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"跡" を 辿って。

八乙女館 跡 | 国分氏家臣 : 八乙女氏? の 居館

2015-10-25 13:00:00 | 城館跡等

宮城県仙台市泉区実沢字道祖神


別名      山村西館、山ノ内西館
築城・廃城年  不明、1300~1400年代らしい
主な城主    八乙女淡路守盛昌(主君 : 国分氏? )


近隣河川    萱場川、八乙女川、七北田川(七北田川水系)
最寄街道    古内~実沢~西田中~芋沢
立地      集落奥

 
構成      不明
主な遺構    曲輪、土塁、空堀、虎口
井戸跡     不明



仙台領内古城書上 』・『 安永風土記 』ともに 城主は 八乙女淡路 としている。 八乙女氏 は 国分氏 の家臣であり 松森氏 と同様、分家として分かれた国分一族でもあったようだ。 ( 写真は北側より撮影 )


一説に、八乙女氏 の初代は 平姓国分氏 5代目 : 重胤 の子・盛昌 ではないかとの説があるが、ここでも考察した通り、ほぼ間違いなく架空の情報だろうと思う。だからと言って代案があるワケではないが、取り敢えずは 八乙女氏 が 国分氏系統 であることは古書に散在しているのでそう理解しておこう。


この城跡の特徴は何と言っても城の北側を流れる萱場川が削った断崖絶壁とそして東で合流する三叉の川だ。 何者をも強固に拒む天然の要害、その頂きに建ったであろう城館は城の南に存在する大切な何かを護るべく隈無く辺りを見渡し続けていたように感じられる。 道理で、城の南への唯一の入口、東側の川の三叉の少し手前には今尚、道祖神 が佇んでいる。(古くからある地域の集会所「 実沢川西集会所 」もある。) 道祖神と城館の時系列の前後は別として一体、この南に何があったのだろうか。


搦手 は西側だ。『 搦目 』という集落までもがそこにあり、屋号が「 搦目 」の家までもが未だ存在しているそうだ。そしてその地域の裏山は『 西山 』と呼ばれていた。城から見た逃げ場としてそう呼への注目を回避している。









さて、実沢 は畑作の豊かな集落で、江戸時代になると 300 以上の戸数を有する豊かな村となっていたようだ。そんな環境の地だからこそ古くから治める領主もいて城もあるはず、だが、先の 山野内城 でも示した通り、この辺は城が乱立しすぎている。 勝手な想像だがもしかすると他、長命館 と ここ 八乙女館 は、それ以外よりもっと早い時代の同時期に隆盛を誇っていたのではないかという思いが湧き起こった。( 長命館 からの15世紀より古い出土品は確認されていないのだが。)




実は、『 仙台領古城書上 』にある「 八乙女城 」はどうも、南の「 館屋敷 」にあった城館を指しているらしい。 『 仙台市史 』にもそう評されている。現在は蕎麦屋や民家となっている辺りだが未だ堀なども確認できるとか。 その「 館屋敷 」の場所に先の「 何か護りたいもの 」があったのだろう。鎌倉時代 に 八乙女館、戦国・江戸時代で 館屋敷 ではないのか。








さて、『 伊達世臣家譜 』によると国分氏滅亡後の 1588年(天正16)、八乙女淡路の子・善助は仙台市藩士として伊達配下に入る。そして『 八乙女家系略 』には「 北根村の七北田村境、八乙女に転出した 」とあるようだ。『 仙台市史 』にも確定的な表現がある。


しかし、家格はただの藩士のひとつだったようで、門閥にも 八乙女氏 の名を見かけることが出来ない。 と言うことは平民よりは格が上だが何の庇護もない身分の士族という感じだろう。 おそらく、松森にも近いこの地を八乙女氏の祖先が一度は治めていてすでに地名は付いていた、そんな土地に移り住むことで、少しでも気持ち的な優位性を感じたいということだったのではないかと思わずにいられない。 江戸幕府成立後は、伊達藩は七北田を仙台城下の次の宿場とし、八乙女 の山林には刑場を設けた。




登場文献    「 奥州古城書上 」、「 安永風土記 」、「 封内風土記 」、
        「 宮城郡誌 」、「 仙台領内古城・館 」、「 泉市誌 」


解説設備    小規模解説版有
整備状況    畑、山林


発掘調査    1996年(平成8)、東北福祉大学 吉井ゼミナール