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"跡" を 辿って。

山内首藤氏( 奥州山内氏・会津山内氏 ) | 藤原北家秀郷流首藤氏

2015-08-15 13:00:00 | 氏族 考察
城         不明
所領変遷      相模国山内荘(現戸塚区・栄区の一部)→備後(広島県東部、甲山城?)
知行        不明


時代        1000年代〜1500年代
家祖        山内資通(資清?)
代々        奥州山内氏 : 経時、〜定安・定信?


出自(本姓)    藤原秀郷流首藤氏
家紋        白黒一文字


登場文献      『 吾妻鏡 』、『 平家物語 』、他
研究文献(系図等) 不詳
棟札等記録     不詳




首藤資通 は、前九年の役(1056〜1062年・天喜4〜康平5)・後三年の役(1083〜1087年・永保3〜寛治元)の際、源義家八幡太郎義家 )に従った人物らしい。その孫にあたる 首藤俊通 はなんでも、幼少時に奥州に12年居住しており、しかも 安倍貞任・安倍宗任 の討伐に加わったと言うからどうなんだろう、資通の遠征に一家が奥州まで付いて来て、そこで子や孫までが成長したとでも言いたげな背景だ。




その奥州に深いゆかりのある 首藤俊通 が、相模国山内荘 を本拠として 山内首藤氏 を称したのが初現出。こちらは 源義朝( 頼朝・義経の父 )に従って 保元の乱平治の乱 に参戦したが、1159年(平治元)12月28日に京都の四条河原で平家方にあっけなく討たれている。後継は(兄・俊綱や俊秀も戦死により)、山内首藤経俊。
母は 源頼朝 の乳母・山内尼ということで、乳兄弟だと言う自負か生まれながらの性格か、これがどうにも困った性分で、頼朝の参戦依頼に暴言を吐いただとか、平氏方に回って頼朝軍に矢を放つなどして必然的に山内荘を没収されるに至っている。同じ乳を飲み育ったのに、上から目線の奴から差別されるのは理解できないと言ってしまってドツボにハマるタイプ、なのかな?



山内尼の願い出により処刑は免れて心を入れ直し、平家残党を追討するなど一応活躍して辛うじて挽回。源義経 の家臣・伊勢義盛と交戦して破ったり奥州合戦はもちろん頼朝の上洛にも供奉すると伊勢・伊賀の守護職のほか、相模の早河庄・備後の地比郡などに地頭職を得た。(伊勢・伊賀の守護職はのちに解任)急激な上下のある渡世、1225年(嘉禄元)89歳まで生きたらしい。(『山内首藤氏系図』)。




この、山内首藤経俊が、次期大河ドラマ『 鎌倉殿の13人 』にも登場する。




俳優・山口馬木也が演じる。「幼少期をともに過ごした頼朝を裏切るなど、最初は薄情な印象を持ちました。ところが本人には大義があったわけでもなく、特に策士だということもないようで、結果的にはかなり長生きをしたようです。収録現場では、大泉さん演じる頼朝や小栗さん演じる義時に影響されながら、場面ごとに身の置きどころを“ひらひらと”軽やかに変えていければと思っています」と話す。三谷作品初出演となるが「人の日常を描くと理想とは真逆になることもありますが、三谷さんは結構細かい部分まで描かれていて、簡単に思うけど、演じると二重構造になっている。大きい揺れではなくて、細かい想像が何通りもできてしまう。おもしろいけどやっかい。そういう魅力を感じています」とコメントしている。








話を戻そう。前述したが、山内首藤氏の本領として残っているのは西国だ。1316年(正和五)、山内通資 は一族郎党を引き連れて西下、地比郡北部の多賀村にある蔀山に城を築き拠点としたことが知られている。 




また、経俊の兄弟・山内首藤経時 が、先祖が拝領していたはずの奥州へしばらく前に下向、奥州山内首藤氏 の祖となったようだ。




さらに、経俊の子系のいずれかがこれまた祖先が拝領しているはずのわずかな荘・会津へと下っている。




会津山内氏・末代の 氏勝 は、1590年の秀吉による 奥州仕置 で 例外なく所領を没収されその後、越後上杉の傘下に入ったとする説が散見され( 魚沼郡上田庄 浦佐郷 大浦にて、上杉氏家臣となっていた説が一般的。他諸説あるが )山内氏勝の子の墓が、新潟県 南蒲原郡 下田村の下大浦( 現 三条市 )の 延命寺 にと語り継がれてもいるようだ。同寺の立地は、会津の只見町 から 八十里越街道 を経て厳しい峠越えをすると到着出来る場所。いかにも落ち延びて来て辿り着いた地である印象なのだ。出家同然の余生を送っていたであろうか。













奥州山内首藤氏 はどうやら現宮城県の旧桃生郡〜旧牡鹿郡(石巻市・旧河北町・七尾城)のあたりの荘を拝領したとして来ていたようだ。( Google earth を見ると分かるが、新北上川最下流部丘陵と多数河川流入域の"湿地"という僅かな平野だったであろう?と推察する。✳︎1)土着の豪族の中に関東から迷い込んだように 桃生郡深谷荘( 小野城 )へと分け入った 奥州長江氏 と少し似ている。長江氏が深谷荘を拠点としたのに対し、奥州山内首藤氏は土着に精を出すと言うよりは近隣と諍いを起こしてあちこちを分捕ってみたり獲られてみたりしていたのではないかと推察される。この地域での唯一と言っていい山内首藤氏の話題は、山内首藤貞通 の頃、1511年(永正8)開戦の 永正合戦 である。平泉の藤原氏とも懇意であるこの地域の大豪族・葛西氏にケンカをふっかけたようなもので、あっちこっちで騒ぎを起こして最後に七尾城に籠城し降参して主君が出家するという顛末、笑うに笑えない。( 葛西氏家臣・末永氏側の永正合戦










その後、傍流であろうか、山内須藤刑部輔定信(定安の子)の一文節が載る。「 1584年(天正12) 山内須藤刑部 は 根岸城(大年寺山、仙台市太白区茂ヶ崎2丁目)で 結城七郎 と戦い、山野内館杭城館 へ敗走、福岡( 仙台市泉区、杭城館近隣 )で自刃した(出典 : 仙台市史 ) 」、「 山内須藤刑部 は 源頼朝 の家臣で、定安 の子孫・定信 が 結城氏朝 との戦いを繰り広げて 1586年(天正14)に自刃した( 出典 : 宮城郡誌 ) 」これら2つが最後だ。

















山内氏と言えば、幕末までしっかりと実力を有した( 明治期には華族・侯爵家に列した )土佐山内氏を一番に思い浮かべるが、土佐山内氏は、経俊の曾孫の代・俊家が祖であるともそうでないとも言われ、しかも一時は一族郎党路頭に迷い滅亡寸前だったものを必死で生き抜いた山内一豊が豊臣秀吉に見出されて出世し、末代まで引き継がれたもの。家紋も丸に土佐柏・山内一文字であり、すでに系統別のような佇まいである。




(✳︎1)新北上川含め宮城県の大多数の河川流域は、江戸時代に伊達政宗が大規模土木工事を実施して、どこにどう流れて行き洪水を防ぐのか、しっかり整備されており、往時の耕作地・農業の様子と現在とでは明らかな相違があるので、参考までに。

 

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