アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第14章 道 ①無呼吸の秘密

2011-06-24 05:23:39 | 第14章 道
本ブログにおいて、筆者は様々な瞑想法や呼吸法を自身で試し、紹介してきた。直ぐに思いつくだけでも、グラウンディングの為の呼吸法、マカバ瞑想、ユニティ・ブレス等があり、それらは全て独特の呼吸法に合わせて実践される瞑想でもある。更にそれに加え、ヘミシンクの体験も書いて来たが、そのヘミシンクにおいても先ずは呼吸(プラーナ)を使って“共鳴エネルギー・バルーン”(通称リーボル)を作る。こうして見ると、どの手法を用いるにせよ、呼吸を制御することは瞑想と切っても切れない関係にあることが判る。しかし、その呼吸法がどのような理論に基づいて開発されたのかに就いての解説は余り見当らないので、先ずは『ババジと18人のシッダ』から、その呼吸と生理学の関係について引用してみたい。

「人の生理機能の中で、不随意に働く一方で人の意思が及ぶのは、唯一、呼吸だけである。呼吸は意識的に制御することもできれば、消化をはじめとする他の生理機能と同様に、肉体による制御の下に自動的にも機能する。つまり、呼吸は心と体をつなぐ重要な架け橋であり、この双方に影響を及ぼすことが出来る。」
「呼吸のパターンは人の感情や心理状態を反映する。怒っているときの呼吸は途切れがちになり、恐れを感じているときには瞬間的に止まることがある。また人は驚いたときには息を呑み、悲しいときには息を詰まらせ、ほっとしたときには安堵のため息をつく。意識を集中している時の呼吸はゆっくりとして安定しているが、心が雑念や散漫な感情に支配されているときには乱れがちになる。心や感情を直接的に制御することは難しいが、呼吸を使ってそれらを間接的に制御することは可能である。様々な瞑想の伝統は、雑念を取り除くために穏やかな呼吸を心掛けることを教えて来た。近代においては、数多くの科学的な研究が、高血圧の治療や不安感の除去に、呼吸法が有効であることを証明している。・・・シッダ達は、肉体と精神の善活動の背後にある基本的なエネルギーを“プラーナ”(霊妙な生命力)と呼んだ。プラーナは我々が呼吸する空気、大地、飲み水、更には太陽光線にふくまれる。」
「物質に近いレベルの、プラーナが流れる気脈の一部は、インドや中国のシッダ達によって特定されてきた。こうした気脈は、元々インドで発達した鍼治療における“経絡”に相当し、シッダ医学においては“ヴァルマ”と呼ばれる。こうした医学は、特にタミル・ナードゥ州ナジェルコーイル地方のシッダ医療に携わる医師達によって今日も実践されている。またインドやスリランカの象使いたちもこれを活用している。こうした気脈は物質に近いために、鍼や指圧のような身体上の操作の影響を受ける。以下に述べるように、これらの気脈は、ヨーガにおいて“ナーディー”と呼ばれる、より広範にわたって存在するプラーナの気脈の一部である。」

以上の説明は、然程驚くべきようなことでもないと思うが、次に著者は呼吸と寿命の関係に就いて説明している。

「シッダの科学によれば、人は平均的に毎分15回の呼吸をしている。これは一日にすると計2万1600回の呼吸回数になる。若しこの速度で呼吸すると、人は少なくとも120歳まで生きることができるという。この考えの背後には呼吸の基本原則がある。この原則は、呼気に拠って体外に排出されるエネルギーの一部しか、吸気によって回復されないという考えに基づく。平常の呼吸において、30センチ分排出される呼気で失われるエネルギーのうち、吸気において回復されるのは20センチ分であり、正味10センチ分のエネルギーが失われるこうして体に入るべきエネルギーの一部が毎回の呼吸によって失われていくために、通常であれば120歳まで生きられるはずの人間の寿命は大幅に短縮されてします。ボーガナタルは・・・過度の呼吸が如何に人の寿命を縮めて死に至らしめているかについて触れている。食事のときに排出される呼気は45センチである。これが歩行時には60センチに、そして走行時には105センチとなる。性行為においてはこれが125センチとなり、睡眠中においては150センチにまで達する。ラーマリンガ(筆者註:『恩寵の聖歌』を著したシッダの一人)も過度の睡眠が寿命を縮めることを指摘している。」
「タミル地方のシッダであるローマ・リシは、彼が書いた『英知の歌』という詩の第13節のなかで次のように述べている。“若しそれが失われるならば寿命は縮まり、保たれれば寿命は尽きない” この詩の中での“それ”とはプラーナ、即ち生命エネルギーを指す。ここでローマ・リシは、人がプラーナ(生命力)を失えば寿命が縮まり、そでなければ寿命は永遠に続くと述べている。また彼は、もしプラーナの生命力を失うことなく、これを宇宙の源から引き出して増すことができれば、人は死や宿命を克服して死ぬ必要がなくなるとも述べている。寿命が呼吸回数に反比例することをヨーギー・ラマイアは“寿命と呼吸回数の反比例の法則”と呼んだ。平均寿命が120歳であったローマ・リシの時代においては、一般人の呼吸回数は毎分15回であり、一日にすると合計2万1600回であった。若し毎分の呼吸回数が18回であったとしても、人は96歳まで生きることができる。しかし悪習慣やエネルギーの浪費によって、毎分の平均呼吸回数が30回にまで増えれば、寿命はわずか60歳になる。ところが、仮にヨーガの実践や自己制御によって呼吸回数が毎分5回になれば、寿命は360歳にまで延びる。・・・ヨーギー・ラマイアは現代動物学の研究から実例を挙げて、“寿命と呼吸回数の反比例の法則”の正しさを裏付けている。たとえば、300年以上も生きるウミガメの呼吸は毎分4,5回と遅い。そしてカエル、鼠、熊のような動物は、冬眠期間中にその呼吸回数が劇的に現象することが知られている。」

「シッダたちはこうしたエネルギーの損失を防いで、人類に奉仕しながら自分達がのぞむだけ長生きができるようにするために、律動的でゆっくりした呼吸の仕方を開発した。ちょうど酸素が循環器官によって吸収されるように、プラーナは神経器官によって吸収されて、考えたり願望を抱くといった活動に使われる。呼吸を調整することによって、人は大量のプラーナを吸収して脳や神経中枢に蓄えて、それを必要なときに使うことができる。熟達したシッダたちが持つと言われる驚異的な能力は、主にこの蓄積されたエネルギーについての知識とその賢明な活用によって可能となる。肉体器官のあらゆる機能は、太陽から発せられて空間を循環するプラーナによって供給される神経の力に依存していることを忘れてはならない。こうした神経の力が無ければ、心臓は鼓動せず、肺呼吸も起こらず、血液も循環せず、他の諸器官も夫々の機能を果たすことができない。プラーナは神経に電気的な力を供給するだけではなく、体の組織にある鉄分を磁化してオーラを放射する。これは個人における磁力の開発の第一段階であるが、プラーナヤーマ(呼吸法)の実践に拠ってこうした磁力を容易に得ることができる。より多くのプラーナを体の組織に吸収して蓄えることを修得した人は、活力と力強さに満ち溢れる。周囲の人々はこうして発せられる磁力を感じることができる。歴史上の偉大な指導者たちは、生まれながらにしてこうした磁力を授けられた人々である。」
「呼吸の主な目的は体の細胞に酸素を供給して、酸化作用の結果として生じる余分な二酸化炭素を排出することにある。また呼吸には体温を安定させて余分な水分を取り除く働きも有る。呼吸には内呼吸と外呼吸がある。外呼吸は肺の細胞から血液中へ酸素が送られることを指す。他方、肉体組織の細胞で起こる呼吸は内呼吸と呼ばれる。シッダたちによる長寿の科学は主にこの内呼吸に関わっている。長寿の秘訣は呼吸を微細なエネルギーの気脈や中枢に流す技法にある。空腹や喉の渇きによってヨーガの実践を中断させないヨギやシッダたちは、口蓋垂の後方にある開口部を通して大脳の領域から分泌される甘露を得るための特殊な技法を使うことができる。これはタミル語で“アムリダラナイ”と呼ばれる。これについての言及は『ティルマンディラム』(筆者註:聖なる神秘の言葉という意味。シッダ・ティルムラルが著したヨーガと神秘主義に関する傑作と言われている)のいくつかの詩節の中に見られる。達人はこの芳香美味な霊液を得るために、心霊エネルギー・センターや視床下部にある神聖な腺に意識を集中する。この命の霊液は人体組織を強化して、肉体を衰えや変質、病気、更には死さえも免れる状態に変える。ティルムラルは我々の体そのものに複数の神聖なセンター(中枢)があるからには、外の世界に神聖な沐浴場を探すことは無駄な努力であると述べている。」

『ババジと18人のシッダ』からの引用は以上として、次に本稿の本題である無呼吸の秘密について、パラマハンサ・ヨガナンダが述べているところを、『あるヨギの自叙伝』から紹介したい。

「1950年から1951年にかけて、私はカリフォルニア州のモハベ砂漠の近くにあるSRFの静修所に多く滞在した。そこで私はバガヴァッド・ギーターを翻訳し、いろいろなヨーガの道についての註解を書いた。このインドの最も偉大な聖典は、あるヨーガの技法について二度にわたって言及し、道徳上の教訓とともにその具体的な方法をも示している(これは、バガヴァッド・ギーターの中に記されている唯一のヨーガの技法で、ババジがクリヤー・ヨーガと名付けられたものと同一のものである)。我々が住んでいるこの世界は、夢と同じく意識が創り出した幻影に過ぎないが、この夢の世界を海に譬えれば、呼吸はこの海に、個別的意識(諸々の事物を個々別々の存在と錯覚する意識)の波を巻き起こす幻惑の嵐である。人間は、この呼吸によって自分自身をも個別的存在であると誤認し、そのために多くの苦悩を背負っているが、この迷夢から目覚める為には、単なる哲学的或いは倫理的知識だけでは不十分である。そこで主クリシュナは、肉体を自己の完全な制御下に置き、さらにそれを意思の力によって純粋なエネルギーに変換させる、この聖なる技法を教えられたのである。この驚嘆すべきヨーガの技は、科学的にみても、決して原子力時代を開いた現代の科学者たちの理論と矛盾するものではない。全ての物質がエネルギーに還元できることは、すでに証明されたところである。」
「ヒンズー教の聖典が、ヨーガ科学を称賛する理由は、それが誰にでも実行できるからである。もっとも、ヒンズー教徒以外でも、格別ヨーガの技法を知らずに呼吸の神秘を解明した人たちが居る。それは、神に対する信仰の力が特に卓越した神秘家たちである。彼等はキリスト教や回教やその他の宗教の聖者たちで、実際に無呼吸不動の恍惚状態(サビカルパ・サマディ)にはいっているところを目撃されている。この状態は、神の直接認識を経験するにはどうしてもまず通らなければならない過程なのである。(更に高いニルビカルパ・サマディの境地に達すると、聖者は神の中に意識を確立したまま、呼吸したり活動したりすることができるようになる)・・・」
「ヨーガは普通の人には無理な程の強烈な信仰の情熱を要求するかわりに、誰もが日課として実行出来る科学的技法を教えるところに、一般人向きな普遍性があるのである。ジャイナ教(筆者註:ガンジーはジャイナ教の信者であった)の偉大な師たちは、ティルカンタラス(渡し場を作る人)と呼ばれている。その理由は、彼らが迷える人々に、サムサラ(カルマによる輪廻転生)の荒海を渡る道を教えてくれるからである。サムサラは、人を安易な流れの中に押し流そうとする。だが、“およそこの世の友となろうとする者は、神の敵となる”(ヤコブの手紙4章4節)のである。神の友となるためには、人は己を絶えずこの世の幻覚(マーヤ)の虜にしようと働きかける、邪悪なカルマの力に打ち勝たなければならない。真剣な求道者にとって、このカルマの法則の厳しさは、その束縛からの脱出を促す鞭である。人間をカルマに隷属させている原因が、マーヤに惑わされた心の盲目的欲望にある以上、ヨギが取り組むべき問題は、心の統御でなければならない。人はこうして無知の衣を全て脱ぎ捨てた時、初めて自分を本来の姿でみることができるようになるのである。人間がこの世の生涯の唯一の目的として解かなければならない生死の謎は、呼吸と密接な関係がある。無呼吸の秘密こそ、実は不死不滅の奥義なのである。この事実に気付いた古代インドの賢者たちは、呼吸を唯一の手掛かりとして、精巧且つ合理的な無呼吸の科学を開発したのである。このクリヤー・ヨーガは、インドがたとえ世界に対して他に何も寄与するものがなかったとしても、他の全てを補って余りある貢献であろう。」
「神が呼吸を、肉体と魂とを結び付ける霊妙な鎖としてつくられたことは、ヘブライの預言者たちも良く知っていた。聖書にはこれを示唆する言葉があちこちに見られる。“主なる神は、土の塵で人を作り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生ける魂となった”と創世記は記している。人体は、所謂土の塵にも含まれている化学元素や金属元素で構成されている。そして凡人の場合、もし息という媒体によって魂から送り込まれる生命エネルギーがなかったならば、その肉体は、活動を続けることはもとより、生き物としての状態を保つこともできないのである。人体に流入して五つの機能を遂行している生命エネルギー(プラーナ)は、遍在する魂の波動“オーム”の一つの現れなのである。魂という源からの生命の光が肉体細胞の中に射し込むと、その光の反映が、土くれの肉体細胞をあたかも生き物のように見せかける。ここに、人間が肉体に執着する唯一の原因がある。単なる土の塊ならば、人はこれほど熱心な敬意は払わないであろう。しかし、呼吸によって魂から肉体に流れ込む生命エネルギーには、人間をして原因と結果を混同させ、肉体そのものに生命があるかのように錯覚させる力があるため、人間は、肉体を自分自身と誤認するに至ったのである。」
「人間は、普通の意識状態(顕在意識)では、肉体と呼吸を意識しているが、潜在意識が活動している睡眠中は、心は一時的に肉体と呼吸から離れる。さらに超意識状態になると、自己の存在が肉体と呼吸に依存しているという妄想から解放されるのである。神は呼吸せずに生きておられる。神の似姿につくられた魂は、超意識の無呼吸状態においてはじめて、自己の実体を意識するようになるのである。」
「人は、魂と肉体とを結び付けている呼吸と言う鎖が進化のカルマによって切断されるとき、死という突然の変化が起きて、肉体細胞は本来の無力状態に戻る。普通の人の場合、呼吸の鎖は、こうして強制的なカルマの必然性によって乱暴に切断されうるが、クリヤー・ヨギは、科学的英知によって自ら自由にこれを断つことを知っている。自己の実体が肉体ではないことを日々の体験によって知っているヨギは、自分の生命が肉体に依存していないことを死によって改めて想い知らされる必要はないのである。」

それでは最後に、バガヴァッド・ギーターがこのプラーナヤーマに就いて述べている個所(第4章27節―29節)を田中嫺玉氏の『神の詩』から引用し、本稿の締め括りとしたい。

「真我実現を熱望している人々は、
心と感覚をすべて抑制し
五感の機能と呼吸までも供犠として
精神統一の火に投じる

厳しい誓いをたてて
ある者は財産を捧げ ある者は苦行をする
またヨーガの八秘法伝を行う者もあり
またある者は無上の智識を求めてヴェーダを学ぶ

恍惚境にはいるため呼吸を支配する者もいる
呼気(プラーナ)を吸気(アパーナ)に また吸気(アパーナ)を呼気(プラーナ)に捧げ
ついに呼吸を全くとめて恍惚境に入る
また食を制し 呼気を呼気に捧げて供物とする者もいる」

尚、参考までに書き加えておきたい事が一つある。ババジのクリヤー・ヨーガにおいては、全ての種類のプラーナヤーマにおいて(少なくとも筆者が第二イニシエーション迄に教えを受けた範囲では)呼吸を意図的に止めることは推奨されていない。但し、修行者がサマーディ状態を経験するとき、意図せずとも呼吸は自然に止まると言われている。

尚、このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。


最新の画像もっと見る