26号線の風に吹かれて

50歳半ば好奇心旺盛なオヤジの独り言・・・

☆53歳になったら・・・・・・

2012-08-15 11:55:10 | インポート

                                                                                                                                                                                                                                                                          あと2日で53歳になる。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    

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この年になると、53だったか54
だったかも
忘れてしまうくらい、誕生日には関心が無いが
以前、今年で52歳かぁ・・・・・と本気で思っていて
じつは51歳だった時は、素直に嬉しかった・・・・(笑)
ところで、誕生日に関心はないが、40歳を過ぎてから
誕生日が近付くと、胸の奥に何か引っかかるものを感じるようになった。
それは遠い昔、子供の頃の記憶に起因しているのだが
その記憶の中身すら、事実かどうかが今となっては定かではない。
その記憶とはこんな内容である・・・・・
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小学生の私は、自分の境遇を恨めしく思っていた。
粗暴で母親や自分に手を挙げる父親・・・・
文句を言えず耐えるだけの母親・・・・
そして、母親が着物を質屋に入れて食費を工面するような日々・・・・
ずっとあと・・・・大人になってから思えば
父親が粗暴に見えたのも、色んなものにイラついて家の中で
それを発散していたのも、母親がそれを我慢していた事も
すべて背景が理解でき、納得できる範疇の事なのだが
小学生の自分には、到底 理解できるはずもなく
ただただ、わが境遇を呪っていたような気がする・・・・

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特に、経済的な問題はけっこう切実で
毎日の食事に困るという事はなかったものの
考えてみれば、それは近所のよろずや(個人経営のスーパーのようなもの)が
月締めの「つけ」で肉や魚や野菜などの食材を提供してくれていたからで
給料日後に、その「つけ」を払うと、たちまち母親の財布の中は
空っぽだったんだろうと思う。
住んでいた「ボロ屋」は一応、父親の努める建設会社の社宅とかで
家賃が免除だった為、なんとか月々の生活が成り立っていた。
父親の給料がいくらで、食費にいくら使い、借金返済がいくらあり
月賦(今でいうローン)で買った、テレビや冷蔵庫の支払いがいくらある・・・・
なんて事情も、小学生の自分にはサッパリわからず
友人にボーリングに誘われて、母親にそのお金をねだった時など
「うちにはそんな余裕はないの、わかってるやろ!」と怒鳴られ
友人たちとの約束も果たせず、押し入れにこもって一人泣きじゃくりながら
我が家にはお金がないんや・・・・・と自分自身に言い聞かせていた。
そんなシチュエーションの中で、それは不意に現れた!
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「願いかなえたろか・・・・・?」  えっ?
「貧乏嫌なんやろ?ボーリング行きたいんやろ?願いかなえたろか?」
・・・・・・・・・・
「その代わり お前の寿命をわけてもらうで・・・・」
それが、どんな姿をしていて どこで どんな風に話しかけられてるのかが
ハッキリとしない・・・・・今となっては覚えてないのはもちろんだが
そもそも、遭遇した時点で、実態があるものかどうかだったのかさえ怪しい・・・・
それでも、小学生の僕にとっては願ったり叶ったりの提案だったわけで
「ホンマにかなえてくれるんやったら・・・・寿命あげるで」と即答していた・・・・と思う。
「何歳まで生きたい?」
10歳そこそこの子供が、そんな質問においそれと返答できるものではない。
それを見透かしてるように、それはこう言った。
「50そこそこでええやろ?」
当時、10歳になるまでの10年間・・・・本当に長く生きてきたように感じていた僕はほくそ笑んだ!
それは「ジャネーの法則」により、残りの人生を多く残している者が感じる時間の長さと
有る程度限定されている者(いわゆるオトナ)が感じる時間の長さは反比例している・・・と
今となっては分かっている事だけれど、小学生の自分にとっては
この退屈で苦痛まみれの永い永い時間の繰り返しが、あと40年も有れば充分過ぎると思ったから。
「それで ええよ」 と答えるのに、考える時間など必要なかった。
「よっしゃ、契約成立やな・・・・・ 50過ぎたら迎えに来るで・・・・・・」
そう言い残して、それは姿を消した!・・・・・・ように思えた。
その後、中学生になり我が家の経済状況が、劇的に良くなったわけではなかった。
それでも、両親は子供3人をキチンと育て上げてくれ
私は私立高校~私立大学へと進ませてもらった。
色々とやりくりで大変だったと思うし、今でも本当に感謝しているが
少しだけ・・・・・俺があの契約したからな・・・・・と言う思いが脳裏をよぎる事もあった。
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やがて 父親もすっかり角が取れて丸くなり、いいオヤジになっていったが
最後の最後にう闇金に数百万の借金を残して亡くなり、その肩代わりを残った家族に押し付けた。
そういう難関も何とかクリアし、自分自身も妻や子供を持つ身になって
何かの拍子に、ふっと そう言えばあの契約って有効だっけ?と思いだしたりはしたが
いやいや・・・・まさかなぁ・・・とそれを記憶の片隅に無理やり追いやって忘れようとした・・・・・
それでもさすがに、50歳の誕生日を迎えた時には真面目に考え、真剣に遺書を書くべきか!とも思った。
けれども、50歳を過ぎても自身に何の変化も起きなかった・・・・・
51歳の時は、のど元過ぎれば・・・・・でその事をあまり深く考えずにやり過ごした。
52歳の去年は、少し考えたが急がしさにかまけてやっぱりやり過ごした・・・・
そして、私はもうすぐ53歳になろうとしている。
「50過ぎたらむかえにくるで」が50歳から何歳までを指すのかを考えた時
54.55歳なら50半ば・・・・・と言えるだろうし、そうなると53歳がリミットか!?
さすがに体力の衰えを感じてきて、今年の梅雨明けからは
体を鍛える事に注力してきたが、それも無駄になるのだろうか・・・・
でも、今なら生命保険がけっこうな金額降りて、家族は喜ぶかもなぁ・・・・
いや、まてよ・・・・・そもそもそんな契約なんて存在したのだろうか?
押し入れの中で悔しさと悲しさで泣きつかれた小学生が、そのまま眠ってしまい
悪い夢を見ただけなのではなかったか・・・・・?
こういうのはどうだろう?
小学生は想像の中で「それ」を作り出し
「それ」と契約はしたが、そもそも「それ」は自分自身であり
彼は自分自身と将来の契約を締結した、。
それが一番理にかなっているような気がする。
もしかしたら・・・・・この数十年間
自分で自分を励ましながら、駆け抜けてきた・・・・・
と言うのはカッコよすぎるだろうか(笑)
最後にわがままをひとつ言うとしたら・・・
もし、自分が死んだあとに 息子が辛い思いや悲しい思いをしていたら
彼に絶対こう言って声をかけてやりたい・・・・
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「願いかなえたろか?」