写進化・ヲアニーの徒然日記

秀峰大山を中心に山陰地方の風景等を掲載。(※古い記事の画像は、削除しているのもあります。)

[安来市]重厚な町並み広瀬町

2015年04月21日 | デジ亀散歩

安来市広瀬町の雛祭りシリーズも最終です。
家々の軒先に飾られたお雛さんを見物しながら、古い佇まいを残す広瀬の町並みも散策しました。


前回の記事で、広瀬町は月山富田城の城下町と紹介しましたが、その城とこの城下町は、江戸期初期までは出雲国守護職の所在地として、政治・経済・文化の中心でした。
しかし、富田城が地理的地形的条件により、1611年(慶長16)今の松江に移城が決まり富田城下町は衰退の一途をたどりました。
1666年(寛文6)の大洪水では堤防が決壊し、濁流は城下町を飲み込み、富田川(飯梨川)は流路を変え、当時の城下町は川底になってしまいました。城下は川底になってしまったので、町は富田川の西方の広瀬村に新しく建設されたのが今の広瀬町だそうです。
主要なものが松江に移りましたが、奥出雲で鉄の生産が活発化すると、その玄関口として繁栄を始め、商業も栄え宿場町的な性格を持つようになりました。


広瀬町は、商工業を中心とした都市型の町だったそうですが、1915年(大正4)に上町から出火した大火で町のほとんどが焼失してしまいました。
したがって、現在の町並みはそれ以降の建物ですが、散策してみると大正から昭和初期の建物とは思えない重厚な建物が連なっているように感じます。


地元の酒造会社です。
TOP画像は、この裏側から撮ったものですが、この通りは販売店になっているようです。





この川沿いの蔵のような建物も酒造会社のようです。


昔からやっておられる店のようです。
看板に、右から「三十八番」と二桁の電話番号が書いてありますね。恐らく、当時の有線電話の番号でしょう。

いわゆる団塊の世代と言われる少し以降までに田舎で生まれ育った方はご存じでしょうが、我が町も有線電話でした。役場が設置管理していました。
電話の受話器を挙げると役場の交換手が出るので、相手方の番号を告げて呼び出してもらいます。もちろん、会話できるのは有線放送でつながれたエリア(同じ町内)しかできません。
我が家の電話番号は、たしか三桁だったかなぁ(笑)。

電話の利用時間は終日できるのではなく、たしか朝7時の役場からのお知らせの放送から、夕方7時の役場からのお知らせまでの時間が利用できたように記憶しています。
米子市では既にダイヤル式電話回線が引かれていましたが、我が町は、昭和40年代後半に電話局の電話が開通したと思います。私が東京の学生生活をしていたころは、まだ開通していませんでしたから。

当時設置された有線電話回線は、ダイヤル式電話の開通とともに廃止され、その後しばらくは役場放送のみ使用していました。
その後、防災無線に移行とともに、有線電話回線は町から地域の自治会へ譲与され、今は町内の自治会で広報活動に利用されています。


・・・余分なことを書いてしまいました。
もう数枚、広瀬の町並みをUPして、この記事を終えることにします。











雛祭り、古い町並みを散策し、尼子の里を後にしました。
尼子の里シリーズをごらんいただきありがとうございました。

[カメラ:OLYMPUS OM-D]


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