アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第15章 心と意識 ③ハートの所在

2011-10-21 06:00:31 | 第15章 心と意識
ハートという言葉に就いて暫く考えてみたい。例えば日本語で「彼にはハートがある」といった表現をするとき、そのハートは何か暖かく、他人との繋がりを意識しているようなニュアンスを含んでいるので、心という言葉と比べ、より限定された意味を持っていることは明らかであると思う。また、心という言葉は頭脳及び心臓の両方と関連付けられるのに対し、ハートはどちらかと言えばむしろ心臓との関係が深いようである(英語でもHeartは心臓の意味なので当然かもしれないが)。つまり、我々はハートと云う言葉を、無意識のうちに心とは区別して使うことが多いようである。但し、このハートの定義があいまいな為、多くのスピリチュアル系の本(英語を訳したものも含め)が理解しづらくなっているのではないだろうか。少なくとも筆者にはそう思える。

『ハートの聖なる空間へ』(以下、同書)というドランヴァロ・メルキゼデクの本がある。本ブログ第10章⑥‘ユニティ・ブレス’において、同書で紹介されている天地人の三位一体を経験するための呼吸法を引用している(因みに、この呼吸法は、ヨガナンダの師であるシュリ・ユクテスワが霊界にいながらドランヴァロに授けた技法である)。筆者もクリヤー・ヨーガのイニシエーションを受ける前、数カ月間これを続けて見たが、瞑想法としても非常に優れていると思われるので、興味のある方は試してみることをお勧めする。
ところが、同書の主題は、このユニティ・ブレスではなく、題名の通り、我々のハートに聖なる空間があるというもので、この瞑想法は自分の意識を心臓に集中する技法である。その瞑想法の詳細に興味の有る方には、同書を参考にして頂くとして、この章ではドランヴァロの云うハートの意味を少し考えたい。同書から少し引用してみる。

「ハートの聖なる空間は心臓の秘密の小部屋とも呼ばれ、『今ここ』であらゆることが可能となる、時間の無い意識の次元です。世界中の古い文献や伝承がこのハートに秘められた特別な場所に就いて語っています。本書の冒頭に引用した『チャンドギャ・ウパニシャッド』(ヒンズー教の聖典)の短い詩篇はその一例です。そのほかにもユダヤ教の律法書、トーラに関連して、文字通り『心臓の秘密の小部屋』という題名の書物があります。」

ここでドランヴァロが指しているハートの聖なる空間のある場所は、上記の通り「心臓」で間違いないと思うのであるが、同書のP172ではトート(古代エジプト文明の創始者、ギリシャ神話のエルメス神、『エメラルド・タブレット』を参照)の言葉として次のようにも書いている。

「ドランヴァロ、地球の私達は創始以来ずっと人類における体験と創造との関係について探求し続けて来た。私達(アセンションしたマスターたち)はみな人間の思考と行動と奇跡の繋がりを解明しようと努めてきて、そして一度は理解したと考えていたのだが、ここに来てさらにもっと奥があったことを知るに至った。いまや明らかだ。人は頭の中で何かを創り出すとき、マインドという二極性のある道具をつかって創造している。そのため、いくら良いものを創造しようと意図しても、常にマインドの二極性ゆえに善と悪の両方を創造してしまうのだ。私が勧めたいのは、ハートの聖なる空間だけから創造することだ。なぜならハートは一体であることしか知らず、闇の側面を伴う事なく意図した通りを創造するからだ」

ここでハートとマインドの差が大分明らかになったと思うが、更にこれらの違いをはっきりさせている文章が出てくるので更に同書から引用する。

「マインドは思考を使って創造します。そして思考は論理を使いながら、さまざまな思考が相互に関連付けられていきます。・・・しかし既に述べたように、当初の意図の二極性ゆえ常にその両極を生み出すことになるのです。ところがハートの場合には全く話が違います。ハートは夢やイメージを使って創造し、それらは感覚や感情によって現実化されます。こういった形の創造は論理によらないため、一つの状態から別の状態へ移るのに何の脈絡もありません(筆者註:常人にはこれが奇跡と感じられるということをドランヴァロは言おうとしているようである)」

つまりドランヴァロによれば、マインドは頭脳と関係していて、思考、論理を主として司っているのに対し、ハートは人間の心臓(内奥)に位置していて、創造性や一体感と関連しているようである。筆者が思うに、以上は一般的には極めて妥当な解釈だと思うのであるが、ラマナ・マハルシの本を読んでいると、これとはまた異なった解釈が出てくるので以下に引用する(本章①で引用した部分と一部重複する)。ハートとは何を意味するのでしょうかとの質問に答えて、

「それを何と呼んでも良い。神、ハート、意識の座、みな同じことである。理解されるべき点は、ハートが存在の核心、中心という意味であること、それなしには何も存在しないということである。ハートとは身体的なものではなく、霊的なものである。フリダヤム(筆者註:サンスクリット語或いはヒンズー語のハートと思われる)とはフリットとアヤムをたしたもので、それは‘これが中心だ’を意味している。想念はそこから起こり、そこで存続し、そこへと消えて行く。想念とは心の内容であり、想念が宇宙を形づくっているのだ。ハートは全ての中心だ。生きているものたちが、そこから存在を現わすものがブラフマンであると『ウパニシャッド』は説いている。それがハートである。ブラフマンこそがハートである。」

ということで、ラマナ・マハルシは、ハートは存在の核心即ち真我であり、ブラフマンと同じものだという。そして当然ながら、その説明は後の文章でも一貫している。以下に引用する質問者の対話が興味深いので『あるがままに』のP139辺りから引用する。「」は省略する。

質問者  あなたはハートが真我の中心だと言われました。
マハルシ そうだ。それは真我の至高の中心である。疑うまでもない。真我はジーヴァ或いは個我の背後のハートの中にある。
質問者  では、どうかそれが身体のどこに位置するのか教えてください。
マハルシ それを心によって知ることはできない。(胸の右側を指差しながら)私がそれはここに、このセンターにあると言っても、想像によってそれを実現することはできない。それを実現する唯一の直接的な方法は、想像をたくましくすることをやめ、あなた自身としてただ在ることである。あなたが実現したとき、センターはそこにあると自然に感じるだろう。これがセンター、ハート、聖典がフリットグファ(ハートの洞窟)、アルール(恩寵)、ウラン(ハート)と呼ぶものである。
質問者  そこにハートがあると述べている本にであったことがありません。
マハルシ 私がここにやってきてかなり経った頃、アーユル・ヴェーダの権威書であるマラヤーラム版の『アシュターンガ・フリダヤム』を目にする機会があったのだが、その中の一節に、オジャス・スターナ(身体の生気、或いは光の場)とは胸の右側に位置し、意識の座(サンヴィット)と呼ばれるとあった。だが、ハートがそこに位置していると言及するそれ以外の本にであったことはない。
質問者  太古の聖者たちがハートと呼んだものがこのセンターだったと確信しても良いのでしょうか。
マハルシ そうだ。だが、体験の位置をつきとめようとするよりも、自分で体験しようとするべきである。目で物を見たいとき、目がどこに位置するのかを知る必要はない。ハートは常に開いていて、あなたが入って来るのを待っている。あなたが気付いていないときでさえ、ハートはあなたの全ての行動を常に支えているのだ。真我がハートの中にあるといいうよりも、真我はハートそのものであると言った方がより正確だろう。まさに真我はセンターそのものである。それは遍く存在し、「ハート」、真我の自覚としてそれ自身に気付いている。
質問者  そうだとすれば、どうしてそれを身体の一部分に限定出来るのでしょうか? ハートを位置づけることは、時間と空間を超えたそれに物理的な制限を与えることを意味します。
マハルシ その通りだ。だが、ハートの位置について尋ねた人は、彼自身が身体のなかに存在していると考えている。あなたが尋ねているこの瞬間、あなたの身体だけがここにあって、あなた自身はどこか他のところから話しかけていると言えるかね。いいや、あなたは自分の身体的存在を認めている。物理的身体に関する如何なる言及も、この見地からのものである。真実を言えば、純粋意識は分割不可能であり、部分を持たない。それは姿も形も持たず、内も外も、右も左もない。ハートである純粋意識は全てを包含している。その外には何ものもなく、それから離れて存在するものはない。これが究極の真理である。この絶対的見地に立てば、ハート、真我、意識が物理的身体のなかに特定の位置を持つことはありえない。それは何故か? 身体は単なる心の投影でしかなく、そして心は輝くハートのおぼろげな繁栄に過ぎないからである。全てをそのなかに含むハートが、どうして実在の最微小の現れにすぎない物理的身体の小さな一部分に限定されるはずがあろうか?・・・
質問者  それでは、ハート・センターの体験は胸の中の特定の場所にあるというバガヴァーン(筆者註:マハルシに対する尊称)の表明をどう理解すればいいのでしょうか?
マハルシ 絶対的見地からすれば、純粋意識であるハートは時間と空間を超えている。そのことをひとたびあなたが受け入れれば、それ以外のことも全て正しい視野のなかで容易に理解できるようになるだろう。
質問者  ハートは右側、左側、或いは真ん中にあると言われています。そのような様々な意見の相違があるなかで、いったいどうやってハートに瞑想できるというのでしょう。
マハルシ あなたは在る。そしてそれが事実である。ディヤーナ(瞑想)はあなたによって、あなたにおいて、あなたの内で為される。それはあなたが存在するところで続けられなければならない。それはあなたの外側ではあり得ない。それゆえ、あなたこそがディヤーナの中心である。そしてそれがハートなのである。あなたがそれを何か有形の物理的なものと同一視するときにのみ、疑問は起こる。ハートは概念でも、瞑想の対象でもない。それは瞑想の源である。唯一、真我だけが在る。あなたはハートの中に身体があり、世界も又そのなかにあることを見る。ハートから離れて存在するものは何もない。それゆえ、あらゆる類の努力もまた、その中にあるのである。

以上の通り、ラマナ・マハルシは、ハートとは真我のことを指すという見解である。そしてそれは、存在すべてを包含しているのであるから、ここにあるとかそこにあると言ったことは言えない。イエス・キリストが、「神の国はどこにあるのでしょうか?」と聞かれて、「それはここに見よ、かしこに見よというものには非ず。神の国は汝らの内にあり」と答えたのも、同じようなことを示唆しているものと思われる。ハートの定義は他にも色々あるものと思うが、本稿以後はラマナ・マハルシの説をとり、ハートは真我と同義として扱う。

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