SEPIA color

"跡" を 辿って。

門前館 跡 ・ 堂谷館 跡 | 黒川氏家臣 : ニノ関氏 ・ 成田氏 の 居館

2017-01-25 13:00:00 | 城館跡等
門前館 跡 | 黒川氏家臣の居館
宮城県富谷市二ノ関館山
 
 
 
 
築城・廃城年代   不明 ( 鶴巣城築城直後あたりか )
主な城主      黒川氏 家臣・二ノ関伊予 ( 二ノ関紀伊守 )

近隣河川      宮床川( 鳴瀬川水系 )
最寄街道      東西/宮床(難波・吉田)~下草~利府~多賀城
          南北/根白石~宮床~下草~吉岡


構成        不明
主な遺構      郭、曲輪、空堀
井戸跡       不明
 
 
 
 
 
右手に張り出した丘、正面の山頂部が城跡だ。 山頂には石の祠がありこの祠を中心として東西約50m、南北約20mの平場とこれを取り巻く数段の郭がある。『 仙台領古城書上 』には、東西四十三間・南北三十六間 城主は二ノ関伊予( 二ノ関紀伊守 )が 天正年中(1573~1592年)まで居住、伊達家の家臣である 二ノ関傳之助 の先祖 であると伝えている。
 
 
 
 
山頂部の祠の上に城館が建てられたのか、それをよけて建てられたのか。祠の下から宮城県には数少ない 経塚 がみつかっている( 県指定有形文化財・東北歴史博物館 蔵 )。1376年(永和2)の銘と埋納の趣旨が筒身に刻まれており、1798年( 寛政9 )、江戸時代に発掘されそれまでずっと、地区の御神体として崇められていたそうだ( 高さ22cm × 直径9.9cm)。南北朝時代のものとうから、黒川氏が来る以前のこの地域の仏教信仰を表してるものだ。
 
 
 
 
宮城県文化財課
 
 
 
 
 
この辺に 板碑 はほとんど残されていない。 ゆえに、こんな高尚な信仰物が出てくるのが不思議でならない。どんな願がかけてあったのだろう、しかも、何者が!かけたのであろうか。。。
 
 
 
 
二ノ関氏は、それこそ 黒川氏 の他の家臣同様、交通の要衝に城館を構えて、人の往来を取り仕切ったのだろう。 吉岡官衙 は随分前に使われなくなったにしろ、根白石野村宮床 など、豊かな村が多く点在する地域を行き来する人々はかなり多かったに違いないし、そこから 下草 の大きくて美しい街に、皆来たくて憧れてた民はすごくたくさんいたのではないだろうか。
 
 
 
 
奥州仕置(1590年)後 二ノ関氏は、経塚のみ保存して城館を自ら取り潰したのだろうか。城下に配下の者のように民・住宅が控えてるので、お家取り潰し後その中に紛れて農耕に従事したようには見えない。
 
 
 
 
どこぞ(伊達??)の家臣録によると、二ノ関家 は 黒川氏滅亡後は一時浪人だったが、運良く伊達家に召抱えられ仙台に住んでいた。二ノ関十郎右衛門は、元黒川氏家臣、黒川郡二ノ関(富谷市)の館主伊達政宗に召し出された黒川月舟斎の甥にあたる。元黒川氏家臣、黒川郡二ノ関(富谷市)の館主、隠居分五貫文を分与された者。伊達政宗代から仕え、後六貫文の知行となり寛文2年にはその子供の 伝右衛門 が継いだ。 二ノ関源治は、1836年(天保7)10月7日、仙台城下の32石の大番隊士となった 二ノ関駒治 の長男として生まれる。8歳の時に父を喪い家は貧しかったが母の愛情で養われた。幕末の頃になると 大郷町粕川 に領地を与えられ 中粕川 の 八幡神社 の北に屋敷を構えて住んでいたとあるそうだ。
 
 
 
 
二ノ関傳之助 と 二ノ関伝右衛門、どうやら同一人物で間違いないのではないか。
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
大郷町粕川は、2020年9月1日に来襲した台風19号により、地区全域が流されてしまった郷。【台風19号大郷町粕川
吉田川の決壊は、糟川寺・粕川小学校 のある辺りからはじまった。八幡神社はその北東にあるようだ。 その北側に居を構えたというから今なお子孫の方が周辺にお住まいなのかもしれない。 歴史ロマンだね。【 大郷復興再生ビジョン
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
登場文献      『 仙台領古城書上 』



解説設備      看板( 主に経塚について )
整備状況      山林、水道施設


発掘調査      不明
 
 
参考site        富谷あったか探検隊東北城館跡探訪記
          おおさと歴史探訪会 
 
 
 
 
---------
 
 
 

堂谷館 跡 | 黒川氏家臣の居館
宮城県富谷市一ノ関カナエ田
 
 



築城・廃城年代    不明
主な城主       不明


近隣河川      竹林川・宮床川( 鳴瀬川水系 )
最寄街道      根白石~野村~宮床~下草


構成        不明
主な遺構      堀切、土塁、土橋、空堀、門跡、土倉跡
井戸跡       不明
 
 
 
 
東西十三間・南北三十一間、東・西・北側は断崖に囲まれ、周囲には数段の郭が、頂部には本丸跡とみられる平場がある。『 仙台古城書上 』によれば、黒川安芸守の家臣・ 成田外記 が天正年間(1573~1592年)居城したとされる。二ノ関館に対してこちらは一ノ関、なのだが 堂谷館 と名乗るのである。
 
 
 
 
 
 
 
古来宮床川筋には山道が発達し、泉ヶ岳山麓の根白石・福岡・朴沢地方は黒川郡と特別に縁が深く------御所館/鶴巣館から見れば一・二・三ノ関は明らかに中山道・根白石を睨む構えで------国分氏の松森方面に備える布陣といえよう。
 
「一之関(イヅノシギ)二之関(ヌノシギ)三之関(サンノシギ)等村名の存する起源は往古関所のありし所より出てしにあらざるか又当〔高田〕御所と何等関係の存するものあらんか書して疑を存す」
(『 黒川郡誌 』)。

「一ノ関には堂屋城(成田外記)、二ノ関には門前城(二関紀伊)等の古館があり、(中略)〔三ノ関は鶴巣館直下の搦め手にあたり、館下町本町の地続きで、〕 古刹があって、いずれも古い歴史をもった土地であると推測される。(中略)
この一ノ関、二ノ関、三ノ関は、吉田川の支流である竹林川と宮床川の中流に位置し、その下流地域にかつて条里制を敷いたと考えられている田園が広がっている。そして、早くから堰、つまり関を設けて下流田園に灌漑用水を導いた水源になっていたと思われる。それを裏づけるように、現在も一ノ関、二ノ関、三ノ関にはそれぞれの流れを止める堰があり、下流の土地に配水している。地名の関は、この灌漑用の堰から生まれたものと〔も〕いえよう。」
(富谷町誌編さん委員会『 新訂富谷町誌 』富谷町
 
 
 
 
 
 
 
こちらも 黒川氏 の他の家臣同様、交通の要衝に城館を構えて、人の往来を取り仕切ったと思われる。二ノ関館よりは守りやすい立地であったろう、北側に寺も立地しており配下の民も少なく慎ましやかに治めていたと見える。
 
 
 
 
成田氏 は 奥州仕置(1590年)の後、どうしたのだろう。 外記 と言えば、仙台市青葉区に外記丁という通りがある。昔の宮城県庁構内東入口付近、花京院通から北一番丁までを指す。外記丁に通ずる北一番丁から北四番丁までの通りが 外記丁通 と呼ばれるそうだが、伊達政宗の時代に多くの武勇伝を残した 齋藤外記永門 の屋敷に由来する。 彼の数々の功績の恩賞として、自分の住む所に名を留める事を許され、その屋敷が周辺が爾来、外記丁 と称されたと伝える。そうした一連の物語とはまったく関係のないものだろう。。。
 
 
 
 
 
登場文献      『 仙台領古城書立之覚 』



解説設備      富谷市史跡標柱( 城跡東面側 )
整備状況      なし


発掘調査      不明
 
 
参考文献      『 黒川郡誌 』、 『 新訂富谷町誌 』
 
 
 
 

------

八谷館 跡 ・ 八谷古館 跡 | 黒川氏家臣 : 八谷氏 の 居館

2017-01-15 17:00:00 | 城館跡等

八谷館 跡 | 黒川氏家臣の居館
宮城県黒川郡大和町落合蒜袋字新田・落合相川蜂谷
 
 
 
 
築城・廃城年  1540年代~1590年代
主な城主    八谷氏( 黒川氏 の 家臣 )
 
 
 
近隣河川    善川・竹林川・吉田川合流点( 鳴瀬川水系 吉田川支流 )
最寄街道    奥大道( 多賀城〜岩切〜利府〜鶴巣〜吉岡 )、吉岡~駒場~伊賀~桑折
        吉岡~松島
 
        
 
 
構成      4つの建物を数度建て替え
主な遺構    掘立柱建物跡、門跡、溝・土塁・空堀、土壙・他
井戸跡     不明  
 
 
 
 
写真中央から右に突き出ている丘が、八谷館 跡 である。( 左は谷部を挟んで 御所館 である。) 撮影した方角は城跡の北西から。善川に架かった農免道路の橋が丁度丘の裾にかかって城跡を隠そうとしてるように見える。丘の向こうはすぐ高速道路の高架橋をくぐるようにっている。この城跡は高速道路に隣接している公園となっており、春になると一度は大和I.C.で降りて花見をしようと思わせてくれるのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
春は丘南部のすべてが、桜で満たされる。 高速道路をこの季節に走った方はそれが目の端に止まり、美しさに一瞬心を奪われそうになって戒めたことがあるのではないだろうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
平場には遊具が置かれている場所もあり、親が花見をしつつまたは木陰で休み子どもが遊具で遊ぶという姿もちらほら。 静と動の家族連れを満足させる公園は、古くは古代から人々に愛されてきた。。。
 
 
 
 



 
 
 
古墳~平安時代に作られたとみられる " 墓壙 " が発掘調査にて幾つか発見されており、その副葬品としていずれも碧玉製の管玉( ガラス製の完形品・紺青色 )が9点出土している( 長さ1.6~3cm、直径5~9㎜ )。 墓壙の特徴でもあるが、この埋葬施設はその痕跡がみられないことから他の多くと同じように木棺のようなものと考えられ、形態としては土壙底面の埋葬施設を置いた部分の断面が舟形状をしていることから割竹型木棺の可能性も考えらるそうである。また、土師器・須恵器・赤焼土器なども出土しているので、なにか祭事に使われていた場所だったのだろうか。
 
 
 
 
 
 


黒川郡大和町の蒜袋地区、仙台平野および松島、利府方面から大崎耕土に通じる交通上の重要な位置を占める立地。前面の平野部を流れる吉田川や善川の自然地形、大小の谷や沢が複雑に入りこんだ小丘陵の尾根上にを考慮に入れた山城的な性格を持った場所だ。 
 
 
 
 

■ 構築について ( 発掘調査結果による )
館跡は背後に丘陵をひかえ、前面に沖積地や善川のみえる南北に長い丘陵先端に立地する。館の構築をみると、丘陵の東西にある沢地に積み土による整地を行なって上段と下段の平場を造成し、その平担部の縁辺に土塁をめぐらしている。同時に北側下段平場の斜面に空堀を掘り、その掘り上げた土を利用して堀の外側に土塁を構築している。さらに上・下段平場の東西斜面には積み土整地による1~2段の腰郭を配している。これらの遺構を調査した結果、通路と土塁の間で部分的な改築が認められるだけで、館の拡張などの著しい変化は認められなかった。このことから、内部遺構の配置の変化以外は館の形態にあまり手を加えないで、ほぼ初期の範囲を利用していたと思われる。

 
 
 
 
発見された遺構は、掘立柱建物跡、土壙・門跡・溝・土塁・空堀など、15世紀頃に築造し16世紀初頭まで使用されたと考えられるとのことだ。
 
 
 
 


調査区域の北半にある平担面で多数の柱穴が検出された。建物が数回、同じ場所に立てかえられたため、重複個所が多い。どの建物に付属するかわからない柱穴もあるが、全体で20棟前後の建物を推定している。また、平担面と斜面の境に通路および門と推定される柱穴が発見された。通路は斜面を凹形にほり下げ傾斜をゆるめている。門は改築が認められる。北側および西側の丘陵の周縁と斜面に空堀と土塁が断続的にめぐっている。空堀は浅いが、斜面を急にして山城としての性格を強めている。土塁は高い部分で1mと小規模である。
また直径1m、深さ60cmの貯蔵穴(?)の中から炭化米が出土した。出土遺物は、元・明代の青磁、白磁を含む国内産の陶器・古銭・鉄釘・鉄刀・石ウス・硯などである。
出土品からみると15世紀以降のものが多い。遺構についても重複および改築がみられるので、100年の存続が考えられる。大ざっぱにいって、室町時代後半といってよいであろう。
丘陵の北端の近い所で、古墳の主体部が検出され、内部から直刀・鉄鏃・装身具(管玉・ガラス玉・コハク玉など約20点)が出土した。しかし、墳丘および周溝は確認できなかった。

 
 
 




 
 
 
 
 
館主について、『 仙台領古城書上 』( 延宝年間 )、『 仙台領古城書立之覚 』などによると、黒川氏一族の『 八谷冠者…… 』となってはいるが、それ以上も以下も記録は一切ない。 一族とはいうものの家中の者との意味であり、当然のことながら家臣のひとりを指していよう。 御所館 の 前面、当時の交通の要衝( 多賀城 ~ 岩切 ~ 利府 ~ 吉岡 ~ 駒場 ~ 三本木 ~ 大崎、奥州街道が整備される以前の道路 )を守る機能を持たされていたと感じる。
 
 
 
 
また、この土地(蒜袋に南接する相川~落合地区)には、相川氏 が居住していたと『 黒川氏大衡家族譜 』( 岩手県水沢市の大衡家に伝わる江時代初~中期かけての口伝 )より伝えられており、相川~落合地区の中心に熊野神社があることも示す通り、相川氏がここの土着で黒川氏に従った様子が想像できるような佇まいを持っている気がする。
 
 
 
 
 
 
 
登場文献    『 仙台領古城書上 』、『 仙台領古城書立之覚 』、『 黒川氏大衡家族譜 』
        『 八幡氏系図 』、『 伊達正統世次考 』、『 余目記録 』
 
 
解説設備    看板
整備状況    公園化、桜の名所
 
 
発掘調査    昭和 47 年 11 月1日~昭和 48 年6月3日
        宮城県教育委員会・日本道路公団、15,000 ㎡
 
 
 
 
---------
 
 
 
 
八谷古館 | 城主不明
宮城県黒川郡大和町落合相川上袋・大沢
 
 
 
 
築城・廃城年  不明( 鎌倉時代か )
主な城主    不明、地元豪族( 相川氏?? )か
 
 
 
近隣河川    善川・竹林川・吉田川合流点( 鳴瀬川水系 吉田川支流 )
最寄街道    奥大道( 多賀城〜岩切〜利府〜鶴巣〜吉岡 )、吉岡~松島、吉岡~駒場~伊賀~桑折
        
 
 
構成      不明
主な遺構    不明
井戸跡     不明  
 
 
 
 
八谷館 跡 の南、高速道路を潜ってすぐ左側の藪の中がそれと思われる。 ( 前述上記のように )八谷館に古代から使用されてる形跡があると同様に、ここもそうだと考えられる。 善川水系のほとりには大衡村の平林地区( 埋川 )にまで縄文遺跡が幾つか出てくる。中流域で他二つの川の合流点がすぐそこにあるこの立地に、地元の豪族が居を構えないわけがない。さらに、山の裏が御所館までにかけて大きな沼が数個存在しており、つまり、この辺が 井戸(飲み水の補給)に困らない水源に恵まれた丘であったことは確かで、築城に最適な土地である。 また、( 前述上記のように )八谷館から古い墓壙が見つかってることから、太古の昔から祭礼などにも使われてたのかもしれない。他方、南向かい側の山中には、鳥屋八幡古墳1号・2号 (6世紀/古墳時代後期)がある。予想に難くないだろう。
 
 
 
 
黒川氏 は、1530年代前にこの地へやってきて 御所館 を構えた。 『 黒川氏大衡家族譜 』や『 八幡氏系図(平姓八幡氏系図??)』には、1440年(1540??)に 黒川氏房( 黒川氏4代 )が、宮城郡高崎 の 高崎盛忠 とここ、相川地区で対戦したことが記されているそうだが、口伝が基になっているが故に年号に誤差がみられるのだろうか、いずれにしろ 八谷古舘 は黒川氏以前の者の館であることには、相違なさそうである。
 
 
 
 
 
登場文献    なし
 
解説設備    なし
整備状況    山林
 
 
発掘調査    なし
 
 
 
--