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"跡" を 辿って。

小泉城 跡 | 国分氏 の 居城

2016-02-10 13:00:00 | 城館跡等


不明、 宮城県 仙台市 若林区 遠見塚1丁目~古城3丁目?


別名       結城七郎館、結城館
築城・廃城年   1100年代~1500年代(12世紀~16世紀)
主な城主     国分氏


近隣河川     広瀬川
最寄街道     東山道→奥大道→東街道( 太白区郡山~宮沢橋~国分寺西~燕沢・小鶴~多賀城 )
立地       城下街の中心

 
構成       不明
主な遺構     消滅?




出処不確かだがある文献によれば「 1480年(文明12)に 国分盛行(想定11代)が 子の 国分盛綱(想定12代)に家督を譲り 小泉村 に別荘を作って隠居 」と初出、『 仙台領古城書上 』には「 此( 松森 )城主 国分彦九郎盛重小泉村より取移 」とある。 この両方を指すのが 小泉城 なのだろうか。


どうも 小泉村 には 2つ城があったようだが、それらを何城・何館と呼称していたのか明らかでない。


[1]. " 若林古城 " ・" 国分殿古城 " (『東奥老士夜話 』、『 封内名蹟志 』)

[2]. " 結城七郎館 "、東西40間、南北38間、国分能登守 まで居住(『 封内名蹟志 』)

[3]. " 要害 "、東西58間、南北38間、1576年(天正4)国分彦九郎盛重 が 築く、千代城より移転。
または 城主 堀江伊勢、国分彦九郎盛重も居住(『 国分千代御城之事(千田家資料)』他)


[2]~[3] は 1500年代(16世紀)、[1] は 鎌倉時代(1200年・13世紀前後)から 若林城 築城(1627年・寛永4)までの年代を含み、以下のように仮想・整理出来る。


[1]. 盛行 及び代々 の 隠居館 で 若林城 の 前身

[2]. 天文年間(1532~1555)まで居住の館( 国分能登守 は 宗政(想定14代))

[3]. 天正年間(1573~1592)居住の館


これらはいずれも規模から見て 国分氏 の 本城 ではないそうだが、2005年(平成17)月末時点で報告書が刊行された 『 南小泉遺跡発掘調査(~第43次)』のうち、第16次調査で、拡張・防御性の強化・館としての連続性(13世紀~16世紀)が認められる大規模な遺構が発見された。 ネッツトヨタ仙台遠見塚店 の 西から北西のエリアにだ。 この遺構、堀跡が16世紀半ばから再利用されているとのことで [3] を該当させても不自然ではない。 [3] は 松森城 へ 拠点を移転したのちに家臣に 管理させる名目で建て直したとも受け取れる。 『 国分千代御城之事(千田家資料)』に出て来る 堀江伊勢 は、のちに謀反を起こす 堀江長門 のことだろうか。 盛重 はそれほどまで部下の統率に苦心していたことが浮かび上がって来る。


地政 から考えるにおそらく常に 小泉村 にある城が継続して、嫡流による 政治の拠点 となったものではないだろう。 想像するに 国分家代々の隠居所・ブルジョアジー的地位を許された家のみが居住出来る城であり、地域 だったのではないだろうか。 古くから 官衙 が置かれた 郡山 に近く、古代領主の大規模な 遠見塚古墳雷神山古墳法領塚古墳 )が数ある古くから華やかな村、それが 小泉村 であったに違いない。 周囲一帯にはまさに 12世紀後半から16世紀に至る 国分氏庶子 や 家臣 のものと見られる 屋敷跡 の数々が発見されている。 尚、12世紀後半からの屋敷跡があるにも拘らずこの地域に 板碑 が 明らかに少ないのは、国分寺 が しっかり機能していたからに他ならないらしい。




登場文献     『 仙台領古城書上 』、『 封内風土記 』他


解説設備     なし
整備状況     なし、住宅地


発掘調査     参考 : 南小泉遺跡/2005年まで(~第43次)






遠見塚1丁目




古城3丁目



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