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Are you Wimpy?

次々と心に浮かぶ景色と音。
そこからは絶対に逃げられないんだ。

★「ネット小説大賞」にもチャレンジ中★

29.イーゴ

2020年04月20日 | 日記
「イーゴなんだな?」

その青年は骨と皮だけになったと言っても過言ではないくらい痩せ細った両手を自分の股の間にダラリと下げて,うつろな目で空を見上げたまま何も答えなかった。そこには2か月前のイーゴの面影は皆無だったが,その眼は確かにイーゴだということを僕に確信させた。

「お知り合いですか」

今度は看護師が驚いて尋ねた。

「この方,イーゴさんとおっしゃるんですね」
「妹は?」
「妹?」
「ああ,彼には妹がいるんだ」

看護師は困った表情でイーゴを見下ろした。僕は胸のポケットから写真を取り出して彼女に渡した。看護師は写真を受け取って数秒間見つめてから首を振りながら戻した。

「残念ですが」
「何があったんだ?」
「私も詳しくは存じ上げないのです」
 
僕はしゃがんでイーゴを見上げながら,写真を彼の鼻先に突きつけた。

「アジャはどうしたんだ」

僕は震える体を何とか抑えようと試みていたが,漠然とした不安がその努力を無駄にした。イーゴはうつろな目で,何かを見つめているというのでもなく,生きているのかさえ疑わしい様子で反応することはなかった。

「数週間前,大きな戦闘があった様です。私もそれで派遣されたものですから・・・」

僕はイーゴの膝の上に写真を置いたまま,不安と怒りが入り交じった言い尽くしがたい感情を抱いて勢いよく立ち上がって看護師を睨んだ。看護師が怖がって僅かに身を引くと,ジェイが僕の両肩を押さえて制止しようとした。

「・・・この辺り一帯の建物のほとんどが破壊されていて・・・」
「建物?」
「ええ。かろうじて建物だったのだろうとしか・・・私たちは彼のことを瓦礫の中から救出するのが精一杯だったのです」
「・・・死んだ」

急に辺りが静まり返った様な気がした。耳の中に風が舞い込む音がして,僕は看護師の方へ顔を向けたまま,そう呟いたイーゴの方に目をやった。イーゴはいつの間にか写真を手に取ってじっと見入っていた。

「・・・みんな死んだ・・・」

イーゴは英語で途切れ途切れに呟いた。僕は再びしゃがんでイーゴの両腿を震える手で掴んだ。

「アジャは・・・」

僕がそう聞くと,イーゴはゆっくりと僕の方へ視線を動かして,表情こそ変えなかったが,一瞬ほっとした様に瞬きをした。

「アジャ・・・死んだ」

目の前が言葉の通り真っ暗になって僕はその場に尻餅をついた。すると,イーゴは今度は何かが外れてしまった様に大きな声を上げて泣き出した。その声は悲しみというより,絶望と怨念に満ち溢れた例えがたいほど恐ろしい響きを湛えていた。そのおぞましさの余り,僕は何をすることもできず,ただイーゴが泣き叫ぶ姿をじっと見上げていた。看護師が会釈をして慌てて車イスを押して走り去った。ジェイが僕の右肩と左腕を支える様にして抱き起こしてくれた。

「アジャは・・・」
「もう何も言うな」
「アジャは・・・」

僕はジェイの顔をじっと見据えたまま言葉を続けることができなかった。去っていく車イスと看護師とすれ違う様にして近付いてきたリアノがジェイの肩越しに僕の方を睨んだ。僕は自力では立っていられず,ジェイに支えられながら辛うじて意識は保っていたが呼吸の仕方も忘れてしまった様に呆然と立ち尽くしていた。

 「今度はどうしたってんだ,ウィンプ?」

リアノが呆れたように勢いよく話しかけてきたが,その声はまるで遥か彼方からの木霊みたいに僕の身体に吸収されてしまった。ジェイが何かをリアノに説明していたが,耳鳴りがして視野がどんどんと狭くなっていった。そこからの記憶は全くない。次に気づいた時にはひんやりとした床に横になって向こう側で慌ただしく動き回る医師や看護師たちの様子を眺めていた。ヘルメットや防弾ベストも脱がされて,腰ベルトのセットと一緒に自分の頭の近くに整然と置かれていた。硬い床から人が移動する振動が伝わってくるのを感じながら,そのまま僕はまた気を失ったらしい。

 「ソーヤンさん・・・」

聞き覚えのある声に僕は起こされた。全身に力が入らなくて,半開きになった瞼からぼやけた光が差し込んだ。景色はぼんやりとしていたが,僕の顔の真ん前であの看護師が眼鏡のレンズのせいで余計に青味を帯びた眼差しを覗かせていた。

「国際赤十字のパオラといいます。ソーヤンさんですよね。」

僕は肩や背中の痛みを庇いながら,不器用に体を起こした。

「昨日は失礼しました。イーゴさんが・・・」
「イーゴが?」
「今朝方息を引き取ったのです」

僕は一体何が起こってるのか整理できずにいた。町中での銃撃戦があって,多くの死体と向き合って,多くの人の死を見届けて・・・そうだ,イーゴからアジャの死を知らされて・・・。

「イーゴが死んだ?」
「ええ,私達も驚いて・・・。今朝,ベッドに伺った時にはもう・・・」

僕は自分の足元を暫く見つめて何も言葉を発することができなかった。ただ,小さな子供の様に涙が溢れて仕方なかった。壁に掛かった時計は既に7時を回っていた。周囲にはベンチや床で着の身着のままでぐったりとした医師や看護師達,僕の傍らにはジェイたちも横になって熟睡していた。

「・・・イーゴは・・・」
「ご案内しますわ。こちらへ」

僕たちは建物の別棟へと向かった。僕の歩幅を気にしながらパオラはゆっくりと先導した。その時間が異様にゆっくりと流れているみたいで,まだ僕の両足には血が巡っていないかと思う程冷たく,自分の意思とは無関係にただパオラの後を追いかけた。唐突にイギリスでの楽しかった時間が甦って,不気味に感じるかも知れないが,僕は泣きながらも笑みを浮かべている自分に気付くのだった。

28.僕たちの仕事

2020年04月15日 | 日記
「我々の仕事はあっちにある。戻るぞ」

思わせぶりなラファエルの態度に小さな苛立ちを覚えたが,ゲイリーをリアノに託してとにかく古参の彼の言う事に従った。同じ出入り口から建物の中に戻ると,医師や看護師たちが慌ただしくけが人の治療にあたっていて,人々の苦悶に満ちた呻き声や器材が立てるカチャカチャといった音に交じって時々痛々しい叫び声が聞こえた。すぐ向こう側でジェイとパトリックが患者の傍らにしゃがみ込んでゴソゴソと何かをしているのが見えた。
 
「この人たちは死ぬんじゃない」
ラファエルが彼らに向かって歩き出しながら話し始めた。

「名前くらいは聞き出せるんだろう」
「確か,“カコセゾヴェテ”」
「それでいい」

近付くとパトリックが聖書を広げ祈りの言葉を唱えていた。僕たちに気付いたジェイが怯えた様子でゆっくりと顔を上げた。彼らに挟まれるように横たわる患者は薄っすらと瞼を開けて口元を小さくパクパクとさせていた。僕は無意識に姿勢を低くすると,その女性の口元に耳を近づけてから名前を尋ねた。彼女は小さな声で「ミア」と囁いた。

「この人の名前は“ミア”だ」
そう伝えるとラファエルがジェイにフランス語で何かを指示した。ジェイは小さく頷いてからフランス語で何かを小さなメモ帳に書き綴た。僕はその様子を注視しながら立ち上がって,ラファエルの顔を覗き込んだ。

「間もなく彼女の息吹も天に召される。我々はそれを見届けて,名前,性別,服装,場所・・・分かる限りの情報を記録して祭壇に持ち帰るのだ」

パトリックが「アメン」と唱えるとほぼ同時に,またあの恐ろしい「音」が聞こえた。弛緩した声帯を吐息が震わせるだけの振動音なのか,それは女性の声とは思えない低い周波数で,ゲイリーの時と同じように3秒ほど続いた。

ジェイが手帳とペンを床に置いて小刻みに震えながら十字を切ってパトリックとラファエルに続けるようにして「アメン」と呟いた。

身寄りのない怪我人が息を引き取る度に国際赤十字の職員から呼ばれ,僕たちはその最期を看取る為に足早に移動した。

名前が分からないことがほとんどで,ラファエルの指示で性別や服装,容姿から判断できる大体の年齢,亡くなった時間と場所だけを記録することも多かった。二手に別れて1人ずつ回りながら,分担していても数時間は休む間もなくあちこち動き回ることになった。僕は韓国人のジェイと組んで,祈りを彼に任せて主に聞き取りと記録を担当した。ジェイはここへ来てから数日間は僕の挨拶にも応えず,あからさまに無視をする様な態度を取っていた。イギリスに来てからずっと韓国人との人間関係には失望することが多かったので,それも仕方なく感じていたが,ペアを組んでからのW.W.の任務の上では手際のいい良いパートナーだった。それに,手が空いたときに他愛ない話を振ると少しずつだが返事を返してくれた。

その日の夕方,やはり2人で休憩を取っていると,初めてジェイから話しかけてきて少し驚いた。
「お前はクリスチャンなのか」
一瞬迷ったが「いいや」と正直に答えると,ジェイは軽く微笑んだ。そこで母親と父親の顛末を話してやると,大そう興味深げに聞き入っていた。
「800万とは凄いな」とジェイは呆れたように呟いた。

それから僕たちは水筒の水を入れ換えに国際赤十字の事務所へ行った。病院とは言っても,元は市役所の建物を避難的に利用してるだけで,どの水道も器具や布類の洗浄をするのに立て込んでいたから,支援物資のボトル入りのミネラルウォーターが目当てだった。

パトリックに聞いて国際赤十字のテントへ来たものの,勝手がよくわからなくてうろうろしていると,ぐったりとして痩せこけた青年の車イスを押しながら職員が近づいてきたので,すれ違い様に挨拶を交わしながら尋ねることにした。

金色の髪を首の後ろで結って度のきつい眼鏡をかけた青い目の女性はにこやかに答えてくれた。機能性に優れていそうな夏用の白い制服を姿勢正しくカチっと着こなして,看護師らしい,きびきびとした調子で分かりやすく道の案内をしてくれた。

礼を述べた僕たちに丁寧なイギリス英語で「どういたしまして」と答えた看護師が車イスを押して去ろうとした瞬間,車イスの荷物掛けにぶら下がっているアクセサリーに僕の目は釘付けになって息が止まった。まるで心臓が破裂して全身の血が沸騰する様な感覚に襲われ,僕は目の前の光景に愕然とした。そして崩れるように膝から地面に座り込んで,その紫色のお守りを両手で確認した後,恐る恐る車イスの青年を見上げて,瞬間的に恐れていた想像が現実であると確信した。

「どうしたんだ?」

 僕はジェイの驚いた表情にチラリと視線を向けた後,すぐに青年の腿を震える両手で掴みながら恐る恐る話しかけた。

27.ホスピタル

2020年03月30日 | 日記
通りは騒然としていた。救急車が数台到着して怪我人をその場で治療したり2,3人まとめて搬送したりしている脇で,まだ勢いよく燃えている車に消火剤を巻いている兵士も見えた。亡くなった市民もトラックを使って一旦病院まで一斉に運ばれるので,僕たちは躯と化した重たい屍をトラックの荷台に載せる仕事を手伝わなければならなかった。燃料や車体が燃える嫌な臭いとカラシニコフの弾薬が残した微かな硫黄の薫りが漂っていて咽る程だった。

大人だろうが子供だろうが,遺体はどれもズッシリと重たく,関節という関節が定まらなかったからグニャリと折れ曲がって運びにくかった。しかも路上には細長いカートリッジが無数に散らかっていて,間違えて踏んづけてしまうと,まるでローラースケートを履いているみたいにズルリと足ごと持ってかれてしまい何度も転びそうになってしまう。夏のせいもあったかもしれないが,遺体のほとんどにまだ温もりがあって汗も乾かず眉間が恐怖に歪んだまま眼を大きく見開いた状態で命を失う瞬間の表情がまるごと残されていた。泣き叫ぶ人々に見送られ走り去るトラックの荷台からは躯となって積み重ねられた人たちの腕や足がブラブラと揺れているのが見えた。路上の遺体が片付けられると,僕たちもゲイリーを積んだトラックの荷台に乗ったまま病院へと向かった。僕は最初の内は周りで起きていることが夢の中の様に錯覚して混乱していたが,少しずつ実感が湧いてくるのと同時に恐怖ではなく不思議と冷静さを取り戻していく自分に気付いて,そのこと自体にある種の驚きを感じて呆然としていた。

「ゲイリー・・・」と僕が無意識に呟くと,こちらを見ようともせずにリアノが遮る様に「躯にもう名前なんか必要ない」と言った。

リアノはゲイリーを見下ろしながら十字を切ってから,あの鼈甲の様にギラギラとした眼差しをこちらに向けて続けた。
「明日はお前かも知れんぜ。」

 それから病院に到着するまでの10分程の間にリアノは分かりやすい英語でこの地域が置かれる状況を詳しく説明してくれた。

この地区を含む2つの県がそれぞれ6月25日に「独立宣言」を行うと「連邦政府軍」が大規模な攻撃に乗り出した。独立を巡るそれまでの住民同士の小競り合いは激化していて,それを鎮圧するための正規軍は戦車なども出動させたという。ただ,正規軍による戦闘は大規模であっても予め情報が伝わって住民が避難する余裕がわずかにあった様だ。問題なのは報復に次ぐ報復がエスカレートしていた武装市民によるゲリラ的な攻撃で,こちらは唐突に,しかも散発するから人々の生活が蹂躙されている。独立したとはいえ,連邦軍から離脱したような小さな武力しか保有していないここでは,国境付近の守備に就いている仮の軍組織と連携して警察機構が治安維持に着手していて,僕たちはそれに一時的な所属を許されてるのだった。

間もなく“ホスピタル”と呼ばれる場所に到着した。想像していたより立派な大きな建物で,車寄せの周囲には怪我人を運んできた5,6台の救急車が駐車されていて慌ただしい搬出作業の真っ最中だった。トラックはその車留めの更に奥にある植え込みを踏みにじりながら別の出入り口付近に停まった。すると医者ではなく軍用の作業着に身を包んだ男たちが手際よく遺体の搬出を手伝いに来てくれた。すぐ奥で運び込まれる怪我人達の方に頭を向けた仰向けの状態で多くの遺体が所狭しと並べられていった。

遺体達は季節がら足が速く,2日間だけ行方不明者を探しに来た家族が来るのを静かに待っていた。前日に運び込まれたものは既に唇が渇いて歯をむき出しにしていたり弛緩した下半身から汚物を漏らしたりしていた。今朝までいた難民キャンプでも,人間本来の生活臭や体臭が立ち込めていたし,自分自身もシャワーさえ浴びられない日々を過ごしていたから,その程度の死臭を受け入れるのは不思議と容易く感じた。見渡す限り多くの遺体が並べてあって,所々で亡き家族の躯を前に嗚咽する人々や,1つ1つの遺体を覗き込みながら確認する親子連れの間を通りすぎる時,今運ばれてきたかとばかりに心配そうな表情を向ける人もいた。

「“それ”はここじゃない」

一旦荷台から降ろされたゲイリーの遺体は化学繊維であしらわれた簡易担架に乗せられて,すぐに裏手にあった別の出口から外へ運び出すことになった。裏口を出て100mも進むと,引き取り手のない遺体を埋める正方形の深い穴が掘られていて周囲に重機が停められていた。辿り着いた真新しい墓穴には既に8人の遺体が両手を胸の前で組んで整然と寝かされていた。その穴の周囲には新しい土が被せられた同じ様なサイズの場所が3つあったからこの数日でどのくらい亡くなったのか大体見当がついた。

穴は3mほどの深さで,15m四方程の大きさだったが,遺体を運べるようになだらかなスロープが設けられていた。リアノの先導でゲイリーの遺体を穴の底に並べて担架を畳んでいるとスロープの上の方で僕たちを見下ろしていたラファエルが「ここに用はない・・・」と言った。

26.神の息吹

2020年03月22日 | 日記
ゲイリーと僕は制止を振りきって銃声の方へ向かった。僕は数歩進む暇もなく,勢い良く流れ込んでくる人の怒濤から弾き出されて転倒した老翁を抱き上げ建物の陰に避難させた。振り返ると,駆け抜ける無数の人影の向こうで幼い男の子と母親を庇っているゲイリーが見えた。

老人が怪我をしていないのを確認してゲイリーの方へ向かおうとしたが,すぐ近くで銃声が断続的に鳴り響いたのに驚いて老人を守る様に抱きかかえながら身を屈めた。20メートルくらい先で何かを叫んでいるゲイリーのすぐ近くで警官の1人がライフルを水平に構えて何かを狙うようにして発砲しているのが確認できた。

その不気味な喧騒は数分間続いた。何かを唱えながら包み泣いている老人と抱き合ったまま,僕は一歩も動けずにいた。夏の日差しは強いはずなのに,日陰に隠れていたせいで汗が冷やされ寒気を感じる程だった。その汗は決して爽やかなものではなく,ねっとりと全身に滲み出ていて,僕は明らかに恐怖に怯えていた。老人の囁きと轟く銃声の中で,自分の呼吸が不規則で荒いのと首筋がヒクヒクと痙攣しているのを感じながら,僅かであるが失禁していることに気付いた。

人の波や銃声が途切れてくると,その警官が銃を構えたまま誰かに向かって怒鳴りだした。そのまま建物の間から除き見ていると,逃げ惑う人々が振り返りながら足を止め始め,銃声は少しずつ止んでいった。

僕の両頬を手で摩りながら「フヴァラ,フヴァラ・・・」と礼を言う老人を落ち着かせてから人々が見つめる方向へ目をやった。炎をあげて時々パンパンとガラスが割れる音を立てている真っ黒に焦げた乗用車のすぐ傍で,警官2人が倒れた別の男性を足で激しく蹴り上げてるのが見える。グニャリとなって人形の様にゴロゴロと転がるだけの男性を警官たちが執拗に何度も何度も蹴りあげている。その周囲には老若男女大勢の人たちが倒れていて,息がある者は苦しみに喘ぐ声を漏らしていた。動かない親のことを揺すりながら大声で泣いている子供も見えた。

庇っていた親子が無事に立ち上がって離れていくのを見届けたゲイリーが脇腹を抑えてその場に座り込んだ。

「怪我をしたのか」
僕がゲイリーに走り寄った途端,彼は何も答えずその場でドサッと尻餅をついて,そのまま仰向けにパタンと倒れてしまった。

「怖いんじゃない,寒いんだ」
倒れたまま呟くとゲイリーは白目を向いてガタガタと震え出した。先程の僕の痙攣とは違って,何かにとりつかれた様に歯をガチガチと鳴らしながら麻痺していく。

どんどん血の気を失っていくゲイリーの腰から太腿にかけて大量の血液が滲み出したから,僕は無意識に傷口を探り当てて貫通している両側の穴の出血を止めようと必死に圧迫した。押さえている両手の指の隙間から波打つようにドロリとした血液が断続的にビュッビュッと吹き出して,それは無情にも全く止める術がなかった。血相を変えて僕たちのことを探しに来たイギリス兵が走り寄ってきたが,ゲイリーの方をチラリと見ただけで諦めた様に軽く横に首を振った。血溜まりがみるみる大きくなって,通りの反対側の歩道の方まで広がって行った。

「ああ,神様・・・」

ゲイリーが力のない声を絞り出すと震えがスッと止まって,彼の声からは想像できないような呻き声が3秒ほど漏れた。押さえていた傷口はまだ生温かかったが,徐々に出血は収まっていった。それは止血が上手くいったからではなく,彼の鼓動が止まったことを示しているのを知って僕は息を飲んだ。そして命はこんなにもあっけなく遮断されることを初めて知った。

「聞こえたか?」
ラファエルがいつのまにか僕の真後ろに立っていた。

「これが神の息吹だ」

僕はゲイリーの方へ向き直って,ゆっくりとその場から離れようとした。彼の血液でヌルヌルとする指先の感触が恐ろしくなって腰から砕ける様にして倒れると,ラファエルがしゃがんで両手の親指でゲイリーの瞼を閉じさせ両腕を胸の上で組ませた後,小さな声で祈り始めた。

僕はすっかり腰が抜けてしまい上手に呼吸ができなくなってしまった。まるでセピア色に見えている目の前の現実を受け入れられないまま,ただ言葉を失ってゲイリーとラファエルを見つめていた。銃声のせいだろうか,酷い耳鳴りがして吐きそうなくらいだった。

「大したもんだったよ」
ゲイリーの足元に見知らぬ3人の兵士が歩み寄った。どもっていたし少々訛りはあったが比較的はっきりとした英語で,そのうちの1人が続けた。
「奴らの1人が何発か食らってくたばったが,相撃ちとはな」

全弾を撃ち尽くしてスライドが下がったままのピストルを拾い上げながら,その男は僕の方を見下ろした。逆光のせいで顔ははっきりと確認できなかったが,鼈甲の様にギラギラと光る眼差しがこちらを睨んでいる。

「お前もやられたのか?」

僕は黙ったまま血まみれの両手をズボンに擦り付けながらゆっくりと立ち上がろうとして足がもつれてしまった。

「カー・ボムと5人だ。全員射殺した」
その男が僕に手を貸しながら説明した。

「お前は撃たなかったのか?」

怪我がないか身体のあちこちを摩って確認しようとした彼の手を止めながら僕は後ずさりした。

「僕は殺さない。誰も殺さない」
僕は全身がガタガタと震えるのを必死で隠しながら叫んだ。

「どうした,落ち着け」
「僕は殺さない」
「じゃあ,何で銃を持ってんだ」

「これは・・・」
彼らがギョっと身を引くのが早いか,僕は一瞬間を置いてから無意識にピストルをホルスターから引き抜いて自分の顎の下に突き付けてからすぐに元に戻した。それから腰のバッグのポケットにしまってあった弾装を見せた。

「弾は1発だけなんだ」

ほんの数秒間,驚きと安堵を繰り返した男は大きく深呼吸をしてから馬鹿にしたような口ぶりで話しかけてきた。
「殺せないんだろう,ウィンプが・・・」

男は仲間の方へ戻りながら,どもった調子のまま言い放った。
「俺たちがお前らの護衛だ,ウィンプ。俺が隊長のリアノだ」

様々な出で立ちをした男たちが倒れたゲイリーを見下ろしていた。若い警官が自分の妻の為に買った花束を躯の上にそっと置いた。

自分と同じ格好をしたゲイリーが,まるで自分の姿の様に錯覚して,僕は怖くてしばらく近寄ることができなかった。

25.逃避

2020年03月13日 | 日記
1時間ほどすると,ごった返した人の河は途切れ始め,車列は再度舗装路へと戻って若干ではあるが快適さを取り戻した。それでも時折すれ違う車や一団を避ける様にして道を外れるもんだから,その激しい揺れの度に舌を噛みそうになりながら更に1時間ほど我慢していると,コンクリートだけで仕立てられた無機質な3階建ての建物の脇で車が停車した。

僕たちが荷台から降りようとしていると,木材で拵えたライフルのオモチャを抱えた小さな男の子たちが3人,トラックの後ろ側に回り込んで何かを叫んだ。

ゲイリーがとっさに両手を掲げて降参したので,僕もそれに習って子供たちに微笑みかけると,彼らが嬉しそうに「ダダダダ・・・」と口で銃声を真似ながら走り去った。道を行き交う車や人は疎らだったけど,辺りは有事とは思えないくらい静かで小鳥が囀りながら飛び交ってるのさえ確認できた。通りの向こう側でも人々が談笑していて町は平和そのものだった。

僕は少しホッとしてゲイリーと軽く微笑み合いながら赤いベレー帽の兵士達に続いて建物の中へ進んだ。

部屋には業務用の机がいくつか並べられていて完全武装をした制服姿の男が数人談笑していたが,僕たちが入室した途端黙り込んで一斉にこちらを睨んだ。その迫力に戸惑う僕たちに気づいたラフな白シャツを着た小太りの男性が入り口近くのカウンターで手招きしながら英語で話しかけてきた。

「ようこそ警察署へ」

僕たちは愛想の良いその男性の指示に従ってバインダーに綴じられた一覧表にサインをして,滞在についての説明を英語で5分ほど受けた。

「でかけてみますか」

男性が振り替えって自国語で呼び掛けると,奥の方で休憩していた警官というより兵士といった装備の4人が勢い良く立ち上がって壁の棚に立て掛けてあるカラシニコフを1丁ずつ手に取って弾装を1度引き抜いて確認してから一斉に装着した。その時の軽いカシャンという金属音が気持ち良く揃ったので感心していると,偶々目が合った若い兵士がニヤリとして首を捻って「ついてこい」といった具合に僕たちを先導した。彼らに促されるようにして表に出ると,小振りなラーダニーヴァ2台に僕たちが乗り込んで,その後からどっしりとしたランドローバーが続く流れになっていた。僕はゲイリーと1台目に乗り込んだ。フロントシート全体を前に倒して乗り込むと,思っていたより広い車内とトラックの荷台とは比べ物にならないフカフカのリアシートに感激したのも束の間,まだ「ガードマン」たちとは落ち合っていなかったことを思い出して,同行している武装警官が僕たちの安全を保証するものではないことに何となく不安を感じていた。

出発して30分ほど市中を巡ると,ちょっとした商店街の様な通りで,僕たちの車の助手席の「警官」が運転士と軽く会話を交わした後,停車した場所より50mくらい後ろの花屋にかけて行った。すると,運転士が後部座席の僕たちに向かって,たどたどしい英語で「奥方の誕生日プレゼント」を買いに行ってるんだと説明してくれた。

庁舎での最初の印象とは異なる警官達のおおらかな態度にある種の安心感を覚えて軽く胸を撫で下ろしていると,今度は舗道を歩いていた2人組の少女が車に近付いてきて,よれよれの紙箱の中に5つほど並べてあるクッキーを見せてきた。僕は手動式の窓を開けて彼女たちの話を聞こうとしたが,土地の言葉だったから全くわからない。ポカンとしてるのを見かねた運転士が単語単位で英語に訳してくれたのだが,詰まるところ彼女達が持っているクッキーを買って欲しいということらしい。

僕はブリュッセルで貰った3枚の紙幣のことを思い出して,どうせ使い道も分からなかったから,その1枚をポケットから出して渡すと,彼女たちは驚いた様な表情をして箱を2つ共乱暴に僕に預けて紙幣をもぎ取ったかと思うと甲高い歓声を上げて去って行った。彼女らの幸せな様子が嬉しくなって,僕が片方の箱の中に敷かれていた紙にクッキーを全て包んで腰ベルトにぶら下がっていたバッグにしまっていると「ずいぶん高いクッキーだな」と鼻で笑いながら呆れた様に運転士が言った。ゲイリーも首を振りながらクスクスと笑った。

その時だった。

突然後ろの方からズシーンという爆音が轟いて車体が前方に一瞬フワッと浮かんだ。シートバックに頭を押し付けられる様な衝撃を感じて,僕は思わず両手でヘルメットを押さえて伏せた。数秒の間,車のボディに砂の様な物が降り注いでいる音がしていた。

すぐに人々の悲鳴が響いてきて,それに混じってタタタタという先程の子供達の声真似とは違った機械的で冷たい本物の銃声が遠くで鳴り始めた。気が動転して祈る様な気持ちだったのか,なぜか警察署の前でふざけていた子供達を思い出しながら後ろを振り替えると,数十メートル奥の方で大きな火柱が上がっていて,そこから大勢こちらへ向かって走ってくるのが目に入った。

運転士が慌てて車から降りて折り畳んでいたライフルの銃床を伸ばしながら民衆とは逆の方へ走って行ってしまった。ゲイリーも彼を追おうとしたがシートの倒し方が分からなかったらしく,僕が倒した助手席側から2人共ヘルメットを車の天井にガツンガツンとぶつけながら順番に飛び出した。

僕たちが警官達と同じ方向に走ろうとしていると,最後尾にいたイギリス兵たちが車の窓から腕を出して「だめだ」と叫んでいた。僕が理由を問いただすと「これは関わるな。彼らに任せろ」と怒鳴っていた。

そうこうしている間にも表情をなくした民衆が青白い顔で大慌てで逃げて来る。遠くから聞こえる銃声がどんどんと増える一方で,悲鳴は止んで人々がただ黙って走って逃げていく足音だけがパタパタと聞こえて不気味だった。