被害者意識の外交は自分本位で困る。加害者意識があれば、相手が何を嫌がっているか意識できるからコントロール可能である。しかし、被害者意識では自分の痛みばかり数え上げるから相手のことが見えない。敵を知らねばまともな外交は不可能だ。
豪州が我が国の「商業」捕鯨に文句をつけている。「調査」捕鯨だと抗弁する前に、相手の言い分を考えてみるべきだ。豪州は世界で唯一、我が国と「技術士資格の相互承認」を約束している国だ。英国では、技術士は我が国や米国のようなPEプロフェッショナルエンジニアではなくCEチャータードエンジニアと呼ばれ「サー」の資格を付与される。貴族階級の男爵と同等のランクである。宗主国にならって英連邦にもこの意識がある。豪州では「技術士」はリスペクトされているのである。<o:p></o:p>
捕鯨の話に戻ろう。「商業」捕鯨でなく「調査」捕鯨なら調査の有資格者が関与しているかが問題となるのである。つまり、専門のエンジニアが捕鯨船に同乗しているか?技術士が居ないならせめて博士が居るのか「資格」「肩書き」が問われているのである。我が国には、「実力があれば資格は不要」との潜在意識がある。しかし、身内には通じても国際社会では「無資格」は無免許運転や医師資格詐称などと同様な詐欺行為なのである。<o:p></o:p>
捕鯨に限らない。多くの会社の株主総会で、グローバル化時代を意識した「国際ビジネス」が紹介される。海外で金儲けをはかることだけなら「出稼ぎ労働」も「国際ビジネス」になる。戦前、九州島原の娘たちが大勢国際風俗業に身を投じ「からゆきさん」と呼ばれた。捕鯨も国際ビジネスも、きちんとした「資格」が無ければ「モグリ」だ。「からゆきさん」同等の商業捕鯨で良い筈がない。<o:p></o:p>
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主は、今よりとこしえまでも守られる
主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、 あなたのいのちを守られる。主は、あなたを、行くにも帰るにも、 今よりとこしえまでも守られる。 (詩篇 121の7-8:)<o:p></o:p>
The LORD keeps you from all harm and watches over your life. The LORD keeps watch over you as you come and go, both now and forever.
ここに、いまから、数千年も昔から現代に至るまで、続いている神の守りへの確信がある。<o:p></o:p>
私たちは、守られることを誰でも願っている。この世には、生まれたときから、さまざまの危険があり、誘惑があり、また困難に出会う。私たちの不注意や心の弱さ、罪ゆえに陥る苦しみもあるが、突然の事故、災害等、なぜ自分だけがこのような目に…とその不可解さに苦しめられることも多くある。<o:p></o:p>
そうしたあらゆるこの世の災いから守られている―そうした確信がこの詩にはある。それは周囲を観察して分かることではない。<o:p></o:p>
これは啓示であり、このようにこの詩の作者は神より示されたのである。<o:p></o:p>
どんなに守られていないように見えるときでも、天よりの声が、それでもあなたは守られている…と語りかけてくる経験を持ったのである。 <o:p></o:p>
神の信実は永遠であり、人間のがわからの神への信頼(信仰)も、私たちのほうが捨てないかぎり、いつまでも続く。<o:p></o:p>
この作者も、神の守りは一時的でなく、永遠に至るということを示されていた。<o:p></o:p>
行くにも帰るにも―それは私たちの日々の日常生活から、大きな困難の日々、または異国や遠い場所へ赴くとき―あらゆるときに私たちはこの守りを与えられているということである。<o:p></o:p>
住まいから出て、一日のさまざまの出来事を経て再び帰る―それはあらゆる人の日々の守りを意味している。入院とか、寝たきりとなってじっさいには家や病院から出ることもできない人たちにも、心の旅路としてその一日のはじまりから夜やすむまでの守りをも含んでいる。<o:p></o:p>
そしてすべての人に訪れる最終的な出発―この世から出て行くとき、そこにも神を信じる者には、大いなる守りがあり、死の力から守られ、神の国への霊的な旅路を経て、神のいます天の国へと導かれるのであり、この詩の作者の言うように、まさに永遠の守りが与えられているのである。<o:p></o:p>
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野草と樹木たち エゾツツジ 秋田駒ヶ岳(標高1637m) 2012.7.19 撮
ツツジというと私たちは、公園や庭に植わっているサツキやヒラドツツジなどをすぐに連想し、さらにドウダンツツジや、ミツバツツジ、あるいはアセビや ネジキなども思い浮かべる人もあるとおもいます。徳島県の高越山(こおつさん 標高1133m)には、国の天然記念物に指定されている、ほかに類のない見事なツツジ(ミツバツツジやオンツツジ)の大群落があります。1200本ほどもあり、高さの3~6m、樹齢300年という大きな木、古木もあります。
そのようなツツジに対して、この写真のエゾツツジは、樹木ですが、高さ10~30cmという草のようなツツジです。 これは、東北の一部の高山(早池峰山・岩手山・秋田駒ヶ岳)と北海道の高山にしかみられないというもので、厳しい風雪にさらされるような過酷な環境にて育っている植物です。
この写真のものは、秋田駒ヶ岳の9合目ほどにあったもので、人の近づかないような急な山の斜面に咲いていたものです。短い夏の間に花を精一杯咲かせようと、いっせいにつぼみがふくらんでいます。 このような弱々しく見える植物が、冬季の厳しい環境にあって生育しているのに驚かされます。
弱さの中に力を与えるという聖書の言葉を思いだしたものです。人間においても、神の力が与えられるとき、耐えがたいような厳しい状況にあってもそれを越えていくことができることを思います。
こうした高山の植物は、周囲の澄んだ大気、美しい山々や青空、そして時にはこの写真のように神秘的な霧もかかり、そうした中でいっそう私たちに強い印象を与えてくれるものとなっています。
そこに、神の国の命や力、そしてその美と多様性、さらにそこから私たちに語りかける天来の言葉を感じるのです。( 文・写真ともT.YOSHIMURA)<o:p></o:p>