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"跡" を 辿って。

岩出山城 ・旧有備館 | 伊達氏(・大崎氏家臣 )の居城

2021-10-01 13:00:00 | 城館跡等




宮城県大崎市岩出山町城山・二ノ構・上川原町 


別名      臥牛城、岩手沢城、岩出山要害  
築城・廃城年  1394?~1868年(明治維新) 
主な城主    氏家氏、伊達氏 



近隣河川    江合川 
最寄街道    仙台〜吉岡〜中新田〜岩出山〜鳴子〜山形・最上 

 
構成      本丸・二の丸? 
主な遺構    土塁、空堀、堀切、石垣、虎口、曲輪など 
井戸跡     当然あると思うが不明  




大崎氏家臣・氏家氏が代々守ってきた山城として室町時代に造られ、永く 岩出山伊達家 によって明治維新まで守られて来た。北は断崖南は深い森林、東北に街と田畑が開ける立地である。街は相当大きく、メインストリートの鍵型は大きく入口と出口に2回と半分ぐらいある。昭和の時代はさほど感じなかったのだが、平成・令和になるとその街場・中心街の大きさ・経済の発展状況は(江戸末期あたりでは)仙台の次ぐらいだったのではとも想像できそうなくらいだ。








氏家氏は、大崎氏の源流である斯波氏( 足利氏傍流 )の家人で、越中・富山が発祥とされている。富山から美濃・陸奥(宮城・大崎、一部最上)・下野の3方向に分かれた。陸奥氏家氏がはじめて文書に著れるのは、留守文書による「宮城郡余目郷内」での氏家房十郎や、玉造封内風土記には氏家弾正(最上)の活躍、観蹟聞老志の「この名、旧名を岩手澤と云う。大崎家臣氏家弾正なる者の居館なり」と出現は通常程度であるが、岩出山に氏家氏が初めて入ったのは 1394年(応永年間・1394〜1427年頃だろう。南北朝を統一した3代将軍・足利義満が次代に将軍職を譲渡した)と言われている時分なので相当古いっちゃ古い。氏家直益 初代城主説については 1500年代初頭であろう、改めて整備・竣工したといういわば陸奥氏家氏・中興の祖の意味的な表れと考えた方が良さそうかな。そりゃそうだ、大崎氏が東北に初めて入ったのは中新田、その至近の岩出山だ。一方、大崎氏は中新田に入ってまもなくして玉造・栗原・志田・遠田を支配していき、そうして人々の流れも奥大道の行程も大きく変化した。そりゃ当然、古川方面という、交通と産業の良い方へ移りたくなってきたくなるものだ。










さてここから中新田のサポート・有事に最上へ逃れるための基地でもあった岩出山(岩手沢城)は、激動の時代を迎える。




1534年(天文3)、大崎氏家臣のひとりである新田(新井田)安芸 頼遠 が主君を相手に反乱を起こす。新田は志田郡泉沢の領主で、単独ではなく諸氏を巻き込んで蜂起、氏家氏・古川氏・一迫氏など多くの勢力を味方につけた。困った 大崎義直伊達稙宗 に援軍を願い入れると、黒川氏 が応援に駆け付け、古川城滅亡・氏家氏と高泉氏を降伏させて 1536年(天文5)にこの内乱を鎮めた。その際、岩手沢城( 岩出山 )は反乱軍の最後の拠点となり、新田ら3,000人が籠城して長期戦になったとも言われる。数ヵ月に及んだ反乱は新田が出羽に落ち延びて終幕したらしく、氏家直益は(三丁目城に?)隠居、温情なのか 岩手沢城 は嫡子の 隆継 に引き継がれた。





一方、1542年(天文11)伊達家にて 天文の乱 が起こると、元々の斯波氏系列の大崎氏・黒川氏は、伊達家ととっくに親戚関係となっていたものの、稙宗派についた宮城北部沿岸地域を治める 葛西氏 とともに 大崎氏 は当主の座を奪われてしまった。(黒川氏だけは前後の文脈から首の皮ひとつで難を逃れていた)氏家氏はその後、伊達家への連絡窓口となるべく懐柔されているのである。







そんな中、奥州探題の名誉の光僅かになんとか生き延びているような大崎氏ではあったが、またもやすぐに家中に内乱が生じる。世代は違うが再びの元凶が新田(新井田)氏だというのはちょっと有名だ。大崎義隆の寵愛を巡る 新田刑部 の謀略に関して、氏家吉継(隆継の後継)が伊達家へ救援を申し出たのである。




氏家吉継のフライングのような格好で求めたスタートで大崎家を置き去りにしたような感は否めないが、伊達家は前例もあるのでと家臣の 留守氏・泉田重光らに新井田の反乱鎮圧出兵を命じた。一方、置いてけぼりの 大崎義隆 は 中新田城を拠点として、どういう訳か籠城戦を展開することにしており、何をそんな意固地な、勝ち目があると思ってるのか?という状態。なぜなら中新田を選んだのは、いわばチクった氏家吉継の本拠・岩出山を背にして伊達軍を迎え撃つ格好。それなのに、挟み討ちにならない確証があったのか? もしかして岩出山をあわよくば分捕っちゃおう的な用意すらあったのかという状況のようにも思えて、あるはずのない自信に驚愕してしまうんですよね。





まあ結果は、黒川氏が寝返って大崎氏を勝たせてしまったような不思議な結末となりました。さらに時は下って 1590年(天正18)には 葛西・大崎一揆 が生じ、小田原征伐のあと腐れも重なって、伊達家16代当主となっていた 伊達政宗 が全てを失って岩出山に入ることになるのでありました。





1589年(天正17)蘆名氏の会津へ侵攻し摺上原の戦いに勝利していた 伊達政宗 は、黒川城(会津若松・鶴ヶ城)をGETして喜びに浸るのも束の間、( 惣無事令違反 )奥州仕置(1590年)により、まもなく会津を没収され、葛西・大崎一揆の始末、小田原征伐だのなんのかんのと盛り沢山に理由をつけられ返す言葉もなく本拠の米沢も取り上げられて奈落の底の気分がはたまた怒り心頭云々か、抗うことも出来ずに渋々家臣皆引き連れて 岩手沢城( 岩出山 )へ入らことになったのだった。




どんな行列がどれほどでやって来たのだろうか…。城の南側を流れる川沿い(蛭沢川)の桜並木等は当時あったのか無かったのか。米沢より広く米もたくさん取れて当時今よりも豊かな街だったかもしれない、家臣たちは景色を見て胸膨らませたろうか。一方終始苦虫を噛み潰した表情であったろう政宗は、入城記念の宴席に葛西・大崎一揆で不手際の原因となった近隣を治める武将・長江月艦斎(勝景)や 黒川月舟斎(晴氏)らを招いていたのだが、案の定彼等は顔すら見せず政宗の怒りにさらなる拍車をかけた。




この後政宗は、翌年の1592年(文禄元)ここ岩出山で正月を迎え、3月には朝鮮出兵の一軍として九州へ出軍する。1603年(慶長3)に 仙台・青葉城 が竣工するとすぐさま移転( 四男・宗泰 に譲渡 )、そりゃそうだろうという殆ど不在の12年間、本拠ではあったのだった。





( 【 余談1 】、朝鮮出兵に関しては、政宗が持参した 仙台味噌 が他藩と違って変質せず味も優れているとして、全国的に有名になったのは皆さんご存知ですね。







【 余談2 】、葛西・大崎一揆 の鎮圧に際しては、下草古城事件 に詳しいが、蒲生氏郷 は黒川城( 会津鶴ヶ城 )を貰っている武将、政宗は尚更地団駄を踏む思いだったに違いない。)







伊達宗泰を初代とする 岩出山伊達家 は、14,600石でこの地を明治維新まで治めた。室町〜明治まで城の縄張りは何十回何百回も改められたに違いない、現在の城山公園には様々な遺構表示が残るが、どの時代のものか通しで使われていたものなのかはもちろん定かではない。城山公園自体も、岩出山高校・小学校用地に大規模に使われているのは、明治維新・廃藩置県の風潮が色濃く現れたためだが故の意味を継いで来たものと思う。岩出山伊達家は、明治維新後は他藩と同様に、北海道移民の道を選び、家中は第3陣に分けて北の大地へ渡って行ったようです。









城下を流れる内川、白石城下も彷彿とするような佇まいだ。この川は政宗によって引かれたそうで、藩校跡・旧有備館の池に満々と水を供給している他、堀の役目もさせていたような配置となっている。( 源流が人工池のような地図表示になっているが、それにしては水量が豊富な気がして謎?!ではある )水の街のイメージは、河原に立つ造り酒屋もそれを引き立たせている。( 森民酒造店









旧有備館は、国指定の史跡に指定されている岩出山伊達家の学問所跡というが、昔からいつ来ても懐かしい先祖代々引き継がれた祖父祖母の家のような佇まいがあって、住んでみたいような気にさせられていた。今回年表をマジマジと見てやはりと合点がいった。岩出山伊達家2代( 宗泰後継・宗敏 )の隠居する居所として設けられたのが最初という。(1677年・延宝3)








岩出山城北壁の断崖を正面の借景としているらしい、池と木々とが絶妙なバランスで折り重なり、川から導入されている池の水のせせらぎがなんとも心を和ませる素晴らしい造りだ。(庭の造園は1715年・正徳5) これを現代まで守り伝え、2011年3月11日の東日本大震災の物凄い揺れで倒壊してなお復元させた旧岩出山町・現大崎市に敬意を表したい。( 岩出山伊達家から市に寄贈されたのは、1970年・昭和45、国史跡名勝指定は1933年・昭和8 ) 仙台・青葉城から移って来たという伊達政宗像( 小野田セメント贈・1962年・昭和37 )には、これからもしっかりとこの地・街と田畑まるごとを見守って欲しいものである。


 




登場文献    『 留守文書 』、『 玉造封内風土記 』など


解説設備    遺構表示所々有り
整備状況    公園、学校敷地など


発掘調査    不明








……

鶴巣城 跡 | 黒川氏 の 居城

2021-05-05 13:00:00 | 城館跡等
宮城県黒川郡大和町鶴巣字下草迫
 
 
 
 
別名      鶴楯城・鶴巣館
築城・廃城年  1530年代~1590年( 奥州仕置 )
主な城主    黒川景氏( 黒川氏 6代 )〜 黒川晴氏( 月舟斎、9代 )
 
 
 
 
近隣河川    竹林川( 鳴瀬川水系 吉田川支流 )
最寄街道    奥大道( 多賀城〜岩切〜利府〜鶴巣〜吉岡 )・奥州街道
        西に分岐/根白石、難波・吉田方面
 
 
構成      不明
主な遺構    主郭、他
井戸跡     不明  
 
 
 
 
初代より慣れ親しんだ 御所館 より、発展的移転をしてきたのは、黒川氏6代・景氏 のときだ。 おそらく、街道が時代によって変わってきたためである、と確信的に思うのだ。
 
 
 
 
このあたりの街道は、多賀城開府よりそこを中心に四方八方へ拡がっていたひとつであるが、時代・政府が変わると機能しなくなった役所をすっとばして豊かな街々を結ぶようになる。
 
 
 
 
坂上田村麻呂 時代 は、塩竈利府富谷(大亀山)~(大和町)宮床吉田 ~(大衡村)大瓜柧木(はぬき)~ 楳田 (うるしだ)~ 駒場 ~(大崎市三本木町)伊賀三本木古川(大崎市)という、橋( 川越え )の出来や状態がわかりやすい道筋だった。 それが次第に平安の時代になると、多賀城府~吉岡官衙とほぼまっすぐに整備された。そりゃ、物流しやすもんね。御所館 時代はそれで良かったが、時代を経るごとに多賀城は経由せずともよくなり、より平野部の村を結ぶようになっていくのは必然であったろう。根白石 ~ 野村 ~ 宮床 を結ぶ街道に近いここ 鶴巣城 へと移転する方が便宜上よくなったのではなかと思われる。
 
 
 
 
実は、平安時代から鶴巣城のすぐ下・北部平野に、下草古城 はあった。 おそらく城と一体化した街として。 豊かできらびやかな街であったろうそこは、黒川氏の来る以前から栄えていたものと推測される。 地域の富の象徴である街を眼下に眺める場所に居を移したたのは、御所館の北東に 大衡城 の築城を計画してたことも影響したと思われる。( 大衡 治部大輔 宗氏 は、黒川6代 : 景氏 の次男 )
 
 
 
 
 
左側中央部に下草古城の街があった。
 



下草古城は右側、右端が鶴巣城の山すそ。
 
 
 
 

黒川景氏( 6代 )

黒川景氏 は、1484年(文明16年)の生まれだが、血筋は黒川氏ではない。 実は 飯坂清宗( 伊達氏庶流 )の子である。当時、東北南部で急速に勢力を拡大していた 伊達稙宗( 仙台藩祖・伊達政宗の曽祖父 )によって、黒川氏第5代当主・黒川氏矩(うじのり)の 養嗣子として1519年(永正16)までには送り込まれていたようだ。 ( 上洛し、景氏の嫡男・稙国に対して将軍・足利義稙より偏諱を賜っていることから、この年(35歳?)までには入嗣していた模様。 ) 
 
 
 
 
この景氏は、1536年(天文5)には大崎氏( 当主・義直 の際 )にて 長期にわたる内乱のはじまりが発生し、反乱軍・古川持熈 の拠点・古川城 を 討って滅亡させた。そして大崎氏の家臣である高泉氏 や 氏家氏 を降伏させて内乱を鎮めている。この時、大崎義直 は 伊達稙宗 に事態収拾の援助を随分と前から要請していたのだが、稙宗 は それを放置しており( それにより大崎家中では主人が不在となるなど混乱を増幅させた ) しばらくして 鶴巣城 の 景氏 を派遣することにして事態を収めたのだと思われる。 景氏は派遣当初から、伊達稙宗 の子息・義宣 を 大崎氏 に入嗣させる命をも帯びており、要するに大崎家中の鎮撫の一切を任されるという信頼の厚さで任に当たった。 1542年(天文11)伊達家 で 稙宗・晴宗 親子の数年間に及ぶ争乱、天文の乱( 別名、洞の乱 - うつろのらん)が起こると、景氏は無論 稙宗派に就くものの敗北。しかし同じく稙宗派に就いた 大崎義宣(入嗣した伊達稙宗の子息)や 葛西晴清 らは討たれたり当主の座を奪われたのだが、不思議なもので景氏は実質無罪放免だった。 そんな彼は、その後大崎氏(本家)の 義直 の 実子である 大崎義隆 が家督を継承したこともあってか、大崎氏家臣の 百々氏、高城氏 などに娘を嫁がせ、また高城氏 や 一迫氏 からは娘をもらうなど、ゆきすぎるほどの政略結婚を行って、あちこちに気を配るという一面を見せている。そして景氏は 1552年(天文21)4月15日、享年69で没した。( 家督は嫡男・稙国が相続した。)
 
 
 
 

黒川晴氏( 9代 )

それから時を経て、9代・黒川晴氏 のときにこの城は最も隆盛を迎えていたのではないだろうか。(7代稙国・晴氏父、8代稙家・晴氏兄) 一方伊達家当主は 晴宗 から 輝宗(仙台藩祖・伊達政宗の父)に移行した頃で、黒川晴氏 は 愛娘・竹乙姫(鳳仙院)を 伊達政景( 留守政景・輝宗弟、晴宗の三男、1567年3月7日・岩切城主 )に嫁がせることに成功していた。また、男児に恵まれなかったため 大崎氏 から養嗣子をもらい、その正室にこれまた 伊達晴宗の弟(亘理元宗)の娘を迎えるというトリッキーな婚姻政策を取るなど、祖父・景氏の配慮手法に倣っていた。これらによって、近隣の勢力である 留守氏・大崎氏 との結びつきをさらに深められている。 かなり平和で豊かな時代だったのではないだろうか。
 
 
 
 
 
平和であるのは、自分の才能をも認められたからにほかならないだろう。晴氏は 月舟斎 と号すとともに智勇兼備の将として名高かった。1584年(天正12)に伊達家の家督を 政宗 が相続すると、政宗は父・輝宗 の外交方針に反して 上杉景勝 と結んだことにより母の兄・最上義光 と対立する形となっていた。 黒川氏にとってはつまり、近しい親戚(養嗣子の実家)にある 大崎氏の 大崎義隆 は、最上義光 の義兄に当たるので、これが徐々に微妙な立場になっていくのである。
 
 
 
 
そんな折だ、大崎氏家臣で伊達氏との連絡窓口である 氏家吉継( 岩手沢(岩出山)城主 )が、政宗 に救済を申し込んでいた。原因は、黒川晴氏の祖父の 景氏 時代の、大崎氏のあの内乱のきっかけである新田頼遠・その一族で 大崎義隆 の側近・新井田刑部。その者を巡って 氏家氏 と 大崎義隆 が対立することになってしまったとのことだった。 1588年(天正16)、政宗は( しぶしぶ??? )内紛鎮圧を決定。( しかしもちろん自らは動かず、)浜田景隆・( 黒川晴氏の娘婿の)留守政景・泉田重光・小山田頼定らに鎮圧出兵を命じた。( それでなんとか落着すると思っていたのだろう。)
 
 
 
 
伊達の軍勢の出兵を受けて、大崎義隆 は 守将に 南条隆信 を据え 中新田城 を防衛拠点と定めて籠城戦を展開することにした。黒川晴氏は( 伊達家の庶流でもある家柄として養嗣子の大崎でなく )娘婿・留守政景 の応援の立場として一応参戦した。桑折城(大崎市三本木町)にて、第三者視点でもって様子を伺っていたがしかし戦況は思わしくない。 晴氏としてはおそらく " 大崎軍は籠城だ、中新田が消耗するまでは結構かかる、幾分耐えるだろう " と思ってたのではないだろうか。 けれども伊達軍は誰もが全く思わぬ作戦を実行しはじめて勝手に苦戦しはじめるのだ。・・・なんと泉田重光率いる先陣が、あろうことか中新田城にそのまま突っ込んでしまう。天気は大雪、知ってるものは絶対にやらないが、知らないが故に( 調査もせずに安易に )やってしまって思わず目を覆ってしまう笑うに笑えないような状態、低湿地帯で身動きが取れなくなってしまっているのである。 これには籠城している大崎軍もしめしめ、返り討ちをしてくれようと当たり前に反撃に出るものである。 そこから逃げるべく伊達軍が踵を返せば、桑折城は何もしなくても挟み撃ちする格好の位置関係。あらら、大崎方に寝返ったような形になってしまった。潰走して新沼城へ向かう伊達軍に大崎軍は追撃、黒川軍はそれに飲み込まれる形で仕方なくその新沼城を包囲する格好。その包囲された伊達軍の中には娘婿・留守勢が含まれている。・・・こうした経緯で、晴氏は無双な伊達軍に初めて「敗戦」を突き付けることになってしまったのだろう。まぁ仕方ない、泉田重光らなのだから、という訳で敗戦の将である 泉田重光、そして 長江月鑑斎勝景 を人質にして手打ち、戦後処理をすることになり、もちろん娘婿・政景も助け出すことには成功した。
 
 
 
 

月鑑斎と月舟斎

以上はまったくの私論だ。 泉田は戦法が安易だったので晴氏はとにかく気に入らなく、切り捨てたかったのだろう。しかし 長江月鑑斎勝景 は 留守近隣の領土( 奥州桃生郡南方 - 現石巻市の 深谷保郷 )を 鎌倉時代から治めるきちんとた家柄の知将、年齢を重ね頭も丸めて坊主(僧侶)になっており、人間として達観してる等との噂も届いてただろう、葛西晴信相馬義胤 からみた義兄でもある。 もしかすると留守家の家臣から入れ知恵があったのか、それとも本人が過去にトラブルを経験していたのか、相当な因縁か何かがあったのかもしれない。 それに、歳は違うが同時期に名を馳せる 月舟斎月鑑斎 だ。互い何もないわけがない気がする、意識してない知らないという方がおかしい間柄であろう。月舟斎晴氏はその 月鑑斎 を人質として吊るしあげることとなった。
 
 
 
 
月鑑斎(当時60歳頃)は、最上氏より派遣されこの内乱の戦後処理一切を取り仕切った 延沢満延 の説得に応じて、伊達氏への離反を勧められこれを受諾したとされる。 ん?離反??? 泉田もそれ以外の虜将も、護衛の騎馬兵までつけられて自領へと帰る月鑑斎を見て不思議がっていたようだが、月鑑斎自身はその空気感、不自然さに気づかなかった。この地域の伊達軍の師団長との自負もあったろう。 戦前同様このあとの戦後も、伊達家への気づかいを欠かさず、摺上原の戦い へは 伊達軍援勢として鉄砲隊を送り込んだりもしていたそうだ。そしてそれから随分経って、いつ、どのように、何を知って、どう考えが変わったのだろうか。。。
 
 
 
 
 一方、この地域の武将がほとんどそうせざるを得なかったように月鑑斎の長江家も、小田原征伐 に参戦せず 奥州仕置(1590年)によって没落していった。 その後政宗 が 国替え直前のお披露目のため( という名目で!?)岩出沢城( 岩出山城 )にて宴席を開くという。。。それに 黒川月舟斎晴氏も、長江月鑑斎勝景も、ともに招かれながら、どちらも、( 当然ながら?! 不気味がって?! )断固として、欠席をするのである。
 
 
 
 

 

「 " 残れたものども " の嫌味かと、こっちは子々孫々地位も名誉もゼロになり明日食う米も心配というのに。 」そんな気持ちは政宗には届かない。月鑑斎はお迎えも遠くないかなりの高齢にかかわらず、激怒した政宗の命を受けた 秋保氏一族 の 馬場定重・頼重 父子によって捕らえられ幽閉され、そして殺害されるという最期を迎えたのだった。 この点を 月舟斎 とそのまま比べられてしまうのだが、長江月鑑斎勝景 の場合は、葛西・大崎一揆(1590~91年)の主犯人物たちとの関連を取り沙汰され、とばっちりを受けたこともあったと思う。( もしかすると、葛西・大崎一揆 を 伊達政宗の謀略であると豊臣方に告げ口しその証拠とする書状をも偽造した"主犯格"も 月鑑斎 であると、政宗は思い込んだのかもしれない。) 政宗は結局 " 大崎家 " のせいで面倒なことに散々巻き込まれ、先祖代々守ってきた山形・福島の旧伊達領を奪われた、いわばその旧大崎領に国替えさせられるということを、あの宴席で関係者、宮城県勢全員に見せつけたかったのだろうから。( 岩手沢城 はその後 岩出山城と改名、1601年(慶長6)青葉城を築城するまで12年居城した。)

 

 
 
 
 


 
 
 
 

奥州仕置 と 葛西・大崎一揆

あの時代のこの地域にとっては運命の 奥州仕置(1590年)。その後すぐに起こった 葛西・大崎一揆 にて 黒川家は、下草城 を会談の場として差し出している( 正確には黒川領ではなく既に伊達領になってはいるが )。 10月16日蜂起した一揆がすぐに大崎領内全土へと拡大した。豊臣家臣の 浅野長吉(浅野長政)が大崎の新領主(木村氏)の救出を 蒲生氏郷伊達政宗 に命じたため、10月26日に 氏郷 と 政宗 のふたりは 黒川郡 下草城 にて会談、「11月16日より共同で一揆鎮圧にあたる」ことで合意した。ところが、前述の(偽の書状の)混乱が生じて政宗は四苦八苦し、蒲生氏郷も政宗に背後をとられないよう神経を尖らせることを余儀なくされることになった。 ( 政宗が 下草城 にて 氏郷 を毒殺しようとし、氏郷が自ら用意しておいた解毒剤を飲んで助かったとの説も解かれるほど事態は緊迫した状況だった。) 結局政宗は、氏郷が会津へと帰還するために、一門の重臣である 伊達成実(はとこ)・ 国分盛重(叔父・輝宗弟)の両名を人質として差し出さざるを得なくなったのであった。
 
 
 
 
 
この事件を境に、黒川郡は完全に 黒川氏 の手を離れ、伊達領として62万石の一翼を担っていく。下草城以外の鶴巣城、大衡城 は廃城となり、吉岡城 に政宗三男の 伊達宗清 が、宮床 には 仙台2代藩主・伊達忠宗の八男の 伊達宗房 が入る。
 
 
 
 
さて 月舟斎 はどうなっただろうか。 あの時に月鑑斎同様政宗の手の者に捕らえられていたが、伊達家の血筋であり伊達政景(留守政景)の懇願もあり、 西田中( 仙台市泉区西田中、今の泉ビレジや住吉台地区 )へ移封(隠居)となって余生を送ったそうだ( この近く )。 月鑑斎 とはまったく違い、時に政宗が 根白石 の 祖母の墓所 や 鷹狩に立ち寄った際などの話し相手になったとの逸話もちらほら残ってるとか。 争いや出世などから離れのんびりと草花を愛でて過ごしただろう。ここでもそれなりに幸せに過ごせたろうと感じる。
 
 
 
 
そうそう、根白石 は もうひとつの 白石城 があったとして伊達家にひっそりと伝えられ、城主は 白石参河 として秘されてきた模様だ。 『 宮城郡誌 』には 白石参河 について「 黒川安藝 守晴 氏の弟 」と記されており、この城跡には実は、黒川 月舟斎 晴氏 の孫にあたる 黒川季氏 の墓 もある。 また、永安寺( 泉区福岡字寺下2 )を、仙台2代藩主・忠宗が狩りをした際に眺望絶佳のこの場所を見つけて松島瑞巌寺中興の祖・雲居(うんご)禅師を招いて開基させたのは、有事の際に仙台城裏手から郷六根白石宮床富谷大郷松島北上川県北 へと逃れる脱出ルートを整備するためだったとの説も取りざたされる、たぶんその通りだろう。
 
 
 
 

ちなみに、 根白石 で晩年を過ごした 政宗 の 祖母・裁松院 は、久保姫( 窪姫、笑窪姫 )の名で知られた 岩城重隆 の娘で当時 奥州一の美女 と言われた。当初は結城家(白河)への輿入れが決まっていたが政宗の祖父・伊達晴宗があまりの美しさに強奪して文字通りの略奪婚となったのは有名な話だとか。

 
 
 
 
 
 
 
登場文献    『 水沢大衡氏系図 』、『 報恩寺旧蔵黒川系図 』、『 宮城郡誌 』
 
 
 
解説設備    特になし
整備状況    山林、若干の獣道が草刈りされ倒れる場合があるらしい
 
 
発掘調査    不明
 
 
 
 
参考資料    鳴瀬町史、矢本町史、伊達政宗に睨まれた二人の老将 他
 
 
 

吉岡城 跡 ・ 保福寺・天皇寺 | 伊達氏〜但木氏の居城・(菩提寺)

2021-04-20 19:00:00 | 城館跡等
 

宮城県黒川郡大和町吉岡字館下88 ・ 大和町吉田字一ノ坂28 ・ 大和町吉岡字天王寺184-20




別名      なし
築城・廃城年  1616年~幕末
主な城主    伊達宗清( 政宗の三男、1616年〜 )〜但木土佐成行
知行等     38,000石( 宗清時 )〜1500石( 奥山氏・但木氏 )




近隣河川    洞堀川・吉田川(吉田川-鳴瀬川水系)
最寄街道    奥州街道・出羽街道・松島街道(分岐点)


 
 
構成      不明
主な遺構    なし
井戸跡     不明   

 
 
 

下草古城 から移転して新たに構えたのがここ、吉岡城だ。元和2年(1616年)のことである。



 
まさに江戸初期である 1616年(元和2年)に、伊達政宗の三男・伊達宗清が石高 3万8000石で築城。周辺に侍屋敷、足軽屋敷を整備し寺社も移転、その他町割を上町、中町、下町、伝馬町として設置するなど城下町を宿場町として、体裁を整えたらしい。( ちなみに 岩出山城 は 四男が領主 )
 
 
 
 
城跡の標識が立つのは、おそらくの本丸跡。 町民のための複合施設「陽だまりの丘」地内だ。 ここは現在大和町役場近くに立地して郡部を管轄する大病院・旧黒川病院の、跡地だったとのことだ。同地内は字名が「館下」で、館(やかた)の下町的な意味合いを示すが、ここ周辺の町内会名に「城内」や「館(やかた)」があって、城域はかなりの広さであったことがうかがえる。( はたまた、もっと古い時代の城域の構成が字名になっているのか。いやいや、周辺を考えると標高や地形的、井戸的にも難しい気がするのだが、どうだろう。)
 
 
 
 

ひだまりの丘中心部
 
 
 
 
 


 
 
 



 
仮称本丸跡の西側にあり 字名・古舘 に立地する 大和町民研修センター(体育館など)の、道路を挟んで西隣は、陸上自衛隊大和駐屯地 並びに 官舎が並ぶ。このような広大な敷地を確保する施設が建設しやすかったのは、城跡に民家が進出しづらかったからではないかと推察される。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そして館下の南側は、広範囲になだらかな坂になっている。下草古城側から見れば「良い丘」( = 吉岡 )に見えたに違いない。この坂の下かつ城跡標識の南域には、隅櫓を模した建物のある(「城内大堤公園」)公園があるが、この建物はあくまでイメージして建てられたものだ。園内の池は水堀とも言われているが、近隣に用水路や 洞堀川 が流れているので、ここは普通に池でもあったのではと感じる。公園の東隣は馬回しをしていたような場所の地名が字名として残っていたとの情報もあり、( 東下蔵・西下蔵 なども近くにある )さらにその東、宿場街との境には、武家屋敷の名残を思わせる立派な民家が残っている。
 
 
 
 
 
 

 


 



 
 
 
 
 
 
 
 
そうそう、写真は取らなかったが、先程の研修センター北西の地域の一角には、道祖神たちが集められていた。そこから北側は、坂を降って宿場町外となり、奥州街道と出羽街道との分岐点へと誘われる。 町の境、それが如実に表現されている場所というような気がした。
 
 
 

吉岡宿・殿、利息でござる!

一方、城の東側は、奥州街道のなかでも県内ではかなり大きな宿場町・吉岡宿 である。近年、映画化された「 殿、利息でござる! 」 ( wikipdia=殿、利息でござる! )でも有名だ。
 
 
 
 
宿場南口には奥州街道から松島街道へ至る街道の分岐がここにもある。そして町内を通る街道の鍵型は三つもあって相当な街並みが構成されたことが伺える。家並みや各戸の敷地の様子は今なお宿場のそれを色濃く残すが、令和になって、住み替えが顕在化し、アパートが立ち並ぶようになったようだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
こんな城と街の主人・伊達宗清 は若くして(34歳)で死去し、城下・宿場町ともに南東にある 天皇寺 に、殉職されたお供の方々とともに葬られた。彼は側室の息子としては次男であり、彼の兄・長男は、伊達政宗の長男でもあったが側室の息子であったため 初代・宇和島藩主 として分家となった 伊達秀宗 である。ふたりの母は、「飯坂の局」とも「新造の方」とも言われる。いずれも別人で前者は吉岡にて(~1634、66歳)没し、後者は江戸屋敷で(~1612)没しているが、NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」 の 原作者・山岡荘八 によって政宗の寵愛を受けた「猫御前」として一緒くたに描かれた。実はこの天皇寺、猫御前の墓として地元の方々に愛されてるそうだ。……「 猫御前 」???
 
 
 
 
 
猫御前いや飯坂の局の墓
 
 
 
 
 

こちらが伊達宗清の墓
 
 
 
 
 
ちなみに、NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」で 猫御前を演じたのは、大女優の 秋吉久美子 さん。 彼女が本ドラマのクランクインに応じて天皇寺を詣でたそうで、当時の町一大イベントとしてかなりの大騒ぎになったらしい。それはそれは、"殿利息でござる" なんてものではない。……そうだよね、昭和の田舎町に。利息でござるではたくさんの町民がエキストラとして参加した様子が天皇寺の近くの郵便局に展示されてたが、その記憶を上回るものだったでしょうよ。。。
 
 
 
 
 
あっ、そうそう。 "利息でこざる" には伊達家の殿様として 羽生結弦 さんが出演されているが、吉岡城の伊達家の殿様・宗清は1代で若くして亡くなっているよね、じゃ、羽生結弦選手の役って何者…??? 「国恩記」は、今から250年ほど前の話だというから、1770前後。明治元年は今から150年ぐらい前だから、ほぼ江戸末期の話だね。 もう、江戸のシステムは効かなくなってきていたから起こってきた話なんだろうなあ、じゃ、羽生結弦さんの役は、吉岡城主(但木氏)でなく仙台藩主の方じゃないのさ。(そりゃ、そうだよね。。。) すごいじゃん、「国恩記」。。。
 
 
 
 
 
(追記  ;   天皇寺にある池、実は豊臣時代の土木技術として残されてるのがとても珍しいらしい。詳しくは現地看板にて。また、庫裡も相当すごい文化財で、要は炭素年代を測ると江戸時代になるってんだから、この町の文化財は意外にすごい。。。庫裡としては松島・瑞巌寺に次ぐものであるとのこと。)
 
 
 
 
 
 

但木土佐成行

ところで、江戸後期の吉岡を納めていたのは 但木氏で、幕末の城主は、但木土佐成行。彼は仙台藩の奉行です、かなり偉い人物、奉行にもなったりやめたりを3度も繰り返していて、要するに、藩主から「やっぱり」と乞われて就任することになってる優秀な人物と言えます。彼は、戊辰戦争に詳しい方なら別方面の意味で知られていますよね、え??? 新選組榎本武明河合継之助ら とはもちろん違いますよ、奥羽越列藩同盟側の実務の方、です。  明治になって死刑となっています、痛ましいですが……。
 
 
 
 
 
但木氏の現代の末代は、但木敬一氏(在任2006〜2008年、第三次小泉内閣指名)。彼もほぼ毎年命日の祭礼におとずれているここは、吉岡城主・奥山常辰により建立とあるから、但木よりも前、"奥山"時代の創建なんですね。この山門も当時からのものらしいですよ、何気にこっちもすごいですね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
土佐成行招魂碑は、表は、勝海舟 の手によるもの。(裏は 富田鐵之助 ……幕末の仙台藩士で明治期の外交官・実業家・日銀第二代総裁・東京府知事) 敵に味方に、いろいろな方面から暗に明に気遣われていたのだろうことがうかがえる。
 
 
 
 
 
保福寺蔵の肖像画
 
 
 
 
しかしまあ、なぜ会津は譲らなかったのだろう、松平容保が頑なだったのか、それとも側近か、いや幹部全員か。 いずれにしても、東北は会津を守るために奔走した気がする。 それがいかなる結果をもたらすことになったとして、歴史の大転換期に力を尽くした但木土佐の気持ちは無駄ではなかったと思いたい。 流れは変えられなかったし、変えたとしてどうなったものではない気がする。
 
 
 
 
 
勝海舟の筆による招魂碑
 
 
 
 
 
 
辞世の句にある雅号の意味は、七つ森の木こり。 彼の幼少に関しては何も残されてはいないが、そう称するほど地元の山々を愛してたに違いなことが伝わってくる。( 七ツ森 に関しては、この記事のコラムが詳しいので参照されたし )
 
 
 
 
 
雲水の  行衛は何処  武蔵野を  只吹く風に  まかせたらなん  <  七峯樵夫  >
 
 
 
 

門前館 跡 ・ 堂谷館 跡 | 黒川氏家臣 : ニノ関氏 ・ 成田氏 の 居館

2017-01-25 13:00:00 | 城館跡等
門前館 跡 | 黒川氏家臣の居館
宮城県富谷市二ノ関館山
 
 
 
 
築城・廃城年代   不明 ( 鶴巣城築城直後あたりか )
主な城主      黒川氏 家臣・二ノ関伊予 ( 二ノ関紀伊守 )

近隣河川      宮床川( 鳴瀬川水系 )
最寄街道      東西/宮床(難波・吉田)~下草~利府~多賀城
          南北/根白石~宮床~下草~吉岡


構成        不明
主な遺構      郭、曲輪、空堀
井戸跡       不明
 
 
 
 
 
右手に張り出した丘、正面の山頂部が城跡だ。 山頂には石の祠がありこの祠を中心として東西約50m、南北約20mの平場とこれを取り巻く数段の郭がある。『 仙台領古城書上 』には、東西四十三間・南北三十六間 城主は二ノ関伊予( 二ノ関紀伊守 )が 天正年中(1573~1592年)まで居住、伊達家の家臣である 二ノ関傳之助 の先祖 であると伝えている。
 
 
 
 
山頂部の祠の上に城館が建てられたのか、それをよけて建てられたのか。祠の下から宮城県には数少ない 経塚 がみつかっている( 県指定有形文化財・東北歴史博物館 蔵 )。1376年(永和2)の銘と埋納の趣旨が筒身に刻まれており、1798年( 寛政9 )、江戸時代に発掘されそれまでずっと、地区の御神体として崇められていたそうだ( 高さ22cm × 直径9.9cm)。南北朝時代のものとうから、黒川氏が来る以前のこの地域の仏教信仰を表してるものだ。
 
 
 
 
宮城県文化財課
 
 
 
 
 
この辺に 板碑 はほとんど残されていない。 ゆえに、こんな高尚な信仰物が出てくるのが不思議でならない。どんな願がかけてあったのだろう、しかも、何者が!かけたのであろうか。。。
 
 
 
 
二ノ関氏は、それこそ 黒川氏 の他の家臣同様、交通の要衝に城館を構えて、人の往来を取り仕切ったのだろう。 吉岡官衙 は随分前に使われなくなったにしろ、根白石野村宮床 など、豊かな村が多く点在する地域を行き来する人々はかなり多かったに違いないし、そこから 下草 の大きくて美しい街に、皆来たくて憧れてた民はすごくたくさんいたのではないだろうか。
 
 
 
 
奥州仕置(1590年)後 二ノ関氏は、経塚のみ保存して城館を自ら取り潰したのだろうか。城下に配下の者のように民・住宅が控えてるので、お家取り潰し後その中に紛れて農耕に従事したようには見えない。
 
 
 
 
どこぞ(伊達??)の家臣録によると、二ノ関家 は 黒川氏滅亡後は一時浪人だったが、運良く伊達家に召抱えられ仙台に住んでいた。二ノ関十郎右衛門は、元黒川氏家臣、黒川郡二ノ関(富谷市)の館主伊達政宗に召し出された黒川月舟斎の甥にあたる。元黒川氏家臣、黒川郡二ノ関(富谷市)の館主、隠居分五貫文を分与された者。伊達政宗代から仕え、後六貫文の知行となり寛文2年にはその子供の 伝右衛門 が継いだ。 二ノ関源治は、1836年(天保7)10月7日、仙台城下の32石の大番隊士となった 二ノ関駒治 の長男として生まれる。8歳の時に父を喪い家は貧しかったが母の愛情で養われた。幕末の頃になると 大郷町粕川 に領地を与えられ 中粕川 の 八幡神社 の北に屋敷を構えて住んでいたとあるそうだ。
 
 
 
 
二ノ関傳之助 と 二ノ関伝右衛門、どうやら同一人物で間違いないのではないか。
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
大郷町粕川は、2020年9月1日に来襲した台風19号により、地区全域が流されてしまった郷。【台風19号大郷町粕川
吉田川の決壊は、糟川寺・粕川小学校 のある辺りからはじまった。八幡神社はその北東にあるようだ。 その北側に居を構えたというから今なお子孫の方が周辺にお住まいなのかもしれない。 歴史ロマンだね。【 大郷復興再生ビジョン
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
登場文献      『 仙台領古城書上 』



解説設備      看板( 主に経塚について )
整備状況      山林、水道施設


発掘調査      不明
 
 
参考site        富谷あったか探検隊東北城館跡探訪記
          おおさと歴史探訪会 
 
 
 
 
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堂谷館 跡 | 黒川氏家臣の居館
宮城県富谷市一ノ関カナエ田
 
 



築城・廃城年代    不明
主な城主       不明


近隣河川      竹林川・宮床川( 鳴瀬川水系 )
最寄街道      根白石~野村~宮床~下草


構成        不明
主な遺構      堀切、土塁、土橋、空堀、門跡、土倉跡
井戸跡       不明
 
 
 
 
東西十三間・南北三十一間、東・西・北側は断崖に囲まれ、周囲には数段の郭が、頂部には本丸跡とみられる平場がある。『 仙台古城書上 』によれば、黒川安芸守の家臣・ 成田外記 が天正年間(1573~1592年)居城したとされる。二ノ関館に対してこちらは一ノ関、なのだが 堂谷館 と名乗るのである。
 
 
 
 
 
 
 
古来宮床川筋には山道が発達し、泉ヶ岳山麓の根白石・福岡・朴沢地方は黒川郡と特別に縁が深く------御所館/鶴巣館から見れば一・二・三ノ関は明らかに中山道・根白石を睨む構えで------国分氏の松森方面に備える布陣といえよう。
 
「一之関(イヅノシギ)二之関(ヌノシギ)三之関(サンノシギ)等村名の存する起源は往古関所のありし所より出てしにあらざるか又当〔高田〕御所と何等関係の存するものあらんか書して疑を存す」
(『 黒川郡誌 』)。

「一ノ関には堂屋城(成田外記)、二ノ関には門前城(二関紀伊)等の古館があり、(中略)〔三ノ関は鶴巣館直下の搦め手にあたり、館下町本町の地続きで、〕 古刹があって、いずれも古い歴史をもった土地であると推測される。(中略)
この一ノ関、二ノ関、三ノ関は、吉田川の支流である竹林川と宮床川の中流に位置し、その下流地域にかつて条里制を敷いたと考えられている田園が広がっている。そして、早くから堰、つまり関を設けて下流田園に灌漑用水を導いた水源になっていたと思われる。それを裏づけるように、現在も一ノ関、二ノ関、三ノ関にはそれぞれの流れを止める堰があり、下流の土地に配水している。地名の関は、この灌漑用の堰から生まれたものと〔も〕いえよう。」
(富谷町誌編さん委員会『 新訂富谷町誌 』富谷町
 
 
 
 
 
 
 
こちらも 黒川氏 の他の家臣同様、交通の要衝に城館を構えて、人の往来を取り仕切ったと思われる。二ノ関館よりは守りやすい立地であったろう、北側に寺も立地しており配下の民も少なく慎ましやかに治めていたと見える。
 
 
 
 
成田氏 は 奥州仕置(1590年)の後、どうしたのだろう。 外記 と言えば、仙台市青葉区に外記丁という通りがある。昔の宮城県庁構内東入口付近、花京院通から北一番丁までを指す。外記丁に通ずる北一番丁から北四番丁までの通りが 外記丁通 と呼ばれるそうだが、伊達政宗の時代に多くの武勇伝を残した 齋藤外記永門 の屋敷に由来する。 彼の数々の功績の恩賞として、自分の住む所に名を留める事を許され、その屋敷が周辺が爾来、外記丁 と称されたと伝える。そうした一連の物語とはまったく関係のないものだろう。。。
 
 
 
 
 
登場文献      『 仙台領古城書立之覚 』



解説設備      富谷市史跡標柱( 城跡東面側 )
整備状況      なし


発掘調査      不明
 
 
参考文献      『 黒川郡誌 』、 『 新訂富谷町誌 』
 
 
 
 

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八谷館 跡 ・ 八谷古館 跡 | 黒川氏家臣 : 八谷氏 の 居館

2017-01-15 17:00:00 | 城館跡等

八谷館 跡 | 黒川氏家臣の居館
宮城県黒川郡大和町落合蒜袋字新田・落合相川蜂谷
 
 
 
 
築城・廃城年  1540年代~1590年代
主な城主    八谷氏( 黒川氏 の 家臣 )
 
 
 
近隣河川    善川・竹林川・吉田川合流点( 鳴瀬川水系 吉田川支流 )
最寄街道    奥大道( 多賀城〜岩切〜利府〜鶴巣〜吉岡 )、吉岡~駒場~伊賀~桑折
        吉岡~松島
 
        
 
 
構成      4つの建物を数度建て替え
主な遺構    掘立柱建物跡、門跡、溝・土塁・空堀、土壙・他
井戸跡     不明  
 
 
 
 
写真中央から右に突き出ている丘が、八谷館 跡 である。( 左は谷部を挟んで 御所館 である。) 撮影した方角は城跡の北西から。善川に架かった農免道路の橋が丁度丘の裾にかかって城跡を隠そうとしてるように見える。丘の向こうはすぐ高速道路の高架橋をくぐるようにっている。この城跡は高速道路に隣接している公園となっており、春になると一度は大和I.C.で降りて花見をしようと思わせてくれるのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
春は丘南部のすべてが、桜で満たされる。 高速道路をこの季節に走った方はそれが目の端に止まり、美しさに一瞬心を奪われそうになって戒めたことがあるのではないだろうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
平場には遊具が置かれている場所もあり、親が花見をしつつまたは木陰で休み子どもが遊具で遊ぶという姿もちらほら。 静と動の家族連れを満足させる公園は、古くは古代から人々に愛されてきた。。。
 
 
 
 



 
 
 
古墳~平安時代に作られたとみられる " 墓壙 " が発掘調査にて幾つか発見されており、その副葬品としていずれも碧玉製の管玉( ガラス製の完形品・紺青色 )が9点出土している( 長さ1.6~3cm、直径5~9㎜ )。 墓壙の特徴でもあるが、この埋葬施設はその痕跡がみられないことから他の多くと同じように木棺のようなものと考えられ、形態としては土壙底面の埋葬施設を置いた部分の断面が舟形状をしていることから割竹型木棺の可能性も考えらるそうである。また、土師器・須恵器・赤焼土器なども出土しているので、なにか祭事に使われていた場所だったのだろうか。
 
 
 
 
 
 


黒川郡大和町の蒜袋地区、仙台平野および松島、利府方面から大崎耕土に通じる交通上の重要な位置を占める立地。前面の平野部を流れる吉田川や善川の自然地形、大小の谷や沢が複雑に入りこんだ小丘陵の尾根上にを考慮に入れた山城的な性格を持った場所だ。 
 
 
 
 

■ 構築について ( 発掘調査結果による )
館跡は背後に丘陵をひかえ、前面に沖積地や善川のみえる南北に長い丘陵先端に立地する。館の構築をみると、丘陵の東西にある沢地に積み土による整地を行なって上段と下段の平場を造成し、その平担部の縁辺に土塁をめぐらしている。同時に北側下段平場の斜面に空堀を掘り、その掘り上げた土を利用して堀の外側に土塁を構築している。さらに上・下段平場の東西斜面には積み土整地による1~2段の腰郭を配している。これらの遺構を調査した結果、通路と土塁の間で部分的な改築が認められるだけで、館の拡張などの著しい変化は認められなかった。このことから、内部遺構の配置の変化以外は館の形態にあまり手を加えないで、ほぼ初期の範囲を利用していたと思われる。

 
 
 
 
発見された遺構は、掘立柱建物跡、土壙・門跡・溝・土塁・空堀など、15世紀頃に築造し16世紀初頭まで使用されたと考えられるとのことだ。
 
 
 
 


調査区域の北半にある平担面で多数の柱穴が検出された。建物が数回、同じ場所に立てかえられたため、重複個所が多い。どの建物に付属するかわからない柱穴もあるが、全体で20棟前後の建物を推定している。また、平担面と斜面の境に通路および門と推定される柱穴が発見された。通路は斜面を凹形にほり下げ傾斜をゆるめている。門は改築が認められる。北側および西側の丘陵の周縁と斜面に空堀と土塁が断続的にめぐっている。空堀は浅いが、斜面を急にして山城としての性格を強めている。土塁は高い部分で1mと小規模である。
また直径1m、深さ60cmの貯蔵穴(?)の中から炭化米が出土した。出土遺物は、元・明代の青磁、白磁を含む国内産の陶器・古銭・鉄釘・鉄刀・石ウス・硯などである。
出土品からみると15世紀以降のものが多い。遺構についても重複および改築がみられるので、100年の存続が考えられる。大ざっぱにいって、室町時代後半といってよいであろう。
丘陵の北端の近い所で、古墳の主体部が検出され、内部から直刀・鉄鏃・装身具(管玉・ガラス玉・コハク玉など約20点)が出土した。しかし、墳丘および周溝は確認できなかった。

 
 
 




 
 
 
 
 
館主について、『 仙台領古城書上 』( 延宝年間 )、『 仙台領古城書立之覚 』などによると、黒川氏一族の『 八谷冠者…… 』となってはいるが、それ以上も以下も記録は一切ない。 一族とはいうものの家中の者との意味であり、当然のことながら家臣のひとりを指していよう。 御所館 の 前面、当時の交通の要衝( 多賀城 ~ 岩切 ~ 利府 ~ 吉岡 ~ 駒場 ~ 三本木 ~ 大崎、奥州街道が整備される以前の道路 )を守る機能を持たされていたと感じる。
 
 
 
 
また、この土地(蒜袋に南接する相川~落合地区)には、相川氏 が居住していたと『 黒川氏大衡家族譜 』( 岩手県水沢市の大衡家に伝わる江時代初~中期かけての口伝 )より伝えられており、相川~落合地区の中心に熊野神社があることも示す通り、相川氏がここの土着で黒川氏に従った様子が想像できるような佇まいを持っている気がする。
 
 
 
 
 
 
 
登場文献    『 仙台領古城書上 』、『 仙台領古城書立之覚 』、『 黒川氏大衡家族譜 』
        『 八幡氏系図 』、『 伊達正統世次考 』、『 余目記録 』
 
 
解説設備    看板
整備状況    公園化、桜の名所
 
 
発掘調査    昭和 47 年 11 月1日~昭和 48 年6月3日
        宮城県教育委員会・日本道路公団、15,000 ㎡
 
 
 
 
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八谷古館 | 城主不明
宮城県黒川郡大和町落合相川上袋・大沢
 
 
 
 
築城・廃城年  不明( 鎌倉時代か )
主な城主    不明、地元豪族( 相川氏?? )か
 
 
 
近隣河川    善川・竹林川・吉田川合流点( 鳴瀬川水系 吉田川支流 )
最寄街道    奥大道( 多賀城〜岩切〜利府〜鶴巣〜吉岡 )、吉岡~松島、吉岡~駒場~伊賀~桑折
        
 
 
構成      不明
主な遺構    不明
井戸跡     不明  
 
 
 
 
八谷館 跡 の南、高速道路を潜ってすぐ左側の藪の中がそれと思われる。 ( 前述上記のように )八谷館に古代から使用されてる形跡があると同様に、ここもそうだと考えられる。 善川水系のほとりには大衡村の平林地区( 埋川 )にまで縄文遺跡が幾つか出てくる。中流域で他二つの川の合流点がすぐそこにあるこの立地に、地元の豪族が居を構えないわけがない。さらに、山の裏が御所館までにかけて大きな沼が数個存在しており、つまり、この辺が 井戸(飲み水の補給)に困らない水源に恵まれた丘であったことは確かで、築城に最適な土地である。 また、( 前述上記のように )八谷館から古い墓壙が見つかってることから、太古の昔から祭礼などにも使われてたのかもしれない。他方、南向かい側の山中には、鳥屋八幡古墳1号・2号 (6世紀/古墳時代後期)がある。予想に難くないだろう。
 
 
 
 
黒川氏 は、1530年代前にこの地へやってきて 御所館 を構えた。 『 黒川氏大衡家族譜 』や『 八幡氏系図(平姓八幡氏系図??)』には、1440年(1540??)に 黒川氏房( 黒川氏4代 )が、宮城郡高崎 の 高崎盛忠 とここ、相川地区で対戦したことが記されているそうだが、口伝が基になっているが故に年号に誤差がみられるのだろうか、いずれにしろ 八谷古舘 は黒川氏以前の者の館であることには、相違なさそうである。
 
 
 
 
 
登場文献    なし
 
解説設備    なし
整備状況    山林
 
 
発掘調査    なし
 
 
 
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