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"跡" を 辿って。

南目城( 南目舘 ) 跡 | 国分氏 の 居館

2016-03-01 13:00:00 | 城館跡等


宮城県仙台市宮城野区南目館




別名       北目館?
築城・廃城年   1350年代後半~1601年( 室町時代中期 ~ 仙台開府 : 慶長5 )
主な城主     国分氏、喜多目氏


近隣河川     梅田川( 七北田川水系 )
最寄街道     奥大道→東街道(西700m)
立地       街道筋から少し入った田圃の真ん中


構成       主郭、二郭
主な遺構     消滅?




南目城( ミナミノメジョウ・南目舘 )は、仙台市宮城野区榴ケ岡の東方に広がる古来の 歌枕 の地 " 宮城野 " と称された自然堤防上に位置している。『 仙台領古城書上 』では、東西100間・南北70間( 東西 170m・南北最大120m )、城主は仙台藩士 喜多目彦右衛門の先祖・喜多目紀伊(守)。『 奥羽観蹟聞老志 』や 『 奥州名所図会 』は、喜多目紀伊 の前に 結城七郎 が 居住したとも伝える。


1602年(慶長7)、前述の 喜多目彦右衛門 は家督を継いで間も無く、栗原郡 三迫 沼倉村( 宮城県栗原市栗駒町沼倉 )に 知行替え となった。 仙台開府( 1601・慶長5 )の翌年、おそらくその間も無く廃城となっただろう。 陸上自衛隊仙台駐屯地が所蔵するこの土地を撮影した古い写真には、壇状の高まりと2本の木が田圃に囲まれて立っている。また「 明治35年1月調書 南目館址( 作 : 熊谷万山 ) 」という 絵図・鳥瞰図 にも 田圃の中に壇状の高まりと3本の木と祠、方形に張り巡らせた広大な水堀が描かれている。


廃城後そのまま放置されていた訳では無い、当然の如く周囲と同じ様に畑になって行ったようだ。 北側と南側の土塁は壊され、堀は埋められた( 明治中期の地勢図による )。 明治中期、宮城野原一帯は 軍の練兵場 だった。それが自然に北進して 1938年(昭和13)城跡は 陸軍造兵廠 の 敷地に。そして現在、陸上自衛隊仙台(苦竹)駐屯地 となっている。


発掘調査等は行われていないだろうし、遺構は相当破壊されていると思われる。現在僅かに面影の残るのは " 南目館跡の碑 " の下の、高まりの " 壇 " だ。前述の「 明治35年1月調書 南目館址( 作 : 熊谷万山 ) 」に、3本の木と祠とともに描かれた壇を彷彿とさせ、主郭の跡ではないかと推理されている。


南目城 跡 の中心部の字名は「 舘前 」、北西が「 舘裏上 」、東が「 舘裏下」、舘前の南は「 舘南 」、西が「 舘西 」。 舘前 の前はきっと表と言う意味に違い無い。舘裏上 は 宮城野萩の雅やかな野原、他は主に畑だ。のんびりとした浄土のような世界の中心に煌びやかな政治の中心が聳えていた、そんなイメージを感じる。


そう言えば 南目 と言えば、観応の擾乱 : 東北版(1349~1352)・岩切合戦 後の 1353年(文和2)、国分淡路守 宛に 斯波家兼 の下僚から「 沢田氏 が そこから動かないからどうにかしろ、石川兼光 にやるつもりなんだから。 」という 通達 があった。( この件の 国分淡路守 について 本ブログ では 国分氏 ではないとの見解を示した。) そしてその 沢田氏 は他に、 " 大椽沢田平次 " または " 陸奥大椽沢田平次 " と表現されているようだ。「 大椽 」とは一体何を表現する 苗字の一部?






大椽氏
  常陸大椽 となったことに由来する 坂東平氏桓武平氏国香流 嫡流、通字 は 幹 = もと )だがしかし在庁官人として君臨したことはないので根拠不明、しかも庶流には 石川氏 がいる。

大椽
  日本の律令制度の四等管の内の三等管。 律令制度は、飛鳥時代の7世紀後半~8世紀( 701年大宝律令 )にピークを迎え、桓武天皇 が 廃止を命じ、そこからゆるくフェイドアウトして 10世紀には完全消滅。 平安後期辺りからは転じて、芸人 の称号 に。 商人刀匠 等にも使われた。浄瑠璃の太夫には代々受け継がれている。






芸人……。 ところで、 田楽猿楽 は 平安時代 後期 から 室町時代 に至る頃に、寺社 の 法会 や祭礼 に 重宝されていた。西洋教会のステンドグラス同様、経典を物語化して民衆に分かりやすく伝えるのに役立った。発展して 座 が 寺社の保護下で組織されるものもあったらしい。 あれ? そう言えばこの地、陸奥国分寺の至近にあるんだよなぁ。




ちなみに " 壇 " の西側にある「 英魂碑 」のそばには、正応 3年(1290) 銘の 板碑があるが、これは 鎌倉時代後期 に ここで 供養行為 が行われたことを示している。



小泉城の項 でも理解した通り、国分寺の影響を強く受けた地域には極端に板碑が少ない。 若林地域よりも距離的に近いこの場所、歌枕である宮城野原以外、地形的にさして特徴もないのに神聖じみた扱いを匂わせている、意味深な板碑である。




話を戻そう。 滅多に見られ無いほどのこの規模には、特別感が半端ない。 前述の通り、本城が出来る前からスペシャルな土地でもある。「 明治35年1月調書 南目館址 」の 絵図・鳥瞰図 には、二重の土塁や塀、南端のセンターには橋が描かれている。喜多目氏 の 居城以前は伝承通り、国分氏( 結城七郎 )の居城だったと言うよりは、国分領の政治の中枢として機能した城では無いだろうか。多賀城の衰退に比例して盛大になった。時代を経て、国分領の中枢が移動するに従い、土地は家臣に分け与えられた。上物は広大な土地に似合わず質素なものだったに違い無い。


余談だが、北目城 跡 が 仙台市太白区東郡山2丁目にある。ここが北にあるのに南目で、南にあるのに 北目 だ。 館主の 喜多目氏 は元は 国分能登守盛氏 の 一家で、南目 と言う苗字だった。 伊達家に属すると 政宗 から 喜多目(北目)の苗字を拝領。それが国分領攻略のための拠点・北目城 に由来するのかどうかは分からない。




登場文献     『 仙台領古城書上 』、『 奥羽観蹟聞老志 』、『 奥州名所図会 』


解説設備     有り(古い解釈のもの)、駐屯地内
整備状況     陸上自衛隊苦竹駐屯地、自衛隊宿舎


発掘調査     なし




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2 コメント

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Unknown (末永能登守14611514)
2016-03-11 15:31:30
このたびは当ブログにコメントありがとうございました。

思案の末、お返事いたしました。拙い私見ではありますが、参考になれば幸甚です。
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Re:Unknown (xxx_sepia_color_xxx)
2016-03-12 20:47:04
ありがとうございます。誠にすんなり解せるお答えでした。さすがです。今後ともよろしくお願いします。
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