存のため地下の元あった位置に埋設されているそうです。

 

いよいよ、平塚市にはいります。

 

☆  馬入川(ばにゅうがわ)と馬入(ばにゅう)の渡し

   相模川の河口近くを馬入川と呼びます。頼朝の馬が暴れて川に入ったからその名が付いたと言われているようです。

  江戸時代には現在の場所を流れていて、橋は架けられていなくて舟渡しでした。

  渡船時間は明け六つから暮れ六つまでで、夜間の渡河は禁じられていたそうです。

  増水や強風時は「川留」といい、渡船は禁止となりました。

  明治19年に橋が架けられ渡船は廃止となったそうです。

 

 
海へと連なる河口付近                                 対岸には平塚市が見えます。    

 

☆  馬入一里塚跡


日本橋から15里目の一里塚       

 

 
                                      平塚市内   

 

 

☆  お菊塚

      怪談「番町皿屋敷」に登場するお菊の墓跡である紅谷町公園に、お菊塚がありました。

  お菊は、平塚宿の役人の娘だったのだそうです。

 

 

 

☆  平塚江戸方見附跡

 

 

 

通りの向こうに小高い山が見えてきました。”高麗山です。

歌川広重の「東海道五十三次 平塚」に描かれている山です。昔は、高い建物などはないので、よく見えたのですね~

 

 

☆  平塚脇本陣跡

 

 

 

☆  平塚高札場跡

 

 

 

☆  平塚本陣跡・問屋場跡

 
  本陣跡                                          問屋場跡

 

☆   平塚の碑

    天安元年(857年)坂東平氏の始祖といわれた平政子が、一族とともに東国へ向かう途中ここで没したため、

  平らな塚を築き葬ったそうです。この塚を「ひら塚」(もとは「たいらつか」と呼んだ)といい、平塚の地名の起こりとなったそうです。

 

 
                                お花がとても綺麗でした。

 

☆   平塚京方見附跡

 
                                  京方見附あたりからの高麗山

 

 平塚京方見附を過ぎ、 大磯町に入ります。

  
                                   高麗山と花水川(金目川) 

 
                                             長閑な雰囲気がして癒されます。

 

☆   高来(たかく)神社

   高麗山の麓にある神社。

  この辺りは「高麗」や「高来」と呼ばれるが、国を追われた高句麗の王族や従者の一部が渡来しこの辺りに住んだことから、

  そう呼ばれるようになったそうです。

 

 

  

 

☆   化粧坂(けわいざか)と虎御前化粧井戸 

   鎌倉時代に大磯には宿場があり、宿の中心はこの化粧坂あたりで、多くの白拍子(遊女)が住んでいたそうです。

  曽我兄弟の兄・十郎祐成(すけなり)の恋人であった白拍子・虎御前が井戸の水を汲み化粧をしたという伝説(化粧井戸)があります。  

 

 
  化粧坂の一里塚跡・・・日本橋より16里目                   「 東海道53次 大磯 」

 
 大磯宿江戸方見附跡                              この辺りに一部松並木が残っていました。

 

 

 次回は日本橋から八番目の大磯宿を歩く予定です。

明治の別荘地としても有名な大磯なので、とても楽しみです。