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"跡" を 辿って。

山野内城( 山野内館 )跡 | 城主不明( 山内須藤氏?)

2015-09-15 15:00:40 | 城館跡等

宮城県仙台市泉区実沢字六堂屋敷


別名      山邑城?
築城・廃城年  不明~1570年(永禄13・元亀元)
主な城主    不明



近隣河川    七北田川
最寄街道    八乙女~実沢・根白石間

 
構成      不明
主な遺構    曲輪、他
井戸跡     不明 




仙台領古城書上 』によれば、山内須藤刑部 が 1558~1570年(永禄元~13・元亀元)に居城とあるようだ。 山内須藤氏 とはいかなる人物か。 東には 長命館、西に 八乙女館、北には 八乙女氏の菩提寺の 熊野神社 が立地している。いずれもごく至近であり、単独の領主であるとは地政上も理解し難い。八乙女氏 同様 国分氏 家臣なのだろうか。




山内須藤(山内首藤)氏

藤原北家 秀郷流 首藤(須藤)氏 一門、後三年の役でも活躍した 鎌倉幕府 御家人。
土佐 山内氏 を筆頭に、日本全国に子孫が散らばっている。
奥州の 山内須藤(山内首藤)氏 は、葛西氏 に滅ぼされた系統と、蘆名氏 傘下の系統、伊達氏 傘下の系統の大きく 3つに分けられる、らしい。




仙台市史・仙台市 HP 掲載の史実によれば( 若干 "盛られてるな" と主観的に思う部分を除くと )、1584年(天正12)に 山内須藤刑部 は 根岸城(大年寺山、仙台市太白区茂ヶ崎2丁目)で 結城七郎 と戦い、山野内館杭城館 へ敗走、福岡( 仙台市泉区、杭城館近隣 )で自刃したとある。


宮城郡誌 によれば、山内須藤刑部 は 源頼朝 の家臣で、定安 の子孫・定信 が 結城氏朝 との戦いを繰り広げて 1586年(天正14)に自刃したとあるそうだ。


他に、山内須藤刑部少輔定信 の生没を 1558~1592年(弘治4~天正20)とするものもあるらしい。




一方、葛西氏 の一族・末永氏 を考察していると見られるブログ には、1511~1513年(永正8~10)に起きた 永正合戦 で 葛西氏 と 山内須藤(山内首藤)氏 が(桃生郡/旧河北町で) 領地を巡って争った形跡が描かれており、ここで 山内須藤氏 は滅び、落ち延びた者が 国分領 に亡命したとか 寺崎氏( ←大崎氏の誤植?) を頼ったとか その後の諸説 を挙げている。


他方、会津側を見てみれば、蘆名氏 は、あいも変わらず家内の統率に苦心していた。16代当主・盛氏 亡き後の 1584年(天正12)、政宗 が家督を継いだ 伊達氏 の南進にも脅かされている最中、後継が側近に暗殺されるという大事件が起こった。そして 蘆名氏 が名実共に滅ぶ 摺上原の戦い は、この僅か後 1589年(天正17)のことである。


会津の 山内須藤氏・嫡流の 氏勝 は、1589年(天正17)の 摺上原の戦い では、蘆名氏 が 佐竹氏側に落ち延びてから軍を動かすなどしたり、それ以前の小競り合いにも参戦しなかったりしており、その微妙にタイミングをずらしたり無視したりする具合から、蘆名氏 には完全服従していなかった様子も窺える。



因みに、藤姓国分氏 の祖先である 陸奥長沼氏 が所領したのが 陸奥長江荘 の 現 会津田島(南会津町)。会津の 山内須藤氏 が所領したのが 同じく 陸奥長江荘 の 現 只見町金山町三島町である。




さて、ここまで列挙した説のどの辺の 山内須藤氏・庶流 がこの城に " 関係 " したかは自由に想像するとして、実際に居住していたか否かについてここでは疑義を呈しておきたいと思う。




『 山内須藤刑部 は、(行き着く先の)根岸城 辺りで戦闘したものの戦局芳しくなく 山野内館 にて戦陣を立て直そうとしたが失敗、山深い 杭城館 へ逃れたが敢え無く玉砕、首だけは取られまいとしたのか、泉ケ岳方面(仙台市泉区福岡)へ分け入り自害(須藤坂)した。亡骸は近くの 林泉寺 に葬られている。』




尚、城跡北西には 万人渕 がある。明治26年の調査で良質な炭酸が湧き出ている事が分かり、大正時代にはラムネ工場の 大日本鉱泉(株)が稼働していた。(昭和15年には飛行機の消化剤を製造する軍工場に。) 現在の登城口付近には工場で使われていた井戸跡も残っているらしい。伝説では、山内須藤刑部 が敗走した後投身した家中子女らの恨みが泡となって出続けていると言われるが、後付けの話でしかないだろう。敵に追われているというのにわざわざ招き入れるかの如く居城に戻るバカな殿様はいないのではないだろうか。










登場文献    『 安永風土記 』、『 封内風土記 』、『 奥羽観蹟聞老志 』


解説設備    情報標識若干有り
整備状況    山林、階段状登山道若干有り


発掘調査    不明


参考 site 「 山内氏勝の墓について 」みちのく悠々万歩計 より
昭和村の歴史 」(福島県大沼郡)



長命館 跡 | 城主不明

2015-09-10 15:00:33 | 城館跡等

宮城県仙台市泉区加茂2丁目


別名      深沢城?
築城・廃城年  不明、1350年代~?
主な城主    不明、国分氏?


近隣河川    七北田川
最寄街道    八乙女~実沢・根白石間

 
構成      不明だが結構な規模
主な遺構    曲輪、空堀、土塁、他
井戸跡 不明


仙台環状線を八乙女から西走し最初の坂を登り切ったところにある加茂団地、ここの北東部にある公園全体が 長命館 である。春は桜も美しく、櫓や四阿、遊歩道が整備されウォーキングや散策等の人がいつも行き交う。


公園のその姿自体によりここが城跡であることを如実に表している。かなりの規模感があるのでさぞや有名な武将が居住したに違いないとは、小学生でも思うだろう。 しかしあいにく城主は不明、使用年代も 1200年代(13C)~1600年代(15C)と推定されてはいるが、発掘調査当時の技術では確証には乏しい。どのように掘ったのかわからないが、陶器類は1400年代のものしか出土しなかったらしいことも不思議である。


『 吾妻鏡 』に、「 国府中山上物見岡 」という表記があるらしいがここが当該地かどうかは分からない。また 1700年代の 留守氏関連文書 中には、『 国分勇者長命別当 』の名が出てくるので、国分氏の家臣に長命と称される武士がいただろうとは認識されているが、規模的側面からここに居城したとはどうしても思えない。


1590年の 奥州仕置 において廃城になっていないようだから、それ以前にはすでに使用されなくなったということと見受けられる。勝手に想像を膨らませると、下向間も無い 国分氏 "本体" の居城だったのではなかろうか。


観応の擾乱・東北版か勃発した 1351年(観応2)、北朝方 の 留守氏側 に対して 南朝方 の 国分氏側 は 岩切城 で勝利した。しかし全国的には 足利尊氏(北朝方)が優勢であり、所領を分捕る事など儘ならず右往左往しながら僅か 3年後の 1354年(文和3)、足利一門の中でも名家の家系にある 斯波氏 が 中新田(宮城県加美郡加美町)に送り込まれてくるという情勢だった。


この城の本丸に想定される曲輪は東側、南東側を向いている気がする。この実沢・根白石の豊かな土地が、留守氏 や黒川氏、斯波氏 に攻め込まれないようにじっと目を凝らしているかのようにも見えるのだ。




登場文献    留守氏関連文書


解説設備    情報標識有り(北側)
整備状況    公園化(桜の名所)


発掘調査    1984~1985年(昭和59~60)、仙台市教育委員会?










下草古城 跡 | 伊達氏庶流 の 居城

2015-09-05 15:00:00 | 城館跡等

宮城県黒川郡大和町鶴巣下草西( 下草十文字地区は含まず )


別名他     下草城
築城・廃城年  平安時代~1616年(江戸時代初期)
主な城主    黒川氏?、伊達宗清( 政宗の三男、1611~1616年 )
知行等     38,000石( 宗清時 )


近隣河川    竹林川( 鳴瀬川水系 )
最寄街道    奥大道(多賀城~岩切~鶴巣~吉岡~蒜袋)・奥州街道


構成      本丸、二の丸、城下町(鍛冶屋も)
主な遺構    堀跡、水田跡、掘立柱建物跡、鍛冶遺構
井戸跡     37基(うち1基は井戸枠有り)




Google Earth でも、Google Map でも、杜の都ゴルフクラブ( 宮城県黒川郡大和町鶴巣北目大崎具足沢64-5 )の北側の広大な田圃の中に存在する 堀跡 を確認することが出来る同城跡。発掘調査の結果、堀の内側の南に、格式高い本丸 の建築物があり、そこから南の堀に橋を架けた通路があって、その先一帯に 城下町 があったことが分かっている。 つまり、竹林川南岸から現在の下草十文字集落までの田圃一帯が城と城下町の跡である。



本丸跡の使用年代変遷は定かではないが、城下町自体は 平安時代 から存在していたことが確認出来ている。故にもしかすると本丸跡も平安時代から城的な建築物があったかも知れない。 誰の、どんな城だったのだろう。





一方この城下町は、" 郡都 " と言われるほど華やかな街だったとも言われる。 当時の政治状況を考えると、多賀城吉岡官衙吉岡東官衙遺跡、奈良~平安時代初期の役所跡、宮城県黒川郡大和町吉岡東2丁目9、県指定史跡 ) との遣り取りがあるのは必至だろうから、多賀城~利府~鶴巣~下草~舞野~吉岡と言うルートが使われていたことが考えられる。 江戸時代の奥州街道は、宿場町を繋いで発達したのだから、それよりも古い街道としてこのルートがメインと推察して不思議はない。 当時の役人や旅人にとっでみたら、山道を抜けて初めて開けた場所に存在した煌びやかで特別な場所に見えたかも知れない。





同じく鳴瀬川水系 吉田川 及びその支流の 善川 とは違って現代では全く氾濫が見られない 竹林川 だが、同城は良く水害に見舞われたと郷土史などに記載があるらしい、本当だろうか。


( ※ 2015.9.11 関東・東北豪雨 の際には、未明に本遺跡の上流域で、宮城県最初の河川越流・国道4号線の冠水(一時寸断)が報道された。また、2019年の台風19号時の豪雨でも、主流・支流の用水路ともに、前回以上の氾濫がみられた。)


葛西大崎一揆 の際には、伊達政宗 と 蒲生氏郷 との会談が行われたと言うから、迎賓館 的な使い方がされていたと思われる。



最後の城主・伊達宗清が吉岡に移転して以降廃城になり、同時に城下町も消えたのか、いつのタイミングで? どんな衰退を経て? 田圃に溶け込んだ変遷を想像して思いは様々な時代を駆け巡る。 国道4号線沿いのバス停は今も「 下草入口 」となっている。下草集落の人々の足を守るバス停名として命名されただけではないこの土地に残る遠い記憶がそうさせている気がしてならない。



解説設備    なし
整備状況    田圃の中に堀跡の水溜りが残されている(護岸工事済)


発掘調査    1995・1999年、宮城県教育委員会





右写真の左手の建物は、下草古城を意識して建てたと言う「 大和浄化センター 」。2015年9月12日に周知事業の 秋フェス が企画されていたが、前日の 9.11 関東・東北豪雨で浸水被害に遭ったそうだ。