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言葉の仕組みを暴きだす。ふるい言葉を葬り去り、あたらしい言葉を発見し、構成する。生涯の願いだ。

社会階層化された言語現象/内田樹氏を読む

2010-11-07 21:42:04 | 思想・哲学
内田樹氏の『エクリチュールについて』を拝読して。

ほとんど無意識に使っている日本語は、あきらかに社会構造化されている。たとえば、活字中毒化したタクシー運転手というキャラは、とても成り立ちにくいものだ。運転中は、カッと目を開いてお客を探しまくっているから、A地点からB地点まで行ければOKの一般人とは違っている。本が読みたければ信号待ちでも読める、なんて話もあるが、そんなのタクドラにはぜんぜん見当はずれ。

なら休日にでも、とお考えになる方もいらっしゃるはずだが、これもきつい。隔勤(隔日勤務)の運転手なら、5時、6時の早朝から街を流し始めて、あくる日の早朝に帰庫(車庫がある会社に帰ること)してくる。たぶん20~22時間、ほとんど一日分を走り回った後の休日って、どんな時間? たいていの隔勤たちは一日で300~350kmを走ってくる。東京・静岡間が150~160kmだから、距離からいえば、一日で東京・静岡を往復する。

そのうえ東名高速をただぶっ飛ばすのと、わけが違う。神経の疲れが違う。自転車、人、ゴミ袋、どら猫、カラスたちがあふれた繁華街、一年に一回くらいしか通らない細い道を慎重に通過していく。後ろじゃ、妊娠中の猫みたいに客がイラついてる。そこで隔勤たちは、仕事があけた次の日は日没にも気がつかない。夢も見ないで寝ている。フィリピンパブへ出かけるのはそれからだが、うっかり騒ぎすぎると、あくる日の仕事があてにならない。来月はコンビニのおにぎり(¥105)も買えずに泣くことになる。サラ金通いだ。

こっちは夜勤(毎日6、7時pm~4、5時am勤務)で、隔勤たちと少し違うが、自分の安アパートに帰ってきてから何すんの? そんなわけで、ブログをやってる運転手自体が成り立ちにくいキャラなのだ。

そこで、自然にタクドラは工夫を凝らす。

おれの場合は背徳にも、出庫(車庫から出て、仕事しはじめること)したら「回送板」をデーンと立てて走る。途中、タクシーを探している人を見かけても、アレ~? って顔して、上げかけた手を下ろしている。悪徳運転手の行き先は可愛い子が待っている行きつけのサテン。その子とおれがセックスしたかなんて、どーでもいい。そこで夜食を食い、コーヒーを飲んで目を覚ます。同時に本を読だり、手帳にメモしたり。こうして、かろうじて、活字中毒のタクドラってキャラが出来上がる。

ところがだ、そのサテンにタクシー運転手たちが入ってくるときもある。
2、3人、ときには5人、10人と連れ立って。
おれは、そっと店を出る。

  なぜだ?

会社は違っても仲間だろう? それを嫌うなんて、自分を嫌っているのとおなじだ。ちょっと本が好きだからといって、ブログをやっててIT関係にボンヤリ明るいといって、タクシー運転手内のチンケな臭いエリート意識って感じがする、鼻持ちならない、許せない。そんなふうに、おれを責めたい人も多いだろう。

このブログ読者にタクドラがいるなら、許してくれ。
ちょっと事情ってやつが違うんだ。

それじゃイカンだろうと、おれは何度も我慢してみたが、何度でも事情はおなじだった。まず、ドスドスンとソファに腰掛ける。椅子ならガラガラと引き出して座る。それはいい、しつけの悪いやつらだから。次に、大声で話が始まる。しかも話題はお決まりだ。「昨日、どこへいったって?」「いま売り上げいくら?」、そこに今月の売り上げ予想だの、給料だの……。違うか?

なんであんなに大声をあげて話すんだろう。おれの推測では、周りの人々を忘れているからだ。目の前にいる自分たちのことしか見えていない。左の歩道の客しか見ていない視野狭窄。その証拠に、普通のサラリーマンたちは静かに話している。なかには聞かれたくない話題もあるんだろう、周りが気に触らない音量で話している。ほかに耐えられないのは、40~50前後のどっかのオバチャンたちだ。これも大声をあげて、周りを無視して話している。年のせいで耳が遠くなっているんだろうか。不思議だったのは、韓国語で話す娘たちの集団に遭遇したときだ。まだ20才代の娘たちが、キーの高い大声を張り上げて話していた。

ぜんぜん本なんて読んでられない。メモもまとまらない。それより、本を読んだりメモしたりの運転手が「らしく」ないと、逆にウサン臭い視線を投げつけられる可能性がある。これが、ソッと店をでる理由だ。ついつい話す音量、選ばれる話題、しぐさ、そんなものが明らかに社会階層化されている。これが会社の談話室でも変わらない、運転手たちのエクリチュールだ。どこのオバチャンか知らないけど、オバチャンたちのエクリチュールだ。韓国の娘たちのエクリチュール。そして黙って店を出ていく、おれのエクリチュール。

エクリチュールは欲望の表現。エクリチュールが社会階層化されているのは、人々の欲望が社会階層化されているからだ。そこに、耳が遠くなっているといった身体的な原因も重なるか。身体的な超個人的「スティル」を別にして、さまざまに分断されているエクリチュールを超えるエクリチュールは、分断されている人々の個々の欲望を超えた超越的な欲望の表現であるほかはないだろう。

おれは願っている。多くの人々が、少しでも幸せを感じられる社会の到来。この日本という国家と社会が、その方向に少しでも前進するなら、社会的に分断されたエクリチュールという言語現象は、ある統一に向かって少しずつ収束していくのではないか。その意味で、社会的に分断され特徴づけられたエクリチュールは社会の失敗を表現している。政治、経済、思想などの失敗を意味している。


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