アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第9章 2012年に備える ⑪罪の意識とカルマ

2010-06-26 23:21:54 | 第9章 2012年に備える
罪の問題をどう捉えるのか、それは昔から現代に至るまで、あらゆる宗教の大きなテーマで有り続けて来たものだと思う。キリスト教で言えば、罪を犯しても、唯悔い改めれば天国に行く事が出来るのか、或いはアダムとイヴの犯した原罪をどのように考えるのか。仏教で言えば、悪人と雖も成仏出来るのか。この問題を多くの教祖或いは宗教家が論じて来た筈である。それほど、罪の問題は深く且つ重い。

筆者は然程仏教の勉強をした訳ではないが、高校の日本史では確か親鸞聖人の悪人正機説が紹介されていたものと記憶している。そして、歎異鈔(たんにしょう)に出てくる「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」の一節は余りにも有名である。

以下はインターネットで調べて見た悪人正機説の解説のうち、実際に読んでみて筆者にしっくりきた説明である。法話集の体裁をとっている(おそらく僧侶の)HPなのだが、出所が明記していないので、誰が書いたものかは不明であるが、取敢えず自分の文章で無いことだけはお断りした上で引用させて頂く。

「親鸞聖人は、(そういう)わが身を振り返って、『浄土真宗に帰すれども真実の心はありがたし、虚仮不実のわが身にて清浄の心もさらになし』というように和讃の中で、(筆者註:自分を振り返ってみても)清らかといえる心もまったく無いと嘆いておられます。
ですから「地獄は一定すみかぞかし」、つまりは地獄に落ちるしか行きようのない身なんだという自覚に立たれたわけです。そして、そういう悪の身を自覚しているからこそ、弥陀にすがろうという気持ちがおこるのです。ですから、善をなしたと善に誇っている善人よりも、深くわが身の悪を自覚した悪人こそが、弥陀にすがるしかない身なんだと自覚できる人であり、往生の正因なんだと親鸞聖人は仰っておられるのです。」

そして、これと全く同じような問題が聖書でも取り上げられているのでご紹介したい。新訳のルカ、第七章、36~50節である。
さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壷を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」

筆者は本章の第6節「自分自身を癒す」において、アセンションに至る為には自分自身の感情体の浄化、或いはトラウマの解消が必要であることを述べた。そして、このブログでそれを紹介するだけでなく、自分自身でも実践して見ようと思い、幼児の頃の記憶から現在に至るまで、自分が怒ったり悲しんだり、自分の感情体に影響を及ぼしたと思われる事象を出来るだけ多く思い起こし、エクセルに書き出してみたところ、200以上もあった。これをヘミシンクの「リリースとリチャージ」を使って殆ど毎朝、片端から解放していったところ、3カ月近くを要した(前節でも少し言及している)。ここで少し説明が必要と思う。ヘミシンクの経験の無い読者には判り難いかも知れないが、ヘミシンクの「リリースとリチャージ」という瞑想に於いては、先ず「エネルギー変換箱」の蓋を開けて、中に入っている恐怖を取り出し、次に恐怖に覆われていた感情を見て、次にその出来ごとを自分の心の中にしまい込むというプロセスなのだが、筆者の場合は逆に、先ず自分の感情体に影響を与え、浄化したいと思う事実を特定してから、その記憶と一緒に自分の意識の中に埋もれていた感情や恐怖を解き放つ作業を行った(ヘミシンクに就いては、坂本政道氏と植田睦子氏共著の『ヘミシンク入門』を読んでみるとその概要が判り易く説明してあるのでお薦めします)。そして判ったことは、或る程度予想していたこととは云え、自分がこれまで感じた恐怖の中で、一番重かったものは罪の意識であったことである。「罪の値は死なり」、これは確か聖書の中のイエスの言葉と記憶している。

それでは、この罪の意識をどう扱えば良いのだろうか。その罪の重さを深く悔い改めるだけで良いのだろうか。

筆者の考えはこうである。基本に立ち返って考えてみると、アセンションに必要なことは自分の振動数を上げることである。ところが、罪の意識があると、これが感情体をおそらく重濁させてしまい、振動数が上がらなくなってしまうのでは無いだろうか。そう云う意味からすると、先ずはこの罪の意識を、ヘミシンクなどを使って解放し、自分の感情体のエネルギーの通りを良くすることが重要と考える。
そしてもう一つは、カルマに関する考え方(或いは観念)の“見直し”である。罪の意識があると、それによって自分自身に何らかの報いがあるのでは無いかとの不安が心の奥底に残ってしまう可能性がある(或る意味これが感情体を重濁させる原因かも知れないので、その意味では前者と重複する)。従って、この不安も取り除く必要があるのだが、ここにカルマに関する極めて的確な対処方法があるので、それを『バシャール』のペーバーバック①から引用する。

「カルマとはバランスのことです。自分が捕らわれの身になるというのではなく、カルマをバランスするということが大切です。こういうことをしたから、こういう報復が還ってくるという意味では必ずしもありません。カルマというのは単に“調整されなくてはいけない動的な力”という意味です。バランスをとる方法はいろいろとあります。ひとつの人生の中で自分がネガティブなことをすれば、次の生ではまったく同じことが起きなくてはならないという考えの人がいますが、あなた方にとって、いままでは確かにそういうことが真実でしたけれど、そうである必要はありません。・・・
たとえば、一つの生の中で人を殺したとします。次の生で殺される必要はありません。また殺人を犯そうとする人を助けて、その人が殺人をしないように防ぐこともできます。そうすると同じバランスが作られます。カルマというのは単にあなたの存在全てが結合した体験なのです。自分の周波数を換えるためには、そして自分を高い存在にさせて進化させるには、全ての体験のバランスを取る必要があります。このカルマというのは、あなたの鎖となるようなものでは決してありません。逆説的なのですが、真実はこのようなものです。
自分が体験している真実というものすべては“自分が創りだしている”ということに気がつけば、もうカルマ的な結び付きという考えを信じる必要が無いわけです。自分が選ぶ、あるいは選ばない自由があるということに気付くと、それがあなたのカルマを切ることにもつながります。つまりそういう自由があるということに気付く時、否定的な行動をする必要が何もなくなるわけです。
あなたの出したものがあなたの受けとるものです。それがただひとつのカルマ的な法則です。与えたものを受ける。
前にやったことで、もうやりたくないということがあったなら、ただ単に気づくこと、もうネガティブなことをしたくないと気づくこと、ポジティブなことだけをすること、それに気づくだけでカルマの鎖を切ることができます。所謂カルマの鎖というのは、自分が創りだしたエネルギーの結果なのですから。自分が決断すればそれを変えることができます。」

ところで、皆さんは太陰対極図の中に書き込んである『目』のような物の意味するところを御存じだろうか? 筆者もこれに就いては、坂本政道氏の著作の中で読んだと記憶している(どの本かは失念、或いは他の著者のものか?)のだが、インターネットで再度同じ内容のものを発見したので、ここで紹介しておく。詳しくはhttp://homepage2.nifty.com/osiete/s463.htmをご参照願いたい。

「よく見ると、白い白勾玉の中に黒円『陽中陰』、黒勾玉には白円『陰中陽』が描かれています。この小さな円は陰と陽の属性は絶対のものではないことを表しています。陰の中にも陽が、陽の中にも陰がそれぞれ存在しているということです。」

即ち、仮に白勾玉が善人だとすると、その善人のこころの中にも一点の黒い円(即ち罪の意識)があり、その黒い点が一層他の白い部分を際立たせると共に、そのままでアセンションを目指すことが出来ることを現わしているものであるとも解釈できよう。

尚、このブログは書き込みが出来ないように設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。


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