平成内乱記・日本の長い夢

日本の未公開犯罪史・天皇陛下を始め、著名人の隠された犯罪を、告発する。

(5)沼部事件

2007-07-18 23:19:27 | Weblog
(5) 沼部事件
東京・椎名町に生まれた私は、5歳頃沼部に引っ越す。 家の前には、交番やお寺が在り、近くには、新幹線や電車のガードが在る。  ここで友人が大勢できた。  近くには、朝鮮が在り、私は日本人・朝鮮人を分け隔てず、遊んでいた。  この町では当時、日本人グループと朝鮮人グループが対立していた。 人数は、日本人の方が、圧倒的に多く、朝鮮人はイジメられていた。  転校生の私は、事情がわからず、両グループと遊んでいた。  ある日、日本人の大人や子供達に、「朝鮮人と遊ぶな」と言われた。  「なんで遊んでは、いけないの。」と聞くと。  「朝鮮人は悪いヤツだから。」といった。  朝鮮人の子供達に、イジメられているわけでもなく、大人達も、親切にしてくれていた。  とても悪い人達には見えなかったので、この忠告を、無視することにした。 そして、この学校には、信じ難い事に、100人位で構成された、番長グループが有った為、一人で番長グループと戦う事になる。 まず同じ一年生20人に、線路脇の広場に、呼び出され、決闘を申し渡された。  この広場で一対二十の喧嘩をしていたら、大人が見つけ、止められた。  今度は私が二十人を呼び出し、「じゃまの入らない場所でこの続きをやろう。」と言って、神社裏の空き地に行き、勝負をする。 結果は私の勝ちで、これで終りかと思ったら、今度は六年生の番長が、タイマンを申し込んできた。  一対一の決闘で番長が死んだ。 やりすぎてしまった。 世間は大騒ぎとなる。 警察は正当防衛と認め、無罪となる。 これ以降日本人グループは、朝鮮人をイジメなくなり、いつしか一緒に遊ぶ様になる。 なお五年生の福番長が、後日、稲川会の大幹部になる。  沼部事件全体と春日部事件が、後にオウムとの戦いに、強い影響力を与えるのです。 私の父親のスパルタ式教育は、とても厳しく、毎日お寺の境内で、バットで殴られていたが、その内よけ方がうまくなり、バットが当たらなくなる。 手で殴ると、手が痛くなるから、バットを使って居たのかも知れないが。 おかげで反射神経が良くなった。  母親は料理がとてもヘタ、たまに食中毒を起こしていたが、そのおかげで、オウムに毒を盛られても、下痢する位ですむ。人生なにが幸いするか、分からない。  8歳の時一人で、三つ峠口から、富士山に登る。 周りの大人達は、私が死ぬのではと、心配したらしい。  そして、この事が山梨の新聞に、載ったらしい。  この年の夏、父が死ぬ。 月日は経ち、中学に入学する。  そして一年生の冬に、春日部に転居、豊春中学に転入する。  すぐに岩槻に転居するも、学校はそのまま。  その二十数年後ニュース・ステーションで、渡辺真理キャスターが「当時、一緒に遊んだ朝鮮人の中に、現在、朝鮮総連の幹部がいる」「拉致問題は、スーパーマンでなければ、解決できない。」「金正日総書記は、スーパーマンの事を、日本の兄貴と呼んでいる。」と言っていた。  最後の一事が、北朝鮮の二度に亘るミサイル発射と、核実験の原因になる。