アセンションへの道 PartII

2009年に書き始めた「アセンションへの道」の続編で、筆者のスピリチュアルな体験と読書の記録です。

第7章 ヨーガとサーンキャの思想 ③ ヨーガ学派の思想

2017年11月23日 10時45分15秒 | 第7章 ヨーガとサーンキャの思想

 ヨーガ学派の思想の特徴を、引き続き中村元氏(以下、著者)の『ヨーガとサーンキャの思想』(以下、同書)から引用し、解説を加えていく。

 初めに、最高神(自在神)について。

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 ヨーガ学派には仏教の影響もみとめられるが、しかし一般の学者の認めるところによると、その形而上学説はだいたいにおいてサーンキャという哲学学派の形而上学説とほぼ同じであり、純粋精神と根本原質という二つの原理を立てている。ただヨーガ学派では最高神を認める点が異なっている。
 ヨーガ学派によると、最高神は一個の霊魂に過ぎない。それは永遠の昔から存在する個我としての多数の霊魂の中で唯一つ威力にみち、完全性を具えている。それは一切のものを支配していてその運命を左右するが、しかし世界創造は行わない。
 すべての霊魂および物質は永遠の昔から永遠の未来に向かって存在し、無始無終である。
◇◇◇

 以上からすると、それでは「誰」がこの世界を創造したのか?という宗教上の大問題に帰着するのであるが、その問題に就いては、本章の⑫「最高主宰神」で再度著者の所説を取り上げる予定でいる。

 続いて、苦しみの問題について。

◇◇◇
 ヨーガ学派はサーンキャ学派とほぼ同一の形而上学説によっているが、苦しみの問題についても、ほぼ同様の見解を懐いていた。人生には苦と楽とがあるが、喜楽は過去になした善行の果報として起こったものであり、苦悩は悪行の果報として起こったものである。したがって、人生には苦と楽とが混じているわけであるが、しかし、賢者の眼から見るならば、「一切は苦のみ」といわなければならない。なんとなれば、快楽それ自体は永続しないで辺滅するものであるからである。また快楽を享受しているあいだにも、やはり苦悩が存在する。またその快楽の潜勢力が残像して、のちに苦しみとなって現れる。また一般に物質的なものを構成している三つの構成要素(グナ)は互いに相克するものであるからである。
◇◇◇

 上記引用の中の「一切は苦のみ」という個所は、ヨーガ・スートラ第二章24節からの引用であるが、因みに仏教においても、四諦の最初に「苦諦」を挙げ、人間にとってはこの世界の一切が苦であるという。そして、その苦悩の原因は、「物質的なものを構成している三つの構成要素(グナ)は互いに相克するものだから」だと言うが、それだけでは今一つ説得力に欠けるので、次に苦しみの原因を更に詳しく説明している。

◇◇◇
 ところで、我々の経験する一切の事柄が苦しみであるように運命づけられているのはなにゆえであるか。ヨーガ学派によると、その原因は、見るものである純粋精神(プルシャ)とみられるものである根本原質(プラクリティ)とが結合しているからである。そうしてこのような結合を成立させている究極の基因は無明(アヴィディヤー、無知)である。この無明は純粋精神と根本原質とを区別する弁別知によって捨て去られる。しからば、純粋精神は物質的な束縛から脱して独存の状態に達し、その間前世を回復する。すなわち、自然と精神との本質的区別を明らかに認識すれば、解脱が達成されると考えた。その際に除去される苦しみは、未来に起こるはずの苦しみなのである。
◇◇◇

 そして、「明知を得て完全な状態に到達するためには、ひとはヨーガ(心の統一)の修行に努めなければなら」ず、この修業法としてヨーガがあるのだと言う。著者は更に続ける。

◇◇◇
 しかしながら、純粋精神と根本原質との結合ないしその結果としての苦しみ一般という客観的事実が、明知という主観的作用によってはたして消滅しうるであろうか。主観的認識が行為的表出を伴わないで客観界を変化させることが可能であろうか。ここに一つの問題が存する。シャンカラ哲学は、客観的な自然世界は単なる迷妄にすぎぬ、と解することによってこの難点を避けてしまった。しかし、後世のサーンキャ哲学解説者は次のように説明している。 - 「明知は無明のみを断ずるのであって、苦しみを断ずることにはならない。苦しみは、離身解脱(死後に得られる解脱)において、心とともに滅びる。人生の目的は苦しみの止滅ではなくて、苦しみを享受することの止滅なのである」と。
◇◇◇

 この結論からすると、いくら悟りを開いたところで、生きている限りは苦しみが続くことになるが、生前解脱者になっても本当に苦しみはなくならないのであろうか? 正直なところ、筆者の理解を超えている。

 この後、筆者は「三昧」(サマーディ)について簡潔に説明している。

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 心を統一して意の集中が進みと三昧に入るのであるが、この境地においては、心の能動的な活動作用は止滅し、動揺がなくなって、空に帰したかのごとくになっている。しかしこの三昧にもなお浅井と不かいとの区別があって、有想三昧と無想三昧に分れる。
 有想三昧はまだ対象の意識を伴う三昧であり、対象から完全に離れているわけではなく、まだ対象に束縛され制されているから「対象の意識を有する三昧」といわれ、また心のはたらきの潜勢力をもっているから「種子を有する三昧」ともいわれる。種子とは一種の潜在的な可能力であり、それからまた煩悩などが現れ出るのである。
 しかるに、無想三昧に入ると、心のはたらきはすべて止滅し、もはや対象に束縛されなくなるから、それは「対象の意識を有さない三昧」と言われる。またさらに、心のはたらきの潜勢力を全く滅すると、「種子のない三昧」にいたる。これが真のヨーガであり、そのとき我々の純粋精神(プルシャ)は観照者としてそれ自体の内に安住するという。この際の心の状態にもとづいて一切の誤謬及び考想(ヴィカルパ)がなくなり、またその潜勢力を焼き尽すから、心の本性(筆者註:「真我」の本性との意味であろう)が現れるのである。これがすなわち解脱である。
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 つまり、我々の最終目的地は、この「解脱」の境地に達することであり、そのためには「無想三昧」入ったうえで、潜勢力の元となる「種子」(しゅうじ)を焼き尽す必要がある。しかし、いきなりこの境地に至るのは至難の業であり、そのためには八支分のヨーガを修め、そして無想三昧の前段階ともいえる「有想三昧」を長い間修さなければならない。

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 ここにおいては純粋精神が完全な状態を回復する。「[根本原質の]純質と純粋精神とが純粋さについて等しくなったときが独存(=解脱)である」「そのときには純粋精神がそれ自体によってのみ輝き、無垢で、独存となる」それは主宰神との合一や共在ではなくて、ただ精神が物質から完全に分離していることにほかならない。
 ヨーガ学派の解脱観はサーンキャ学派のそれと非常に類似している。サーンキャ学派もヨーガ学派も、いずれも明知(弁別智)によって純粋精神と根本原質との分離が起こるという。
◇◇◇

 著者は同書冒頭で、ヨーガという言葉自体、「結びつける」との意であると説明していたので、筆者はてっきり自身のアートマンが「主宰神」と結びつくのだと理解していたが、ヨーガ学派の正式な解釈は、「独存」であると言う。正直なところ筆者には、ウパニシャッド、或いはバガヴァッド・ギーターで言うところの「梵我一如」の考え方の方がしっくり来るように思える。参考までにギーターから、これに対応する部分を第5章から引用する。

◇◇◇
・まさにこの世で、身体から解放される前に、欲望と怒りから生ずる激情に耐え得る者は専心した幸福な人である。(5章-23節)
・内に幸福在り、内に楽しみ在り、内に光明あるヨーギンは、ブラフマンと一体化し、ブラフマンにおける涅槃に達する。(5章-24節)
・罪障を滅し、疑惑を断ち、自己を制御し、すべての生類の幸せを喜ぶ聖仙(リシ)たちは、ブラフマンにおける涅槃に達する。(5章-53節)
◇◇◇

 この後著者は、ヨーガを実習することによってもたらされる八種の「超自然力」(神通力)について説明したうえで、これらに対して否定的な見解を示している。神通力の内容に就いては、本ブログPartI、第17章⑳、「総制と超能力」で説明している。詳しくはPartIに譲るが、ここではPartIの一部を引用しておく。

◇◇◇
このサンヤマという技法を様々に用いることによって、修行者は様々なシッディを得ることが出来るという。詳しくは、スートラの第Ⅲ章-16以下を参照して頂きたいが、各スートラで紹介している主たる超能力を簡単に引用しておく。

Ⅲ-16  過去と未来を知ることができる能力
Ⅲ-17  動物などの発した声から、その意味を知る能力(ラーマクリシュナにも備わっていた)
Ⅲ-18  サンスカーラを直感することで、前世を知る能力
Ⅲ-19  他人の身体的特徴からその人の想念を知る能力
Ⅲ-21  自分の体を他人から見えなくする能力(チベットの聖人、ミラレパにも備わっていた)
Ⅲ-26  微細なもの、秘匿されたもの、遠くの者を見る能力(所謂、千里眼)
Ⅲ-33  シッダ(神人)を見る能力
Ⅲ-42  超常的聴覚(所謂、天耳通)
Ⅲ-43  空を飛ぶ能力(空中浮揚など冗談半分に話題になるが、筆者は信じている)
Ⅲ-46  身体を非常に小さくする能力(ラーマクリシュナにも備わっていた)等
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 最後に、このヨーガの行法をイスラーム教の「静座」やカトリック教会の「黙想」と簡潔に比較しており、興味深いので、参考までに引用しておく。

◇◇◇
 右に述べた点はイスラーム教の行者であるファキールと異なるところであるという。ファキールの静座はただ精神を統一するだけであるが、ヨーガは神通力の獲得を目指していると学者は説明している。またカトリック教会でも黙想を行うが、それは予め真として前提された信仰を強め、完全な信仰の中に人々をみちびき入れるためのものである。それは人間を独立に認識することを教えようとはしない。ところがヨーガの目的は汚れのない純粋の認識を得させようとするのである。
◇◇◇

 
PS(1): 尚、このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。
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