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Barrack Asaka

あばら屋あさか

五月の連休 飯田編

2018-05-05 21:48:19 | 旅行記

この五月連休の備忘録、飯田編です。

なんの脈絡もなく唐突になぜ飯田?なのですが、長野の南端に位置する長野県飯田市は、NHK人形劇三国志で使われた人形の作家、川本喜八郎氏の出身地であり、氏の手による人形が収蔵された飯田市川本喜八郎人形美術館があって、以前から行ってみたいと思っていたのです。

さらに、日本のトンネル難工事についてあれこれ調べていた時に知って以来、気になっていた場所が飯田市近郊に。

それは、起点を長野県上田市、終点を静岡県浜松市とする一般国道152号線の通行不能区間の一つである青崩峠です。

地図の真ん中がその青崩峠で、静岡県と長野県の県境にあります。実はこの国道152号線の通る谷筋は、日本の大断層帯である中央構造線が侵食されてできたものであり、青崩峠はその中央構造線上に位置していることが青崩峠のトンネル工事を困難なものにしています。地図の下端にちょっと見えるJR飯田線も、青崩峠手前で進路を90度直角左方向に変え、以降は天竜川沿いにルートを移して青崩峠を回避しています。

そうはいっても21世紀に入って早17年、元号も平成から次の元号に変わろうというのに未だ国道未開通の青崩峠、世界的にもレベルが高いとされている日本のトンネル掘削技術を持ってしてもトンネルを通すことができていない青崩峠とは一体どんなところなんだ?と前から思っていた次第。

そんなわけで、前置きが長くなりましたが、五月連休の後半の曇天の日の朝、まずはその青崩峠を目指して飯田を出発!

国道153号線、県道85号線、そして富田から県道251号線に移動し、山中に突然現れる超リッチな国道474号線の矢筈トンネルで小川路峠を抜け、国道152号線の通る秋葉街道の谷筋に入りました。

国道152号線を快調に南下すること約20km。和田バイパスが終わると幅員減少。

ここから先の国道152号線。

これらは帰りに撮ったものですが、この道に入っていきなりセダンに出くわして、すれ違いのためバックしています。この調子で対向車がどんどん来たら大変だな、と思いましたが、幸いにもツーリング中と思しきオートバイとはよくすれ違いましたが、対向車はあまりいませんでした。

兵越峠を越え静岡県側から青崩峠へ!

林道青崩線。

途中にあるさば地蔵。

 

このお地蔵様、魚を抱えています。浜松で海産物を仕入れた行商人たちが、大事な商品が道中で痛むことなく無事お客さんに届けられることを祈願したようです。

林道をさらに進むと足神神社。

 

碓氷峠の熊野神社もそうでしたが、峠に近い神社は健脚を祈願する神社があるイメージです。私も道中の無事を願いました( ˘ω˘)。

さらに林道を進むと、秋葉古道入口に。

 

苔むす石畳の道。

 

石畳を歩き、橋を渡り、山道を歩いて程なく青崩峠(標高1082.5m)に到着!

 

左手の道は熊伏山への登山口。右手の道は信州に向かい、長野県側の国道152号線につながっています。

青崩峠の水準点。

 

国土地理院の地図に入っている標高は、正確にはこの水準点の位置の標高です。

持ってきたサンドイッチとジュースでひと休み。

いったいどの辺が青崩なんだろう、と長野県側を探索。

静岡県側と違って深く切り立った谷。礫がむき出しになった斜面。

この斜面、写真ではわかりにくいですが、確かにちょっと青みがかって見えます。これが青崩峠の名の由来かと納得。

 

この石はとても脆く手でも簡単に剥がれます。これが青崩酸性岩類というものでしょうか。

それから峠のすぐそばまで通っている青崩林道を見物。

行き止まり!道の果て!(大げさ)

 

どうやってもここから先、長野県側に車で進むことはできず、長野に行くには山道を歩いて行くしかありません。ここから兵越峠へも山道が通じています。約二時間の道のりとのこと。

ダートの青崩林道を歩いて青崩峠を後に。

 

 

流れる水の音、さえずる鳥の声、新緑が耳に目に心地よかったです。

ここで、この難攻不落の青崩峠に対する道路工事の状況について。国道152号線のこの不通区間は、将来、浜松と飯田を結ぶ国道474号三遠南信自動車道の一部になる青崩峠道路として事業化されています。そしてこの青崩林道の途中に、その青崩峠道路のトンネル部分の調査坑工事現場の入り口があります。

工事現場入口の掲示。

山の断面図の下の赤い帯が掘削済みの部分を、断面図で斜めに引かれている点線は断層面を示しており、掘削ルートに23本の断層があることを示しています。距離的にはほぼ9割終わっていますが、工区全体の中でも断層が集中していて一番難しそうな所が残っており、今まさにその難しい部分に着手している最中のはず。

この調査坑が開通した後の本坑の掘削は、トンネル入り口からだけでなくこの調査坑を横に掘り進んで中からも同時並行作業で掘削するはずです。本坑が開通した後は、調査坑は避難用通路として使われます。断層の部分はトンネルの断面形状を変えて強度を確保するといった技術が使われているようですね。それにしても、これでもトンネルを掘りやすいルートを選んだらしいのですが、それでもこんなに断層が入りまくっているとは思いませんでした。

もう少し青崩峠の区間の国道建設の経緯について記しましょう。国道152号線の未開通区間の解消を目指して青崩峠道路の事業化が決定され、当初は青崩峠を回避するため青崩峠に対して東側、草木峠、兵越峠をトンネルで抜けるルートが設定されます。まず草木峠を抜ける草木トンネルが着工され、中央構造線を貫くそのトンネル工事はかなり難航したようですが1992年に竣工。ところが、その次に続く兵越峠の地層は極めて脆弱でトンネル掘削に適さないことが判明し、結果トンネル掘削を断念、ルート再選定を余儀なくされます。

しばらく青崩峠道路の工事は中断状態になりましたが、資料にもある通り、より地層が硬い青崩峠の西側を抜けるBルートが再選定され、先ほどの調査坑の掘削が開始されて現在に至ります。そして三遠南信自動車道のルートから外されてしまった草木トンネルは、国道474号から国道152号線になったという次第。冒頭の地図でも、静岡県側の国道152号線が青崩峠を前にして右側に避けるルートをとって途切れているのもそういった経緯からです。

そんな草木トンネルにつながる静岡県側国道152号線。

道路に対して左側法面にコンクリートが打ってある辺りが先ほどの調査坑の工事現場付近です。高架はどうするんでしょうね。

そして草木トンネル。

走っている車はほとんどいませんでした。長野に抜けるにはこの先県道を通って兵越峠を越えるしかありませんが、その兵越峠はというと…。

 

いくら飯田に行けるといっても、こんな道を通らなければならないとなれば交通量が少ないのも納得です。それにしても長野県側の標識、倒されてるけどいいんだろうか…。

峠にある遊歩道。

先ほどの林道青崩線の行き止まりに繋がっています。

県道369号線から熊伏山方面。

ヘアピンカーブの続く此田の急斜面を下ると、青崩峠に向かう長野県側の国道152号線と兵越峠に向かう県道369号線の分岐があります。

 

ここから先、青崩峠に向かう国道152号線は、三遠南信自動車道の工事用道路にもなっており通行禁止。

  

そして草木に埋もれる国道標識。

青崩峠の国道開発は、おそらく三遠南信自動車道の青崩峠道路の開通をもって完了とし、国道152号線のこのルートは未開通のまま県道に格下げされると予想されます。この標識も陽の目を見ることもなく撤去されてしまうことでしょう。

ちなみに県道369号線の通る此田地区は、地区全体が地すべり地区に指定されているという特異な場所で、これも谷底近くを走る中央構造線により斜面全体の地層が脆弱なことによります。

飯田に戻って飯田市川本喜八郎人形美術館へ。

入場者をお迎えする諸葛亮孔明特大人形!

後ろには北伐にあたり孔明が劉禅に上奏した出師表。この演出最高じゃないですか?

展示はちょうど平家物語の特別展示期間中で、人形劇三国志の展示は縮小されているとのことでしたが、主要メンバーは全員揃っており、あの孔明が!劉備が!趙雲が!関羽が!張飛が!曹操が!目の前に!たまらん!と興奮。その他にも当時画期的とされたコンピュータ制御のメカ馬の展示もありました。

展示を見た後は、説明員の方から人形の造形、装飾、操作について話を聞き、人形操作は実際自分でもやってみました。人形のカラクリはもちろんの事、人形の表情は変えられないので、角度によっていろんな表情を表現できるような造形になっていること、通常は別部品を口パクさせるところを獣皮で一体化させ自然な口の動きにするのは川本先生のこだわりといった話を聞いて、人形一つとっても多数のノウハウの塊であることを実感。人形があって操演者の方がいて声優さんがいて人形劇は成立するわけですが、ともに超プロ級の方々が携わっていたのだなあ、と思いました。それほど規模の大きな美術館ではありませんが、展示されている人形はどれも素晴らしく、とても見応えがありました。

その後はミュージアムショップでお買いものをして高速バスで飯田を後に。学生時代に南信出身の同級生がいて、オートバイに乗って遊びに行って自宅に泊めてもらったこともあって、南信はこれが初めてではなかったのですが、なんだか南信の人々はフレンドリーというか親切な人が多い気がします。また来たいですね。

ミュージアムショップで買った図録から。

 

はーん素晴らしい。


五月の連休 鳥取編

2018-05-03 22:22:03 | 旅行記

この五月連休の備忘録、鳥取編です。

鳥取は上坂すみれさんの雑誌のコラム記事で鳥取特集を見て以来、ずっと行ってみたいと思っていた場所。そこでこの五月連休を利用して行くことにしました。私自身、鳥取の西隣の島根に行ったことは結構ありますが、鳥取はほとんど行ったことがありません。

五月の連休の中でも日本全国大荒れになるとの天気予報の当日、雨降る広島を早朝に出発。鳥取は近畿方面からは鉄道のアクセスが良いのですが、広島側からは全くダメなので、高速バスで移動です。

高速バスを鳥取の倉吉で降り、最初に向かったのは妖精の森ガラス美術館。

妖精の森ガラス美術館は、鳥取県と岡山県の県境人形峠近くにあり、ウランガラスをテーマにした美術館です。

 

ウランガラスとは、ガラスの着色料としてウランを使ったガラス製品で、光に含まれる紫外線によって特徴的な発色をします。ウランガラス製品の本格的な製造が始まったのは1830年代ボヘミアで、その発色の美しさから日本を含め世界中で製造されるようになったそうですが、第二次世界大戦の途中から、ウランは重要な戦略物資として認識され作られなくなったとのこと。この美術館では、人形峠産出のウランを使ってウランガラス製品も製作しています。

展示品の一つ、ロシア帝国製ゴブレット(1880年代)。

 

左側は通常の照明下、右側は紫外線光下。自然光下でも特徴的な発色をしていますが、紫外光下では緑の蛍光がきれいです。ロシアのБратья Федоровскихガラス工房製とのこと。

日本でもカキ氷を食べるガラスの器にウランガラスがよく使われていたらしい。

 

1920年代アメリカの蒸気機関車の前照灯。

反射鏡にウランガラスを使用。

こちらは海豚の燭台のレプリカ。1970年代アメリカ製。

 

展示の数はそんなに多くなくこじんまりとした美術館でしたが、見応えありました。面白かったです。

美術館の後は岡山・鳥取の県境、人形峠へ。

この峠のちょっと先、鳥取側にある人形峠ウラン鉱床露頭発見の地記念碑。

 

日本国内で唯一有望なウラン鉱床が人形峠で発見された当時、資源小国の日本にもついに新エネルギー資源が、と全国的に沸いたそうですが、そのウラン鉱山はすでに閉山しており、人形峠にある研究施設も現在は原子力設備の廃止に向けた研究をしているそうです。

私以外に峠を訪れる人も少なく、雨に加えて風も強くなってきたので、早々に人形峠を後にして宿泊先の三朝温泉へ。

代表がフィーバーしたといういずみ娯楽場。

今日も元気に営業中?

三朝温泉名物、河原風呂にも入ってみました。

 

三徳川の河原、三朝橋のたもとにあります。

足湯の向こう側が露天風呂。

温泉はここで湧出しているわけではなく、川の上流側から引湯していました。燃料を使ってお湯を沸かす必要もなく、地球の中からお湯が沸いてくるなんて!いま自分は地球の体温を肌で直接感じている!と熱めのお湯に浸かりながら感動。

翌朝、倉吉市内の白壁土蔵群を見物。

  

レトロ看板。

 

かなり傷んでいます。

街中のあちこちで見かけたキャラクタースタンド。

 

ちくわソフト…( ˘ω˘)

キハ187系気動車、特急スーパーまつかぜで倉吉を発ち、山陰本線をご機嫌にかっ飛ばして次なる目的地の鳥取市へ!

お昼前に鳥取駅に到着。

ようこそ鳥取。

 

倉吉でも思ったのですが、海の近くといえばだいたい川沿いに平野が開けていて、そこに街が形成されていたりするものですが、この辺は海のすぐ側なのに、海の目の前に唐突に小山があったりして、その小山に遮られた内陸側に街があったりするのが面白いです。

鳥取砂丘!

 

本当に砂丘です。こんなに大量の砂山を見ることはそうそうありません。

鳥取砂丘というと、小学生の時に社会の読み物として読んだ、鳥取の人々の飛砂との苦闘の物語が印象に残っています。古くは江戸時代から砂防のための植林が始まり、それも当初は失敗の連続。それでも人々は挫けず試行錯誤を積み重ねた結果、遂に飛砂に負けない砂防林の形成に成功した、というお話でした。近年は逆に緑化が進みすぎたため、砂防林を伐採したこともあるとのこと。

そんな昔の人々の苦労の歴史を思い返しつつ、靴を脱いで砂の感触を味わいながら砂丘を登っていくと、目の前に開ける広大な日本海。

海と砂のコントラスト。

振り返って見た内陸側。

砂の風紋。

馬の背と呼ばれる砂丘の頂上付近は、海から強い風が吹き付けていました。風にあおられ砂つぶが刻々と移動していくさまは、人形劇三国志のオープニング映像のようだなと思った次第。

荒涼とした風景。

鳥取砂丘、失礼ながら正直あまり期待していなかったのですが、いやいやこれがどうしてスケール感がすごくて来てみてよかったです。時間の都合で砂の美術館に行けなかったのは心残り。もうちょっとゆっくりしたかったな。

夕刻、特急スーパーはくとで鳥取をあとに。スーパーはくと、こちらも気動車ながら乗り心地は良く内装も凝っていてなかなか快適な列車でした。

おまけ。

三朝町開発の新B級グルメ、ラードン麺!

これはかじか亭のラードン麺。底に甘辛のタレが仕込んである混ぜそばでした。あとは好みに合わせてラー油と酢を追加して頂きます。

鳥取名物牛骨ラーメン。

鳥取では牛骨でスープを取るのが主流とのこと。うまうま。

そして晩酌に鳥取二十世紀梨チューハイ、すなば珈琲コラボのカフェショコラクランチに大山牧場アイスクリーム。

二十世紀梨チューハイ果汁感たっぷり。すなば珈琲はスターバックスが鳥取にないことに発奮した実業家が目指せシアトルを合言葉に鳥取に開店したコーヒーショップだそうですが、それとは関係なくショコラクランチはお土産にも丁度よいおいしさでした。大山乳業の白バラ印は大正義!

妖精の森美術館ではウランガラスのグラスを買ってみましたよ。

確かにいまどき見かけない発色のグラスです。夏向けに涼しそうな感じですね〜。


黒部ルート見学会 その四

2015-10-25 23:40:04 | 旅行記

上部軌道終点の黒部川第四発電所前駅に到着!

レールも完全に途切れて、欅平からのトロッコ列車の旅もこれにて終了です。

ホームからすぐのところに黒部川第四発電所の入り口が!

綺麗なエントランス。こんな施設が黒部峡谷の地下にあるとはちょっと信じられません。プレゼンテーションホールに案内され、そこで黒部峡谷の模型を前にしてビデオ映像を見て説明員の方の説明を聞きました。

この模型、ぱかっと割れて、地下構造を見ることができるというもの。その後発電所構内を見学。

まずは発電機室。

広い!天井が高い!奥から一列に並んでいる山吹色の設備が発電機で、奥から一号機で順に数えて手前が四号機。てっぺんのランプが点灯している発電機は運転中とのこと。クレーンの表示によると、一号機側が川上で、四号機側が川下、かつ左手が山で、右手が黒部川らしい。

4号発電機の説明。

回転界磁型の三相同期発電機。出力95MVA!

そして使用済みのペルトン水車が展示されていました!

名前は知っていましたが、実物を見たのはこれが初めてです。ペルトン水車は高落差の水力発電所で使われると聞いていましたが本当だった!

ドイツ製とのこと。どの辺が難しいんだろう。バケットを拡大。

傷が入っているのは小石などがぶつかってできたものとのこと。

次は制御室。

光っている1,2,4号発電機が運転中で137MW発電中。以前に黒部川第四発電所の平均出力114MWと見積もりましたが、当たらずとも遠からずといったところです。今は無人で遠隔操作しているとのことでした。

水車室へ。

発電機と水車をつなぐシャフト。360rpmで回転中。

室内は騒音と風がすごかったです。下に水車、上に発電機があり、水車と発電機の回転子を合わせて質量数百トンの物体が目の前で回っているわけで、これがすっ飛んできたら一発でお陀仏だろうなあなどと思った次第。以上で発電所の見学は終了でした。

発電所と作廊を結ぶ、高低差456m斜度34°の斜面を20分かけて登るインクライン(Incline)という乗り物に乗車。

インクライン、要はケーブルカーです。欅平側は竪坑エレベータの制約があるために、それよりも大型な機器は大町側からすべてこのインクラインを使って運ぶとのことで、かなり大がかりなものになっています。

これから登っていく斜坑。

インクライン延長815m。左脇には終点まで延々と続く階段が。インクラインが使えなくなった時はこの階段を登ることになります、と冗談交じりで脅かされました。この斜坑の左隣を並行して黒部ダムで取水された水を発電所に送り込む水圧鉄管路が走っているとのこと。その三で示した地図では、右下の黒部地下発電所からさらに右下に伸びている茶色の点線部分がこのインクラインで、その隣を走っている青の点線が水圧鉄管路になります。

中交換箇所に接近中!

すれ違い!

台車の上に我々のいる客室が載っている構造になっていることがわかります。大型機材を運ぶ時はこの客室を取り外してステージの上に機材を乗せ、さらにレールなどの長ものを運ぶときは、ステージも取り外して斜めに載せるのだとか。

インクラインを降りて黒部ダムまでの黒部トンネルを走るバスに乗り換え。

わりと普通のバス。ただ、車内に防煙マスクが常備されているあたりが、やはり一般のバスと違っています。

黒部トンネル内。

黒部トンネルの距離は10.3km。トンネルの幅は一車線分しかないので、常に連絡取り合ってタイミングを調整しながら発電所側と黒部ダム側を発着しているとのこと。道路脇にある鉄管は上水道水の送水管。

途中、樽沢横坑にてバスを一旦下車し、樽沢横坑から外へ。

樽沢横坑を出たところからの黒部峡谷。

ちょうど十字峡のあたりとのこと。低気圧の接近により、すでに向こうの山は雲に覆われています。

横坑の先に伸びる道路。

樽沢横坑は、黒部トンネル掘削時に出た土石を排出するために掘削され、この道はその土砂の堆積先につながっているとのこと。ゆえにどこにも繋がっていない行き止まりの道で、もう誰も通うこともないのか、両脇から生い茂る樹木が道を覆い隠しつつあります。

再びバスに乗り、黒部トンネル出口にてバスを下車。

交差している道路は関電トンネルで、黒部アルペンルートのトロリーバスの走っている道路です。もうここは一般の世界。歩いて黒部ダム湖駅の事務所へ行って、ヘルメットを返却し黒部ルート見学会は終了。事務所出口ではクロニョンがお出迎えしてくれました。

展望台に上がり黒部ダム。

今日も元気に放水していました。この大規模なダムもあの地下発電所のためにあるわけです。

天候は悪化しつつあり、展望台ではすでに雨混じりの強い風が吹いていて観光客の姿もまばら。レストハウスでお昼ご飯を食べて、早々に黒部ダムをあとにしました。

今回の黒部ルート見学会、一度行ってみたかった高熱隧道に、黒部川第四発電所。意外に早く訪れることができて本当に良かったです。普段乗ることができない様々な特殊な乗り物に乗れますし、ちょっとでも関心がある方は、機会があれば是非行ってみることをお勧めします。きっと満足できるものになるでしょう。

最後に、お昼に食べた黒部ダムカレー。

グリーンカレーなのは、黒部湖を意識したものとのこと。


黒部ルート見学会 その三

2015-10-12 23:44:37 | 旅行記

上部専用鉄道のトロッコ列車に乗り込み、黒部川第四発電所に向かって欅平上部駅を出発!

10人乗りの車内は本当に狭くほぼ膝詰め状態。手動のワイパーの取り扱いについて注意を受け、説明員の方の切れ目のない説明を聞きながら黒部第四発電所までの6.5kmの距離をトロッコ列車で進みます。

参考に欅平から黒部川第四発電所に至る地図を示します。

左上に黒部峡谷鉄道の終点である欅平駅があり、そこから右下に伸びる関西電力黒部専用鉄道と書かれた黄土色の点線が、トロッコ列車の走る軌道トンネル、そして軌道トンネルの左に走っている二本の水色の点線が、黒部川第三発電所と新黒部川第三発電所に水を送る水路トンネルです。その二に出てきた竪坑エレベータおよび欅平上部駅の位置は、軌道トンネルが南下するためにL字に曲がっているあたりだと思いますが、航空写真、および標高から考えると、実際のトンネルの位置は地図より若干左にずれていると思われます。そして黒の点線が水平歩道で、ほぼ同じ等高線を辿っていることで水平であることがわかります。

この軌道トンネルと水路トンネルを掘削するための、当時の工事用横孔のある志合谷、折尾谷、阿曽原谷には、今も停車駅が設定されていて、そこから横孔を通じて外に出られるとのこと。説明員の方は、訓練でこの軌道トンネルから志合谷の横孔を通って外に出たことがあり、そのとき、その二で触れた表層雪崩に襲われた志合谷宿舎の跡地を見たことがあるそうで、いくら雪崩の無いことを事前調査をしていたからと言っても、そもそもこんな急斜面を背面にした場所に建物を立てるとは、と思うような場所だったとのこと。地図では等高線の間隔が広がっているところが傾斜の緩い場所を意味しますが、この黒部峡谷を眺めてみても、そんな場所は仙人谷ダムの右上にある人見平くらいしか見当たりません。

当時、冬季も工事をするために志合谷、折尾谷、阿曽原谷、人見平、仙人谷に作業員宿舎を作ったそうですが、その内の志合谷、阿曽原谷の宿舎は表層雪崩に襲われ死傷者を多数出しています。そして、高熱隧道の掘削工事でも爆薬の自然発火や吹き出た熱湯による事故などで死傷者が数多く出ており、水平歩道からの墜落事故も頻繁に起きて、最終的にこの黒部川第三発電所の建設工事の犠牲者は300名を超えたとのこと。

この労働者に対する劣悪かつ異常な作業環境に対して、県や警察は事故が起こるたびにこの被害の多さは許容できないと、当初は工事中止命令を出していたとのこと。戦時下であっても行政がちゃんと機能していたことはむしろ意外でしたが、それもやがて国家総動員、戦時体制の空気に飲まれていき、戦場でもない工事現場でさえ死傷事故が起きても見て見ぬ振りをするようになっていく過程にはゾッとするものを感じました。

そんな多大な犠牲を払って掘削された高熱隧道が貫通している高熱地帯は阿曽原谷と仙人谷の区間。トロッコ列車が阿曽原谷に近づくにつれ車内に硫黄の匂いが漂い始め、高熱地帯に差し掛かると説明員さんが車両のドアを開けてくれました。

ドアが開いた途端、硫黄くさいムッとした温風が車内に吹き込んできます。これが掘削中岩盤の温度が166℃に到達したという高熱隧道で、ゴツゴツとした素掘りの壁面は、もうこれ以上触りたくないからそのままにしてある、といった様相です。ドアを閉じた後、外を見てみようと窓のワイパーを動かしてみると、水滴が流れるように落ちていきましたが、ワイパーを止めると窓はあっという間に曇ってしまいました。

この高熱隧道、今のトンネル内温度は40℃程度と言ってはいるものの、日によって気温が大きく変わるために実際のところよくわからず、今日はあまり気温は高くないとのこと。この軌道トンネルの下には黒部第三発電所と、新黒部第三発電所に向かう水路トンネルが走っていて、その水のために温度が下がっていることもあり、点検のために水路トンネルの水を抜くと今でも一気にトンネル内の温度が上がるそうです。そして、水を抜いた水路トンネルに入ると、その天井から滴る水滴は火傷しそうなくらいに熱くなっているとのことでした。

小説、高熱隧道では、このトロッコ列車が走っている軌道トンネル工事のことが多く書かれていますが、水路トンネルは軌道トンネルよりもさらに奥を走っており、掘削時の岩盤温度はさらに高い175℃に到達したとのことで工事はもっと大変だったようです。戦後掘削された新黒部第三発電所の水路トンネルの位置を地図で確認すると、この高熱地帯だけは、それを避けるように黒部第三発電所の水路トンネル、そしてこの軌道トンネルよりも川に近い側を掘削しています。この辺りはちょうど火山帯が交差しているらしく、それが岩盤の高温の原因と言われているそうです。この高熱トンネルから湧出したお湯は、地図にもある阿曽原温泉に引き湯されています。

高熱隧道を抜けるとトロッコ列車は黒部川を渡る鉄橋に出ました。鉄橋の上が仙人谷駅になっており、仙人谷ダムの真正面になります。トロッコ列車から一旦下車し、橋の上からダムを見学しました。

橋の上から上流側に見える仙人谷ダム(1940年竣工)。

多くの人命を代償に完成したその生い立ちから、秘境の山奥で人目を忍んでひっそり佇んでいる、といった趣。このダムを建設するための膨大な資材は、軌道トンネルが開通するまでは断崖絶壁の水平歩道を経て、軌道トンネルが開通してからは、あの高熱隧道を通って運ばれたことになります。

仙人谷ダムも、小屋平ダムと同じく竣工してから年数が経っており、土砂の堆積が進んでいるとのことでした。そのため仙人谷ダムそのものの発電電力量はかなり低下していると考えられます。ただ、ここよりさらに上流にあの大きな黒部ダムがあって、そこでたっぷり貯水していること、そして黒部川第四発電所で発電に使われた水は、黒部川に戻すのではなく、そのまま黒部川第三発電所、新黒部川第三発電所など下流の発電所に送り込めるようになっているため(実はこのトロッコ列車の止まっている鉄橋の下には、黒四発電所からの巨大な送水管が走っている)、仙人谷ダムはもはや黒四発電所と黒三発電所の間のバッファの役割を果たせればよく、貯水量の低下はそれほど問題にはなってないのかもしれません。

ダムの下。

岩盤に穿たれた穴から水が流れ出しています。おそらく河川維持放流だと思いますが、構造が複雑でどうなっているかよくわかりません。そして下流側。

急傾斜の狭い谷底です。左上にわずかに見える建物は関西電力人見平寮で、ダムや発電所の関係者が冬季はここ住み込んで越冬するのだとか。

そしてここにも時刻表。

黒部川第三発電所建設時はここが終点で、ここから先は黒部川第四発電所建設時に延伸された区間になります。橋の上で停車していたトロッコ列車に再び乗り込み出発。

この線路の先に黒部川第四発電所があります。


黒部ルート見学会 その二

2015-10-10 17:07:41 | 旅行記

欅平でトロッコ列車を降りて、黒部ルート見学会の集合場所である欅平駅二階の食堂に向かいました。

受付にて身分証明書を提示し、手荷物検査を受けて、見学会の諸注意を聞きました。一般客用に整備された場所ではない所の見学ということで見学時は常時ヘルメット着用すること、写真は撮ってもいいけど動画は撮っちゃダメなこと、地下の閉所が多いためとのことで緊急時の防煙マスクの使い方の説明もありました。参加者は30名で見たところほとんどが高年者の方々です。皆さま山登りにもそれなりに経験のありそうな出で立ち。

説明を受けて、見学開始です。みんなでゾロゾロと再び欅平駅のホームに戻りヘルメットを受け取ります。

関電マーク。

また、ホームで冬季歩道を見せてもらいました。黒部峡谷鉄道の線路沿いにこのようなコンクリート壁がずっと続いていますが、実はこのコンクリート壁は冬季歩道の外郭なのです。

内部の冬季歩道。

その一でも書きましたが、黒部峡谷鉄道は冬季は運休しますので、冬季は宇奈月から欅平までの交通手段がなくなります。その鉄道が運休している期間に宇奈月から黒部峡谷へのアクセス手段になるのがこの冬季歩道とのこと。もちろん一般の人は利用できず、電力会社の関係者が利用するためのものですが、宇奈月から欅平まで歩き続けても片道6時間かかるとのことで、勤務時間のほとんどが通勤時間に費やされてしまうとのこと。

長野の大町側からは冬季でも自動車でアクセス可能のはずで、そちらから欅平まで楽に行けるとは思いますが、欅平と宇奈月の間にもいろいろ設備がありますし、大町側からアクセス不能になった時に備えてこちらのルートも確保しているのでしょう。

しばらくすると我々を欅平下部駅まで乗せていく工事用トロッコ列車が入線。

ここ欅平からさらに上流に向かう線路は関西電力の管理する専用線になるため、この列車は一般の方は乗れません。一般の人がここから先に進むには水平歩道と呼ばれる断崖絶壁に穿たれた登山道を歩いていくしか手段はないのです。

列車の客車最後尾から三両に分乗しトロッコ列車は欅平駅を出発。500mほど先にある欅平下部駅に向かいました。ちなみに最後尾はオレンジ色の貨車でしたが、食料車とのこと。

トンネルに入る前の分岐。

この分岐した先は新黒部川第三発電所につながっているとのこと。以降、この専用線は、仙人谷ダムで黒部川を渡る部分を除けば、黒部川第四発電所までほぼ地下トンネル内通行です。

説明員の方の説明を聞きつつ、ガタゴト揺られながら欅平下部駅に到着!

駅といってもホームなんてありません。客車の出口の位置に踏み台を用意してくれています。そしてトロッコ列車を降りてゾロゾロと進む先にはあの竪坑エレベータが!

さらに近づきます。

1939年5月竣工のこの竪坑エレベータ、米国オーチス製とのことで、ご覧の通りトロッコ列車のレールがそのままエレベータ内に引き込まれており、ゲージの中にトロッコ列車を直接乗り入れることができるようになっています。そしてこのエレベータ、200mの標高差のある下部軌道、上部軌道間を積載重量4.5tの巻き上げパワーでもって貨車を丸ごと移動できるというもの。扉も両面開きで、向こう側の扉も開くことができるようです。左隣には人用エレベータもあります。

そんな竪坑エレベータに乗り込み欅平上部駅へ!

行き先表示はシンプルに上中下。単に標高差200mと言われてもピンと来ませんが、東京駅丸の内口駅前にある新丸の内ビルの最頂部が197.6mとのことなので、このエレベータが一気に移動する高さがイメージできます。なぜここでエレベータなのか、というと、ここから先黒部峡谷は極めて急傾斜で、欅平から仙人谷までの標高差は250mあり、当時の技術ではその急傾斜に鉄道を延伸することができなかったためだそうです。戦前のエレベータと聞いて、同時期竣工のドイツのケールシュタインハウスの金ぴかのエレベータを思い出しましたが、同じエレベータでも随分違ったものです。

ガーッと上がった扉の向こうに伸びる線路とトンネル。欅平上部駅。

この先に高熱隧道があるわけです。否が応にも気分が高まってきます。が、その前に新たに作られた欅平展望台から風景を眺めましょう、ということで竪坑エレベータの向こう側に案内され外に出ました。

展望台から上流側に見える奥鐘山の岩壁。

1938年12月27日未明に起き多数の死傷者を出した志合谷の表層雪崩事故ですが、その表層雪崩で吹き飛ばされた志合谷の作業員宿舎がたたきつけられたという黒部川対岸の絶壁があの岩壁です。

そして展望台から背後を見上げると竪坑エレベータの機械室が。昔は人がいて連絡を受けてはエレベータを操作していたとのこと。

パノラマ写真を撮ってみました。

左手のトンネルはどこに続くのだろう。

上部軌道トンネルへ戻ります。エレベータのこちらにトロッコ列車。

 

この先は行き止まりのはずですが、トンネルは続いているように見えます。

黒部川第四発電所ゆきのトロッコ列車へ。

欅平上部駅の時刻表。

上部軌道の電気機関車

黒部峡谷鉄道と違って上部専用鉄道には架線はなく、電気機関車はバッテリー駆動だそうです。

そして耐熱仕様の10人乗り人員車両。

黒部峡谷鉄道のものよりさらに一回り小さく、屈んで入るくらいに入り口が低くて入る時ヘルメットをぶつけてしまいました。車体は鋼板製。

この先、高熱隧道を通り黒部第三発電所の取水口のある仙人谷ダムに向かいます。