goo blog サービス終了のお知らせ 

古今東西のアートのお話をしよう

日本美術・西洋美術・映画・文学などについて書いています。

晩春 小津安二郎

2023-12-29 22:07:00 | 映画(レビュー感想)

今年の12月は、映画監督小津安二郎(1903〜1963)の生誕120年没後60年にあたる。

生誕120年にちなんで、映画館、テレビで数々の特集が組まれています。

私も、テレビ、DVDで作品を見直し、蓮實重彦の『監督小津安二郎』を読み、反芻しながら愉しみました。

見直した中で、『晩春』と『東京暮色』がとても気になりました。
映画の面白さは『東京物語』『浮草』だと思いますが、原節子を双極的に映す、『晩春』『東京暮色』に小津安二郎の”説話論的な構造“の原石が露出しているような気がしたからです。

蓮實重彦の「監督 小津安二郎」は、『序章 遊戯の規則
小津的なもの

誰もが小津を知っている。ある種の振舞い、ある種の言葉遣い、ある種の視線に接して、 人は思わず小津的だとつぶやく。』で始まる。

一般的に小津監督を賛美するパターンは、『小津監督が女性を美しく撮れるのは、そこに自分の願望や美意識はあっても、欲望の下心はなかったからだ。…』というものがあります。これは、小津的な『安心を無言で共有しうる風土』の一つの前提となっている性的欲望の隠蔽でしょう。

「晩春」昭和24年(1949)は、小津後期の傑作、「紀子三部作(晩春、麦秋、東京物語)」の最初の作品で、
戦前から『永遠の処女』といわれトップ女優だった原節子(1920〜2015)が出演した最初の小津作品です。小津監督は45歳、原節子28歳でした。

あるインタビューで、写真家の荒木経惟は『”晩春“の原節子はエロスの塊』といい、当時助監督を務めた今村昌平は『小津監督は原節子を相当気に入っていた(恋愛感情をもっていた)』と答えています。二人の発言を聞くまでもなく、「晩春」の映像には、性的な視線が露出してをり、『欲望の下心』がダダ漏れである。

「晩春」は、妻に先だたれた初老の大学教授の父、笠智衆と叔母の杉村春子が一人娘で27歳の原節子をなんとか嫁がせようとする物語。
鎌倉円覚寺の茶会に、原節子(紀子)が待合の部屋に入ってくるシーンから始まる。
例によってローアングルに固定されたカメラで、先客に挨拶する原節子の足に乗った存在感のある尻が正確に画面の中心に映し出される。なぜ、あまたの批評家がそれを指摘しないのか不思議である。
次に入ってくる三宅邦子(叔母の知人)は斜めに座り尻を見せず挨拶している。
小津監督は生涯独身だったが、小田原の芸者で森江という愛人がいた。森江は大柄な女性で、小津監督は大柄な女性が好みだったようだ。原節子は、身長165cmで、足のサイズも24.5cmともいわれた大柄で目鼻立がハッキリした美人です。
叔母の杉村春子と原節子

父の助手と七里ヶ浜をサイクリングする原節子の美しいシーン
ちょうちん袖のニット、風になびく髪、バストショットが続く

叔母から見合いの話を聞いた紀子は、父のために結婚を渋るが、叔母から三宅邦子と父の再婚ばなしを聞く

数日後、笠智衆と原節子が『能』杜若を鑑賞していると、

円覚寺の茶会で会った三宅邦子が向かいの席にいる事をみとめ会釈するが…

嫌悪感をあらわに、三宅邦子を睨みつける
この表情は、嫉妬の焔が燃え上がりかなり怖い
帰り道、父に怒りを表し、父と分かれる
出戻りの友人、月丘夢路に相談すると、逆に結婚を勧められる原節子

家に戻った原節子は笠智衆に再婚の意志を問い詰め、笠智衆が頷く

三宅邦子と父の再婚を前提に、ついに原節子は見合いに合意する

父と娘は結婚前の記念に京都に旅行する
京都では父の友人、三島雅夫と娘と後妻が二人を案内した
原節子は三島雅夫に『(後妻なんて)不潔だわ』と言った過去がある
 
原節子は三島の後妻の上品な容貌が“きたならしさ”とは無縁だと悟り、父に三島に対する言動を悔いていると、宿に並んで寝ながら話す

父は『気にせんでいいよ』といい、原節子は瞳を潤ませながら話を続けようとするが、父は寝息をたてはじめた
障子の月明かりに、笠智衆の顔、原節子の顔、有名な”壺“のショトが二度映し出される

朝、原節子は『私をこのままそばにおいてください。今が幸せなの。結婚してもこれ以上の幸せはないと思います。』と笠智衆に向かい潤んだ目で懇願する
笠智衆は、『それはいかん』と「紋切型」の不器用な結婚論で原節子を納得させようとする
原節子は、納得する方が『小津的』だと思わせるようにうなずく

前夜のシーンから、評論家は原節子(紀子)の“近親相姦”願望と説明するが、私は小津監督が笠智衆に自身を投影させて、原節子に『愛』を告白させて悦にいっているのではないか、それが結果的にエレクトラコンプレックスの様相を示している

まさに『欲望の下心』だだ漏れ状態の視線が、原節子をエロスの塊(女神)に仕上げた

式の後、笠智衆と月丘夢路が小料理屋で話す
笠智衆は再婚の話は、娘を結婚させるための”嘘“だったと告白する

ラストシーンは、結婚式のあと帰宅し、一人静かに林檎をむく笠智衆、ナイフから林檎の皮が離れて落ちる
(原節子は『私のタクワンはつながっている、包丁が切れないの(父娘の繋がり)』と言っていた)

笠智衆は回想録で『監督から慟哭する演技を求められたが、自分には出来ない』と生涯で一度だけ監督の指示を拒否したと告白している

紋切型で小津的だと思わせる静かな
ラストシーンとは真逆の『慟哭』の演出は何を意味するのだろうか

蓮實重彦は、2016年の「増補決定版」で追加された「終章 快楽と残酷さ」の中で、

おそらく寡黙さと誤解されかねないその表現の簡潔さ故に、人は、小津安二郎における 性的な側面を軽視しすぎてきたように思う。性は、しかし明らかに語られている。「晩春」は「風の中の牝雞』よりも遥かに大胆に性を主題としているといえるかもしれない。』と書いた。


晩年の傑作群の『小津調』『小津的』とは少し毛色が変った、小津のリビドーを感じる傑作である。

「東京暮色」に続く

ランキングに挑戦中
下のボタンを2つ、ポチッ、ポチッと押して頂けると嬉しいです!
 にほんブログ村 美術ブログへ

倉俣史朗のデザイン 世田谷美術館

2023-12-27 00:33:05 | 美術展

『倉俣史朗(1934年~1991年)は、このような一風変わった家具と数多くの特色あるインテリアデザインを手掛けました。 1965年に独立し自身の事務所を構え、同時代の美術家たちとも交流をしつつ、機能性や見た目の形状に主眼を置いた デザインとは異なった考え方をした作品を発表し続けます。1980年代にはイタリアのデザイン運動 「メンフィス」に参加し、 その名は一躍世界中に浸透していきました。倉俣の作品は各国の美術館に収蔵されており、今なお国内外で高い評価を 受けています。』

展覧会チラシより


ハウ・ハイ・ザ・ムーン 1986年
富山県美術館

庭に面する展示室の4作品のみ撮影可能


以下の写真はネットより画像を借用
ミス・ブランチ 1988年 富山県美術館

造花の薔薇を透明アクリル樹脂に閉じ込めた椅子
照明があたると影絵をつくり美しい

ヴィヴィアン・リーとマーロン・ブランド

エリア・カザン監督の「欲望という名の電車」(テネシー・ウィリアムズ

の戯曲)でヴィヴィアン・リーが演じたヒロイン、ブランチ・デュボアから名付けた。

ブランチ・デュボアは、南部の大地主の家系に生まれながら、寡婦(夫は同性愛者)となった後は多くの男と淫蕩な関係を持ち、乏しい暮らしを送る妹夫婦のやっかいになっている。最後には、妹の夫(マーロン・ブランド)にレイプされ狂ってしまう。



きやしゃな紫の脚に支えられた椅子、ガラスの中に閉じ込められた薔薇はいつまでもみずみずしく、妖精が座るのにふさわしい。

しかし、薔薇はアクリル樹脂に固められたプラスチックの造花で、ミス・ブランチが腰掛けたなら、背も脚も脇も、たちまち崩壊するだろう。


そんな危うさを持ちながら、薔薇がつくるリズムは軽やかで、可憐な音色を響かせる…


展覧会チラシ


併設のレストランへ
庭がよく見える

ランチセットとビール、ワインを注文

前菜
このあと野菜のスープがあり

スズキのグリル
このあとコーヒーを注文

お料理まずまず…
ワインとコーヒーは◎


甍道を通ったら
お地蔵さんの代わりに“ミス・ブランチニコニコ



ランキングに挑戦中
下のボタンを2つ、ポチッ、ポチッと押して頂けると嬉しいです!

 にほんブログ村 美術ブログへ



東京小石川 散策

2023-12-19 10:59:14 | 日記風&ささやかな思索・批評カテゴリー
現在の文京区、本郷、小石川周辺は江戸時代には大名屋敷、武家屋敷と寺社が多くあり、街道、門前には商業が発展していた。
そんな江戸の庭園を逍遥してみた。
●小石川植物園
小石川の館林藩下屋敷で育った藩主松平徳松が5代将軍、徳川綱吉(1646〜1709)となり、1684年に小石川御殿内の北側に幕府の「小石川御薬園」を設けた。明治になり東京帝国大学の附属植物園となる。
ジャングルに銀杏!?

精子発見のソテツ

本館 内田祥三設計 1939年
内田祥三(1885〜1972)は建築家で東京帝国大学総長。東大安田講堂などを設計。

日本庭園に下りる
館林藩下屋敷(白山御殿)庭園跡
国指定名勝

旧東京医学校本館(重要文化財)
東大構内にあった建物を移築再建

庭園端から旧東京医学校本館を眺める

メタセコイヤ林

植物園を出る🚶
茗荷谷から後楽園へ

●小石川後楽園
水戸徳川家の江戸屋敷の中に造営された庭園で、二代(1628〜1701)の代に完成
国指定特別名勝、特別史跡

後楽園とは、漢詩「先天下之憂而憂 後天下之楽而楽」から、忠臣の国を思う情を表す。即ち「天下の憂いに先立ち憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」水戸藩の徳川家に対する忠義を表している。
中国風内庭

初代水戸藩主徳川頼房は、京都、近江、駿河の景勝地を模した日本庭園に、二代徳川光圀が明から亡命していた儒学者「朱舜水」の意見を取り入れ、「西湖の堤」「円月橋」など中国風物を加えた。

嵐山の風景を模す

通天橋より嵐山を眺める
円月橋

小廬山の曲線が美しい

後楽園から駒込へ
●六義園
5代将軍徳川綱吉(1646〜1709)の側用人で譜代大名の柳沢吉保(1658〜1714)が江戸屋敷として自ら設計・指揮して造営した。
紀州の景勝地「和歌浦」をモデルとした回遊式築山泉水庭園。

妹山・背山
中の島の築山 中央の立石が陽石で左が妹山、右が背山 古代、女性を妹、男性を背と呼んだ 男女の間柄を表す
蓬莱島
明治期六義園を一時所有していた岩崎家により設置された
つつじの紅葉

右に陰石(陰陽石) 左に陽石とも見える

六義園には子孫繁栄を意味する男女交合の象徴が見られる

つつじ茶屋付近の紅葉は、先日訪ねた京都東福寺のそれより美しかった

山陰橋

渡月橋

小石川植物園は、近世の大名庭園、小石川御薬園、小石川療養所、明治の東京大学付属植物園と江戸から明治の歴史に残るユニークな場所で、黄葉した銀杏の巨木が印象深い。
小石川後楽園と六義園は、東京に3ヶ所(あと一つは、浜離宮庭園)ある特別名勝の大名庭園の二つである。
今回は特に、六義園の紅葉に心引かれた。

ランキングに挑戦中
下のボタンを2つ、ポチッ、ポチッと押して頂けると嬉しいです!

 にほんブログ村 美術ブログへ



鎌倉 二階堂

2023-12-15 06:54:33 | 日記風&ささやかな思索・批評カテゴリー

瑞泉寺庭園は小さいながら、
夢窓疎石の
立体的構成力、想像力が創り出す、
気宇壮大な大庭園である。



瑞泉寺庭園から2つの橋をわたり、庭園の山頂に※偏界一覧亭が建つ

偏界一覧亭は、夢窓疎石が1328年に庭園の山上(錦屏山)に建立した。
一覧亭から、富士を正面に裾野に相模湾を望む絶景が拡がる。
ここに、鎌倉五山の僧が集まり詞会が開かれ、五山文学の拠点となった。




夢窓疎石坐像 南北朝時代 重要文化財 瑞泉寺蔵


前もまた重なる山の庵にて梢に続く庭の白雲

疎石が偏界一覧亭で詠んだものと伝えられている。気宇壮大な借景庭園である。

※偏界一覧亭の偏は彳である

江戸時代、荒れ果てた「偏界一覧亭」をみた水戸光圀が、堂と東屋を建て、そこで ※『新編鎌倉志』を編纂させたといわれている。

※『新編鎌倉志』は、江戸時代の地誌。貞享2年(1685)に刊行。水戸光圀が命じて編纂した鎌倉の地誌で、光圀自身が鎌倉を旅行した際の見聞記を基に作製された。全8巻12冊。


非公開の偏界一覧亭ですが、
一般社団法人 鎌倉同人会
https://www.kamakura-doujin.com/12kaikouza.html 』
さんのホームページから貴重な「瑞泉寺一覧亭と富士」の記事をご紹介させていただきます。


夢窓疎石は、方丈書院の岩庭を下段の庭とし、錦屏山山頂に至る18曲がりの山路を上段の庭として石組を含めて作庭したと思う。偏界一覧亭に至る上段の庭が観られないのは甚だ残念である。
(西芳寺の上段の庭も現在は非公開)




鎌倉同人会の皆様が偏界一覧亭を目指し岩壁を上る




頂上に建つ、偏界一覧亭は昭和に再建された




偏界一覧亭から望む富士

前もまた重なる山の庵にて梢に続く庭の白雲』夢窓疎石



天女洞の右の岩の割目は、人工的な滝で山の上の天水を貯めた池から、要に応じて水を流す



水が流れ滝が出現する

写真は、一般社団法人 鎌倉同人会さんのホームページから


【参考】

夢窓疎石が中興開山し、作庭した西芳寺(苔寺)庭園は、世界最高峰の庭の一つとされる


(ネット画像借用)
西芳寺 上段の庭 枯滝石組
最古の枯山水石組とされる



上下二段の庭園は、瑞泉寺が
元になっている。

そう思うと、是が非でも、
非公開の十八曲がりの路を歩き、
偏界一覧亭から富士を
眺めてみたい。


瑞泉寺庭園は小さいながら、
夢窓疎石が作庭した、
気宇壮大な大庭園である。



ランキングに挑戦中
下のボタンを2つ、ポチッ、ポチッと押して頂けると嬉しいです!

 にほんブログ村 美術ブログへ



東京小石川 散歩

2023-12-14 23:36:02 | 日記風&ささやかな思索・批評カテゴリー
現在の文京区、本郷、小石川周辺は江戸時代には大名屋敷、武家屋敷と寺社が多くあり、街道、門前には商業が発展していた。
そんな江戸の庭園を逍遥してみた。
●小石川植物園
小石川の館林藩下屋敷で育った藩主松平徳松が5代将軍、徳川綱吉(1646〜1709)となり、1684年に小石川御殿内の北側に幕府の「小石川御薬園」を設けた。明治になり東京帝国大学の附属植物園となる。


精子発見のソテツと銀杏

本館 内田祥三設計 1939年
内田祥三(1885〜1972)は建築家で東京帝国大学総長。東大安田講堂などを設計。


日本庭園に下りる

館林藩下屋敷(白山御殿)庭園跡
国指定名勝

旧東京医学校本館(重要文化財)
東大構内にあった建物を移築再建

庭園端から旧東京医学校本館を眺める

公開温室では…
(ネット画像借用)
温室では世界最大の花といわれる※”ショクダイオオコンニャク“小石川植物園では13年ぶりの開花とのことで話題に!!
※ショクダイオオコンニャクはインドネシア西部にあるスマトラ島原産のサトイモ科の植物。花などが集まってできた「花序」と呼ばれる部分が、高さ3メートルを超えるものもあり、最も大きな花の1つと言われている。単独の花では”ラフレシア”が最大。虫をよぶため、どちらも強烈な異臭を放つ。

本館入口のポスター
12月17日まで、付属の柴田記念館で「牧野富太郎と小石川植物園」展もやってます!

植物園を出る🚶

茗荷谷から後楽園へ
●小石川後楽園
水戸徳川家の江戸屋敷の中に造営された庭園で、二代徳川光圀(1628〜1701)の時代に完成した。国指定特別名勝、特別史跡

後楽園とは、漢詩「先天下之憂而憂 後天下之楽而楽」から、忠臣の国を思う情を表す。即ち「天下の憂いに先立ち憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」水戸藩の徳川家に対する忠義を表している。

中国風内庭

初代水戸藩主徳川頼房は、京都、近江、駿河の景勝地を模した日本庭園に、二代徳川光圀が明から亡命していた儒学者「朱舜水」の意見を取り入れ、「西湖の堤」「円月橋」など中国風物を加えた。

(ネット画像借用)
大泉水 蓬莱島 徳大寺石

大泉水周辺

嵐山の風景を模す

通天橋より嵐山を眺める

後楽園から駒込へ

●六義園
5代将軍徳川綱吉(1646〜1709)の側用人で譜代大名の柳沢吉保(1658〜1714)が江戸屋敷として自ら設計・指揮して造営した。
紀州の景勝地「和歌浦」をモデルとした回遊式築山泉水庭園。

妹山・背山
中の島の築山 中央の立石が陽石で左が妹山、右が背山 古代、女性を妹、男性を背と呼んだ 男女の間柄を表す
蓬莱島
明治期六義園を一時所有していた岩崎家により設置された


滝見茶屋

つつじ茶屋付近の紅葉

山陰橋

渡月橋

小石川植物園は、近世の大名庭園、小石川御薬園、小石川療養所、明治の東京大学付属植物園と江戸から明治の歴史に残るユニークな場所で、黄葉した銀杏の巨木が印象深い。
小石川後楽園と六義園は、東京に3ヶ所(あと一つは、浜離宮庭園)ある特別名勝の大名庭園の二つである。今回は特に、六義園の紅葉に心引かれた。

ランキングに挑戦中
下のボタンを2つ、ポチッ、ポチッと押して頂けると嬉しいです!
 にほんブログ村 美術ブログへ