この章で度々引用してきたラマナ・マハルシ(以下、同師)は、真我のみが唯一の実在であるという。ところが、ギーターにはかなり頻繁に神々への供犠に関する記述が登場する。又、『あるヨギの自叙伝』には、シュリ・ユクテスワが幽界からパラマハンサ・ヨガナンダに語りかける件(くだり)がある。尚、神々と複数形で表すとき、通常はキリスト教やユダヤ教で言う唯一神のことではなく、キリスト教でいえば大天使などに相当するものと考えれば良いと思う。また仏教においては如来や菩薩、神道においては八百万の神々に相当すると考えて差し支え無いと思う。果たして幽界(或いは霊界)及び神々の存在について、我々はどのように考えたら良いのであろうか。
先ず、田中嫺玉氏の『神の詩』から、神々への供犠、或いは天国星界に関連する部分を幾つか引用する。先ずはその始まりに関する件(くだり)からである。
「元初に造物主は 人類を創造して 各自に供犠となる義務を与えて言った -
“これをよく行う者に栄えあれ 願望は全て満たされるであろう”と
供犠を受けて神々(デーヴァ)は喜び 神々もまた 人を喜ばせる
たがいに喜ばせ養いあって 至高の境地に達しよう」(三章10-11)
「供犠を受けて満足した神々は 人に様々な食物や品々を授ける
それを贈られて 楽しみながら 神々に返礼しない者は盗賊である
神に供えた後の食物をとる正しい人は 凡ての罪から免れることができる
味覚の楽しみのために食物を用意する者は
まことに罪そのものを食べているのだ」(三章12-13)
しかしやがて人類の多くは感覚の楽しみに心を奪われ、神を愛し、それに仕えようという気持ちを失くしてしまう。
「知識の乏しい者たちは 天国星界に上がること よき所に転生すること
または権力などを手に入れるために 効験(ききめ)ある様々な行事をすすめる
ヴェーダの華麗な詩句を無上に尊び 感覚の満足と 贅沢な生活に 心うばわれて
それを追い求め 人間としてこれに勝る望みはないと言う」 (二章42-43)
「富の蓄積と感覚の快楽に執着し その追求に右往左往する人々の心には
真理(かみ)を愛し それに仕えようという 決断が起こることはないのだ」(二章44)
しかし供犠の真の意味を知るものは別である。
「供犠の真意を知って行う者は 罪障の業報を免れ 心身を清めて
その供物の残りである甘露を味わいつつ 永遠の楽土に入ってゆくのだ」(第四章30)
つまり供犠を行うにしても、その真の意味を把握した上で正しい方法で行う必要があるということであろう。次はクリシュナとの関係である。以下、本文の中のわたしはクリシュナのことである。
「アルジュナよ わたしは熱を与え 雨を留め また雨を降らせる
私は不死であり また死である 霊と物質は二つながらわたしである
三ヴェーダを学び ソーマの液を飲み
供犠を励行してわたしに天国行きを求める人々は
悪業を清めてインドラ等の天国星界にうまれ
地球では想像も及ばぬ快楽の生活を楽しむ
善行の功徳によって天国の快楽を味わう者は
果報が尽きればたちまち地上に戻る
楽を求めて三ヴェーダの祭式に執する者は
このように空しく誕生と死をくりかえすのみ」(第三章19-21)
「他を思うことなく 専心(ひたすら)にわたしを拝み
わたしの姿を瞑想している人々に対して
わたしは彼らに必要なものすべてを与え
持っているものを失わぬように保護する
クンティーの息子よ(筆者註:アルジュナのこと) 他の神々の信者で
真心こめて清らかな気持ちで信仰する者たちは
実はわたしを拝んでいるのである
正しい方法ではないけれども -」 (第三章22-23)
「あらゆる種類の供犠供養 祭式はすべて わたしだけが その享受者である
このわたしの実相を知らぬうちは 生物は輪廻転生をくりかえすのだ
神々を拝む者はその神々の領域(くに)にうまれ
祖先を拝む者はその祖先のもとに行き
自然霊や幽鬼を拝むものはその世界にうまれ
わたしを拝む者は私のところに来る」 (第三章24-25)
そして供犠を行う際の心得を次のようにのべている。
「サットワの人は供犠をなすにさいし あくまで聖典の指示に従い
何の報いも求めずに ただ自らの義務として行う
しかし バラタ王家の最も優れた者よ 物質次元の利益を得るため または
虚栄のため 人に見せびらかす為の供犠は ラジャスの行為であると知れ
聖典の指示するところに従わず 食物を供えず 讃歌を歌わず
僧侶に布施をせず そして信仰もない供犠は タマスに属するものである」(第十七章11-13)
ギーターの中で、神々への供犠に関する主たる記述は以上の通りである。
次に、『あるヨギの自叙伝』(以下、同書)の中で、パラマハンサ・ヨガナンダの前に幽界のシュリ・ユクテスワ(以下、同師)が現れて、語りかける件(くだり)がある。これは聖書の中にあるキリストの復活にも比せられる内容である。同書の第四十三章、「シュリ・ユクテスワの復活」の一部を引用する。
「ちょうどクリシュナの幻を見てから一週間後の1936年6月19日の午後三時、私がまたボンベイのホテルのベッドの上で坐っていると、言うに言われぬ喜びの光が、私を瞑想から呼び起こした。目を開いて見ると、驚いたことに部屋じゅうが別の世界に変わっていて、日の光ならぬ天来の光輝があたりを満たしていた。そしてそこに、血の通った肉体の姿のシュリ・ユクテスワを見たとき、私は狂喜の波に包まれてしまった。・・・」
そこで同師は全く同じ体を持って幽界の星、ヒラニャローカに復活したことをヨガナンダに告げる。
「‘ちょうど預言者たちが、地上の肉体的カルマの成就を助ける為に地上に使わされるように、わたしもまた幽界の人々の救済者として奉仕するよう神から命じられたのだ’先生は話はじめられた。‘そこはヒラニャローカと呼ばれる星で、幽界の中でも目覚めた魂たちの住んでいる星だ。わたしはそこで、霊的に進化した人々の幽体的カルマを取り除き、幽界での生まれ変わりから解放されるよう手助けするのだ。ヒラニャローカの住人たちは、既に霊的に高い進化を遂げており、みな最後の地上生活で、自己の肉体から意識的に脱出する能力を、瞑想によって会得した人たちだ。地上の生涯で、サヴィカルパ・サマーディを超えてさらに高いニルヴィカルパ・サマーディの段階に達した者でなければ、このヒラニャローカに来ることは出来ない。ヒラニャローカに生まれてくる人たちは、地上で死んだ人々の殆どが行かなければならない普通の幽界の生活をすでに卒業して来た人達だ。彼等はここで、前の幽界の生活で播いたカルマの種子を完全に取り除くのだ。幽界でも解脱の為の集合を弛まず続けて来た余程進化した魂でなければ、このような高い世界に来ることは出来ない。・・・ヒラニャローカにはまた、もっと高い観念界(根源界)からきたほぼ完成の状態に近い魂も住んでいる。」
ここで、サヴィカルパ・サマーディとニルヴィカルパ・サマーディに就いて説明しておく必要がある。同書の脚注からの引用に筆者の註釈を加えた。
「サヴィカルパ・サマーディ(筆者註:本ブログ第14章⑭初めてのサマーディ?の技法Aに相当する。第三イニシエーションにおいて伝授される)においては、求道者の意識は宇宙霊との融合状態にたっしてはいるが、この宇宙意識は、肉体が静止したトランス状態にある間しか持続しない。求道者が更に瞑想を続けて、より高いニルヴィカルパ・サマーディ(同じく第14章⑭の技法Cに相当する)に達すると、宇宙意識を保持しながら日常の仕事を遂行することが出来るようになる。このニルヴィカルパ・サマーディに達すると、ヨギは、まだ残っていた地上界の物質的カルマの最後の分を完全に解消する。しかし、物質界に関するカルマは果たし終えても、まだ幽界と観念界に関するカルマは依然として残っているので、それらを果たすために、まず幽界に生まれ変わり、それからさらに高い波動の観念界に生まれ変わって行くのである。」
さらにここで、幽界とその上にある観念界、それに対応した幽体と観念体に関して説明しておく必要がある。同師やヨガナンダによると、人間は、肉体、幽体そして観念体の三つの体を持っているという。つまり地上での修行を終えて肉体の体を脱ぎ捨てると、幽界に行くが、そこでの魂は依然として幽体と観念体に包まれている。そして、肉体も含めこれらの体を結び付けているのは欲望であり、幽界、観念界においても、この欲望から遠ざかり、無欲の境地に到ることが霊的修行の内容だという。
「霊的に未熟な人間は、三つのからだから抜け出すまで、地上界、幽界、観念界に無数の生まれ変わりを経験しなければならない。しかし、ひとたび最高の解脱を達成した大師たちは、人々を神のもとに導くために救済者即ち救い主として再び地上にうまれることも、また、わたしのように幽界に住むことも自由なのだ。ここでの救済者の仕事は、幽界の住人のカルマの一部と代わりに背負ってやり、彼らの幽界での輪廻を絶ち切って観念界に定住することができるよう援助することだ。また、完全に解脱した魂の中には、再び観念界に戻って、そこの住人が速やかに観念体に包まれた生存期間をおえて“絶対の自由”を達成するよう助力する仕事に携わる者も居る。」
上段に関連し、同師は次のようにも述べている。
「魂が三つのからだによる三段階の迷いから完全に脱すると、それはついに、個性をもったまま無限なる御方と一つになる。・・・イエス・キリストの魂は、イエスとしてこの地上に生まれる前に、既に最高の解脱を達成しておられたのだ。すなわち彼もまた、その過去世において三つの進化段階を経て、宇宙霊の中によみがえる力を獲得されたのだ。彼の死から復活迄の三日間は、人間が解脱に至るこの三つの段階を象徴している。」
つまり、神々とは、本来幽界或いは観念界にあって、地上や幽界に住む者たちの霊的向上を支援する偉大な大師級(或いは菩薩、天使といっても良いかもしれない)の魂のことを指すようである。そして、仮に地上生活で解脱を達成したと思っても、更にその先の幽界において、欲望を失くして行くという更なる修行がまっているようである。
ギーターには次の一節がある。即ち、「この地上においても 天上界の神々の間においても プラクリティの三性質(トリグナ、即ちサットヴァ、ラジャス、タマスのこと。第13章⑫参照)から離脱している存在はない」(第18章40節)。つまり我々は、プラクリティ(心もプラクリティである)を少しでも残している間は、天上界においても体を保持し続けることになる。ラマナ・マハルシ曰く、「生まれ変わるのは魂ではなく、あたかも転生するかのように見える個人の思考にすぎない。心が如何なる次元で活動しようとも、それはそれ自身の為に身体を創り出す。」(第15章⑦輪廻転生を参照)
尚、幽界と観念界に就いては、同書に詳しい説明があるので、興味を持たれた方は一読してみることをお勧めする。
このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。
先ず、田中嫺玉氏の『神の詩』から、神々への供犠、或いは天国星界に関連する部分を幾つか引用する。先ずはその始まりに関する件(くだり)からである。
「元初に造物主は 人類を創造して 各自に供犠となる義務を与えて言った -
“これをよく行う者に栄えあれ 願望は全て満たされるであろう”と
供犠を受けて神々(デーヴァ)は喜び 神々もまた 人を喜ばせる
たがいに喜ばせ養いあって 至高の境地に達しよう」(三章10-11)
「供犠を受けて満足した神々は 人に様々な食物や品々を授ける
それを贈られて 楽しみながら 神々に返礼しない者は盗賊である
神に供えた後の食物をとる正しい人は 凡ての罪から免れることができる
味覚の楽しみのために食物を用意する者は
まことに罪そのものを食べているのだ」(三章12-13)
しかしやがて人類の多くは感覚の楽しみに心を奪われ、神を愛し、それに仕えようという気持ちを失くしてしまう。
「知識の乏しい者たちは 天国星界に上がること よき所に転生すること
または権力などを手に入れるために 効験(ききめ)ある様々な行事をすすめる
ヴェーダの華麗な詩句を無上に尊び 感覚の満足と 贅沢な生活に 心うばわれて
それを追い求め 人間としてこれに勝る望みはないと言う」 (二章42-43)
「富の蓄積と感覚の快楽に執着し その追求に右往左往する人々の心には
真理(かみ)を愛し それに仕えようという 決断が起こることはないのだ」(二章44)
しかし供犠の真の意味を知るものは別である。
「供犠の真意を知って行う者は 罪障の業報を免れ 心身を清めて
その供物の残りである甘露を味わいつつ 永遠の楽土に入ってゆくのだ」(第四章30)
つまり供犠を行うにしても、その真の意味を把握した上で正しい方法で行う必要があるということであろう。次はクリシュナとの関係である。以下、本文の中のわたしはクリシュナのことである。
「アルジュナよ わたしは熱を与え 雨を留め また雨を降らせる
私は不死であり また死である 霊と物質は二つながらわたしである
三ヴェーダを学び ソーマの液を飲み
供犠を励行してわたしに天国行きを求める人々は
悪業を清めてインドラ等の天国星界にうまれ
地球では想像も及ばぬ快楽の生活を楽しむ
善行の功徳によって天国の快楽を味わう者は
果報が尽きればたちまち地上に戻る
楽を求めて三ヴェーダの祭式に執する者は
このように空しく誕生と死をくりかえすのみ」(第三章19-21)
「他を思うことなく 専心(ひたすら)にわたしを拝み
わたしの姿を瞑想している人々に対して
わたしは彼らに必要なものすべてを与え
持っているものを失わぬように保護する
クンティーの息子よ(筆者註:アルジュナのこと) 他の神々の信者で
真心こめて清らかな気持ちで信仰する者たちは
実はわたしを拝んでいるのである
正しい方法ではないけれども -」 (第三章22-23)
「あらゆる種類の供犠供養 祭式はすべて わたしだけが その享受者である
このわたしの実相を知らぬうちは 生物は輪廻転生をくりかえすのだ
神々を拝む者はその神々の領域(くに)にうまれ
祖先を拝む者はその祖先のもとに行き
自然霊や幽鬼を拝むものはその世界にうまれ
わたしを拝む者は私のところに来る」 (第三章24-25)
そして供犠を行う際の心得を次のようにのべている。
「サットワの人は供犠をなすにさいし あくまで聖典の指示に従い
何の報いも求めずに ただ自らの義務として行う
しかし バラタ王家の最も優れた者よ 物質次元の利益を得るため または
虚栄のため 人に見せびらかす為の供犠は ラジャスの行為であると知れ
聖典の指示するところに従わず 食物を供えず 讃歌を歌わず
僧侶に布施をせず そして信仰もない供犠は タマスに属するものである」(第十七章11-13)
ギーターの中で、神々への供犠に関する主たる記述は以上の通りである。
次に、『あるヨギの自叙伝』(以下、同書)の中で、パラマハンサ・ヨガナンダの前に幽界のシュリ・ユクテスワ(以下、同師)が現れて、語りかける件(くだり)がある。これは聖書の中にあるキリストの復活にも比せられる内容である。同書の第四十三章、「シュリ・ユクテスワの復活」の一部を引用する。
「ちょうどクリシュナの幻を見てから一週間後の1936年6月19日の午後三時、私がまたボンベイのホテルのベッドの上で坐っていると、言うに言われぬ喜びの光が、私を瞑想から呼び起こした。目を開いて見ると、驚いたことに部屋じゅうが別の世界に変わっていて、日の光ならぬ天来の光輝があたりを満たしていた。そしてそこに、血の通った肉体の姿のシュリ・ユクテスワを見たとき、私は狂喜の波に包まれてしまった。・・・」
そこで同師は全く同じ体を持って幽界の星、ヒラニャローカに復活したことをヨガナンダに告げる。
「‘ちょうど預言者たちが、地上の肉体的カルマの成就を助ける為に地上に使わされるように、わたしもまた幽界の人々の救済者として奉仕するよう神から命じられたのだ’先生は話はじめられた。‘そこはヒラニャローカと呼ばれる星で、幽界の中でも目覚めた魂たちの住んでいる星だ。わたしはそこで、霊的に進化した人々の幽体的カルマを取り除き、幽界での生まれ変わりから解放されるよう手助けするのだ。ヒラニャローカの住人たちは、既に霊的に高い進化を遂げており、みな最後の地上生活で、自己の肉体から意識的に脱出する能力を、瞑想によって会得した人たちだ。地上の生涯で、サヴィカルパ・サマーディを超えてさらに高いニルヴィカルパ・サマーディの段階に達した者でなければ、このヒラニャローカに来ることは出来ない。ヒラニャローカに生まれてくる人たちは、地上で死んだ人々の殆どが行かなければならない普通の幽界の生活をすでに卒業して来た人達だ。彼等はここで、前の幽界の生活で播いたカルマの種子を完全に取り除くのだ。幽界でも解脱の為の集合を弛まず続けて来た余程進化した魂でなければ、このような高い世界に来ることは出来ない。・・・ヒラニャローカにはまた、もっと高い観念界(根源界)からきたほぼ完成の状態に近い魂も住んでいる。」
ここで、サヴィカルパ・サマーディとニルヴィカルパ・サマーディに就いて説明しておく必要がある。同書の脚注からの引用に筆者の註釈を加えた。
「サヴィカルパ・サマーディ(筆者註:本ブログ第14章⑭初めてのサマーディ?の技法Aに相当する。第三イニシエーションにおいて伝授される)においては、求道者の意識は宇宙霊との融合状態にたっしてはいるが、この宇宙意識は、肉体が静止したトランス状態にある間しか持続しない。求道者が更に瞑想を続けて、より高いニルヴィカルパ・サマーディ(同じく第14章⑭の技法Cに相当する)に達すると、宇宙意識を保持しながら日常の仕事を遂行することが出来るようになる。このニルヴィカルパ・サマーディに達すると、ヨギは、まだ残っていた地上界の物質的カルマの最後の分を完全に解消する。しかし、物質界に関するカルマは果たし終えても、まだ幽界と観念界に関するカルマは依然として残っているので、それらを果たすために、まず幽界に生まれ変わり、それからさらに高い波動の観念界に生まれ変わって行くのである。」
さらにここで、幽界とその上にある観念界、それに対応した幽体と観念体に関して説明しておく必要がある。同師やヨガナンダによると、人間は、肉体、幽体そして観念体の三つの体を持っているという。つまり地上での修行を終えて肉体の体を脱ぎ捨てると、幽界に行くが、そこでの魂は依然として幽体と観念体に包まれている。そして、肉体も含めこれらの体を結び付けているのは欲望であり、幽界、観念界においても、この欲望から遠ざかり、無欲の境地に到ることが霊的修行の内容だという。
「霊的に未熟な人間は、三つのからだから抜け出すまで、地上界、幽界、観念界に無数の生まれ変わりを経験しなければならない。しかし、ひとたび最高の解脱を達成した大師たちは、人々を神のもとに導くために救済者即ち救い主として再び地上にうまれることも、また、わたしのように幽界に住むことも自由なのだ。ここでの救済者の仕事は、幽界の住人のカルマの一部と代わりに背負ってやり、彼らの幽界での輪廻を絶ち切って観念界に定住することができるよう援助することだ。また、完全に解脱した魂の中には、再び観念界に戻って、そこの住人が速やかに観念体に包まれた生存期間をおえて“絶対の自由”を達成するよう助力する仕事に携わる者も居る。」
上段に関連し、同師は次のようにも述べている。
「魂が三つのからだによる三段階の迷いから完全に脱すると、それはついに、個性をもったまま無限なる御方と一つになる。・・・イエス・キリストの魂は、イエスとしてこの地上に生まれる前に、既に最高の解脱を達成しておられたのだ。すなわち彼もまた、その過去世において三つの進化段階を経て、宇宙霊の中によみがえる力を獲得されたのだ。彼の死から復活迄の三日間は、人間が解脱に至るこの三つの段階を象徴している。」
つまり、神々とは、本来幽界或いは観念界にあって、地上や幽界に住む者たちの霊的向上を支援する偉大な大師級(或いは菩薩、天使といっても良いかもしれない)の魂のことを指すようである。そして、仮に地上生活で解脱を達成したと思っても、更にその先の幽界において、欲望を失くして行くという更なる修行がまっているようである。
ギーターには次の一節がある。即ち、「この地上においても 天上界の神々の間においても プラクリティの三性質(トリグナ、即ちサットヴァ、ラジャス、タマスのこと。第13章⑫参照)から離脱している存在はない」(第18章40節)。つまり我々は、プラクリティ(心もプラクリティである)を少しでも残している間は、天上界においても体を保持し続けることになる。ラマナ・マハルシ曰く、「生まれ変わるのは魂ではなく、あたかも転生するかのように見える個人の思考にすぎない。心が如何なる次元で活動しようとも、それはそれ自身の為に身体を創り出す。」(第15章⑦輪廻転生を参照)
尚、幽界と観念界に就いては、同書に詳しい説明があるので、興味を持たれた方は一読してみることをお勧めする。
このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。