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"跡" を 辿って。

葛西氏 | 桓武平氏 良文流 豊島氏庶流 の 氏族

2015-07-25 15:00:20 | 氏族 考察
城         石巻城、寺池城
所領変遷      (下総国葛飾郡) → 陸奥 牡鹿郡石巻・登米地域
知行        不明


時代        平安後期(1189)~安土桃山(1590、奥州仕置 : 除封)
家祖        葛西清重
代々        初代~18代


出自(本姓)    桓武平氏良文流豊島氏系
家紋        三ツ柏
通字        清、重、信



著名な人物     初代 清重、末代18代 晴信
内訌        不明
入嗣        大崎氏、伊達氏
分家        不明


水系        北上川水系
隣接領主      留守氏



登場文献      『 吾妻鏡 』
研究文献(系図等) 不詳
棟札等記録     不詳



1189年、奥州征伐 を終えた 源頼朝 が、行賞 により 葛西清重 に、奥州藤原氏の所領を与えた(奥州総奉行)。 葛西清重 はその所領の沿岸部を下り、石巻 の 日和山 を最初の居城としたらしい。 ほんとかな? あそこは眺望はいいが、居城としては不向きな気がするけど。 それからもまぁ当初、下向しなかったことは明白だ。 多賀城以北の内陸は 吉岡官衙 もあったし、色麻柵城生柵 など中央政府の管轄、官僚の 留守氏 と上手くやりながらで良しとしただろうと思う。どこかに不用意に打って出るのも厄介だし、一揆などの災難を呼び込むのも嫌ったのではないか。 所領は農業も漁業も盛んだし余計なことをする必要がまずない、後に移った 寺池城登米)も豊かでいいところだし。


何時の世も自分に都合良く書く輩はいるもので、葛西氏の系図は 2系統を中心に 30種以上あるらしい。庶子の多くが伊達や大崎・南部の家臣となり沢山の系図を作成したことも相俟って、今日の葛西氏研究を混乱させているそうだ。


ちなみに、国鉄民営化 の大改革を推進され、現JR東海の名誉会長に 葛西敬之 さんがいる。この 葛西家 は代々、新潟・佐渡の 漢学者 で 私塾を開いて子供たちに学問を教えていた。地理的に若干近いので親近感を感じるが、血統がどちら側からどう繋がるのかは定かでない。




菩提寺       未詳



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国分氏 | 藤原北家 秀郷流 小山氏一門 長沼氏系 の氏族

2015-07-20 15:00:42 | 氏族 考察
城         小泉城松森城、( 南目城、茂ヶ崎城、千代城 )
所領変遷      旧宮城郡南部? → 旧宮城郡北部? → 秋田
知行        1,000~527石


時代        室町時代?~安土桃山時代(1590年、奥州仕置)
家祖        不明
代々        想定初代~17代 盛重 + 秋田伊達氏 9代


出自(本姓)    藤原北家 秀郷流 小山氏一門 長沼氏系 国分氏
家紋        左三つ巴
通字        盛、重、宗



著名な人物     想定17代 盛重
内訌        不明
入嗣        伊達氏(17代 盛重)
分家        郷六氏?


水系        名取川(広瀬川)水系? → 七北田川水系 → 秋田武鑑
隣接領主      留守氏




源頼朝に従った 小山政光 の 次男 : 宗政 が 現 真岡市 に領地を得て 長沼氏 を称したが、ここで言うこの 国分氏 はその庶流ではないかと個人的に推察している。


何故ならこの 小山氏 系の士族は、親戚同士の内訌が多すぎるというか、結果その勝敗によって所領を追い出される結末を知りながら、親戚同士が絡む争いにも臆せず参戦し、負けてはあちこち拠点を転々とせざるを得なくなっていると言う特徴がある。良く言えば身軽なのだが、根無し草的無茶苦茶感がどうしても拭えない。


その中でも 長沼氏 の行動は事は理解に苦しむ支離滅裂さがある気がする。なので、ある日ひょっこり支配のユルい土地にやって来て勝手に 国分氏 を名乗り

「 今日からココは自分たちが支配することになった!」

とか平然と宣言して居座ってしまっても何らおかしくない感じがしてしまうのだ 。


また、先述の 小山政光 の三男 : 朝光結城氏 の 祖 となったが、江戸時代の地誌類に、結城氏の活動が仙台市周辺であったらしいとの調査・研究が残されている。 しかしこれも、都合のいい時だけ親戚・結城氏 の威光を利用した 長沼系 国分氏 の活動によるものではないだろうか。( ちなみに 朝光 の五男 : 朝良 は 現 成田市長沼 に居住して 下総長沼氏 の 祖 となっている。 )それとも 長沼氏 でなく 結城氏 の庶流が 国分氏 と名乗ったものか、長沼や結城から 国分氏 への入嗣があった故か。


この、藤原姓(長沼氏系)国分氏 はいつから( 旧宮城郡の )何処を本拠としたのかは不明だ。小泉城陸奥国分寺 という国の施設に近接する土地柄ゆえ、鎌倉時代の 奥州征伐 直後から居住していたとは考えにくい。 またその頃は 平姓国分氏 に 名取周辺( 旧宮城郡南部 )が与えられていたとされる説が一般的だ。( しかし間も無く没収されている。)




※平姓国分氏
鎌倉殿の13人に登場もする 千葉常胤( 桓武平氏良文流 )の五男( 胤通 )を祖とする。奥州藤原氏討伐の戦功により宮城郡国分荘( 郷六に築城したとの説あり )を賜ったとするのが起源らしい。











出処不確かだが、

1412年(応永19)、亘理重胤( 亘理氏 9代 ) と名取郡川上村で合戦、亘理胤茂( 亘理氏 10代 )に敗れて 国分盛経 戦死。

1480年(文明12)、国分盛行 が子の 国分盛綱 に家督を譲り 小泉村 に別荘を作って隠居。

1450~1570年代にかけては、芋沢村愛子村 (仙台市青葉区)の 神社の棟札に『 藤原朝臣長沼~ 』の文字が。

慈覚大師 が中興した 山の寺( のちに廃寺 )では、国分盛行 が修繕を補助した、とか伝わるらしい。




さて、想定17代 : 盛重 は 伊達家 からの入嗣以降、家臣団の統率に失敗し米沢に呼び戻された。それをもって実質的に 国分氏 は滅んだ事になるが、家中や血縁者には「 国分 」へのこだわりが強く残っていたに違いない。 盛重 が 秋田佐竹氏 のもとに出奔して 秋田伊達氏 となった後にも 秋田伊達氏 5代 : 處宗 の次男 と、8代 : 敦重 の 三男が、国分氏 を称した。『 三百藩家臣人名辞典 』には、秋田伊達氏の嫡流以外の男子には全て 国分氏 を名乗らせたとあるらしい。



ところで、留守氏 の 所領する 岩切城 と 国分氏 所領 の 松森城 の 距離が物凄く近いことにずっと違和感を持っていた。『 仙台領古城書上 』には、

「 此城主 国分彦九郎盛重 小泉村より取移、天正年中迄居住 」

とある。 松森地域への進出は 伊達家から養子( 政宗の父 : 輝宗の弟で 留守政景 の弟 )を迎えてから 奥州仕置(1590年)までというさほど長くない年月での居住の模様、やっと納得できた。



ちなみに、同じ 政宗の叔父なのに 留守政景 と違って 国分盛重 は、豊臣秀吉側への人質として指名される( 葛西・大崎一揆 後 の 下草会談 )など、待遇が著しく良くなかった気がする。秋田への出奔には、こうしたことひとつひとつが影響していたのだろうと思う。




登場文献      『 三百藩家臣人名辞典 』
研究文献(系図等) 『 奥州余目記録 』、『 平姓国分系図 』、『 古内氏系図 』
棟札等記録     宇那弥太大明神 : 1466年(文正元)、1536年(天文5)、1562年(永禄5)(仙台市青葉区芋沢)
          愛子諏訪神社 : 年不明(仙台市青葉区愛子)
          瀧門山洞雲寺( 日本三山寺 のひとつ ) : 青銅製の鐘 鋳造(1518年、永正15)(仙台市泉区山の寺)



菩提寺        白馬寺(秋田伊達氏)


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国分氏 | 桓武平氏 良文流 千葉氏庶流 の 氏族

2015-07-15 15:00:00 | 氏族 考察
 

城         不明
所領変遷      旧宮城郡南部(仙台市南部・名取市)?


時代        鎌倉後期?~室町前期(1363年)?
家祖        千葉常胤の五男 : 国分胤通
代々        初代~不明


出自(本姓)    桓武平氏 良文流 千葉氏系 国分氏

家紋        九曜
通字        胤、盛



著名な人物     初代 胤通
内訌        不明
入嗣        不明


水系        広瀬川水系?
隣接領主      亘理氏?、留守氏?



登場文献      『 吾妻鏡 』?、『 封内風土記』
研究文献(系図等) 『 平姓国分系図 』、『 古内氏系図 』
棟札等記録     不詳



源頼朝に従った 奥州征伐 の行賞として 千葉常胤 が与えられた所領の一部である 旧宮城郡南部を、五男の 胤通 が拝領した。(ちなみに 次男が 三春辺り?相馬?、三男が 亘理・丸森、四男が いわき?を与えられたとか、られてないとか。)諸説あるが実際には下向していないのではないかと見る。活動の記録が殆どないのは 国分氏 に限らないが、それにしても 平姓国分氏 については皆無である上、様々な混乱も見られる。 それに当時の出来立ての政府の指示の効力など、東北と言う辺境の地で如何なるものかと言うものだ! 関東から見知らぬ輩がやって来て今日からここからここまでが俺様の土地になったと宣言したところで誰も信じないのでは無いだろうか。




( たとえ、奥州藤原氏系統がそれまでの首領だったとして、その氏族が滅んだからと言って末端まで廃止の命令が届くのだろうかというものだ。なにひとつ関係なく日々の暮らしを送っていたのではないだろうか。)




※平成18年発行の『 仙台市史 』でも、平姓国分氏 に対して否定的な記述がなされていた。



ところで、胤通から数えて 6代目頃の 盛胤 の頃、飯田・日辺・今泉を領していたかもしれない国分氏は、1351年(観応2)の 観応の擾乱の東北版で、吉良貞家 とともに 畠山国氏・高国 & 留守家冬 と戦って勝利する。 しかし、国分誰某が戦ったのか等の記録も全く無く戦歴は判然としておらずそれにも増して、たった 10年程経た 1363年(貞治2)には、理由も分からぬままこの領地は没収され、相馬氏 に与えられるという不思議が起こっている。




平姓国分氏の居城は 小泉城 だったとか 千代城 だったとか諸説あるがそれも疑わしいと感じる。 小泉城陸奥国分寺 という政府直轄施設の至近に立地しているが故に相当の身分でないと居住するのは無理だろう。また 千代城 周辺は 伊達政宗 が入城し街割をして初めて立派な都市となったもので、それ以前は田圃等無く辛うじて畑作程度の出来る不毛に近い高台に過ぎないと察する、税など取れたものではない。




ゆえに 平姓国分氏 は 陸奥 を拠点とする事無く、もちろん下向すること無く、この地からフェイドアウトして行ったに違いないと思うのだ。 尚、『 国分淡路守 』に関する考察は、同ブログの 留守氏 を参照されたい。




菩提寺      未詳



 

 

◆ 小迫の延年


ところで、宮城県栗原市金成町小迫地区 に 平安時代 から伝わる 小迫の延年 と言う舞などを演ずる祭「 白山神社 例大祭 」( 併催 : 金成春祭り、毎年4月の第1日曜日開催 )がある。 延年 とは、平安時代室町時代僧侶稚児たちが寺院で盛んに行なっていた遊演舞台のひとつだが、小迫 のは 由来・保存スタイルともに独特、固有の特徴があるそうだ。 1979年(昭和54)2月3日、国の重要無形民俗文化財 に 指定されている。数ある演目の中の台詞に「 大同2年(807年) 」と出て来るそうだから、遅くとも 平安中期 には延年として成立していたと考えられる。 平泉藤原の延年と融合しながら年を経ることに完成度を高め時事ネタに発する舞を加えながら増強と洗練を繰り返し 小迫の延年 は、今のスタイルへと昇華した。



最後の演目『 馬上渡し 』は、源頼朝奥州征伐 の 帰途、この地において 野祭 を行ったものがそのまま真似られ残ったものとも言われる。源平合戦 のひとつ 屋島の戦い治承・寿永の乱、1185年間)で、那須与一 が 船上に掲げられた扇を射抜くという有名なワンシーン(『 平家物語 』" 扇の的 " )そのままである。 そしてここに 平姓国分氏 の先祖、千葉常胤 も登場する、与一の前に射手に指名された坂東武士の鑑・畠山重忠 も、奥州征伐で大活躍をしたという 和田小太郎義盛 も、後藤兵衛実基 も。 1000年の時を経て民へと受け継がれる彼らの名と行賞。いずれの武将もこの地に根を下すことは無かったが、何故か不思議な繋がりを感じてしまったのだった。



※ 参考 : 小迫の延年



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留守氏 | 藤原北家 道兼流 の 氏族

2015-07-10 15:00:09 | 氏族 考察
居館        岩切城、利府城 → 一関城・金ヶ崎城、水沢城
所領変遷      宮城県仙塩地域 → 岩手県一関・水沢地域
知行        20,000石(18代 政景、1604年 : 慶長9)



時代        平安後期(1187)~
家祖        伊沢 左近将監 家景
代々        初代~18代 + 水沢伊達氏 12代( 30代 留守邦寧 )


出自(本姓)    藤原北家 道兼流
家紋        菊桐
通字        家、(宗・村)



著名な人物     9代 家任、12代 詮家、18代 (伊達)政景
内訌        12代 詮家、17代 顕宗
入嗣        伊達家( 14代 郡宗、16代 景宗、18代 政景、22代 村任、23代 村景 )



水系        七北田川水系 → 磐井川(北上川水系)
隣接領主      黒川氏、葛西氏、国分氏/南部氏



登場文献      『 吾妻鏡 』
研究文献(系図等) 『 平姓国分系図 』、『 古内氏系図 』
棟札等記録     不詳



家祖の 家景 は、藤原道長 の兄・道兼の五世末裔と伝わる。 家景 については 『 吾妻鏡 』の 1187年(文治3)2月28日の条に、

「 右近将監家景、昨日京都より参着す。文筆に携わる者なり 」

とあるらしい。 源頼朝奥州藤原氏 を討伐する 奥州合戦 の 2年前、京都から 多賀の国府 に、陸奥留守職官僚 )として赴任した。 子の 2代 : 家元 から 留守 を名乗った。


南北朝時代、留守氏は当初南朝方だったがあっさり 北朝方 に転ずる。


鎌倉幕府以前の朝廷から遣わされた立場である事を思い出したとか、北東で隣接する 葛西氏 が鎌倉幕府と懇意であったことも影響しているかも知れない。 1351年(観応2)、観応の擾乱 が起こると 8代 : 家冬足利尊氏(北朝側)に就いていたゆえにホームの 岩切城畠山高国・国氏 父子を 迎え南朝方の 吉良貞家 と 戦う、が惜しくも陥落。


この 観応の擾乱 以降、留守氏は 平姓国分氏 と小競り合いを続けたと理解されているようだがどうだろうか。 平姓国分氏 は 南朝方だ、下向して土着していたら 尊氏 の政権下、駆逐されていてもおかしく無いのではないか。同じく 南朝方 であった北の 葛西氏 を一掃しようという勢いで 尊氏 は 1354年(文和3/正平9)、斯波氏大崎氏 )を送り込んでいる。


1353年(文和2)南北朝時代の史料( 8/29付 奥州管領・斯波家兼 の下僚が命じた文書 )に現れる「 国分淡路守 」は 現在、平姓国分氏 を指したと考える説がほとんどだが、情報化社会の今とは違う当たり前の混乱であろうと感じる。ここに出る 淡路守 は、留守氏 のことではないだろうか。 留守氏 は、国の施設である 多賀城陸奥国分寺 も管轄させれられていた職、家督が 淡路守 を名乗る事が多かったが、東北版 観応の擾乱 の勝者である 国分氏 と 名が取り違えられただけと言う気がする。


さて時を経て、伊達家からの 3度目の養子に 伊達政宗の父 : 輝宗 の弟( 18代 : 政景 )が迎えられて遂に留守氏は 伊達氏 を名乗るようになる一方、奥州仕置 で 領地は没収。 政宗の補佐役・重臣を務めて数々の功績を挙げ、1604年(慶長9)一関 2万石 を与えられた。 19代 : 宗利 時代には 金ヶ崎城水沢城 も拝領、水沢伊達氏の祖 となった。



幕末を迎えたのは 通算 30代 : 邦寧 の時。水沢伊達家陪臣(幕府から数えて家臣の家臣)だからと 士族籍 を許されず 帰農 を命ぜられた上に、水沢城 も明け渡すことに( 水沢県庁 )。 留守 へ 復姓 した 邦寧 は病身のため仙台に残ったが、せめて 士分 を保つためにと家中一同は北海道開拓へ。現在の 札幌市豊平区平岸 に入植した。


尚、仙台市内の住宅街には今も 留守 と表札のある民家が散見される。そういえば、米どころ・水どころの宮城を代表する酒蔵のひとつ、勝山酒造 の代々は、伊沢家、何か関係があるのかもしれない。




菩提寺       大安寺( 岩手県奥州市水沢区東町2、18代 : 政景 )
          ※ 虎哉宗乙 賛 による 珍しい肖像画が収蔵されているらしい。
戒名        18代 : 政景/大安寺殿高嶽玄登大居士





22代 : 村任 は、子の 23代 : 村景 に家督を譲って 新設の 中津山 城主 に転出している。 中津山領 は現在の石巻市(旧 桃生町 の 中津山・寺崎・城内・新田・給人町・神取・高須賀)、気仙道 沿いで 寺崎宿 があった街だそうだ。




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