アメリカは紛れもなく世界最大の多民族国家である。
国家の成り立ち自体が、ヨーロッパで食い詰めた移民の国であり、その後の奴隷貿易によるアフリカ系アメリカ人の流入、第一次世界大戦以後のアジアや隣国メキシコを中心とした移民の持続的流入がそのままアメリカの歴史を形成しているといっても過言ではない。
小生の住むカリフォルニア州は「フロンティアの終着駅」であったことからその傾向が特に強く、統計では白人約60%に対してヒスパニック系30%、アジア系10%、アフリカ系約7%となっており、実際の生活でも本当にいろんな人種に接する機会が多い。
自分自身がアメリカに住んでみて感じるのは、やはりその門戸の広さである。
同時多発テロ以降、移民や小生のような一時居住者に対する制限が強化されたとはいえ、行政手続きは日本と比較して非常に簡単であり、「こんなんでいいのかなあ」と本人が思うぐらいである。
また日常生活でも表面的には多くのアメリカ人は非常に親切かつ友好的で、極東アジアの島国から来た黄色人種を気軽に自宅に招いたり、パーティーに招待したりしてくれる。
もちろん、小生がアメリカ51番目の州日本から来ているからと言う側面もあるだろうが、そうだとしても日本人と比較するとアメリカ人の移民や在米外国人に対する寛容さは驚くべきものがある。
こうした形で移民を受け入れ、それを国家を支える国民としてうまく活用することで、アメリカは20世紀初旬以降世界の大国たり得たのだとしみじみ実感するわけだ。
ただし、先ほど「表面的」と書いたのには訳がある。
人種・文化・宗教の異なる集団がともに社会を形成する場合、残念ながら集団間の摩擦や軋轢は完全になくすことは出来ない。
これはいかに教育や法律を徹底してもなくなることのない人間の「性」であり、人種の坩堝アメリカもその例外ではない。
差別を教育により消失させ得ると信じるのは「頭の中お花畑」の理想論者のやることだ。
この理想論者に騙されて西ヨーロッパ各国は大量の移民を受け入れた結果、現在は民族主義と異民族排斥運動の荒れ狂うネオナチの格好の土壌となっている。
多数の人種によって構成される移民の国アメリカでさえ、人種差別の撤廃を行政として決定したのは高々40年前であり、現実には人種差別は存在し続けている。
その代表的なものが「人種の住み分け」である。
ロサンゼルスでは人種による明らかな住み分けがなされており、これにより人種間の軋轢を回避するシステムが出来上がっているのである。
例を挙げれば、いわゆるダウンタウンとその周辺はアフリカ系アメリカ人の牙城である一方、ビバリーヒルズを中心とした郊外の高級住宅地はまさに「金髪碧眼」白人のメッカ、小生の住むウエストロサンゼルスはアジア系と白人がほぼ半々といった具合で、各人種が社会的・行政的に完全に分離された状況になっている。
この居住地の人種的偏りは行政や法律で強制されたものではないものの、生活環境・教育・治安・家賃によりそれ以上の影響力を持っており、暗黙のうちに固定化されているのだ。
具体的にいえば、アジア人の小生はいくらお金があってもビバリーヒルズに住むのは難しい。なぜなら文化的相違による近隣住民とのトラブルを解決するのが困難なばかりではなく、有色人種であるがゆえに子供の幼稚園や自治会など社会的にも受け入れてもらえないからである。
一方、麻薬と銃犯罪が横行し毎晩警察のヘリコプターが上空を飛び交うダウンタウンに住むことも普通の日本人にとっては困難であり、おのずから住む地区は限られてくるといった具合になる。
多民族国家アメリカでさえ、表向きの差別撤廃とはうらはらにアメリカらしくない「暗黙の了解」を使って民族間の対立と摩擦を何とか避けようと必死なのである。
近年肉体労働をはじめとする単純労働力の不足から日本でも移民を受け入れるべきだとの、妄言が経済界を中心に上がっているようだが、言語・文化・宗教を共有するほぼ単一民族から形成される日本が移民をうまく受け入れることは到底不可能であり、それこそ民族主義を助長し差別を激化させるだけだ。
左翼や経済界の机上の空論に惑わされることなく、アメリカの現実を直視し、民族間に真の平和はありえないことを理解しなくてはならない。
今日の箴言
「水と油は決して混ざることはない」
国家の成り立ち自体が、ヨーロッパで食い詰めた移民の国であり、その後の奴隷貿易によるアフリカ系アメリカ人の流入、第一次世界大戦以後のアジアや隣国メキシコを中心とした移民の持続的流入がそのままアメリカの歴史を形成しているといっても過言ではない。
小生の住むカリフォルニア州は「フロンティアの終着駅」であったことからその傾向が特に強く、統計では白人約60%に対してヒスパニック系30%、アジア系10%、アフリカ系約7%となっており、実際の生活でも本当にいろんな人種に接する機会が多い。
自分自身がアメリカに住んでみて感じるのは、やはりその門戸の広さである。
同時多発テロ以降、移民や小生のような一時居住者に対する制限が強化されたとはいえ、行政手続きは日本と比較して非常に簡単であり、「こんなんでいいのかなあ」と本人が思うぐらいである。
また日常生活でも表面的には多くのアメリカ人は非常に親切かつ友好的で、極東アジアの島国から来た黄色人種を気軽に自宅に招いたり、パーティーに招待したりしてくれる。
もちろん、小生がアメリカ51番目の州日本から来ているからと言う側面もあるだろうが、そうだとしても日本人と比較するとアメリカ人の移民や在米外国人に対する寛容さは驚くべきものがある。
こうした形で移民を受け入れ、それを国家を支える国民としてうまく活用することで、アメリカは20世紀初旬以降世界の大国たり得たのだとしみじみ実感するわけだ。
ただし、先ほど「表面的」と書いたのには訳がある。
人種・文化・宗教の異なる集団がともに社会を形成する場合、残念ながら集団間の摩擦や軋轢は完全になくすことは出来ない。
これはいかに教育や法律を徹底してもなくなることのない人間の「性」であり、人種の坩堝アメリカもその例外ではない。
差別を教育により消失させ得ると信じるのは「頭の中お花畑」の理想論者のやることだ。
この理想論者に騙されて西ヨーロッパ各国は大量の移民を受け入れた結果、現在は民族主義と異民族排斥運動の荒れ狂うネオナチの格好の土壌となっている。
多数の人種によって構成される移民の国アメリカでさえ、人種差別の撤廃を行政として決定したのは高々40年前であり、現実には人種差別は存在し続けている。
その代表的なものが「人種の住み分け」である。
ロサンゼルスでは人種による明らかな住み分けがなされており、これにより人種間の軋轢を回避するシステムが出来上がっているのである。
例を挙げれば、いわゆるダウンタウンとその周辺はアフリカ系アメリカ人の牙城である一方、ビバリーヒルズを中心とした郊外の高級住宅地はまさに「金髪碧眼」白人のメッカ、小生の住むウエストロサンゼルスはアジア系と白人がほぼ半々といった具合で、各人種が社会的・行政的に完全に分離された状況になっている。
この居住地の人種的偏りは行政や法律で強制されたものではないものの、生活環境・教育・治安・家賃によりそれ以上の影響力を持っており、暗黙のうちに固定化されているのだ。
具体的にいえば、アジア人の小生はいくらお金があってもビバリーヒルズに住むのは難しい。なぜなら文化的相違による近隣住民とのトラブルを解決するのが困難なばかりではなく、有色人種であるがゆえに子供の幼稚園や自治会など社会的にも受け入れてもらえないからである。
一方、麻薬と銃犯罪が横行し毎晩警察のヘリコプターが上空を飛び交うダウンタウンに住むことも普通の日本人にとっては困難であり、おのずから住む地区は限られてくるといった具合になる。
多民族国家アメリカでさえ、表向きの差別撤廃とはうらはらにアメリカらしくない「暗黙の了解」を使って民族間の対立と摩擦を何とか避けようと必死なのである。
近年肉体労働をはじめとする単純労働力の不足から日本でも移民を受け入れるべきだとの、妄言が経済界を中心に上がっているようだが、言語・文化・宗教を共有するほぼ単一民族から形成される日本が移民をうまく受け入れることは到底不可能であり、それこそ民族主義を助長し差別を激化させるだけだ。
左翼や経済界の机上の空論に惑わされることなく、アメリカの現実を直視し、民族間に真の平和はありえないことを理解しなくてはならない。
今日の箴言
「水と油は決して混ざることはない」