アセンションへの道 PartII

2009年に書き始めた「アセンションへの道」の続編で、筆者のスピリチュアルな体験と読書の記録です。

第7章 ヨーガとサーンキャの思想 ④ ヨーガの普遍性

2017年12月02日 11時34分53秒 | 第7章 ヨーガとサーンキャの思想
 今回はヨーガの普遍性について、引き続き中村元氏(以下、著者)の『ヨーガとサーンキャの思想』(以下、同書)から興味深い個所を中心に引用し、解説を加えていく。

 初めに、ヨーガと禅の関係について。

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 ヨーガの修行はジャイナ教や仏教にも採用されてきわめて重要視され、仏教の禅観からはシナ・日本の禅宗を成立せしめるに至った。また反対にヨーガ学派は仏教の影響をも受けている。
 ところで、シナ・日本の禅とインドのヨーガとの間には非常な隔たりが存する。禅とヨーガとどこが異なるか、ということを簡単に述べたい。仏教でも禅定を説くが、シナ・日本の禅となると、ヨーガと似たところはあるが、しかし大いに趣を異にしている。
 「禅」とはサンスクリットのdhyana(ディヤーナ)という語の音を写したのであるが、思うこと、瞑想することという意味である。
 仏教では世界創造者とか世界最高の神をみとめないから、それを念ずるということもない。ただ無念無想となり、邪念を除くことをめざすのである。そのために特別の観念を凝らすこともあるが、しかし最高の人格神を念ずるということはない。
 さらに坐りかたについても、仏教では曲芸のようなことは行わない。ただ結跏趺坐または半跏趺坐のかたちで、足を組んで、静かに坐するだけである。「座禅は安楽の法門なり」といわれるように、苦行であってはならない。それは心を静めるものである。人がいかなる楽しみを奪われたときにも得られる安楽の境地である。この境地がはたして文化というカテゴリーの中に入るかどうか疑問であるが、おそらく生きている人間の得られる唯一の絶対の境地であろう。
 またヨーガでは不思議な神秘力の獲得を説くし、それを実際に修行すると、ある程度までは可能なようであるが、禅ではそういうことは邪道であると考える。むしろわれわれが日常飯を食べ茶を飲むというようなありふれた生活に偉大な神秘があると説く。
 特にシナの禅家では、「禅というは、本性を見るを禅となす」といって、ただ座っていることだけが禅なのではないという。禅の六祖慧能も、行住坐臥、つねに真を保って心のまっすぐなことを、禅の真実の意義であると教えている。
 しからば、道を歩いていても、床の上で寝ていても、人は禅を実践することのうちに含まれる。「平常心是道」(南泉普願)。ここにおいて、禅が現実生活に生かされてくるのである。
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 上記から、禅はそれ自体、ヨーガで行われる瞑想即ちディヤーナから派生したことが判る。但し、仏教の流れを汲んでいるためか、最高神などを認めず、それを念ずることもない。著者はここで、神秘力の獲得について、「邪道である」と一刀両断にしているが、そうした神秘力の獲得を目指して禅の修行を行うことを「邪道」であるといっているのであれば、それはヨーガの修行においても同様である。しかし、修行が一定程度進んだ段階で、修行者が結果的に神秘力(例えば他心通、天耳通、千里眼、宿命通など所謂シッディ)を獲得することがある点については、仏教とヨーガは共通しており、恐らくは禅の修行においても同様であろう。但し「ただ無念無想となって邪念を除くだけ」の禅において、七つのチャクラを浄化・活性化し、延いてはクンダリニー覚醒までを目指すための技法が存在しているとは思えず、仮に禅の修行で偶発的に神秘力を獲得した行者がいたとしても、恐らくは白隠禅師など傑僧と呼ばれた極く少数のものに限られると思う。
 
 次に、ヨーガと西洋哲学との思想交流について見てみたい。以下、同書からの引用である。

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 サーンキャの観念ばかりでなく、ヨーガの特別の教説も新プラトーン派に影響を及ぼしたことは疑いもない。特にプローティノスの禁欲的な道徳、および精神を統一して突然恍惚状態において神を見るという教説にその影響のあとが見られる。プローティノスのekstasis またはhaplosisは、ヨーガ学派のpratibhaまたは、 pratibham jnanamに対応する。
 後代の新プラトーン主義者Abammonがいだいた空想的迷信的な諸観念、特に神聖な熱意に満ちた人々は不可思議な神秘力を所有することができるという見解は、ヨーガ学派に由来する。
 グノーシス主義やスーフィズムのうちにもヨーガ学派の観念が入っていったらしい。スーフィーが瞑想し、神秘的な恍惚状態に入り、神との合一を目指したことは、後代にヨーガからの影響であろう。しかしDabistanの記述によると、ヨーガの理論と実践との全体はペルシアのSapasiyanの宗派から採用されたものだという。なお研究を要する。
 インドの宗教家たちは生活のためにわずかのものを得るだけでよかった。かれらは一般に、現象界の背後に存する本質としての真理を瞑想するヨーガの修行につとめていたが、ちょうどこれに相当する瞑想のしかたはギリシアには存在しないらしい。テオーリアという語がヨーガにもっとも近い語であると考えられているようであるが、ヨーガは単にながめる立場を超えて、実践的に没我的な境地に達するのである。
 ところで、右に述べた点がイスラーム教の行者であるファキールと異なるところであると言う。ファキールの静座はただ精神を統一するだけであるが、ヨーガは超自然力の獲得をめざしていると学者は説明している。またカトリック教会でも黙想を行うが、それはあらかじめ真として前提された信仰を強め、完全な信仰の中に人々をみちびき入れるためのものである。それは人間を独立に認識することを教えようとはしない。ところがヨーガの目的は汚れのない純粋の認識を得させようとするのである。
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 どうも著者は、神秘力の獲得を「空想的・迷信的諸観念」と決めつけており、筆者としては大いに気になるのであるが、ヨーガが新プラトーン主義、グノーシス主義、スーフィズムなど所謂神秘主義的な思想に影響を与えたことは間違いなさそうである。

 続いて、近世以降のヨーガの動向などを紹介している部分をかいつまんで引用しておきたい。

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 近世においてカルマ・ヨーガを特に強調したのはヴィヴェーカナンダである。かれによると、カルマ・ヨーガとは、「無私のはたらきによって、すべての人間の性質の目標であるところの自由に到達すること」であるという。
 彼はラーマクリシュナ・ミッションを創設した。
 オーロビンド・ゴーシュおよびハリダース・チョードリ博士は、人格の全き完成を標ぼうする総合ヨーガ(Integral Yoga)を説いた。
 近年ではヨーガの修行は、宗教や学派の差を超えて行われている。ジャイナ教徒のある実業家は、サティヤ・ナーラーヤナ・ゲーンカというヨーガ教師について三か月間瞑想を修行していたが、すっかり心の落ち着きが得られるようになったという。ところで、このゲーンカしは一字ビルマに行って仏教僧について「観」(vipassana)の行を修したことがあると語っている。
 ヨーガの修行については、宗教の障壁が亡くなっているのである。
 新しいヨーガの一つの運動は、「ブラフマンの娘たちの世界霊性大学」(Brahma Kumaris World Spiritual University)と称するものである。会員のうちには男性もいるが、情勢のほうが多く、中心となる経営者たちが独身の女性であるので「娘たち」と称する。ただし、結婚して家庭の主婦となっている人々をも除外しない。会員たちは、平素は世俗の職業に従事し、仲間とともに瞑想の生活を送るときには白い衣をまとっている。あらゆる人間は梵天の子であるというので「ブラフマンの娘たち」と称する。そうしてかれらが任意に参加する組織を「大学」(visvavidyalaya)としょうする。その本部は、ラージャスターン州のアーブー(Abu)山に存する。 
その創立者はプラジャピタ・ブラフマ(Prajapita Brahma)という人である。1937年にシヴァ神のお告げを受けた。シヴァ神がかれを通して教えを垂れたと称する。かれによると、シヴァ神は「最高の光」 (paramajyotis)である。かれはグルではない。シヴァ神は無相 (Nirakara)の神である。そういっても、その思想はシャンカラ師の思想ともことなり、ラーマーヌジャのそれでもない。ある伝承によると、シヴァ神は多数の異名を有するが、シャンカラ (Sankara) というときには、無相(nirakara)の神を意味するという。
この仲間の中心は尼僧 (sister)であるが、有髪である。剃髪していない。そうして白い衣をまとう。かれらはラージャ・ヨーガの教師 (rajayoga teacher)であると称する。女性のヨーガ行者なのである。比丘尼とはいわないまた女性の出家行者 (samnyasi-yoga) でもない。
この仲間の実践するラージャ・ヨーガは、ハタ・ヨーガ、行為のヨーガ、信愛のヨーガ、智慧のヨーガ、出家行者のヨーガ(sanmyasin)の全てを包容している。ハタ・ヨーガを実践するといっても曲芸のようなことは行わない。ハタ・ヨーガとは強い意志の力をもって心を制することであると解する。特に聖典といったものはないが、『バガヴァッド・ギーター』の説く精神的な知識を重んずる。従来の行者は世俗の世界を捨てた。しかしこの仲間の人々は、戒律をまもり、瞑想し、菜食であるが、世間を捨てないで、世界平和を祈念する。その立場は泥中の蓮華であるという。
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 引用が大分長くなったが、以上の中で気になる点を少し解説しておく。先ず、ヴィヴェーカナンダはカルマ・ヨーガを強調したと著者は簡単に記述しているが、筆者の理解は以前ブログPartIでも紹介した通り、「それぞれの人の性質や性格に応じて各種のヨーガ(カルマ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガ、ギャーナ・ヨーガ)の内の一つ或いはその組み合わせを実践させること」を説き、それを普遍宗教と称したようである。
 オーロビンド・ゴーシュの思想に就いては、いずれ章を改め、詳述する予定である。
 「ブラフマンの娘たちの世界霊性大学」に就いては、一般的にブラフマ・クマリスと呼ばれている。その内容に就いて詳細に検討してみたことはないが、「この仲間の実践するラージャ・ヨーガは、ハタ・ヨーガ、行為のヨーガ、信愛のヨーガ、智慧のヨーガ、出家行者のヨーガ(sanmyasin)の全てを包容している」と著者が言う通りであれば、ヴィヴェーカナンダの提唱したヨーガや、ババジのクリヤーヨーガとも相通ずる部分があるものとの印象を受けた。

 そして、上記引用の中で、最も注目すべきコメントは、「ヨーガの修行については、宗教の障壁が無くなっているのである」という点であり、筆者としてはこれこそが「普遍宗教」としてのヨーガの可能性を示すものと考えている。


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