世の中のあらゆる事象には例外なく一定のリスクが存在する。それにも関わらずその事象を受け容れるのは、負の効用を正の効用が上回るからである。対象となる事象の正負両面を考慮し、その上で社会が受け容れることを社会的受容(Public Acceptance)と言う。
100年前、米国は「車社会」を受け容れた。交通事故や公害などのマイナス要素を考慮しても、その効用は、それに先立つ「銃社会」よりもプラス要素が大きいと認められた。そして今、我々は「インターネット社会」の入り口に立って、その社会的受容を迫られている。
有機農業、原子力発電、代替エネルギー、臓器移植など、なお議論を要するものがある。正負両面の効用を比較検討し合理的な選択を行うための判断材料が、まだ出揃っていないのである。
リスクに関する正確な情報を把握し、社会が判断できる材料を提供する責任を誰が負うのか? 行政とマスコミが常に矢面に立たされているが、その根底にエンジニアの社会的責任(エンジニアリング・エシックス)の問題が隠れていることを福知山線事故やアネハ事件から学ばねばならない。
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(今日のお弁当)
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