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"跡" を 辿って。

松森城 跡 | 国分氏・伊達氏庶流 の 居城

2016-01-20 13:00:00 | 城館跡等

宮城県仙台市泉区松森字内町、他


別名          鶴ヶ城、乙森城
築城・廃城年代     1530年代~1590年(1611年)
主な城主        国分氏(~末代 : 盛重)、伊達宗清


近隣河川        七北田川(七北田川水系)
最寄街道        岩切街道


構成          本丸、二ノ丸
主な遺構        曲輪、虎口、空堀、堀切、土塁、(掘立柱建物跡4棟)
井戸跡         発掘調査箇所で 1基





七北田川流域では 最も完成度の高い 同城。 現在も残る公園へ誘導する道が往時からの 登城路 と考えられるがここより右手側の尾根に 東曲輪群、左手側に 西曲輪群 が 連なる。 東曲輪群 の最高部で最も広い平場が 主郭 、西曲輪群 の最高部が 二ノ丸。主郭 の南西角には ニ折一空間 の 外枡形 から発展した見事な 大手虎口 がある。


東曲輪群 も 西曲輪群 も それぞれ南西・南東方向に幾重にも連なる曲輪を携え、所謂 " 鶴翼の陣 " 形 を成している。それが別名『 鶴ヶ城 』と言われた所以だろう。南の登城路から侵入しようとする敵は西・北・東の3方を囲まれ、壊滅的な攻撃を受ける、鉄壁の防御システム だ。





また、同城で注目されるのが城の南に都市的な 城下集落 が存在したこと。『 安永風土記 』には、「 本町・中町・下町 があり、国分時代の町であろう 」かと記している。 市道 泉6115号線( 内町線 )より北側が 内町 地区、市道 泉6023号線( 天神沢台谷地線 )と 内町線 の間が 前沼地区、天神沢台谷地線 以南の一部が 岡本前地区 と 城前地区、往時を彷彿とする地名が残っている。 前沼 は 水堀 の名残、内町 は 本町・中町・下町 で いずれも計画的な屋敷割が施されていた。城前 や 岡本前 などと言う地名も隣接する。ちなみに 岡本前地区は 岡本と言う家臣の屋敷前の意味かと思いきや、江戸時代の絵図のそこには「 佐々善兵衛 」。 岡本何某かの文字が見たいという期待からは外れた。





戦国期の資料から確認することは出来ないが『 仙台領古城書上 』によれば「 此城主 国分彦九郎盛重 小泉村より取移、天正年中迄居住 」、二ノ丸( 乙森城 )は「 国分盛重 家来 高平大学 」が治めたとしており、他様々な文献にも類似の表現が見られる。 国分盛重 は、伊達政宗 の祖父・晴宗 の 5男で 輝宗 の弟、つまり政宗には叔父に当たる。国分氏 には 初め代官として遣わされたが後に継ぐ(1577年)事となった。


城自体は 盛重 入城以前から、陣場 が発展した様な簡易なものが建っていたのだと思う。『 留守家文書 』の「 白石実綱書状 」には、天文の乱(1541・天文11) の 際に、稙宗方 の 国分宗政 が守る 松森城 に、高森城( 岩切城 )で陣を張る 晴宗方 の 留守景宗 が攻め入ったとある。 岩切城 と言えば同城のすぐ東にあり、観応の擾乱・東北版の 岩切合戦(1351・正平6)で落ちた城だが、 国分方はこの時もおそらくここ松森に陣を構えたと推察される。 高森 と 松森 はあまりにも近いゆえに本拠対本拠であることは考えにくい、国分氏 にとって 留守氏 が 高森山(岩切城)を本拠としている間には 松森は、「 留守領内 の 国分ゆかりの地 」ぐらいの認識だったのではないだろうか。 留守氏 が 岩切城 を捨て 利府 へ退くのは、元亀年間(1570~73年)だが、実際にはそれ以前から拠点は他へ移りつつあった、明けて 天正年間(1573~1592)に晴れて 松森城 が 竣工 となったのだろう。城の東端の造りが堅固でない事もそれを示している。


同城の 縄張 は 戦国末 の 伊達領内城の特徴的な構造であるらしい。 先述の、二折一空間を有する虎口及び外枡形に近い虎口受けの曲輪を有する形式 も同様。一部の研究でこれらは 1584年(天正12)以降に造営されたものに適用されていると言われる。




さて、松森城 が竣工してその後、様々を経て 盛重から 国分氏 の 名跡は取り上げられ 国分領 は 伊達氏 の 直轄下に置かれた。1590年の 奥州仕置とともに城は廃城となるが 松森 は、元 黒川領 の 境 を掌握する戦略的な拠点として、石母田左衛門景頼 や 粟野大膳宗国 などが 在番衆 や 駐屯・定番 に任じられる。 飯坂氏に入嗣し 下草城 ( 下草古城 )へ 入城する以前の 伊達宗清 が一時居住、いたく平和な江戸時代を迎え、やがて 城跡 は 伊達藩主 の正月行事「 御野初 」( 御野始、狩猟・軍事訓練 )の 陣場 として利用される程度となり、華やかだった 城下町 は 百姓町 へと変貌した。 現松森字本田町(仙台市泉区)辺りに 虎之間番士 の 矢野氏 が 「 在所 」として拝領出来たのは 領内の要所 であった 唯一の名残 なのかもしれない。




※ 市道・泉6023号線( 天神沢台谷地線 )/ローソン仙台松森店( 仙台市泉区市名坂砂押町2-1 )・泉市名坂簡易郵便局( 仙台市泉区市名坂本町13 )が面している道路。
※ 市道・泉6115号線( 内町線 )/市道・泉6023号線以北でほぼ平行した一条の道路、松森城への登城路とも交差する。




登城文献       『 仙台城古城書状 』、『安永風土記 』、『 伊達正統世次考 』他


解説設備        解説看板有り
整備状況        山林、一部公園化されるも放置傾向


発掘調査        2006年、仙台市教育委員会( 松森内町20-2・19-1、地主要請受領による )




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