出典 とある原発のメルトとスルーさま
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/350566
娘への差別恐れ、車の「いわき」ナンバーを「北九州」に 支えよう、3.11被災者
写真の中の振り袖姿の女性たちがピースサインでほほ笑む。
福島県富岡町の「広報とみおか2月号」の表紙を見て、44歳の女性は
「私も昔、町の成人式に出たのよ」と和やかな表情を見せた。
北九州市で女性は今、夫、6歳と3歳の娘2人と暮らす。
故郷の広報誌は「未来への希望を胸に」との見出しで、
町主催の成人式の様子を紹介していた。
富岡町は、
福島第1原発事故に伴い、
立ち入りが禁止された警戒区域にすっぽり入る。
約1万6千人の町民は全員が町外避難。
役場も約50キロ離れた福島県郡山市へ移った。
町は「町民の絆をつなぎ留めよう」(企画課)と
福島県内外に避難する約7300世帯に毎月、広報誌を郵送する。
◇ ◇
2011年3月12日朝、町の防災無線で「西へ逃げてください」と避難指示が出た。第1原発に異常が起き、政府が「3キロ圏」としていた避難指示の範囲を「10キロ圏」に拡大したためだ。
女性は数日分の着替えと食料を持ち家族と車で西隣の村へ逃げた。
1週間ぐらいで帰られると思ったが、この日以来、帰宅していない。
午後3時36分、1号機が水素爆発した。
「ここにいちゃ、危ない」。
夫の実家の北九州市へ車で向かった。
道は大渋滞。
余震が続く中、トンネルや橋を通るとき、冷や汗が出た。
夫の実家には2日後に着いた。
この日、3号機が水素爆発した。
◇ ◇
今も娘が熱発すると、まず疑うのが放射能の影響だ。
「1号機の爆発で、放射性物質を吸い込んで
内部被ばくをしているんじゃないか」。
当時、現地で救助に当たった警察や
自衛隊員たちは防護服と防塵(ぼうじん)マスクを装着。
だが、着の身着のままで逃げた避難者はマスクさえしていなかった。
娘2人は今、北九州市内の保育所に通う。
女性はママ友もでき、周囲は
「分からないことがあったらいつでも聞いてね」と温かい。
ただ、故郷の知人からこんな話も聞いた。
茨城県に避難したある家族のことだ。入居するアパートに着いたとたん、周辺住民から「福島の人は来るな。放射能を持ってくるな」と抗議され、福島に戻ったという。
長女は今春、小学校に入学する。
夫は「学校で仲間外れにされるかも」と心配し、
車のナンバーを「いわき」から「北九州」に変えた。
万一の策とはいえ、故郷を隠すような生き方に「切なさ」が募る。
◇ ◇
娘たちはおばあちゃんがいる富岡町が大好きだった。
広報誌をみると、長女は「また雪だるまを作ろうね」と言いつつ、
「なんで帰れないの…」と泣きだす。
広報誌には、町内72カ所の放射線量データを載せた欄がある。
女性宅近くの交差点は「毎時30マイクロシーベルト以上」。
毎時30マイクロシーベルトは、
年間換算で原発作業員の
年間被ばく線量限度の5倍を超える数値だ。
町は一帯を帰宅時期のめどが立たない
「帰宅困難区域」にする案を国に申請する予定という。
北九州市で暮らして2年-。
今も時々、九州での生活が現実でないように感じることがある。
女性は広報誌を差し出し、記者に言った。
「これ持って帰ってください」。
記者が真意を尋ねると、女性は続けた。
「これがあると、思い出すから。ここでの生活に集中したいから」
=2013/03/01付 西日本新聞朝刊=
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