◆◆◆自然災害クルマエニ◆地震予知巡回中◆◆◆

逃げられない自然災害。知識と備えが命を助ける。小さな幸せ守る為、備えあれば憂い無し!!

◆稲村の火~その後~◆

2006年03月28日 10時06分51秒 | Weblog
今日の東京地方は、曇り

昨日は日向灘で震度5弱を記録する地震がありましたが
お近くのみなさん大丈夫でしたか?
さらに気を引き締めて、いきましょうね

本題に行く前に『お知らせ』です♪

原発運転停止を求める署名を募集しています。
用紙はこちらをダウンロードしてください。
(PDFファイルです)
記載事項を書き込みましたら、そのままFAXしてくださいね
期限が書いてありますが、間に合いますので大丈夫ですとのこと。
安全な食べ物を確保するため、子供たちの未来のため
一人でも多くの署名を待っていますね

でなでな、『稲村の火~その後~』いってみましょう

「稲むらの火」は、昭和12年から昭和22年までの国定教科書・尋常小学校5年生用
「小学国語読本巻十」と「初等科国語六」に掲載されていたものでした。

稲むらの火

「これはただ事ではない」とつぶやきながら、五兵衛は家から出てきた。
今の地震は、別に烈しいというほどのものではなかった。
しかし、長いゆったりとしたゆれ方と、うなるような地鳴りとは、老いた五兵衛に、今まで経験したことのない不気味なものであった。

五兵衛は、自分の家の庭から、心配げに下の村を見下ろした。
村では豊年を祝う宵祭りの支度に心を取られて、さっきの地震には一向に気が付かないもののようである。

村から海へ移した五兵衛の目は、たちまちそこに吸いつけられてしまった。
風とは反対に波が沖へ沖へと動いて、みるみる海岸には、広い砂原や黒い岩底が現れてきた。
「大変だ。津波がやってくるに違いない」と、五兵衛は思った。
このままにしておいたら、四百の命が、村もろとも一のみにやられてしまう。
もう一刻も猶予はできない。
「よし」と叫んで、家に駆け込んだ五兵衛は、大きな松明を持って飛び出してきた。
そこには取り入れるばかりになっているたくさんの稲束が積んであった。
「もったいないが、これで村中の命が救えるのだ」と、五兵衛は、いきなりその稲むらのひとつに火を移した。
風にあおられて、火の手がぱっと上がった。一つ又一つ、五兵衛は夢中で走った。
こうして、自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまうと、松明を捨てた。
まるで失神したように、彼はそこに突っ立ったまま、沖の方を眺めていた。
日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなってきた。
稲むらの火は天をこがした。

山寺では、この火を見て早鐘をつき出した。
「火事だ。庄屋さんの家だ」と、村の若い者は、急いで山手へ駆け出した。
続いて、老人も、女も、子供も、若者の後を追うように駆け出した。

高台から見下ろしている五兵衛の目には、それが蟻の歩みのように、もどかしく思われた。
やっと二十人程の若者が、かけ上がってきた。
彼等は、すぐ火を消しにかかろうとする。五兵衛は大声で言った。
「うっちゃっておけ。ーー大変だ。村中の人に来てもらうんだ」

村中の人は、おいおい集まってきた。
五兵衛は、後から後から上がってくる老幼男女を一人一人数えた。
集まってきた人々は、もえている稲むらと五兵衛の顔とを、代わる代わる見比べた。その時、五兵衛は力いっぱいの声で叫んだ。
「見ろ。やってきたぞ」
たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指差す方向を一同は見た。
遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。その線は見る見る太くなった。
広くなった。非常な速さで押し寄せてきた。
「津波だ」と、誰かが叫んだ。
海水が、絶壁のように目の前に迫ったかと思うと、山がのしかかって来たような重さと、
百雷の一時に落ちたようなとどろきとをもって、陸にぶつかった。
人々は、我を忘れて後ろへ飛びのいた。
雲のように山手へ突進してきた水煙の外は何物も見えなかった。
人々は、自分などの村の上を荒れ狂って通る白い恐ろしい海を見た。
二度三度、村の上を海は進み又退いた。高台では、しばらく何の話し声もなかった。
一同は波にえぐりとられてあとかたもなくなった村を、ただあきれて見下ろしていた。
稲むらの火は、風にあおられて又もえ上がり、夕やみに包まれたあたりを明るくした。

はじめて我にかえった村人は、この火によって救われたのだと気がつくと、
無言のまま五兵衛の前にひざまづいてしまった。

『簡略的解釈』
いまから150年前の安政地震の際、濱口梧陵(はまぐち ごりょう)は昔から伝わる津波の前兆を異常と思い、
自ら家を廻り村人たちを高台にある神社へ非難させる。
しかし、夕刻を過ぎて一部の村人は、闇に包まれ路頭に迷っていたところ、濱口梧陵が山積された稲に火を燈し
残された村人を「稲村の火」によって誘導し、津波から村人を救ったというお話です。


--------------------------------------------------------------------------

【稲村の火】
1854年(安政元年)12月23日、安政の東海地震(M8.4)が発生。
その32時間後に襲った安政の南海地震(M8.4)のときの物語であります。
場所は紀州有田郡湯浅廣村(現在の和歌山県有田郡広川町)

主人公の五兵衛(濱口梧陵、濱口儀兵衛)はなんと現ヤマサ醤油の七代目当主でありました。

ヤマサの歴史でもしっかり紹介されております。

五兵衛さん素晴らしいところは、この津波が来る事を予測しただけでは有りませんでした。

被災後の『村の復興』に全力そして全財産をあてたのです。

【稲村の火~その後】

村人は、命は救えたものの、村は壊滅状態。食料も底を突きやがて、人々は村からはなれる事に。
しかし、濱口梧陵は醤油を営む商人で財力はあった。
貧窮に喘ぐ村人たちに無償で仮説住宅を提供したり、農作業の道具をあたえた。
当時の紀州藩に援助を求めたが、断られる。
そこで、梧陵は【堤防を作る】ことを思いつく。
仕事の無い村人たちに賃金を支払い、防波堤を作る。
村人による村人の為の復興支援の始まりです。
賃金はもちろん濱口梧陵が支払っています。
しかし、醤油工場が安政江戸地震により閉鎖。
防波堤を作るお金が無くなる。思い悩んだが、のこされた醤油工場で頑張る濱口梧陵。

やがて、4年の歳月をかけ念願の堤防が完成!
その後、昭和南海地震の津波から堤防のおかげで被害が少なかった。

これがその堤防、梧陵堤です。
今は地元の子供たちが堤防の手入れをしているそうです。
毎年11月に儀兵衛の偉業を称え、防災の誓いを新たにする「津浪祭」も行なわれています。



濱口梧陵が震災の教訓として残した言葉

万が一の時になって、思いをめぐらすのではなく、

常日頃から非常の事態に備え、

一生懸命にわが身を生かす心構えを養うべきである


まさに、との通りだと思います。
これ以上のコメントはなくても理解できると思いますが、

NHKさんまた再放送やってくれると良いなぁ~

****************************************************************************************