BKYJ Spring 2020
By M.G.サッチダナンダ
祈りという行為は、ヨーガスートラ、ギーター、ヨーガ・ウパニシャッドにおいて言及されていない。それはなぜか? これは好奇心をそそる問題であり、それに答えるためには祈りの性質、それがヨーガの瞑想・自己暗示・マントラとどう異なるのかに対する理解のみならず、ヨーガの目的、「私とは誰か」にあなたがどう答えるのか、そして神と私の関係とは何かという問題に対する理解を必要とする。我々のヨーガの伝統において、それはまたグルという言葉の理解をも必要とする。
祈りとは何か? それはヨーガの瞑想の実践・自己暗示・マントラとどう違うのか?
祈りは神または祈りの対象にむけられた救い、赦しまたは感謝の表現だ。それには四つのタイプがある。崇拝・悔悟・感謝・祈願だ。それはまた真摯な希望または願いであり、それゆえその有効性に対する疑いの要素を含む。それはあらゆる宗教の本質的な行為の一つだ。それはしばしば複雑な感情を伴う心的な行為だ。ヨーガの文献においてこれが言及されないことが、ヨーガを宗教と区別している。
ヨーガの瞑想には助け・赦しに対するいかなる要請も、神または至高の存在に対するいかなる嘆願も含まれない。それは希望や要望の表現や疑いの感情も含まない。集中は静寂をもたらし、通常の精神的・感情的な(心の)動きを永遠で無限の霊的な次元に運び、そこでヨーギンは絶対的な存在・意識・至福を経験する。
自己暗示は、深いリラックス状態にあるとき、潜在意識を動機付けるため、現在形の表現で繰り返される肯定的な変化をもたらす声明だ。パタンジャリはヨーガスートラ(以下、YS)第二章33節で、「否定的な想念に捕らわれた時には、その反対(の想念)を高めなさい。」と告げる。比喩を用いれば、もし潜在意識が、人の想念・言葉・行動を指示する、感情的な性癖・条件・記憶が詰まったコンピュータ・ソフトだとすれば、自己暗示はコンピュータの持ち主が、肯定的な変化を起こすため、故意にインストールしたプログラムだ。潜在意識を満たしているものの多くは意図的にそこに埋め込まれたわけではない。人生の経験は自動的に印象または記憶を残す。それがしばしば繰り返されると、その印象はより強くなり、性癖となる。それゆえ、それらを取り除きたいのであれば、最善の方法はそれらと戦ったり押さえつけたりすることではなく、単純に新しいプログラムと交換することだ。
多くの人たちが祈りの力を信じている。その効果は科学で実証された。デューク大学での科学的な研究で、祈りは手術から回復するための時間を加速させることにおいて有効であることを確認した。しかし、自己暗示と祈りの効果の関係に就いて、関連付けるものは殆どない。
ヨギによる自己暗示の実践は、高次の力即ち至高の存在に対して訴えかけることはない。祈りはしばしば無力感或いは疑い・絶望・恐怖・後悔・罪または無価値だとの思いすら暗示している。このように、それは暗示作用の力自体を損なっているかもしれない。自己暗示のように祈りは疑いの痕跡すらなく表現された時に最も効果的なのだ。こうした理由から、完全な信心或いは確信すら込めて、神は最善のことをなし給うと祈りなさいという説教師の訓戒は、祈る者を潜在意識への疑いの影響から守ってくれる。
マントラ
自己暗示は潜在意識のレベルで働き、あなたの人生を困難なものにする多くの悪い癖と否定的な想念を取り除く手助けとなることができる。しかし、我々を超意識レベルに結び付けるマントラのような霊的修行法があり、それはあなた自身をハイアーセルフの「意志」に沿って調整することができる。私が「超意識」というのは、五感や記憶を使わずに知識を得る能力を意味している。「霊的な」というのは、時空を超越し、一定で決して変化することのない存在の次元を意味している。それは形がなく限界もない。それは純粋な意識だ。それはあなたが存在する基盤だ。すべての想念と出来事はその究極の源泉と目的地をそこに持つ。
祈りとは違い、マントラは祈願ではない。主あるいは「それ」自体を除き何も求めない。そうしてマントラは、肉体とマインドの複合体と、そこに内在するすべての動きと自身を同一視する性癖であるエゴの性質にしがみつくことからあなたを解き放つ助けとなる。マントラの定義は、イニシエーションの時に言及されたプロセスで、より高次の意識次元をその受領者に届ける音による伝達手段だ。
マントラは意識の階層の間にある言語だ。それ故あなたの意識が木に成長する種子の如く、深くなると同時に広がるようそれなりの集中力と共に繰り返すことが重要だ。マントラを繰り返している間、あなたは通常の精神的な動きを停止する。通常の肉体意識において、あなたの意識は自身のアイデンティティすら五感を通して経験される現象に吸収されている。あなたが見ているもの、読んでいるもの、聞いているもの、肌に感じているものに占有されている。白昼夢を含む通常の夢の状態では、あなたの意識はやはり制限され、期待・欲望・判断のような記憶と想像の中に吸収されている。マントラ行の恩恵を得る為にはそれ故、通常の心の働きを突き抜けて霊的な次元に到達するよう、マントラの音または発音に集中する必要がある。もしあなたがマントラのイニシエーションを受けた時経験した神聖でより高次の意識状態を思い起すことができれば、その恩恵は更に大きなものになる。その意識状態とは、広大な静けさと、存在・愛・安らぎ・静寂のエネルギーが満ちたものだ。
ヨーガの目的は不幸の原因を弱め、真我実現つまりサマーディに励むことだ。とパタンジャリはYSⅡ章2節で述べている。彼が言うには、不幸の原因は、我々の真のアイデンティティに対する無知にある。ここから他の苦悩、即ち不幸の原因が発生する。それらはエゴイズム・執着・憎しみ・死の恐怖だ(YSⅡ章 3-9)。「私は誰なのか?」との問いかけに対する答えは、あなたが自身を肉体・個性・想念・感情・過去と同一視することをより少なくし、観察する意識に留まることが多くなるにつれて進化する。あなたのアイデンティティが進化するにつれてあなたの神に対する概念も進化する。ヨーガの修練はあなた自身のアイデンティティにおいて、私はこの肉体だ、母だ、父だ、専門家だ、男性だ、女性だ、あのチームのファンだ、あの政党のメンバーだ、寒い、空腹だといったことから、単に私は存在するという処まで進化する。あなたは見られるものではなく、見る者即ち真我と自身を同一視する。あなたのアイデンティティは決して変化することのない「それ」になる。あなたはますますすべてのものとの一体感を感じるようになる。私はすべての内にあり、すべてが自分の内にあるということが経験される。あなたのアイデンティティがそのように進化するにつれエゴに付随する執着や欲望、憎しみや恐れが苦悩の原因だと知り、あなたはそれらを手放すことを学ぶ。
通常の自己中心的な意識状態において神は、自身の欲望を満たしたり、恐れていることを回避したりする助けとなる存在と見られている。祈りはこうした願望を伝える手段だ。しかしあなたの目的が最早エゴの実現を満足させようとすることではなくなり、むしろこれらのエゴを超越して自身を真我と同一視すること、エゴを手放すこと、目撃者として留まること、そして単に自身の義務を果たし、より高次の意識状態に留まることを可能とする道を歩むことになった場合、あなたの神との関係は変わる。瞑想が祈りに取って代わる。神との霊的な交流を求めること、あるいは導きや叡智を求めることが嘆願的な祈りの代わりになる。神が自身を愛し、導いてくれることを信頼する。それ故あなたは内に向かうことで神の叡智と導きに耳を傾けることを求める。
私は神とどんな関係にあるのか?
これは神学即ち神・魂・世界の関係に関する研究のテーマだ。彼らの現実に対する信仰は有神論と呼ばれる。こうした区別は現実ではなく幻影で、しばしばインドのヴェーダーンタの文献の中でブラフマーと呼ばれる唯一のものが存在するという信仰は一元論と呼ばれる。前者が二元論であり、西洋の諸宗教、ヨーガ、タントラ、シャイヴィズム・ヴァイシュナヴィズム・シャクティズムなど主要なヒンドゥー各派によって奉じられている。後者は非二元論で、アドヴァイタ(不二一元論)と呼ばれ、十の主要なヒンドゥーの放擲者の団体即ちダサミによって奉じられ、それらはアディ・シャンカラやラマナマハルシ、そして増え続けている西洋人の諸団体によって設立された。これらの非二元の伝統においては、仏教におけるのと同様、神・魂・世界は幻影だとされる。
パタンジャリはヨーガスートラ(1-24)(以下、YS)の中で、上記の質問に対し明確に答えている。「イシュヴァラは神我であり、苦しみ・行為・行為の結果・欲望に影響を受けない」。そして、その前の節において、この関係に就いての目的を告げる。「或いは神への献身によって(サマーディに達する)」(1-23)。
サーンキャ哲学、多くのヴェーダーンタ、仏教とはことなり、パタンジャリのYSに表された古典ヨーガはイシュヴァラという神の存在を肯定する。この神は創造神ではない。宇宙・生命・人間はプラクリティ即ち「大自然」によって根源的な物質から創造される。しかし、イシュヴァラはサマーディを達成するまでのプロセスを早めることができる。それゆえイシュヴァラはヨギの神なのだ。イシュヴァラはヨギだけの手助けの為、来ることができる、つまりヨーガを自分の道として既に選んだ人たちだ。一方でイシュヴァラの役割は比較的小さい。彼を集中の対象として選んだヨギにサマーディをもたらすことができる。ギーターの中でクリシュナは似たようなことを言明し、アルジュナに対し、「私」のみに集中するよう熱心に説いている。YS第2章45節でも再確認されている上記(1-23節)の通り、この神の手助けは願望や感情の効果ではなく、というのも神は願望も感情も持つことができないからだが、主イシュヴァラと魂であるプルシャの間の超自然的な共感の効果だとパタンジャリは告げる。要するに、イシュヴァラは原初から自由で苦悩の原因に決して影響されたことのないプルシャなのだ。賢人ヴィヤーサはこの説に関して、次のようにコメントしている。即ち、神は祭儀・献身・神の慈悲に対する信頼によって呼び出さるのではない、彼の精髄・意識がヨーガを通じて解放されることを求める我々の真我と協力するのだと。それゆえこの関係は、存在のもつれた幻影の網から多くのプルシャを救い出す為に協力しようとの大自然の目的或いはデザインから生まれた一種の同情である。
しかしYSで最も重要なことは、技法と、ヨギの自己統制並びに集中力に対する意志と能力だ。それにも拘わらずなぜパタンジャリはイシュヴァラを登場させる必要性を感じたのかとの疑問をあなたは持つかも知れない。その答えは、イシュヴァラは経験に基づく現実に合致しているからだ。つまり、イシュヴァラはヨギが完全な明け渡し、イシュヴァラ・プラニダーナ、つまりイシュヴァラへの献身を実践すると、イシュヴァラは事実サマーディをもたらすことができるからだ(YS2-45)。
古典的な伝統によってその効果が確認されたヨーガのすべての技法を集め、分類したことにより、イシュヴァラに対する集中という単一のプロセスによって可能となる経験(それはギーターでも肯定された)をパタンジャリは無視することができなかった。換言すれば、エリアーデ(Milcea Eliade)の指摘の通り、「意志と修行者の個人的な能力以外何も求めない純粋に神秘的なヨーガの伝統と並んで、もう一つの神秘的な伝統があり、そこにおいてヨーガの修練は少なくも献身によって容易になる。但しその献身は、極度に浄められ、極度に知的なものでなければならない。やはりイシュヴァラはヨギの唯一の原型なのだ。イシュヴァラは時の制限を受けないがゆえに、太古の教師にとってさえ教師である。(YS1-26)」
ヨーガの達人の教え、ヨーガ・シッダーンタによると、私と神の関係は何か?
ティルマンディラムの中で表現された通り、シッダーンタは、神に対するあなたの概念はあなたの心理的なアイデンティティが進化するにつれて進化すると教える。この関係は次の段階を含む。
チャリヤー:僕、神を求め、奉仕し、神を求めている人々との交際を始める。
クリヤー:友、神に到る道を見出し、神に親しみ、儀式・修練などの祭祀を行う。
ヨーガ:息子または娘、神の性質を表し始めたヨギ。
ジニャーナ:ワンネス即ち一者・永遠・至福に満ちた者・シヴァとの合一の知識を
持つ哲人・賢人・シッダ・完成者
これらの関係はすべて恩寵に対する希求と、無知・エゴイズム・カルマ・錯覚即ちマーヤーといった汚れや不純物を浄化し続けることを含む。これらは、遠くにある山を見ている(チャリヤー)、そして山に登る道を見出す(クリヤー)、次に高く上るにつれて山に親しみ(ヨーガ)、最終的に山頂に到達する(ジニャーナ)までの変化として比喩的に表現される。神即ち真理の探究者は神を、遠く離れ、知ることが出来ないものとして見るが、霊性向上の道を見出し、その修行法に集中し、最終的に「それ」との合一を悟る。これは人が神を自分自身以外のものとして考え、究極的には自己のエッセンス、「意識のエネルギー」、シヴァシャクティだと考える一元論の説明だ。ティルマンディラムは浄化の段階を通じて神の恩寵が前進的に降下することに言及している。
ティルマンディラムは神の五つの機能、即ち創造・維持・破壊・秘匿(曖昧化)・恩寵について記述する。これらはカルマと同じく、36のタットヴァ即ち自然の原理に従い、神のシャクティ(力)を通して顕現される。
恩寵は神の五つの機能すべてと、最終的には我々の個人的な生活の中で創造され、維持され、破壊され、曖昧化されたこと、慈悲を感じることすべてに浸透している。我々が時々刻々これを理解し、これに感謝出来る時、我々の苦悩は直ちに終わり、神の尊顔を見る。
神の恩寵は魂をゆっくりと俗世から解放しながら、そして叡智と真我の知識のより偉大な光を表しながら霊的な体験の梯子を上るように導くものだとシッダは教えている。恩寵とは神の慈悲だ。カルマとは異なり、それは人々の行為の美点や欠点に依存するものではない。それは「真善美」を求める魂の希求に対する神の回答だ。
神の宇宙的な姿は誰も理解できない
しかし、五大要素からなる肉体に
水に溶け込んだミルクの如く神は見事に浸透し
驚くべき至福を私は飽くことなく経験するようになった。
ティルマンディラム450節
曖昧化が続く限り、内なる神の存在を悟ることはできない。しかし神の恩寵を通じ、肉体と心よりなる個性に対する執着に背を向けて汚れを浄化するにつれ、人は霊的な経験をし始める。こうした体験とそこで与えられる至福から、人は内にあって結びついている神に対し、ますます向き合うようになる。究極的な至福は神の恩寵によって見出される。
シッダ達は決してヒンドゥーの諸神を崇めなかったし、寺院での礼拝という中途半端な妥協すら推奨しなかった。彼らは最も正確な言葉の意味において過激であり、すべての者に対し、内なる神を求め、「それ」を顕現するよう奨励した。彼らの偉大な格言は、「神は愛なり」、「ジ―ヴァ(個我)はシヴァへと変わり、それらは二つのものではない」を含んでいた。神に対する彼らのお気に入りの概念はヴェッタヴェリ即ち「広大な光に満ちた空間」だった。
ババジのクリヤーヨーガはグルヨーガである
ヨーガの伝統の中で「グルと神と真我は一つだ」というのは偉大な格言即ちマハーヴァーキャだ。それは、ヨガナンダとヨーギラマイアの偉大さを一瞥して以来私が個人的に奉じて来た言葉だ。シッダ・ティルムラルの詩を聞いた時、それは私の中で水晶のように明らかになった。
無知な者は愛とシヴァは別のものだと言う
愛はシヴァなりということを知らない
一たび愛はシヴァなりと悟れば
愛はシヴァとしてそこに留まる
愛はシヴァなりということを知らない
一たび愛はシヴァなりと悟れば
愛はシヴァとしてそこに留まる
ティルマンディラム270
私がババジのクリヤーヨーガの修行と、タミール地方のクリヤーヨーガの教義、即ち18人のタミールヨーガのシッダの教えを分かち合うというババジの使命の為に自身を捧げた時、それは私の人生の指針となった。私がババジのマントラ、「オーム・クリヤー・ババジ・ナマ・アウム」を繰り返す時いつも、それを思い出す。
ヨーガのシッダたちは自分達のグルを崇拝した。彼らの書物の中ではどこにおいても、如何なる神も賞賛しないし、寺院の中のより小さな神も崇拝しない。というのも、彼らは自分達をシヴァ即ち至高の存在であると悟っていたからだ。彼らのヨーガはグルヨーガだ。彼らの詩は概して自分達のグルへの挨拶で始まる。これは、彼らがグルの愛の中で神を経験したからだ。彼らはグルの愛の力を経験し、その見返りとして愛と神聖な行為までも現わすことによって答えた。私が「私の存在と喜びを絶対的かつ完全にクリヤーババジに明け渡します」との誓いの言葉を最初に口にした日から、この愛と、それが私を通してどのように働いて来たかを証言できる。過去の50年間は、すべての者に内在するババジに対するこの愛と明け渡しを表現する一つの継続したカルマヨーガの期間だった。
グルという言葉は文字通り闇を駆逐する者を意味する。「グ」は闇、「ル」は光を意味する。闇とは無知の暗喩だ。無知とは、永遠でないものから永遠のものを、歓びの源から苦悩の源を、真我からエゴに縛られた人間性を識別する能力の欠如だ。従ってグルとは、如何に無知の闇を取り除き、叡智を実現するかを我々に示すものだ。無知のヴェールが取り除かれると愛が内側よりそして外側に全能の光のように輝く。グルは人間ではない。グルとは、それによって真理・愛・善・叡智が表されるタットヴァ即ち自然の原理だ。それは、自然の背後にある「真理」を深く見ることを可能にするあらゆるものを通じて明らかになるかもしれず、エゴイズム・幻影・カルマの汚れを浄化する。それは書物・赤ちゃんの眼・日の出・霊的体験・マントラを通して明らかになるかも知れない。それがある人物を通じて絶えず明らかになる時、我々はその人物をグルと呼ぶが、グルであるのはその人物ではなく、その人物を通じて顕される教え・叡智・愛であることを忘れてはならない。その人物は単なる郵便配達人なのだ。これを忘れずにいることで、その人物の人間的な限界が表された時に生じる混乱を避けることができる。
グルの原理はまた、我々が無知から叡智へ、エゴイズムから真我実現に向かう為に必要なすべての生き物を我々の内と外の世界において大自然が創造し、維持し、破壊する法則だ。それは宇宙が創造される前から存在し、それ故時空を超越している。グルの原理は内なる真我としてすべてのものの内に存在する、それ故我々が外部のグルに敬意を表すとき、自身の真我にも敬意を表すことになる。それは非個人的なシャクティ、即ちサーダナを最大限拡張するために必要なすべてを創造する本能的な力だ。それは常に利用可能なので、外部のグルより強力だ。
グルという言葉は、「グナ」という言葉に関係付けても説明できる。グナとは大自然(プラクリティ)が我々を物理的・感情的・精神的に動かす、タマス(不活性・疲労・落胆・疑念)、ラジャス(活動・勇気・計画・執行)、サットヴァ(バランス・平衡・明晰)の三つの傾向・モード・構成要素・性質を意味する。従ってグルとは、我々が如何にグナへの依存から自由になるかを示すものだ。シッダたちはそれを行なう彼らの使命をアルパダイと呼んだ。それは真我実現への道を示すことだ。パタンジャリはヨーガスートラの中でこの解放をカイヴァリヤ即ち「見られるものから自由になること」と呼ぶ。(YSⅡ-25、Ⅲ-50、Ⅳ-26,32,4)そして最後の節で次のように述べる。
こうして、グナが真我に奉仕するという目的を果たし、プラクリティへ溶け込み、完全なる自由という最高の状態が現れる。言い換えれば、純粋意識の力が自らの純粋な本性に落ち着く。
ババジを求め、ババジになりなさい
我々一人ひとりは進歩の途上にある作品だ。個人的にも全体的にも、修行即ちヨーガの訓練に従事する修行者として、人間的な性質やエゴを抑制すると同時に潜在的な能力と意識であるクンダリニーを表そうとしている。しかしこのプロセスの結果として生じる変容は、修行者のマインドと精神が魂あるいは霊にその忠誠を向け、エゴから離れる程度に依存するだろう。
エゴはそれ自体を浄化できない。それができるのはエゴの顕れに影響されていないハイアーセルフまたは魂だ。しかし、如何にして我々の意識の前面にそれを持ってくるのか? エゴに対してその影響力をどのように働かせるのか? ババジのクリヤーヨーガにおける五重の道は間違いなく、潜在意識を浄化し、必要な集中力を開発し、肯定的な心のイメージを創り出し、叡智を見出すための知性を開発する手助けとなる多くの技法を提供する。しかし、我々の魂、即ち心霊的存在は、修行者が内に集中し、内在し且つ超越している神秘的な光、神の甘美な臨在、「真善美」を見出さない限り、それまでマインド・感情・感覚のヴェールの背後に隠れている。グルと神と真我は一つのものだ。第一イニシエーションには、クリヤーヨーガのグルであるババジと交信する技法がある。このババジと交信する技法は、魂・ハイアーセルフ即ちシュリ・オーロビンドのいう心霊的存在が、次第に頻繁にエゴイズムのヴェールの背後から現れることを可能にし、最終的にはそれと完全に同一化する。我々の魂との完全な同一化は通常長期間にわたるサーダナの後に初めて実現する。この同一化の特徴は、すべての状況で生じている非常に大きな歓喜だ。
その者は不死即ち永遠であると感じる。神の甘美な臨在を感じる。
しかし一方でハイアーセルフ即ち魂の長期にわたる浄化と、自身をそれと同一視する作業が完成するまで、修行者は繰り返し内に向かい、集中し、その指令に耳を傾け、そして従わなければならない。それは人の性格の中で浄化する必要のあるすべてを現わすだろう。それは改善するか削除すべき(性格の)すべての上に光を当てる。あなたが(本来)持つ真の主権があなたを待っている。単にマインドフル(気付いている状態)であるだけでは十分ではない。至高神の僕になろうとの望みを持ちなさい。怒り・プライド・嫉妬心を現わすことに抵抗し、怖れ・欲望・古い否定的な習慣を手放すため、あなたの内なる神に集中し、求めなさい。あらゆる時、あらゆる場所で神に対する愛と献身と共に親切心を現わし、落ち着いて役立つ行動をし、神の道具となることを求めなさい。すべての者の内に神の美しい顔を見なさい。愛と喜びと共にあなたのハートを高鳴らせなさい。あなたのマインドと生気体が静まるにつれてあなたの魂は前面に現れ、あなたの人生を導くだろう。
以上