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"跡" を 辿って。

麓城( 麓館・吉田城 )跡 | 城主不明 ( 黒川氏家臣 : 入生田氏? )の居城

2016-11-05 13:00:04 | 城館跡等


宮城県黒川郡大和町吉田字麓71


別名       麓館、吉田城
築城・廃城年   不明〜1590年?
主な城主     不明、入生田右京之允?( 主君 : 黒川氏? )


近隣河川      吉田川 
最寄街道     宮床〜難波〜吉田〜吉岡
 
立地       集落の奥、街道の分岐点とも

 
構成       一の丸、二の丸、空堀  
主な遺構     不明
井戸跡      なし




あまりにも、石神山精神社 が有名なので、その上にあったという この城は注目の外という傾向が強い。 石神山精神社 は 奈良時代 もしくはそれ以前からある、宮城県で 一番古い神社 であるらしい。 境内にあるその巨石が真の御神体、参道は社殿でなく磐座(巨石)を向いている。 昔人にとって巨石は、発祥が不思議で神秘的、頑丈ゆえに難攻不落・永遠をイメージさせる神聖なものだったに違いない。

 


坂上田村麻呂 も 聖武天皇の命に従って泣く泣くはるばる来た 東征(792〜804年)の際に、ここを参拝し、今も境内に残る 杉を手植え したそうだ。 この神社の北西・ 悪田 と呼ばれる地域には、「 玉ケ池 」があって、こちらも坂上田村麻呂に纏わる伝説が残っている。 近くに住む娘が毎朝玉ケ池で顔を洗っているのを田村麻呂が見かけ、その美しさに心奪われてしまい妻として娶ったと言うものだ。

 



 



そんな由緒ある地域の 社の上を構えるだなんて、どんな殿様だろう。 東北大学の文学部が所蔵する第一級の歴史資料「 鬼柳文書 」に " 吉田城 " としてその名が初出する。





和賀義綱軍忠状(鬼柳文書)

正平八年(1353年)




和賀常陸権守□□□軍忠事

右今年文和二正月十日、宮城郡小曾沼城□□□治御発向之間、 同十三日、馳参、属惣□□□□□其義手、同十八日、一名坂城追落事畢、同日夜小曾沼城令没落、同十九日、山村城御発向之間、御共仕馳向候処、南部伊予守・浅利尾張守以下凶徒等、令降参畢、同廿日、黒川郡吉田城御共仕之処、中院大納言以下凶徒等、令没落畢、然早下賜御証判、為備末代亀鏡恐々言上如件


文和二年正月 日

一見(花押)






 "
和賀常陸権守義綱(?)軍の忠事

右(上記)の者は今年文和二年(1353年)正月十日、宮城郡 小曾沼城 対治のため、発向の間(出発して目的地に向かい)、同十三日に馳参(到着)した。惣領薩摩守?の手(支配下)に属して、同十八日に 一名坂城 を追落とし事を終えた。同十九日には 山村城 へ発向の間(出発、)(一緒に)向かうところである。 南部伊予の守・浅利尾張の守以下の凶徒等は、降参させられ候。(この者らは我らに従い)同廿日まで(貴殿ら)黒川郡 吉田城(へ、攻めに)共に参るところだ。 (そこに隠れ籠っている)中院大納言以下の凶徒等は没落させられて終わるだろう。 然れば(分かったのなら)早く御証判を下し給わる(行動する決断をする)ように。末代の亀鏡に備えるため(模範となるよう)恐れながらお話申し上げる、この件宜しく。

文和二年正月 日

 

花押( 吉良貞経のものか?)

 

" 








 


戦への寝返りを要請する 証判状(一見状)の文面である。 訳者は 吉良貞経 の依頼を 和賀義綱 に託しこれを 吉田城 へ届けさせたと解する。 書状の主・吉良貞経 は 観応の擾乱東北版・北朝方の先鋒・吉良貞家 の弟だ。 この 吉良貞家が 畠山国氏父子 を 岩切城 に追い詰めたのは 1351年(観応元)、小曽沼城一名坂城、地元の南朝方の本拠地である 山邑城山村城) の壊滅 が 文和2年の1月13〜19日の間であるとこの書状は明らかにしている。吉田城 の皆々も何らかの理由で敵視されており、「 攻撃されたくなければ、我ら南朝方にに味方し後の戦に参戦しろ 」ということなので、1352年(観応2)4月の 多賀城 奪還までの戦闘から、1353年(文和2)宇津峰城 を陥落させて東北の南朝方勢力を駆逐した戦闘までの何れか若しくは全てを意味していることになる。

 



様々を参照すると吉田城は同1353年(文和2)正月20日陥落しているらしい。

 


余談だがこれからわずか1年足らずの 1354年(文和3・正平9)には、吉良兄弟の消息が断たれる。どんな書類にも名前を見つけることが出来ないそうだ。






ところで、麓城( 吉田城 )について調べると年代やキーワードに混乱も見える。


・ 入生田右京之允の居館で、文永2年(1265年)没落
・ 黒川郡三十三古城のひとつ
・ 本丸77間 × 7間、二の丸20間 × 4間
・ 城主、入生田右兵衛佐
黒川氏 九世晴氏月艦斉の臣、入生田駿河
・ 天正の戦い?に敗れ伊達家に属し文禄(1593〜1596)まで居住
・ のちに涌谷伊達家に仕え涌谷に移転、麓城は廃止






1200年より以前からこの城は、城として機能していたと見ていいだろう。 代々の通字は " 右 " 、山頂の面積から言っても然程大規模な城で無い事は確かなようだが。 旧吉田村(黒川郡大和町吉田)から 旧難波村(黒川郡大和町吉田字難波)へ抜ける街道の要衝を押さえていると同時に、この城の東側にある行き止まり集落の 麓地区 を警護しているようにも見える。 何か特別な人々が居住している集落? 現地に行くとある特異な氏名の方々が密集して住んでいるようにも見えなくないなぁ。食肉卸大手スターゼン創業家はここの出身? 先祖は平家の落人? 秋保(仙台市内太白区秋保町)と違ってそんな話は聞いた事がないし、石神山精神社 の歴史から言っても平安時代以前から集落として成立していたと考えられる。 じゃ遡って、蘇我氏 年代(古墳時代〜飛鳥時代初期)に同じく隆盛を誇った 大伴氏 の末裔とか? ( 北東側の旧吉岡村には、大友姓が多く旧宮床村には、浅野姓が多いらしい。。。と思ったら、ここにこんな考察がったので引用したい。



※ 只野信夫氏の「新・みちのく古代史紀行 七つ森は語る」
淳和天皇(大伴親王)と、黒川郡の大伴氏に「なみなみならぬ血筋を感じさせる」



※ 大伴氏と大友氏 - はての鹽竈








難波地区(宮床・吉田)

脱線するが、 先述の 難波 地区だが、本当に不思議な集落なのだ。 山形側に渡る事も出来ないし、山伏が修行するような霊場がある訳でも無い、何でこんな所に人が住んでいるのがと驚くような地域なのだ。

村の一部と景勝地であった 鳳鳴四十八滝 は現在、南川ダム の底に沈んでいるが一方、高地である西側の集落だけは残っている。

耕作地が少なく水も冷たく稲作には全く向かない、畑作だって難しそうだ。村人はどうやって生計を立てられたのだろう?


( どこかのブログにあったそうなのだが、ここら辺には、渡来人が伝授した 鉄を作る民 ( 産鉄族 ) が居着いたという説があるそうだ。 四十八滝 の冷たい水で鉄を冷やす必要があったらしい。 この話を地元民に問いかけると、上記とはまた別の独特の苗字の末裔の方が記念にと、その苗字の刀鍛冶の銘のある、刀や包丁などを記念にと譲り受ける(先祖鋳造の刃物収集保存)活動を行った話を最近聞くことができた。とても興味深い話だった。 この地域は、つまり奈良時代以前から、歴史の大変動が起きたことがきっかけで、都からの移民が行き交っていた可能性がある。 そりゃそうだ。 今のように、こんな大昔は下流に橋などなく、大河は渡れない。 こういうところの山深い上流域に、川を渡る大街道があったにちがいない。 それが、この辺だったのであろうことは周囲にできている城や街道筋跡の並木により、容易に想像できるのである。 )



さて、脱線から少しだけ戻って。



淳和天皇とのゆかり

吉田村側に降りるには南川伝いを下れば直ぐだが、仙台市寄りの旧宮床村(黒川郡大和町宮床)へ降りるには現代ですら魑魅魍魎の出そうな長い山道を時間を掛けて下らなくてはならない。2015年9月11日の関東東北豪雨では土砂崩れがあって通行止めにもなったという不安定な道である。

但しこの宮床村への降り口には、平安時代(823〜858年)の天皇で、宮床村で隠居生活を送ったとの伝説もある 淳和天皇( 754〜840年 )が勅願して創建され、そのも残るとされる 信楽寺廃寺跡(しんぎょうじはいじあと)がある。 こんな ど田舎 に 天皇ゆかりの寺?! 実に不思議で何かの因縁に満ちている。


さらに前段の『 鬼柳文書 』を再度良く見ると、 吉田城 には、中院大納言 が匿われていたと読み取る事が出来る。大納言というのだから南朝方のお偉いさんと一見されるが違うらしい、北朝方の要職者で 1339年 に 24歳で 淳和院別当 の役職に就きその後何らかの理由で南朝方に汲みする事になった 中院通冬( なかのいんみちふゆ、1315〜1363 )なのらしいのだ。観応の擾乱東北版の中心地・宮城郡とは関わりの薄い、黒川郡( 黒川氏は北朝方の頂点・足利氏の親戚 )の、吉田城に戦火が飛んで来た原因は 淳和院繋がり の 彼にあるのでは無いだろうか。 結局 通冬 は吉田城は脱出出来た様だが、北朝政府に戻っても 中院家 の不遇の時代は長く続き、文書が予言した通り没落して行ったらしい。






先の書状を持参した 和賀氏 は、関東から北上市辺りに来て、伊達・最上・南部の勢力拡大について行けず、しかし南部麾下に入る事も出来ず没落してしまったが、麓城 の 城主は何か大切なモノを守りながらその時々の時代に柔軟に対応出来ていたことは伺える。謎はたくさん残るが、糸口はずっと探し続けたいと思わせてくれる、そんな地域の城跡である。




玉ケ池は、広場の向こうの林の中に。





鬼柳文書
鬼柳氏 は、岩手県北上市あたりにに本拠を置いた 和賀氏 の 庶氏 で、本文書は鬼柳氏に伝わる鎌倉〜室町時代の80通程の古文書。



臨済宗 清浄山 禅興寺
1670年(寛文10)、松島・瑞巌寺の和尚へと上り詰めたここ吉田出身の102世大領義猷(だいりょうぎゆう)により再建された。大領和尚は伊達家4代藩主・綱村公に教えを請われた名僧。山門および観音堂は1688年(元禄元)に建立された貴重な遺構であるらしい。





登場文献     「 鬼柳文書 」


解説設備     古いものが若干
整備状況     公園化されているものの放置傾向


発掘調査     不明




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