アルビン・トフラー研究会(勉強会)  

アルビン・トフラー、ハイジ夫妻の
著作物を勉強、講義、討議する会です。

第三の波の政治 006

2011年08月31日 22時27分15秒 | 第三の波の政治

第5章「物質偏重」を添付します。
この第五章も、「パワーシフト」の「第七章 物質尊重!」を改訂して記載しています。
なぜ「尊重!」が「偏重」と改題したか?おもしろいところです。著者の意図しているところは、まさに「物質ばかりを尊重している愚かさが問題だ!」と言う意味で、「偏重」という訳がぴったり当てはまります。
「失業」をテーマとして「新しい仕事」を目指す者にとって、必読の個所となります。
しっかり、読み込んでください。大切な個所です。

この章の中で、「失業の新しい意味」・「頭脳労働領域」・「低度知識対高度知識」・「ロウブラウ(低度知識)のイデオロギー」・「ハイブラウ(高度知識)のイデオロギー」と順序立てて物質偏重の欠落点をまとめて、知識経済への移行(スーパーシンボリック経済)を促しています。これは次に続く「第6章 社会主義と未来との衝突」で明らかになるところですが、第二の波の煙突産業経済が生み出した共産主義思想(科学的社会主義=唯物史観)を根底から止揚(アウフヘーベン)し、金銭経済学(労働=対価)のいい加減さを端的に述べています。

しかし、この論点(労働=対価とする唯物史観)は、2006年に出版される「富の未来」で具体的に論及しますが、すべての社会事象を金銭経済で括りつけて計画経済を破綻させたのが、社会主義国家ではあるが、逆の資本主義社会にあっても、マネタリスト(貨幣信望者)やケインジアン(ケインズ経済学信望者)らが主張し、今も使用しているその理論もまた、経済を破綻させ、多くの失業者を生むことになると述べています。この根本に「物質尊重主義(物質偏重主義)」があるのだとトフラーは、述べているのです。
本章の後段最後で、
『要するに、生産という概念は、ロウブラウ経済における経済学者や観念論者の考え方より、遥かにその範囲をひろげている。そして、今後時代が進むにつれ、生産に取り込まれ、価値を付加するのは安価な労働力ではなく、知識となるし、また原料ではなく、シンボルとなる。
付加価値の源をこう再定義すると、その影響力は大きい。それは自由市場主義とマルクス主義の前提をともに打ち砕き、その両者を生んだ物質偏重主義をも打ち砕く。』
このようにまとめています。まさに2006年の「富の未来」を書く下地がこの時に出来上がったと理解できる個所です。それはさておき、本書で、語句の訂正をしておきます。87ページの「マニタリスト」は、「マネタリスト」に訂正しています。語句説明は、ウィッキペディア等を参照してください。

さて、「知識」の流行と言えば「もしドラ」が有名ですが、またまた柳の下のどじょう本が出版されましたね。題して「ラーメン屋の看板娘が経営コンサルタントと手を組んだら」
㈱繁盛塾代表取締役 木村康宏著 幻冬社新刊1,365円
タイトルは「うまくいく商売の法則がちりばめられた、笑いと感動の物語!
自己流だと、モノは売れない。
-つぶれかけのラーメン店の大将が、健気なひとり娘とドSな妻に叱咤されて、
店舗再生に挑む。頼みの綱は、衝突してばかりの経営コンサルタント!水と油
の二人のバトルは、奇跡を起こすのか?-」
 となっていました。これも「知識」の成せる技ですね。
文字が読めるということは?先の「第三章 究極の代替物」の初めの部分でトフラーが述べたとおりです。
しっかり、読んでいきましょう!

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第5章 物質偏重
ロナルド・レーガンがまだホワイトハウスにいたころのある日、アメリカの長期的未来を討議するため、ホワイトハウスの家族食堂のテーブルの周りに、小さなグループが集まった。グループは八名の有名な未来学者から成り、大統領のほか、副大統領と、新しく首席補佐官に任命されたばかりのドナルド・リーガンがいた。
会合はホワイトハウスの要請により筆者が手はずを整えたもので、技術的・社会的・政治的問題については学者間に多くの異論があるものの、経済全体に質的な変化が起こりつつあることに関しては見解が一致しているとのあいさつで会議ははじまった。
その会議で、首席補佐官のリーガンが、いきなり、「そうすると今後、われわれは床屋とか、ハンバーグを焼いたりするような職業に就くと、君らはみんな考えているのか。この国の偉大な工業力は、もうおしまいというのかね」とがなり立てたため一同が声を失う場面があった。
大統領と副大統領は、受けて立つのは誰かと、席を見回した。テーブルに付いていた男たちのほとんどが、唐突で不躾な発言に唖然としているなかで、リーガンの質問に応じたのは、ハイジ・トフラーだった。「それは違うのです、合衆国の工業力は依然、偉大でありつづけます。ただ工場で働く労働者の数は減るだろうということなのです」と腹立たしさを冷静に抑えて、彼女は答えた。
昔からの工業生産の方法と、マッキントッシュのコンピュータが造られたさいの生産方法の違いを説明しながら、彼女は、農業に従事する人は二パーセントに満たないけれども、合衆国は間違いなく世界最大の食糧生産国の一つである事実を指摘した。実際、過去百年にわたって農業従事者は他部門との比較のうえで減り続けているが、合衆国の農業力は弱くなるどころかかえって強くなっている。工業力についても同じことがいえないはずがない。
驚くべきことに、合衆国の製造工業における1988年の雇用者数は、1968年とほぼ同数の千九百万人強で、その間に何回もの高下はあったものの、結局変わっていない。国民生産に占める製造工業の割合も、三十年前と同じだ。しかし、労働力全体からみると、より少ないパーセンテージの労働者で生産実績のすべてをこなしていることになる。
さらにいえば、この傾向は今後とも変わらないものと思われる。アメリカの人口と労働力は共にふえる勢いだし、多くのアメリカの製造業者は1980年代から90年代にかけてオートメ化と再編を済ませているから、全体からみた工場での雇用の減少はつづかざるをえない。ある推計によると、次の十年間、アメリカでは一日に一万件の新しい職種が創出されると思われるが、工場関係の分は、もしあったとしてもごくわずかだろうという。同じ過程がヨーロッパと日本の経済をも同様に変えつつある。
にもかかわらず、いまにいたってもなお、ドナルド・リーガン風の言葉が、経営不振のアメリカ工業界の社長連、加盟者の減少を抱える組合指導者たち、製造業の重要性を派手に宣伝する経済学者や歴史学者などのあいだから折にふれて、聞こえてくるのである。
こうした言辞の背後には、概して筋肉労働からサービス、頭脳分野の仕事への雇用の移行は、経済に何らかの悪影響を及ぼすし、その結果生じる製造業分野の縮小(雇用の面で)は、経済の空洞化を招くという考えがある。こうした考えは、工業経済を想像することができずに農業こそ唯一の“生産的”活動であるとした十八世紀のフランスの重農主義者の主張を思い起させる。

失業の新しい意味
 製造業の“下降”を嘆く声の多くは第二の波型の利己主義から出たもので、富や生産、失業についての時代おくれの観念に基づいている。
 1960年代以来第二の波型の筋肉労働から第三の波型のサービスの仕事や超象徴的な仕事への移行は広範囲なものとなり、劇的でかつ、あともどりのきかないものとなった。今日のアメリカでは、新分野の仕事は全体の四分の三を占めるにいたっている。これは世界的傾向で、次の驚異的な事実がそれを如実に示している。世界におけるサービスと“知的財産”の輸出量は、電子工学機器と自動車を合わせたものに等しく、あるいは食料と燃料を合わせた輸出量に匹敵する。
 この方面の著者や未来学者はこのような大変化がやってくることを1960年代にすでに予告していたが、この早めに出された警告が無視されたために、この移行は不必要な混乱を引き起こした。
大量解雇や倒産などが経済を見舞ったのである。アメリカ北部・北東部の在来型のさびついた産業は、コンピュータ、ロボット、電子情報システムの導入におくれをとったうえに、組織再編にも手間取ったため、フットワークの軽い企業との競争に完全に負けてしまった。だが、敗者の多くはその責任を外国との競争や、利率や、強すぎる規制など、ありとあらゆるもののせいにした。
 それらのなかのいくつかが影響していたことは否定できない。しかし同様に責められるべきは、自動車、鉄鋼、造船、繊維などアメリカ経済をあまりにも長く支配してきた巨大な煙突型産業の会社群の傲慢さである。近視眼的なそれらの会社の経営陣は、製造工業の立ち遅れにほとんど責任がなく、しかも自らを守ることがいちばん難しい人たち、つまり従業員たちにその罪をおっかぶせてしまった。
 1988年における製造業の雇用総数が1968年と同じレベルだという事実は、その間に解雇された従業員がそのまま元の職場に戻ったことを意味しない。それとは反対に、より第三の波型の先進技術が必要となって、会社はこれまでとまったくちがった能力を有する労働者たちを必要とするようになった。
 第二の波型の古い工場が、基本的に交替可能な従業員を必要としたのに対し、第三の波型の工場での操業は、多様で、しかもつねに向上する技術を必要とする。ということは、つまり、従業員がますます交替不能になるということにほかならない。したがって、この状況は失業問題のすべてを根本から覆す。
 第二の波型の社会、すなわち煙突型産業社会では、資本の投下や消費者の購買力によって経済が刺激され、雇用が増加した。百万人の失業者がいても、経済に呼び水をさせば、理屈のうえでは百万人の雇用を作り出せた。仕事が交替可能、つまり技術をほとんど必要としないものだったので、誰でも一時間以内に要領を修得でき、失業者はすぐにどのような職にもつけたのである。
 だが、今日のスーパー・シンボリック経済のもとではそうはいかない。現在の失業問題が手に負えなくなって、伝統的なケインズ学者もマネタリストも打つ手がなくなっているのは、そのせいなのだ。思い起こせば、大不況対策としてジョン・メイナード・ケインズは、消費者の懐を豊かにするために、政府による赤字支出を要請した。消費者がカネを手にすれば、物を買いに走る。物が売れれば、製造業者は生産を拡大し、もっと人を雇う。そしてそれは“失業よさようなら”ということであった。マネタリストは、その代わりに利率や通貨供給の操作によって、必要な購買力を増減させるよう進言した。
 今日の地球規模の経済下では、消費者のポケットへ入ったカネは、国内経済を助けることなく、そのまま海外へ流出してしまうかもしれない。新しいテレビやコンパクト・ディスク・プレーヤーをアメリカ人が買えば、ドルを日本、韓国、マレーシアなどの国へ送るにとどまってしまう。カネをいくら使っても、自国の雇用に役立つとは限らない。
 しかし、それにも増して古い戦略には、根本的な欠陥がある。知識よりカネの流通になおこだわっている点だ。だが、仕事の口を単に増やすだけでは、もはや失業の減少に繋がらない。問題は仕事の件数ではないからだ。失業は量の問題から質の問題へと移ってしまっているのである。
 失業者自身とその家族が生きていくのには、どうしてもカネが必要であり、彼らにそれなりの公的扶助を与えるのは、当然かつ道義的義務である。しかしスーパー・シンボリック経済において、失業者数を少なくするのに効果的な方法は、富の問題ではなくて、知識の分配の如何にかかっている。
 しかも、新しい仕事は、製造業のような、われわれの頭にすぐ浮かぶ職種ではない。したがって、われわれは人びとに学校教育をさずけ、実習をさせ、人的サービスというのは、例えば、急速に増加しつつある高齢者たちの介護とか、幼児保育とか、さらには健康管理から、個人的なあんぜん、各種の訓練、レジャー、レクリエーション、旅行にいたるまでのサービスのことである。
 また、人的サービスの仕事に対しては“ハンバーグの引っくり返し”などと意地悪い侮辱的な態度をとらず、これまで製造業の技術に払ってきたのと同じ敬意をもたなければならない。教職、デートのサービス機関、病院のレントゲン・センターの業務など広範囲に及ぶ人間活動全部をマクドナルドで引っくくって象徴できるわけがない。
 さらに付言しておくが、しばしば安すぎると批判される、サービス部門の賃金の問題を解決するためには、製造工業関係の仕事の減少を嘆くことではなくて、サービス業の生産性を高めるとともに、新しい型の労働団体と新しい団体交渉の形態を考え出せばよい。基本的に職工や大量生産向きに作られている現在の労働組合は、完全に体質を変えるか、それともスーパーシンボリック経済に見合った新しいスタイルの組織に変えるべきなのだ。組合として生き残るためには自宅勤務体制、自由勤務体制、ジョブ・シェアリングなどに反対せず、逆にこれらを支持することである。
 要するにスーパー・シンボリック経済の出現は、失業問題の全体像を根本から考え直すことをわれわれに強いている。陳腐な思い込みに挑戦することは、同時にそこから利益を得ている連中に挑戦することでもある。第三の波型経済における富創出システムは、このように企業、労働組合、政府のなかで長らく築かれてきた力関係に脅威を与えることになる。

頭脳労働領域 
スーパー・シンボリック経済は失業についてのこれまでの考え方のみならず、労働についての考え方も時代おくれのものにしてしまう。この経済とそれが引き起こす力の争いを理解するには、新しい語彙さえも必要になるだろう。
 “農業”“工業”“サービス”という産業区分は今日では物事を明瞭にするより、むしろ曖昧にする。現代の急速な変化は、かつては歴然としていた区分をぼやけさせた。産業の古い類別に固執する代わりに、レッテルの背後を覗き込み、付加価値を創り出すのに会社のなかでどういうことをしているのか、訊いてみる必要がある。この質問を発しさえすれば、産業三分野のすべてで現代の仕事がシンボリックな工程、すなわち頭脳労働に依存する傾向を強めている事実がわかる。
 農業従事者は穀物飼料の計算にコンピュータを使い、鉄工場の作業者はコンソールやビデオスクリーンをモニターし、投資銀行家は金融市場をモデル化するさい、携帯用パソコンのスイッチを入れる。経済学者がこれらの作業に“農業”とか、“製造業”とか、“サービス業”とか、どんなレッテルを貼ろうとも、それはたいした問題ではない。
 職業上の分類すら、壊れつつある。倉庫係とか、機械運転士とか、販売担当者とか呼んでみたところで、仕事の内容は、はっきりするどころかかえってわからなくなる。したがって今日、労働者を分類する場合には、職種や、店、トラック、工場、病院、オフィスなど、彼らがたまたま働いている場を問題にせず、その仕事を遂行するうえで、どれだけシンボリックな工程、つまり頭脳労働を必要とするかによって区分けするほうがよほど効果的だと思われる。
 “頭脳労働領域”と呼べるもののなかに含まれるのは、リサーチ・サイエンティスト、金融アナリスト、コンピュータ・プログラマー、さらには、一般の書類整理係などである。なぜ書類整理係と科学者が同じグループに入るのか、との質問が出るかもしれない。
答はこうである。
仕事の目的は明らかにちがい、仕事内容の抽象の度合にも大きな隔たりはあるものの、双方とも -そしてこのグループに属する多くの人がそうであるのだが- 情報を駆使するか、あるいは新しい情報を生み出す以外には何もしない。どちらの仕事も完璧にシンボリックなのである。

頭脳労働領域の中ほどに、大きな部分を占める混合的職種がある。筋肉労働を必要とする一方、情報をも操作する仕事だ。フェデラル・エクスプレスやユナイテッド・パーセル・サービスなどのドライバーは、箱や小包を上げ下ろしし、トラックを運転するが、同時に傍らに置いたコンピュータをも操作する。先進工場での機会の操作員は、高度に訓練された情報操作者でもある。ホテルの事務係や、看護士などの職種は、人間を相手にした仕事だが、勤務の相当時間を情報の創出、入手、送り出しにも充てている。
例えば、フォード販売会社の自動車整備士は、いまだに油で汚れた手をして仕事をしているかもしれないが、まもなくヒューレット・パッカード社でデザインされたコンピュータ・システムを使うようになるだろう。このコンピュータには、故障個所の発見を助ける“エキスパート・システム”が組み込まれていて、CD-ROMに内臓されたデータや100MBの図面を瞬間的に引き出せる。このシステムは修理中の車について、より多くのデータを求めたうえで、整備士が技術的要素がいっぱいつまった情報のなかから直感的に検索するのを許し、また自らも推理する。そのようにして、整備士を修理個所へと導いていくのである。
整備士がこのシステムと情報を交換し合っているとき、果たして彼は“メカニック”だろうか、それとも“頭脳労働者”だろうか。
頭脳労働領域の底辺に位置する純然たる肉体労働は、いまや姿を消しつつある。経済のなかで肉体労働がわずかになった現在、“プロレタリアート”は少数派となり、代わりに“意識労働者階級(コグニタリアート)”が多数を占めるようになった。より正確にいえば、スーパー・シンボリック経済が花開くにつれ、プロレタリアートはコグニタリアートに変身するのである。
今日の仕事に関する重要なポイントは、どれだけ情報を取り入れた仕事か、どれだけプログラム化できるか、どの程度の抽象性が含まれているか、中央のデータバンクと経営情報システムにどれだけタッチできるか、どれだけ自分の判断と責任で仕事を進められるか、ということなのだ。

低度知識(ロウブラウ)対高度知識(ハイブラウ)
 このような大規模な変化は、力の争いを引き起こすことになるが、頭脳労働領域という基準で会社を考えれば、その争いでどの会社が勝ち、どの会社が負けるかが容易に予測できるだろう。
 会社を分類するさい、製造業、サービス業といった各目的なちがいにとらわれず、従業員が実際に何をしているかを基準にする必要がある。
 例えばCSXという会社はアメリカ合衆国の東半分に鉄道網をもっているが、同時に世界最大級の大洋運航のコンテナ船事業も経営している。しかし、CSX社は自分たちの事業が情報ビジネスであると、次第に考えるようになってきている。
 CSX社のアレックス・マンドルは「われわれのサービス事業における情報的要素はどんどん大きくなっている。商品を運搬するだけでは、もう不十分だ。お客は情報を欲しがる。商品はどこで集め、どこで降ろすのか、毎日の何時にどこへその商品を運ぶのか、料金は、関税はどうなっているか、などなど。情報なしでは動かぬ事業である」と言っている。ということはCSX社の従業員中に、頭脳労働領域の中位から上位にかけての仕事をする人間がふえつつあることを意味する。
 このことから考えると、どれだけ知識に頼ることが多いかによって、企業を“高度知識”“中度知識”および“低度知識”の三つに大まかに分けることができよう。ある会社、ある産業は他に比べて富を創出するのに、より多い情報をその工程上に必要とする。となれば個人的職種と同じように、会社もまた必要とする頭脳労働の量と複雑度によって、頭脳労働領域のある一定の線上に位置づけることができる。
 ロウブラウの会社は、一般に頭脳労働をトップと少人数だけに集中させ、ほかのもの全員を筋肉労働や頭を使わない仕事に就かせる。労働者は無知であり、労働者の知識はあくまで生産には無関係だという考えが経営上の前後になっているのである。
 ハイブラウ部門でも今日、「単純作業化」の例がみられる。つまり仕事を簡略化し、できるかぎり細分化し、さらに一工程ごとに製品のでき具合をモニターするのである。しかし二十世紀の初頭、工場で利用するためにフレデリック・テイラーが考案した方法を、いま適用しようという試みは、ロウブラウの過去の波であって、ハイブラウの将来に資するものではない。反復的かつ簡単で、頭を使わずに遂行できる仕事は、すべてロボット化される運命にある。
 経済が第三の波型生産に移行するにつれ、すべての会社は知識が果たす役割の再考を迫られていく。ハイブラウ分野でもっとも賢い企業は、真っ先に知識が果たす役割を再考する会社であり、仕事そのものを再編成する会社である。そういった会社は、頭を使わない仕事を最小限に圧縮し、先進技術に切り替えれば、従業員の潜在能力が最大限に生かされ、生産性と利潤率は飛躍的に増大するという前提に立って経営する。高賃金で、しかもより少ない人数の、より賢い労働力の獲得を目指しているのである。
 仕事上、なお筋肉を使う必要のあるミドルブラウの経営でさえ、知識への依存度をますます高め、頭脳労働領域の占める地位を上昇させつつある。
 ハイブラウな会社は通常慈善的な法人ではない。そこでの仕事は一般的にロウブラウな操業と比べ肉体的につらくなく、環境も申し分ないほうだが、そうした会社は、概して、ロウブラウな会社よりも従業員から多くのものを引き出そうとする。従業員は合理的な考え方をするようにしむけられるだけでなく、自分の感情、直感、想像力をも仕事に注ぎ込むよう勧められる。このためマルクス主義の批評家は、この点を取り上げて、労働者に対する、より邪悪な“搾取”だというのである。

ロウブラウのイデオロギー 
 ロウブラウの工業経済では、通常、富が財貨の所有によって測られる。財貨の生産が経済の中心だと考えられているからだ。一方、シンボリックでサービス的な活動は、必要ではあるものの、非生産的なものと見なされる。
 自動車、ラジオ、トラクター、テレビなどの商品の製造は“男性的”な活動と見られ、実際的、現実的、あるいは手堅いといった言葉が付いて回る。対照的に知識の生産、あるいは生産情報の交換は単なる“書類いじり”と軽んじられる。
 こうした態度から、次のような見方が次々と生まれてくる。例えば -“生産”というのは、物質的原料と機械と労働の結晶である・・・会社のもっとも重要な財産は、形のあるものである・・・一国の富は商品貿易の黒字から生まれる・・・サービス業は商品取引きを助長したときのみ意義をもつ・・・大部分の教育は、それが職業専門的でない限り、無駄である・・・調査研究は実体のない、浮ついたものである。何が大切かといえば、結局それは物なのである。
 こうした考えは資本主義社会の低俗な実業家だけがもっているわけではない。共産世界でも似たような現象が見られる。マルクス経済学者にとって、彼らの枠組みのなかへハイブラウな仕事を嵌め込むことは、なかなかむずかしい。芸術における“社会主義リアリズム”というと、大きな歯車、並び立つ煙突、蒸気機関車といった背景にシュワルツェネッガー的筋肉を盛り上がらせた、多数の幸福な労働者が描かれている。こうしたものがプロレタリアートの栄光であるといい、それがまた前進的な変化の先駆けをするのだという理論は、いずれもロウブラウ経済の原理を反映したものである。
 以上述べたような考えが合体した結果できたのは、個々ばらばらな意見やら仮説やら感情的な傾向やらを寄せ集めた、単なる混合物ではなかった。一つのイデオロギーが形成されたのである。そして、このイデオロギーは、男性的物質主義とでもいうべきもの -がさつで、鼻柱の強い「物質偏重主義」- を土台とし、自己を強化し正当化していったのだった。つまり事実上、第二の波の大量生産のイデオロギーとなっていたのは、「物質偏重主義」だったといえるのである。
 昔であれば、物質偏重主義も意味をもちえたかもしれない。だが、いまは、大部分の製品の真の価値が、製品のなかに嵌め込まれた知識によりもたらされる時代である。そのような時代においては、物質偏重主義は反動的で、かつ愚鈍なものでしかない。物質偏重主義に基づく政策を追求するかぎり、いかなる国家も、二十一世紀には最貧国にならざるをえないのだ。
 
ハイブラウのイデオロギー
 第三の波型の経済に重大な関心と利害をもつ諸企業、諸機関、そして人びとは物を偏重する考えに対抗する首尾一貫した理論的基礎を、まだ形づくっていない。しかし基盤となる考えのいくつかは、形を整えつつある。
 新しい経済学の最初の断片的な基礎は、次のような人びとの、いまだ世間に認められていない著述のなかに垣間見ることができる。故ユージン・ローブルは、十一年間を共産主義国チェコスロバキアの牢獄で過ごすあいだに、マルクス経済学と西側の経済学の双方の仮説を深くかんがえなおしてみた。香港のヘンリー・K・H・ウーは、“富のいまだ見えざる局面”を分析した。ジュネーブのオリオ・ギアリエは将来のサービス業についての分析で、リスクと不確定性原理の概念を導入した。アメリカのウォールター・ワイスコフは経済発展における非平衡条件の役割について書いた。
 今日の科学者は、システムが乱気流のなかでどう動くか、秩序が混沌状態のなかからどう進化するか、発展中のシステムが多様性のある高度のレベルへとどう飛躍するのか、問い続けている。ビジネスや経済にとってこのような問いかけは、まことに的を得たものである。経営管理学の本でも“混沌のうえに築かれる繁栄”について述べている。“創造的破壊”こそ進歩にとって不可欠といったジョセフ・シュムペーターを、経済学者たちは見直しつつある。乗っ取り、企業分割、再編成、倒産、操業開始、ジョイントベンチャー、内的再編成といった嵐のなかで、経済全体は新しい構造をもちつつあり、その構造は古い煙突型経済とは異なり、あっというまに多様化し、急速な変化を遂げ、より複雑化していく。
 多様性の高度なレベルへのこの“飛躍”と、そのスピード、複雑性は同時に、これに対応する、高度で、より洗練されたかたちでの統合を必要とする。ということは、一段と高いレベルでの知識による処理が要求されてくる。
 十七世紀にルネ・デカルトが書いたことに従い、産業主義の文化は問題や過程をより小さな構成分子へと限りなく分解できた人に報酬をあたえてきた。この分解的、分析的なアプローチが経済学に持ち込まれた結果、コマ切れ段階をひとつづきとしたものが生産だという考え方が生まれるのである。
 スーパー・シンボリック経済から生じる生産の新しいモデルは、これとは劇的に異なる。全体的、または統合的な見地に基づき、生産は同時的、合成的なものとする見方がますます強くなる。過程の各部分は完結的でなく、互いに切り離すこともできない。
 “生産”というのは、工場にはじまり工場に終わるものではないことが、あらためて理解されつつある。経済的生産の最新モデルは、かくてそのプロセスを上流と下流の双方へ伸ばしている。 -製品が売れた後までも、その製品に対してのアフターケア、ないしは“サポート”に責任をもつ。自動車を売ったときは修理に関して責任をもち、コンピュータを買った人には後々までサポートをつづけるといった具合である。それほど遠くない将来に、生産という概念は製品を使用したのちの環境的安全廃棄問題までも含むことになるだろう。各企業は、使用したのちの浄化方法までをとりしきり、また部品のデザインを変えたり、コスト計算や製造法を再考したりなどして、準備しなければならなだろう。そうしながら、製造部門よりサービス部門により多く気をくばり、製品価値を増やすことになる。“生産”はこうした機能をすべて含むことになるはずである。
 同様に、そのような生産の定義が後方部門へ延長されれば、従業員の研修、幼児保育への配慮、その他のサービスといった機能も含まれてくる。不遇をかこつ筋肉労働者も“生産的”に変えられねばならない。高度にシンボリックな活動においては、心地よく働く労働者はより多く生産する。したがって、生産性の問題は、従業員が会社へくる前からはじまる。昔気質の人には、このような生産の定義の拡張は、わけのわからぬばかげたものに映るだろう。しかし、生産を孤立した段階とみずに、全体としてシステマティックに考えることに慣れた新しい世代のスーパー・シンボリック型指導者にとって、それはまったく自然なことである。
 要するに、生産という概念は、ロウブラウ経済における経済学者や観念論者の考え方より、遥かにその範囲をひろげている。そして、今後時代が進むにつれ、生産に取り込まれ、価値を付加するのは安価な労働力ではなく、知識となるし、また原料ではなく、シンボルとなる。
 付加価値の源をこう再定義すると、その影響力は大きい。それは自由市場主義とマルクス主義の前提をともに打ち砕き、その両者を生んだ物質偏重主義をも打ち砕く。かくして、物質偏重主義に根ざす二つの思想、すなわち、価値は労働者の背の汗からだけ生まれるという考えと、価値は輝かしい資本主義的企業家によって生み出されるという考えは、ともに、政治的にも経済的にも誤りで人を迷わせるものだとうことが明らかになるのである。
 新しい経済のもとでは、受付係、資本を集める投資銀行家、キーパンチャー、セールスマン、システム・デザイナー、通信専門家といったすべての人が価値を加える役割を担う。さらに重要なのは消費者もそうであることだ。価値はプロセスのなかの切り離された単一の段階がもたらす果実ではなく、全体の努力から生まれる果実となる。
 高まりつつある頭脳労働の重要性は、たとえ製造業の土台が消えていったあとに起こる恐ろしい結果について警告したり、あるいは“情報経済”の考えを嘲けったりするような、幾多の恐怖物語が出版されようとも、消え去るものではない。富がいかにして創出されるか、という新しい考えも同様である。
 なぜならわれわれの目前で起こりつつあるのは強大な第三の波の諸変化の収斂 -資本とマネーの質的変革を伴って到来する、生産の質的変革- だからである。三者は一体となって、この地球上に革命的な富創出の新しいシステムを作り上げていく。








第三の波の政治 005

2011年08月16日 22時21分01秒 | 第三の波の政治

第4章「富の創出法」を添付します。

この部分は、2006年に発刊する「富の未来」に繋がる「第三の波」の要点(10の特質)整理のように読めます。『①生産要素~②無形価値~③非マス化~④労働~⑤革新~⑥規模~⑦組織~⑧システム統合~⑨インフラストラクチャ~⑩加速化』の特質を読み込む時、前著のパワーシフトで『①暴力~②金銭~③知識』の三段階の富を連想し、非競合財である「知識」こそが「最高の富」となり、基礎的条件の深部に非金銭経済が、時間と空間が拡大・拡張していくなかで、加速度的に、知識は死知識となり、価値を失うと言った展開になります。講談社の「富の未来」は上下巻で3,800円と高いですが、買ってください。公立図書館や大学図書館で購入希望を入れるなりして、読了されることを薦めます。これを読み込んでから、ネットの「40 FOR THE NEXT 40」をグーグルで翻訳して読むのであれば、理解可能だと思いますが、いきなりトフラーアソシエイツのホームページから要点案内をPDFで読んでも、チンプンカンプンだと思います。

和英翻訳のソフトよりも、昔の徳山二郎氏の名訳が最高ですね。2000年にアメリカで亡くなられ、2006年の「富の未来」では、山岡洋一氏が名訳をしてらっしゃいます。600頁を超える翻訳書で大変な尽力に敬意を表します。

ブログの読者の皆さんへ一言。わたしは本書を丸写しにはしていません。罠をしかけています。理由は著作権の侵害にあたる行為になるからです。本当に著者(トフラー)の真意と核心部分に迫りたい方は、著書を購入してください。このブログでは回答を教えません。いいところまでは、引導しますが、その先は自らが読み込む努力をしなければ、先に進まないということです。
 実習や講習会でも、質問されなければ答えませんでした。どうしてか?知ろうとする姿勢、努力と実践が最も著者(トフラー)が望むところだからです。受身の学習は、怠惰な国営企業に似て、また死知識(オブソレージ)となって未来には進みません。この講義は『未来学』なんです。

 このブログに掲載されている添付内容が、著書『第三の波の政治』から引用したものなのか、それとも、『第三の波』から引用したものなのか、はたまた『パワーシフト』または『生産消費者の時代』から、『戦争と平和』・『富の未来』・『未来の衝撃』からなのかは、読者が自ら本を購入するなり、図書館で貸出を受けて、読んで判断するしかありません。
断っておきますが、添付内容は、すべてトフラーの言説を徳山二郎氏や山岡洋一氏が訳された個所であり、勝手に継ぎ接ぎしたり、論点を混乱させて掲載している訳ではないことを明言しておきます。
 
 頭を強く、地頭力を高めて、読み込んでいきましょう。

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第4章 富の創出法
1956年、ソ連の実力者フルシチョフは、「わが国は西側を葬り去るであろう」と誇らしげに語った。要するに彼が言いたかったのは、共産主義経済が資本主義経済を凌駕する日がやがてくる、ということだった。この有名な大言壮語は、軍事的威嚇とも受け取れたため、世界中で大きな反響を巻き起こした。
しかし、当時は、西側の富の創出法に革命的な変化が生じ、それにより世界の軍事的なバランスと戦争そのものの性質が大きく変わっていく、などと予測する人はほとんどいなかった。
フルシチョフも -大方のアメリカ人も-、1956年が特別な意味をもつ年であることに気づいていなかった。1956年は、アメリカにおいて、ホワイトカーラーとサービス業従業員の数が、工場労働者であるブルーカラーの数をはじめて上回った年でもあったのだ。この現象は、第二の波の煙突型経済の衰退と第三の波の経済の誕生を、いち早く暗示していた。
それ以来、ただならぬ変化が生じてきたわけだが、それらの変化の何たるかを理解し、さらに今後起こるであろう、より激しい変化を見通すには、生まれたての第三の波の経済の主要な特徴に目を向ける必要がある。したがって、先に述べたことと多少重複するが、この章では、企業の収益や世界規模での競争に関わる問題のみならず、二十一世紀の政治経済全般を捉えるための鍵となる要素を取り上げることにする。

1 生産要素
第二の波の経済にあっては、土地、労働、原料、および資本が主要な生産要素だったのに対し、第三の波の経済の主要な資源は、知識 -データ、情報、イメージ、記号、文化、イデオロギー、価値観などを含む広義な知識- である。
すでに述べたように、富を創出するにあたり、適切なデータと知識・情報を用いれば、これまで使われてきた、他のすべての投入物を減らすことが可能になる。しかし現段階では、知識を「究極の代替物」とする発想が広く理解されているとはいいがたい。ところで、経済学者や会計士のほとんどがこの考えに戸惑い、拒否反応を示しているのは、数量化が難しいからなのだ。
第三の波の経済の革命性は、生産要素がほぼ無尽蔵だという点である。第二の波の経済では土地、労働、原料はもちろん、おそらく資本さえもが有限だったが、第三の波の経済の知識には限りがない。溶鉱炉やアセンブリー・ラインとは違い、知識なら、複数の企業が同時に利用することも可能になる。しかも、企業は知識を活用することにより、さらに豊富な知識を生み出す。したがって、限りのある資源を前提にした第二の波の経済理論は、第三の波の経済には適用できないのである。

2 無形価値
 第二の波の経済の価値は、建物、機械、在庫などのハードの面から計算されたのに対し、第三の波の企業実績は、企業戦略に沿って、いかに知識を獲得・生産・分配し、それをどのように運用するかにかかってくる。
 例えば、コンパックとかコダック、あるいは日立やシーメンなどの各企業の実価を決定するのは、それぞれの社がもっているトラックとかアッセンブリー・ラインなどをはじめとする物的資産ではなく、社員の頭とデータバンクにあるアイデア、洞察力、および情報と、各社が保有している特許なのである。このように、いまでは、資本自体が無形資産を基盤とする傾向が強まっている。

3 非マス化
 第三の波の企業は、情報集約型の、そして多くはロボットを使用した製造システムを備えつけることにより、きわめて多彩なバリエーションをもつ製品を生産すると同時に、注文生産にさえ応じられるようになる。一方、第二の波の経済を象徴していた大量生産は、それに伴い、ますます廃れていく。つまり、この革命的変化は、大量生産を非マス化していくのである。
 柔軟性のある高性能技術への移行は、製品の多様化を促し、消費者の選択の幅を広げる。例えば、ウォルマート(訳注・アメリカのチェーン量販店)は、タイプ、大きさ、型、それに色などが選択できる、ほぼ十一万種の商品を用意している。
 それでも、ウォルマートは大量小売機構の一つにすぎない。買い手のニーズが分散するなかで、企業が、よりよい情報を入手することによりミクロマーケットをみつけだし、そこに商品を供給できるようになるにつれ、大量市場そのものが、さまざまな隙間市場へと分解していく。生産者は、専門店やブティックをはじめ、大型スーパー、テレビのホームショッピング・システム、コンピュータベースの購買システム、さらにはダイレクトメール等のシステムにより細分化されていく流通ルートを通じて、さらに非マス化する市場の顧客に自社の製品を供給することになるのである。想像力豊かなマーケッティング担当者たちが「市場の細分化」について語りはじえめたのは、私たちが『未来の衝撃』を書いていた1960年代の終わりだったが、今日彼らの目は、もはや「細分化」などには向けられていない。彼らがいま注目しているのは、独身生活者までをも含めた世帯を単位とする「粒子化」された市場なのだ。
 そんななかで、宣伝も、細分化しつつある市場をターゲットにせざるをえなくなる。そしてそのさい、宣伝を流すのは、これまた多様化しつつあるメディアの役となる。デンバーのテレコミュニケーションズ社が光ファイバー・ネットワーク -視聴者に、五百の対話式テレビジョンチャンネルを供給することができる- の実用化を発表した時点で、ABC、CBS,NBCなど、かつての大テレビ局は危機に立たされた。これは、大視聴者集団が急激に分解していく可能性を強く示唆する出来事だったが、こうして細分化されていくメディアを利用すれば、売り手は、よりいっそう正確に買い手に照準を合わせることができるようになる。生産、流通、および通信の各部門で同時に起きている非マス化は、経済を大きく変え、均一性から極度の不均一性へと移行させるのである。

4.労働
 労働は、それ自体が変質する。第二の波を動かしてきたのは、低技術で、本質的に交換可能な筋肉労働であり、そうした一定の反復作業に向く労働者を育ててきたのが工場型の大衆教育だった。しかるに、第三の波をささえるのは、技術の必要性の急激な高まりに伴い増加していく、交換不能な労働なのである。
 筋力は本質的に代替可能である。したがって、低技術者が退職したり、解雇されたりしても、ただちに、しかもほとんど経費をかけずに、代役を充当することができる。それに比して、第三の波の経済では、必要とされる専門技術の水準が上昇しつづけるため、適切な技術を有する適切な人材を見つけることは難しく、経費もかかる。
 巨大な軍需産業に勤めていた守衛が解雇されても、その人物は、他の多くの失業者との競争をくぐり抜けさえすれば、学校とか保険会社の守衛として再び働くこともできる。ところが、長年、衛星の製造に携わってきた、エレクトロニクス関係の技師が、環境工学関係の会社が必要とする技術をもっているとはかぎらないし、婦人科医には脳外科の手術はできない。技術の専門化と要件の急速な変化が、労働の互換性を失わせるのである。
 経済が進歩すれば、「直接」労働と「間接」労働の割合もそれだけ変化する。従来の意味からすれば、直接労働者、すなわち「生産」労働者とは、実際に製品を作る、作業現場の人びとのことである。付加価値を生み出すにも彼らだとすれば、ほかの者は皆、「非生産的」で「間接的」な貢献しかしていないことことになる。
 しかし今日、このような区別は意味を失いつつある。というのも、工場現場においてすら、ホワイトカラーならびに技術・専門分野の労働者に対する生産労働者の割合が減少しているからだ。「間接」労働者が生み出す価値のほうが、「直接」労働者の生み出す価値よりも大きいとはいえないまでも、両者は少なくとも同程度にはなっているのである。

5.革新
 日本とヨーロッパの経済が第二次世界大戦の痛手から回復した結果、アメリカの企業は厳しい競争にさらされることになった。競争力を高めるには、製品に関する新しい発想をはじめ、技術、生産過程、マーケッティング、資金調達など、あらゆる領域での絶えざる革新が必要になる。アメリカのスーパーマーケットには、毎月、約一千種ほどの新製品が入荷する。586型コンピュータ用の新しいチップの開発は、486型コンピュータが386型コンピュータに取って代わる前に、すでにはじめられていた。そんな具合だから、活力のある企業は、労働者自身がイニシアティブをとり、新たなアイデアの開発を目指すことを奨励し、必要とあらば「規則書を捨てる」ことさえ薦める。

6.規模
 作業単位は縮小し、操業規模も、多くの製品同様、小型化している。ほぼ同質の筋肉労働に従事してきた、膨大な数にのぼる労働者に代わり、小規模に分化した作業チームが設けられるようになった。大企業は縮小し、小企業がふえていく。三十七万人もの従業員を抱えるIBM社は、世界中の小規模メーカーに押され、衰弱しつつある。同社が生き残るためには、多くの労働者を解雇し、会社そのものを十三の異なる -そして、他社よりもさらに小規模な- 事業体に分割せざるをえない。
 第三の波のシステムのなかでは、規模の利よりも、複雑さのために嵩む経費のほうが大きくなる場合が多い。事業が複雑であればあるほど、右手と左手の連動がうまくいかなくなるのだ。事態を見過ごせば、問題が多発し、見込んでいた規模の利など、すべて消し飛んでしまう。大きいにこしたことはない、という従来の発想は、いよいよ時代おくれになっていくのである。

7.組織
 急速な変化に対応すべく、企業は、官僚主義的な第二の波の組織の解体を急いでいる。産業主義時代の企業組織は、ほぼ共通して、巨大なピラミッド型をなす、一枚岩的で、官僚体制的な形態をしていた。しかし今日、企業は、急速な変化を求める市場・技術・消費者からさまざまな圧力を受けるに至り、もはや官僚主義的な画一性を維持することができなくなってきた。そこで、まったく新しい形態の組織を模索する努力が開始されたのである。例えば、いま経営者のあいだで盛んに使われている「リエンジニアリング」という言葉は、市場や新型製品の開発よりも、むしろ生産過程をめぐる企業リストラを意味している。
 これからは、比較的標準化されていた組織に代わり、マトリックス組織や「臨時」プロジェクトチーム、それに利益責任単位(プロフィット・センター)などが設けられていると同時に、多様な戦略的提携、つまりジョイントベンチャーやコンソーシアム -これらの多くは、国境を越えて組織される- が盛んになる。また、市場が絶えず変化するため、柔軟性と機動性がますます重要になり、全市場に製品を出す意味合いは薄れていく。

8.システムの統合 
 経済が複雑になればなるほど、より高度な統合と管理が求められる。きわめて典型的な例を挙げれば、食品会社であるナビスコ社は、日に五百件の注文に応じるために、文字どおり何十万もの異なる製品を、四十九の工場と十三の配送センターから発送する。しかも同時に、顧客とのあいだで結ばれた三万件に上る販売促進契約も考慮しなければならない。このように複雑化したシステムを管理するには、新たな形の指導体制と非常に高い水準での組織統合が必要になる。加えて、組織を統合していくためには、組織全体にますます多くの情報を流す必要が出てくる。

9.インフラストラクチャー
 現在、あらゆることを統合するために -つまり、部品をはじめとする構成材と製品の流れをすべて追い、納入を一定の速度で行い、技術者とマーケティング担当者が互いの計画に関する情報を絶えず入手できるようにし、研究開発に携わる人びとに対しては製造側のニーズに目を向けるように強く注意を促し、なかんずく、経営陣が現状を総合的に把握できるようにするために- 、何十億ドルもの資金を投入し、コンピュータやデータベースなどの情報技術を統合した電子ネットワーク作りが進められている。
 この広大な電子情報組織 -衛星を使用する場合が多い- は、すべての企業を網の目のように結び付けるだけでなく、そうすることによりメーカーと顧客とを結ぶコンピュータ・ネットワークをも生み出す傾向にある。加えて、ネットワークをつなぐネットワークさえ考えられている。日本は、向こう二十五年をかけて、迅速に機能する高度なネットワークを開発すべく二千五百億ドルの資金調達を目指している。また、アメリカ政府も現在、賛否両論渦巻くなかで、「情報スーパーハイウェー」計画の実現に向け攻勢をかけている。私たちがこの計画とその意味をどのように解釈しようが、電子の流れにより、第三の波の経済に不可欠なインフラストラクチャーが築き上げられようとしていることだけは確かなのである。
  
10.加速化
 以上のような変化は、すべて、操業・取引きのペースを速める。経済においては、スピードが規模に取って代わる。競争が激化し、高スピードが求められるようになったため、いまでは、「時は金なり」という昔ながらの原則も時代に合わせて、「時は刻一刻と価値を増す」という意味に変わりつつある。
 「ジャストインタイム」納入方法にみられるように、時間の変域が重大な要素となり、DIPすなわち「生産過程での予測決定」方式は廃れていく。逐次的に段階を迫って進められる、緩慢な計画・管理法に代わり、「同時的計画・管理」が行われるようになる。要するに、企業は、「時間ベース」の競争を展開するのである。メリルリンチ社の重役の一人デュウェイン・ピーターソンは、この目まぐるしさを、「貨幣は光の速度で動き、情報はさらに速く流れる」という言葉で表現している。このように、加速化により、第三の波のビジネスは、よりいっそうリアルタイムに近づいていく。

           *          *          *

 数ある第三の波の特徴のなかから取り出した、以上十の特質が総合されることにより、富の創出法に画期的な変化が生じる。いまだ不完全とはいえ、米・日・欧がともに、この新たなシステムへと向かっているという事実からしても、産業革命が各地に工場を広めて以来最大の、世界経済上の変動が起こりつつあるのを窺い知ることができる。
 この歴史的変動は、1970年代の初期から中期にかけてスピードを増し、90年代に入るころには、かなりのところまで進んでいた。ただし残念なことに、その間、アメリカの経済思想の多くは、そのスピードについていけずにいたのである。




第三の波の政治 004

2011年08月12日 00時31分45秒 | 第三の波の政治
第3章「究極の代替物」を添付します。
これは、「パワーシフト」(1991年10月刊)“第二部第八章 究極の代替物”から引用し、簡略化してまとめたものです。
この第二部は「超象徴経済(スーパーシンボリック・エコノミー)における日常」との名言から始まるパワーシフトの根幹を成すテーマです。TIさんが前回教えてくれたイリイチのシンボル分析に類似する内容になります。いわく『シンボル操作によって問題点を発見し、解決し或いは媒介する現実をいったん抽象化イメージに単純化し、それを組み替え、巧みに表現、実現、実験を繰り返し、他分野の専門家と意見交換したりして、最後にはそれを現実に変換する。』、という手法が考えられる通りですが、これに時間軸を投影することはむずかしく、急速に迫る第三の波(情報空間)に迅速に対応できる理論に成り得るかが、ポイントになります。トフラーは、イリイチの思想をよく読みこんでいたのではないかと思われます。
知識基盤に生じている大騒動、これが超象徴経済(スーパーシンボリック・エコノミー)であり、眼前に迫ってわれわれを飲み込んでいるとトフラーは述べています。頭を強くして読み込みましょう。時間軸を間違えるとシンボリックアナリストも弁護士も単なる名称となり、役立たずの過去の職となってしまいます。弁護士は、昔は名誉有る職業でしたが、今はサラ金屋に取り立てをする職業と化してしまいましたね。広告宣伝は、第三の波のツールですが、弁護士が取り立て宣伝を永久に続けていけるのでしょうか?これが、シンボリックかと。さて、脳内トレーニングばかりでは疲れてしまうので、怪談話でもしましょうか?

これは実話です。 題して『職員室の小窓』。あまり怖い話ではありません。

学校の怪談『職員室の小窓』
小学校の教職員の中でも一番忙しいのは、教頭先生と教務主任の先生。校長先生になると、一息つけるが、人事労務や、地域での行事、PTAへの顔出しなど多忙である。学校開放図書館や、夜間・休日の体育館開放などで、教頭先生と教務主任の先生は、朝は7:00前から、夜は体育館の学校開放終了の午後9:00まで校内を見回り、施錠するのが仕事の一部になっている。
 
 夜の仕事

  冬のある日、体育館の開放は無かったものの、年末の雑務に追われて、校長先生、教頭先生、そして教務主任の男性教諭三人は、職員室で仕事をしていた。
夜9:00過ぎ、校長先生の携帯電話が鳴り、遅くまで仕事をしている父親を心配して息子さんが自家用車で、学校まで迎えに来てくれるらしい。
『校長先生、お父さん思いの息子さんですね、うらやましい』と教頭先生。
『まあ、こんなに雪が積もるなんて思わなかったから、歩いて帰るわけにもいかないですね』と笑いながら、校長先生が答える。
『校長先生、後はわれわれが書類整理しておきますから、息子さんが来られたら、そうそうに
お帰りになってください。わたしたちは自家用車で来ていますから大丈夫です』と教務主任の先生。
そんな雑談をしているときに、職員玄関のインターホンが鳴り、『こんばんは、○○です。父を迎えにきました』。電動ロックを解除して、スリッパばきの息子さんが、建物二階に上って来る足音がする。職員室のドアの小窓から顔を見せてガラッと引き戸を開き『こんばんは、○○です。いつも父がお世話になっています。迎えにきました、』とていねいにお辞儀をされて入ってきた。
『こんばんは、こんな遅くにご苦労様です。さっ、校長先生、お支度を』と教務主任の先生。
 『ありがとう、こんな遅くに。では、帰ろうか。教頭先生、○○先生、お先に失礼いたします。』
校長室に外套と取りにいった校長先生は、職員室に戻り、おじぎをして息子さんと共に帰宅していった。

早朝の校長室

次の日の朝、一番早く学校に到着し、玄関前の雪かきをして職員室に入っていた教頭先生のところに、校長先生が慌てて登校された。
『○○教頭先生、おはよう。ちょっと、校長室に来てくれないか?』
『はい、どうしました。校長先生、こんなに早く。何か学校行事で急用がありましたか?』
『いや、学校行事どころではないんだ、いいから校長室に入って、そのドアを閉めてくれないか』
『はい、わかりました』
校長は震えてソファーに腰掛けた。教頭は、なんなのか戸惑いながら、横のソファーに腰掛けて話しを伺うことにした。
 『教頭先生、昨日、息子が迎えに来ただろう。息子が見たんだよ。』
 『見たって、何を見たんですか?』
 『職員室のドアの小窓から、職員室の中を覗いたときに、パソコンが置いてある席で、女の先生
が一生懸命仕事をしていたんだと。帰りの車の中で、息子が言うんだよ、お父さん、みんな仕
事が忙しいのはわかるけど、夜遅くまで女の先生まで手伝わしていちゃ駄目だよってね。』
 『校長先生、昨日の夜は、わたしと校長先生と教務主任の○○先生だけでしたよ』
 『そうだ。そのとおり、女の先生なんて職員室には絶対に居ない。でもな、パソコンが置いてあ
る席は、もともと、或る先生の席だったんだ。わたしに記憶があるんだ。』

昔の思い出
『君も知っての通り、昨年まで私は、この学校の教頭だった。もうこの学校に来て、4年になる。実は、4年前、この学校の教頭として赴任した年の暮れだったかな。ちょうど今のように外は雪景色で、寒くて忙しい時だった。
 あの席には、生真面目で生徒思いの女性の先生が居られて、毎日毎日、子供のためにそれは、それは一生懸命に授業の準備をされていて、わたしも頭が下がる思いだった。ところが、数日して亡くなられてね。元々体が弱かったのか、無理をされていたのだろうか。その先生が座っていた席なんだよ。』
『校長先生、ようするにお化けですか?』
『そうだな。息子が見たのは、その先生のように思えるんだよ。』
・・・・・・・それ以来、職員室の小窓は、擦りガラスに差し替えられたそうです。(おしまい)

認識すべき存在と関わり合い

トフラーの現行経済学へのアンチテーゼでいえば、我々が当たり前のように思っている目に見
える金銭経済の底辺には、さらに巨大な認識されていない非金銭経済が存在している。イリイチ
の言う認識していない巨大なシャドウ・ワークの上に、金銭を得ることが出来ているわずかな経
済が存在しているのだ。金持ちがすべてではなく、関わり合いがすべてであることを忘れている。
 
同様に、われわれは眼に見える物体、生き物を認識していても、見えない物体、残存する魂を
認識せず、あるときには無視して、その領域を侵している。トフラーの言を借りれば、生きてい
て存在している我々の底辺には、目には見えない巨大な何かが存在していて、様々に関わり合い
ながら、同時平行に未来へと突き進んでいる。目に見えないだけで、これを否定し、からかって
はいけない。畏怖心なき行為は、必ず罰を受けるのだとは、霊媒師の言。佐治晴夫さん流にいえ
ば、すべてを生成する暗黒物質でしょうかね。
 
 お盆前なんで一言。墓参りに行ける時間と余裕があるのなら、この時期に故郷へ出かけてみる
のも、リフレッシュになります。草刈をするとか、墓石をきれいにするくらいは必要なことではないですか。みんな、せんの風になって、どこかへ飛んでいってしまったわけではないんです。故人を思い、線香の一本でも上げて手を合わせることも必要だと思いませんか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第3章 究極の代替物
《パワーシフト第八章 究極の代替物P.133~143》 
本書の読者は、読解力という驚くべき技を持っている。おしなべて我々の祖先が非識字者だった事実に思いいたると、ときどき奇妙な感じがする。頭が悪いとか、無知だったとかではなく、文字が読めなかったということは、当時としては仕方ないことだった。
われわれの祖先の大部分は非識字者だったというだけでなく、簡単な足し算、引き算さえできなかったのだ。そして、それが出来る少数の人びとは、かえって危険な人物と見なされた。アウグスチヌスが出したとされる信じ難い警告は、キリスト教徒は足し算や引き算ができる人物に近づくべきでない、というものだった。計算能力は、「悪魔との契約」を裏付けるものと考えられていたのである。
商業を志す学生を収支決算のできる教師が教育しはじめたのは、それから千年経ったのちのことであった。
ここで強調したいのは今日、ビジネスの世界で当たり前と思われている簡単な技術の多くが、長い時間をかけた文化的発展の積み重ねであり、何世紀もの産物であるということだ。世界中のビジネスマンがいま依存している知識は、それと自覚してはいないが、中国から、インドから、アラブから、フェニキアの貿易商人から、そしてまた西欧からの遺産の一部なのである。こうした技術を身に着けた何世代もの人間が、その技術を改善し、後代に伝え、そしてゆっくりと現在の形に作り上げてきたのだ。 
経済のすべてのシステムは、知識の基盤の上に立っている。どの企業も、社会的に積み上げられて来た知的資産にささえられているのだ。にもかかわらず、この要素は資本、労働、土地と違って、通常、経済学者や経営幹部のあいだでは生産に必要な要素のなかに入れられていない。だが今日、全要素中、もっとも重要な役割を担っているのは、じつは知的資源なのである。

今日我々は、歴史上、何度とない稀有の時代に生きている。古い障壁が崩れゆくなかで、人類の全知識構造がふたたび変革にゆさぶられているのだ。そのような状況下で、われわれが行っているのは、単なる事実の集積ではない。企業や経済全体のリストラが進みつつあるのと同様に、知識の生産と分配、そして知識を伝達するためのシンボルの再編も徹底して行われているのである。
この知識の再編のもつ重要な意味は何か。それは、知識の新しいネットワークが創られつつあるということである。いろいろな概念がおどろくべきかたちで互いに結び付き、想像を超えた推論のヒエラルキーが作り出され、斬新な前提と新しい言語、符号、論理を基礎とした新しい理論、仮定、思想が群がって出てくる -といった具合にネットワークが作られつつあるのだ。企業も、政府も個人も、歴史上かつてどの世代が集めたよりもたくさんの混じり気のないデータを収集し、蓄えつつある。
しかし、もっとも重要なことは、データをさまざまな方法で相互に関係づけ、それらに文脈を与え、そうすることによってデータをより大きな情報のモデルや構築物へと整えていることだ。 
この新しい知識のすべてが“間違いのない”もので事実に基づき、しかも明快なかたちをとるというわけではない。ここで使われる用語としての知識の多くは、前提のうえの前提、断片的なモデル、それと気づかない類推などから成っていて、言葉にあらわしてはっきり言い様がないものなのだ。そうした知識には、単に論理的で無表情な情報やデータだけでなく、想像や直感はもちろん、情熱や情緒の産物である価値も含んでいる。
社会の知識基盤に生じている今日の大騒動こそ -コンピュータを利用した詐欺や単なる金融操作の意味ではない- 超象徴(スーパーシンボリック)経済、つまり第三の波経済の勃興を告げる証左なのである。

情報の錬金術
社会の知識システムの変化の多くは、企業経営に直接、取り入れられる。この知識システムというのは、会社にとっては銀行システムや政治システム、あるいはエネルギー・システムよりずっと身近で、広範な影響力をもつ。
もし言語、文化、データ、情報、ノウハウがなかったら、企業経営が成り立たたなくなるということに加え、富を創出するのに必要なすべての要素のうち知識ほど用途の広いものはないという動かし難い事実があるからだ。

第二の波型の大量生産の場合を考えてみよう。ほとんどの煙突型産業の工場は、製品を変えようとすると、大変な費用がかかる。工具・金型メーカーやジグセッターなどの特殊技術を必要とするので、それだけでも多額の金がかかるうえに、非稼動時間が生じ、機械が遊んでしまい、資本、利子、間接費が食われる。同一製品を長期に作り続ければ単位あたりのコストが下がるのは、そのためである。
このような実情を背景にして、経済規模が大きいほど有利だとする「規模の利」なる考えが生まれた。
 しかし、新技術は第二の波の論理を逆転させた。われわれはいま、大量生産に代わる非大量生産へと向かいつつある。その結果、工場は注文製品や半注文製品、それにサービスであふれるようになった。最新のコンピュータ操作による技術はあらゆる種類の安価な製品を作り出している。
 新しい情報技術は実際、多様性が払うコストをゼロに近づけ、かつては絶対に強みを誇った規模の利を減少させた。

では原料はどうであろうか。旋盤を動かすコンピュータに上手にプログラムを入れれば、たいていの旋盤工がやるよりも多くの型を、同じ大きさの鋼板から切り抜くことが出来る。新しい知識は精密作業を可能にしたため、製品をより小型化、軽量化し、結果として倉庫費と輸送費を減らした。さらに鉄道・船舶輸送会社は輸送状況を分刻みで把握することによって -それはつまり情報の質的向上の結果だが- 配送費をいっそう節約できるようになった。
新しい知識はまた、飛行機の合成材から生化学的薬剤にいたるまでの広い範囲にわたって、全く新しい物質を創り出し、原材料そのものの代替をいっそう容易にしてくれる。いまや高度な知識を使えば、分子レベルでの組み替えにより、温度や電気、機械的機能に合わせた思い通りの材料を作ることさえ可能なのである。
大量のボーキサイト、ニッケル、銅といった原料を船に積み地球の果てから果てまで運ばなければならいのは、まさしく、こうした原料の代替物の製造知識を欠いているからにほかならない。そのノウハウさえ手に入れれば、原料輸送の費用は際立って減るだろう。つまり、知識は、資源と輸送の両方の肩代わりをするのである。

同じことがエネルギーにも当てはまる。最近の超伝導開発の成功は、知識がもたらす代替的活用として、他のどんなものにも優っている。これが実用化されれば、各生産単位に送られているエネルギーの量を大幅に減らすことができる。全米公共電力協会によれば、銅線による伝導効率が悪いため、全米で生産される電力の15%が供給途中でロスになるという。このロスの量は、発電所50箇所の発電量に相当する。超伝導は、そういったロスを大幅に削減できるのだ。
 同様にサンフランシスコのベクテル・ナショナル社は、ニューヨークのエバスコ・サービス社と組んで、フットボール競技場の大きさの巨大なエネルギー貯蔵用バッテリーを造ろうとしている。完成すれば、電力消費のピーク時に余剰電力を供給するため設けられた発電所は要らなくなってくる。

原料、輸送、電力の肩代わりに加えて、知識は時間も節約する。
時間は会社のバランスシートのどこにも現れないが、実は最重要な経済資源の一つである。時間は事実上、隠れたインプットとして残る。特に変化が加速されて(例えば連絡手段や製品を市場に出すのが早くなるように))時間が縮めば、利潤とロスに大きな違いが出てこよう。
新しい知識は物事をスピードアップさせ、同時的、即時的な経済へ向かって我々を駆り立て、さらに時間の消費を肩代わりする。
空間もまた知識によって減らされ、コントロールできる。GEの運輸システム部が新しい荷物運搬車をつくったが、この運搬車を高度の情報処理および通信を使ってサプライヤーとつないだところ、在庫調べが以前より12倍早くなり、その結果、倉庫空間の1エーカー分が節約された。
もっと重要なのは、コンピュータと進んだ知識に基づく遠距離通信により、生産設備をカネのかかる都心部から疎開させることができ、エネルギーと輸送コストをさらにカットできることである。

知識対資本
コンピュータ機能による人間労働の肩代わりについては余りに多く語られ過ぎているので、資本の肩代わりについて、つい忘れがちになる。そうであっても今まで述べられてきたことは、資金的な節約にもまた繋がっているのである。
実際、ある意味で知識は、労働組合や反資本主義的政党より、遥かに金融権力に対する重大な長期的脅威である。なぜなら相対的問題として、情報革命は産出単位ごとの資本必要量を減少させるからである。資本主義経済という呼び名のもとで、これほど重要なことはない。
したがって、ここまで見てきたことは、どんな形の経済であろうと、生産と利潤は力の三つの主要な資源 - 暴力、富、知識 - に依存していること、そして暴力は法律へと形を変え、ついで資本とカネは共に知識へと変質しつつある、ということである。仕事の内容も並行的に変化し、シンボルの操作にますます頼るようになっている。資本、カネ、仕事が揃って同方向へ移行するに伴い、経済の全基盤に革命的変化が起きている。それは、煙突型産業時代に行き渡ったルールとは極端に違うルールに従って運営される、超象徴(スーパーシンボリック)経済への変貌である。
原料、労働、時間、空間、および資本への必要度が減少する一方、知識は先進経済の中心的な資源となってくる。この減少が起こるにつれて、知識の価値は高騰する。この理由のために、次章で見えるように、情報戦争 -知識のコントロールをめぐる争い- が、いたるところで勃発しつつある。      

第三の波の政治 003

2011年08月09日 09時10分52秒 | 第三の波の政治
第2章「文明の衝突」を添付します。

文明の衝突は、「戦争と平和」(1993年1月刊)でも取り上げている内容で、“第一部第3章 諸文明の衝突”の中で同様の視点で論及されています。云く『明日の時代の戦争の形態は、三つの生活様式がぶつかり合う中で決定されるだろう。現代のメディアが、民主主義や、市場経済や、民族独立の世界的広まりについて云々している間にも、はるかに深いところで何かが起こりつつある。・・・』と提起。これを補う形で、中核的紛争、非マス化社会と分けて本書の第2章がまとめられているようです。
富の未来でも三つの生活様式を象徴する物(人が手にする象徴)を『乱暴にいえば、鍬(第一の波=農業革命)、アセンブリーライン(第二の波=産業革命)、コンピュータ(第三の波=情報空間・知革命)で振り分けられる』と述べているところがわかりやすくおもしろいところです。
 
 民族紛争や、宗教戦争などとわれわれは、常に別個の事情があって起きている事象だと思いましたが、トフラーは全く異なった視点から、これらを中核的紛争とみているんです。要するに、三つの生活様式(三つの波の結果)がその根本にあり、これが三層になって権力構造が出来ており、その価値観の抗争であると。第三章以降の内容がますますおもしろくなるところです。

さて、前回に引き続き、月刊プレジデント(2011.1.3号)のP.110 大前研一の日本のからくり51『人も国も劣化!無能政権による「最小不幸社会」』を引用しましょう。

(以下抜粋)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
なぜ日本人は、かくも覇気がなくなったのか

 日本社会の構造変化はさまざまあるものの、先行きが本当に懸念されるのは若い世代の覇気の低下、気合のなさである。“草食化”などと茶化されているが、これは相当に深刻だ。
 日米中韓の四カ国の高校生を対象にしたあるアンケート調査では、日本の若者の“意欲”の低さが浮き彫りになった。たとえば「生活意識」について。日本「暮らしていける収入があればのんびりと暮らしていきたい」、米国「一生に何回かはデカイことに挑戦してみたい」、中国「やりたいことにいくら困難があっても挑戦してみたい」、韓国「大きな組織の中で自分の力を発揮したい」、

次に「偉くなることについて」。
日本「責任が重くなる、自分の時間がなくなる」、米国「自分の能力をより発揮できる」、中国「自分の能力をより発揮できる」、韓国「周りに尊敬される、自分の能力をより発揮される」と答、
さらに「偉くなりたいか?」との問いに、「そう思う、強くそう思う」と答えたのは米国22.3%、中国34.4%、韓国22.9%、日本8.0%。
(中略)
諸悪の根源は「競争させない教育」
 ~アンビションのなさと、ゆとり教育のおかげでしゃかりきに勉強しなくなった弊害は、今後重くのしかかってくるだろう。~わが日本国内だけは「最小不幸社会」などと意味不明なスローガンを掲げて、内定がもらえない大卒者を税金で助けてまで落伍者の出ない夢のような共産主義社会をつくろうとしている。~今の状況では制度から見ても、人材から見ても世界的な競争を生き残れるはずがない。

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この大前研一氏の言は賛同します。20代ばかりでなく、40代~50代でも同じような感覚(競争しない社会・マイノリティーを認識しない社会)を自負して、何かよくわからない言動をしている方々が多いです。草食系とか肉食系とか、ヘンな表現をしていますが、人間は動物の一種であり、雑食であり、社会的欲求から生理的欲求までを持ち合わせた生き物です。ただ生物として生きるのであれば、それは植物に似て、光合成でもしているんでしょうか?

トフラ-流に言えば、『豊かな国では、知識集約型経済によって奇妙な現象があらわれている。何千万人もの中産階級の知識労働者が毎日何キロにも走るか、スポーツ・ジムや家庭でトレーニングをし、汗を流し疲れ果て肩で息をし、それが終われば、運動はいいと喜んでいるのだが、重要な点をひとつ忘れている。経済的に恵まれているからこそ、どういう運動をするのかを自分が選べる事実を忘れているのだ。世界各地の肉体労働者は、農民であれ工場労働者であれ、食べていくために汗を流しているのであり、選択の余地はほとんどない』と。これが現実です。
呑気に植物の真似が出来るのも、豊かな日本という社会に居るから出来ることなのではないかと。

『天候と地主に泣かされながら黙々と農業を続けている人や、組み立てラインの付属物のような立場で働き続けている人なら、こうした労働がいかに非人間的になりうるかを知っている。』、このような労働をする者に「覇気」・「競争心」や「落伍者」・「不幸社会」などという言葉は必要なく、すべてを包括して黙々と汗を流すしかないです。

・・・・・・・・・・(以下トフラー本文)・・・・・・・・・・

第2章 文明の衝突
産業主義文明が終焉に近づきつつあることを、人びとはいまようやく意識しはじめている。その解体 -私たちが『未来の衝撃』のなかで「産業社会の全般的危機」について述べた1970年時点で、すでに明らかになっていたー が進むにつれ、戦争が、しかも新しいかたちで、これまで以上に頻発する危険性が出てきたのである。
大規模な社会変動は、対立するもの同士の衝突を必然的に伴う。それゆえ、歴史を変化の「波」として捉える見方には、「脱近代」への移行をめぐる単なる空論にはない力と意味がある。波は絶えず流動する。波と波とがぶつかれば、激しい逆流が生じる。歴史の波が衝突するときには、文明同士もまた衝突する。そしてその結果、それまでは、社会にとって無意味で、とりとめがないと思われていた多くの物事が新たな意味を帯びてくる。

「波」の動きを基底に据えた紛争の論理に従えば、私たちが直面している主要な紛争は、イスラム世界と欧米との対立でもなければ、サミュエル・ハンチントンが最近主張しているような「欧米対非欧米」の戦いでもない。また、アメリカは、ポール・ケネディがいうように衰退しているわけではないし、フランシス・フクヤマがいうように「歴史の終焉」を迎えているわけでもない。もっとも深いところで進行中の、経済および戦略に関わる文化は、世界が、衝突の可能性を秘めた、本質的に異なる三つの文明、しかも従来の定義では明確に区分できない三つの文明へと分割されようとしていることなのである。
第一の波の文明は、昔も今も、大地と切り離せない関係にある。地域により形態がちがっていても、また言語や宗教・信仰が異なっていても、それが農業革命の産物であることに変わりはない。この文明のなかでは、いまでも大勢の人びとが、何世紀も前の祖先同様、痩せた土地を掘り返しながら生活し、そして死んでいく。
第二の波の文明の起源については、諸説がある。しかし、多くの人びとの生活に根本的な変化が生じた時期を、おおよそ三百年前とすることに異論はあるまい。それは、ニュートンの学説が生まれた時代である。また、蒸気機関の実用化に伴い、イギリス、フランス、イタリアの各地で初期の工場が急激に増え出した時代でもある。農民は都市への移動を開始した。大胆な思潮も生まれた。進歩という観念、個人の権利に関する耳新しい理論、ルソー風の社会契約説、非宗教主義、政教分離論、さらには指導者は神権によってではなく人民の意思により選ばれるべきだとする斬新な思想などが人びとのあいだにひろまりはじめたのである。

こうした変化の多くを強く促したのは、富を創出するための新たな方法、すなわち工場生産だった。そして、ほどなく大量生産、大量消費、大衆教育、マスメディアなどをはじめとする、さまざまな要素を結合することにより、一つのシステムが形成され、それを学校、企業、政党などの専門機関が支えていく体制が出来上がった。家族の構造までもが変化し、数世代が共生する農村風の世帯から、産業社会特有の小規模に分散した核家族へと移行した。
これら多くの変化を体験した人びとは、人生を無秩序なものと感じたにちがいない。だが、実際には、すべての変化は密接なつながりをもっていたのであり、しかもそれらは、のちに近代と呼ばれる
ようになる大量生産型の産業社会、つまり第二の波の文明の成熟期へと向かう最初の数歩にすぎなかったのである。
 
『文明』という言葉は、多くのアメリカ人の耳には仰々しく聞こえるかもしれない。しかし、科学技術、家庭生活、宗教、文化、政治、ビジネス、位階制、指導体制、性道徳、そして認識論などに関わる多種多様な問題を十分に包括できる言葉は、ほかには見当たらない。急速にして激しい変化が、以上列挙した、社会の各分野でいまも起きている。このように多くの社会的、技術的、かつ文化的な領域が一気に変化するとなると、ことは移行などというおとなしいものではなく、一種の変革になる。それは、単なる新たな社会の創出ではなく、まったく新しい文明の幕開けなのだ。
 約三百年前の西洋では、そのような新文明が、一歩前進するたびに激しい抵抗を受けながらも、地響きを立てて歴史のなかに足を踏み入れたのである。

中核的紛争
 産業化しつつある国々では、例外なく、第二の波の商工業に携わる集団と第一の波の地主とのあいだで熾烈な争いが起こり、いく度となく血が流された。地主たちは、多くの場合、自身大地主である教会と組んで戦った。だが、多数の農民は土地を離れ、田園地帯に次から次へと新設される「悪魔の製作所」、すなわち工場で働かざるをえない状況に追い込まれていた。
 ストライキや暴動、そして内乱、国境問題、民族主義的反乱などが一気に噴出したのは、第一の波派と第二の波派の対立から生じた戦いが中核的紛争となり、他のすべての紛争のもとになる緊張を生み出していたからにほかならない。このパターンは、産業化の道を歩む、ほとんどすべての国で再現された。アメリカでは、北部の産業派が南部の農業エリートを打ち破るのに、凄惨な南北戦争が必要とされたし、そのわずか数年後に日本で起きた明治維新も、第二の波の近代派と第一の波の伝統主義者との戦いだった。そして、この戦役でも近代派が圧勝した。
 斬新な富の創出法をもたらす第二の波の文明がひろまったことにより、国家間の関係にも動揺が生じた。権力の空洞化と移行がはじまったのである。
 
大きな第二の変革の波の産物である産業文明がいち早く根を下ろしたのは、広大な大西洋の北岸だった。大西洋の強国は、産業化が進むにつれ、新たな市場と遠隔の地の安価な原料を必要とするよう
になった。かくして、第二の波の列強は植民地獲得のための戦争を推し進め、ついにアジアとアフリカの第一の波の国家や部族を支配するに至るのである。
 この植民地主義戦争も中核的戦争、すなわち第二の波の産業国家と第一の波の農業国家との紛争ではあったが、それまでのものとは規模の点で異なっていた。今回の戦いは、国内規模ではなく、世界規模で繰り広げられ、しかもそれにより、近年に至るまでの世界の構図が基本的に定められたのである。それ以後の戦争は、おおむね、その枠内で戦われた。
 さまざまな原始的農業集団の部族紛争や地域紛争も、それまでの数千年間同様、絶えず勃発した。しかし、狭い意味しかもたないこれらの戦闘は両陣営をただ疲弊させることが多く、その結果弱体化した部族集団は、結局、産業文明化した植民地主義勢力にいともたやすく飲み込まれていった。南アフリカで、セシル・ローズに率いられた軍隊が、原始的な武器で必死にあい争っていた農業部族集団から広大な土地を奪い取ったのも、その一例である。世界のほかの地域でも、一見無関係に思われる戦争が多発しているが、これらも、じつは、いがみ合う国家間の紛争としてではなく、勢力を競い合う二つの文明間の中核的紛争が世界的規模で表面化したものとして捉えなおすことができる。
 だが、まさに産業化時代最大の、そしてもっとも多くの血を流した戦争は、ドイツ、イギリスなどの第二の波の国々が衝突した産業国家間戦争だった。これらの戦争では、それぞれの産業国家が、世界中の第一の波の国々の民衆を配下に従えながら世界の覇権をかけて争ったのである。
 最終的に、世界ははっきりと区分けされた。産業化時代は、世界を、支配勢力としての第二の波の文明国家と、不満をもちながらも従属する多数の第一の波の植民地とに二分したのである。私たち筆者を含む現代人の多くは、このように第一の波と第二の波の文明とに分割された世界で育ったわけだが、そうした者にとっては、どちらの文明が優勢であるかは歴然としていた。
 
しかし、今日の世界の文明構成は、それともちがうかたちになっている。権力の構造が、従来とは完全に異なるものへと加速的に変化しているのだ。そしてその結果、世界は、二つの文明ではなく、それぞれが鍬、アセンブリーライン、そしてコンピュータによって象徴される。三つの、対照的で、かつ敵対し合う文明へと分割されようとしているのである。
 この三分割された世界は、第一の波に属する部門が農産物や鉱業資源を供給し、第二の波の部門が安い労働力を提供して大量生産を行い、そして急速に拡大しつつある第三の波の部門が、知識と情報を開発・利用するための新たな方法を武器に全体を統括するかたちになるだろう。
 第三の波の国々が世界に売るのは、情報と新たな考案、経営知識、大衆文化を含む文化、先進技術、ソフトウェア、教育と技術養成、医療、それに金融をはじめとするサービスなどである。そのようなサービスのなかには、おそらく、第三の波の高度な軍隊による防衛のためのサービスも含まれるはずだ。現にハイテク国家は、湾岸戦争のさいに、クウェートとサウジアラビアにそのようなサービスを供給している。

非マス化社会
 第二の波は、大量生産を必要とすると同時にそれを反映した大衆社会を生み出した。だが、第三の波の、頭脳をベースにした経済活動のなかでは、産業社会の代名詞ともいうべき大量生産は、すでに時代おくれになっている。いまや、少量多種生産 -短期操業による高度注文生産- こそが先端的生産形態なのだ。生産形態の変化に伴い、大量市場も衰退し、市場の細分化とそれにつづく「粒子化」が進む。古い産業型の巨大機構は、自らの重みに耐えかね瓦解寸前の状態である。大量生産部門の労働組合も、規模を縮小している。マスメディアも多様化しており、新しいチャネルがふえるにつれて、大テレビ局の番組は精彩を失いつつある。家族形態も非マス化した。近代の標準形態だった核家族が少数派に転じ、片親家族、再婚夫婦、そして子なし家庭や単身生活者がふえているのである。
 
このように、第三の波の文明の不均一性が第二の波の社会の均一性にとって代わるとき、社会の構造は全面的に変化せざるをえなくなる。すべての分野で、大量化が終わり、非マス化がはじまるのだ。
 
ところで、新しいシステムはきわめて複雑なため、企業、役所、病院、組合組織などの機関はもとより、個人までをも含む各構成単位間の情報交換がますます必要になる。したがって、コンピュータとデジタル通信ネットワーク、それに新たなメディアがフルに活用されることになるだろう。
 それと同時に、科学技術の変化や商取引きのスピードも増すし、日常生活のペースも速まる。実際、第三の波の経済は加速度的に展開するため、そのなかにいる前近代の生産者たちはついていくのがやっとという状態になる。加えて、情報が大量の原料や労働などの資源にとって代わる傾向が強まるにつれ、市場関係を除けば、第三の波の諸国が第一および第二の波のパートナーに依存する度合いは弱まり、それに反比例するかたちで第三の波の国同士の取引きがふえていく。そしてしまいには、高度に資本化された、知識データベースに基づく技術が、労働力の安い国々が現在行っている多くの仕事を引き受け、より迅速に、そしてより低コストで処理していくのである。
 したがって、これらの変化により、富める経済と貧しい経済とのつながりが断ち切られる恐れがあるという見方も成り立つ。
 だが、完全な分離はありえない。なぜなら、汚染、病気、移民などが、否応なしに第三の波の諸国の国境を越え、入り込んでくるからだ。また、かりに貧しい国が、全世界を害するべく環境戦争を仕掛けてきた場合には、富める国といえでも生き残ることはできない。こうした理由から、第三の波の文明と他の二つの古い文明とのあいだには、絶えず緊張が生じるだろう。したがって、かつて第二の波の近代国家が第一の波の前近代社会を相手に行ったのと同様に、新たな文明が、世界の覇権を確立するための戦いに乗り出すことは十分に考えられる。
 
文明の衝突という概念を把握することは、一見奇妙に見える多くの現象 -例えば、今日激化している民族紛争- を理解するうえでの助けになる。民族主義は、産業革命の結果生まれた国民国家のイデオロギーにほかならない。それゆえ、産業化の過程にある第一の波の農業社会は、国家という衣装を強く求める。ウクライナ、エストニア、それにグルジアなど、民族の自決を主張した旧ソ連の共和国が、昨日まで近代国家の証しとなっていたもの -つまり、第二の波の産業化時代に国民国家の象徴となっていた国旗、軍隊、通貨- を求めたのも、そうした理由による。
 ハイテク世界に住む多くの人間にとって、超国家主義者の動きを理解するのは難しい。彼らの過熱した愛国心には、思わず吹き出したくなる。マルクス兄弟の映画『ダック・スープ』に出てくる不リードニアという国を思い出してしまうのだ。この映画は、交戦状態にある二つの架空の国が互いに抱いている民族的優越意識の愚かさを揶揄したものだった。

 一方、民族主義者にすれば、尊ぶべき自主独立を他国に侵されながら、どうして黙っていられるのかが理解できない。しかし、発展しつつある第三の波の経済が求める、ビジネスと金融の「世界化」は、新しい民族主義者たちが後生大事にしている国家「主権」に日々風穴を開けていく。
 第三の波が経済の形態を変えるにつれ、各国は主権の一部を放棄し、ますます頻繁になる、経済と文化の国境侵犯を互いに認めざるをえなくなる。かくして、経済的に遅れた地域では詩人や知識人が国を讃える詞を書くのに対し、第三の波の諸国の詩人と知識人は、「ボーダレスな世界」と「地球意識」の素晴らしさを謳歌する。その結果生じる衝突は、根本的に異なる二文明のニーズの鮮明な違いを反映するものだけに、今後、最悪の流血の惨事を引き起こさないともかぎらない。
現在進行中の世界の二分割から三分割への再分割が、いまのところ明確に見えてこないのは、ハードウェア中心の第二の波の経済から第三の波の頭脳経済への移行を完了した国がまだ一つとして存在していないからにすぎない。
アメリカ、日本、およびヨーロッパ諸国においてさえ、第三の波のエリートと第二の波のエリートとのあいだで、国内の支配権をめぐる争いがいまだにつづけられている。また、第二の波の主要な機関や生産部門がまだ残っているし、第二の波のロビー団体も依然として力を失っていない。
それぞれのハイテク国家をみると、第二および第三の波の要素の「混合化」が異なっており、そのため、どの国でも独特な「形態」が生み出されている。にもかかわらず、各ハイテク国家が向かうべき方向ははっきりしている。国内の混乱と不安を最小限に抑えながら第三の波への変革を成し遂げないかぎり、世界規模での競争を勝ち抜いていくことはできないのである。
そうこうするうちに、地球上では、二分割された世界から三分割された世界への歴史的移行が引き金となり、きわめて根源的な権力闘争がはじまるにちがいない。というのも、それぞれの国が、三層からなる新たな権力構造のなかでの地位を確立しようとするからだ。そして、この歴史的に重大な、権力分布図の変更を裏で促すのが、知識の役割・重要性・性質の変化なのである。
 






第三の波の政治 002

2011年08月07日 11時00分52秒 | 第三の波の政治

第1章「明日への大闘争」を添付します。
前々回にご案内したとおり、第1章は「第三の波」から引用しています。

6月のジョブトレーニングでも、若干触れましたが「頭が良い」のではなく「頭が強い」?こと、「頭を強くすること」がトフラー論を勉強していく前提です。よく言われる「地頭力」=「頭が強い」=「本を読み込む」?という視点でしょうか。
頭が強いってことは、TIさん、何も高学歴でなければならないと言う根拠はどこにもありません。時間をかけても深く思考する努力が「頭が強い」ことだと思います。「トロい」とか「遅い」なんてタメ口する奴は、相手にする必要がないと思います。
メールでいただいた「Ivan illich(イヴァン・イリイチ)」の思想、ぜひ、このブログで述べてください。すばらしい話です。わたしも過去にジェンダー論で学びました。

職とは?仕事とは?社会に役立つとは?自分の存在とは?頭が強くないと自分の存在価値もわからなくなるんです。どうですか?トフラーも若い時代の失業経験を何度か述べていますよね。
職に就くために、仕事をする。トフラー論で、話をしましたがこの意味は?
そうです。職は有給、仕事は無給、でジョブトレーニングは、職に就くための訓練ですね。でも、トフラーは、『仕事は益々増加の一途で、職は限りなく減少していく。』と述べています。頭が強くないと、分からなくなります。では、未来の職とは何か?

昨年末の月刊プレジデント(2011.1.3号)でおもしろい記事がありました。出張の際に病院・医者選びの記事に惹かれて購入して列車で読んでいましたが、タイトル『ドラマ「相棒」はビジネスの教科書だ!』と言うかなり乱暴な言い回し?でしたが、まとめ方は、なるほどと関心しました。記事を抜粋すると、
杉下右京(水谷豊)の何の権限も与えられず、組織の後ろ盾もないのに、「ないものねだり」の知覚力、「WHO」より「WHY」の洞察力、情報の「分母」を変える仮説力、と理論立てています。これはおもしろいです。
 何度も言いますが、『何の権限も与えられず』、『組織の後ろ盾もない』ことが「第三の波の職」なんです。頭を強くしましょう。
思考停止をして頭を弱くしている国会議員、官僚、東京電力や安全保安院の社員は、すべて「権限を与えられ」・「組織の後ろ盾」がある「第二の波の職」業社員であり、古い体質の民主主義の血税ダニです。だから、「頭が良い」(学歴偏重で組織内で自己矛盾を肯定し、他人がどうなろうが無視できる人物)者を多く採用し、責任回避と言論の無力化(時間が経てば忘れるから沈黙)を標榜しながら、延々と職をこなして、高額所得者として他人の迷惑の上に君臨する人物となる訳ですね。これもまた、人生なんですが。これって幸せですか?
放射能ばら撒く加害者側の生き方は好きなんですかと。思考を停止して頭を弱くして逃げのびる?それが、子供にも女房にも誇れる楽しい人生なんでしょうかね。ねえ、首相、大臣のみなさん、そして元与党の議員、無能な野党(夜盗)議員、公務員のみなさん。
女房・子供そして借金(ローン)があるから、辞めるわけにはいかない。他人が放射能汚染で自殺して死のうが放射能浴びながら生きようが関係ない。自分たちは言われたことだけをやっているんだから、責任はない?
8月6日NHKスペシャルで、原爆投下が5時間前から分かっていながら、大本営はそれを隠し資料も焼却するなど隠蔽したことが放映されていました。生き残った軍関係者の方が涙を流しながら「どうして、こんなことをしていたのか?退避させる時間が十分にあったじゃないか」と述べていましたが、今も、同じようなことを政権与党と元与党関係者は、だらだらとやっているのではないですか?

 プレジデントなどのビジネス書をわたしは、肯定も否定もしません。でも、胡散臭い記事は、常に有るもので、その中で、このドラマ「相棒」の展開は、たいへんに矯めになる内容でした。最後の水谷さんへのインタビューがいいですね。

-「頭の強さ」は特別なものでしょうか?
水谷「思うのはお金もかかりませんし、思えばいいだけですから、誰もが持っている才能でしょう。ただ、多くの人は途中で妥協して止まってしまい、自分の頭の強さを意識できていない。右京はその妥協がないのです」
- 既存の常識や雑音に惑わされず、徹底して思い続けると、問題解決のための発想が浮かぶ。最後は頭のよさではなく、頭の強い人間が勝つ。天才・右京から最も学ぶべきは、そんな妥協なき仕事術なのだろう。

カッコいいですね。そのとおり、思うのはお金がかからない。トフラー論のパワーシフトでふれた箇所で、同じような表現がありましたね。暴力・金力・知力の三段階。暴力は金力でコントロール出来、金力は知力によってコントロールされる。つまり、知力がパワーシフトの頂点にあるという論理です。知力はお金のかかるものではなく、誰でも持っている才能なんです。読書は空読みではなく、深読みをすると言う意味がわかりましたか?
 昔の人は、『行間を読め』とか『著者の隠れた意図は何か』なんて言いましたが、ダビンチコードに似た書物は昔からたくさんあるんです。頭を強く、地頭力をつけるためにもどんどんトフラー論を読み込みましょう。

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第1章 明日への大闘争
いま、われわれの生活のなかに、これまでになかった文明が出現しようとしている。そして、そのことに気がつかない人びとが、あちこちでそれを阻止しようとしている。この新しい文明とともに、新しい家庭像が生まれ、仕事、恋愛、生活の実態が変化し、経済も政治もまた新しいものになる。なにより大きいのは、意識の変革が平行して起こることである。
 人類は未来に向かって、一大飛躍の時期にさしかかっている。社会を根底から揺るがす大変動、かつてない新しい文明を作り出す変革に直面しているのだ。はっきりと意識しないままに、われわれはいま、まったく新しい、注目に値する文明を、その基盤から築き上げようとしているのである。これこそ、第三の波の意味するところである。
 人類はこれまで、大変革の波を二度経験している。それぞれの波は、変革以前の文化、あるいは文明を大幅に時代おくれにしてしまい、前の時代に生きていた人間には想像すらできなかったような生活様式を生み出した。第一の波による変革、すなわち農業革命は、数千年にわたってゆるやかに展開された。産業文明の出現による第二の波変革は、わずか三百年しかかからなかった。今日では、歴史の進行はさらに加速されており、第三の波はせいぜい二、三十年で歴史の流れを変え、その変革を完結するのではないだろうか。したがってわれわれは、たまたまこの衝撃的な時代に地球上で運命を共にするわけだが、自分たちが生きているあいだに、第三の波の衝撃をまともに受けることになるであろう。
 第三の波は、まったく新しい生活様式をもたらす。その基盤になるのは、多種多様な、再生可能なエネルギー資源であり、大半のアセンブリー・ラインによる工場生産を時代おくれにしてしまう生産方式である。また、核家族とは異なった新しい家族形態、“エレクトロニック住宅”とでもいうべき新しい職住一致の生活、様相を一変する未来の学校や企業などもその基盤となる。来るべき文明は、われわれの新しい行動規範を打ち立て、規格化(スタンダーダイゼイション)、同時化(シンクロナイゼイション)、中央集権化(セントラライゼイション)といった産業社会の制約を乗り越える道、エネルギー、富、権力の集中化を超える道を拓いてくれる。
 この新しい文明は、従来のものとは異なる固有の世界観をもち、時間、空間、論理、因果関係等を独自のかたちで捉えなおす。また未来の政治についても自らの原則をもっている。
  
革命的前提
 今日、人びとは一見して対照的な二つの未来像を抱いている。大多数の人びと -彼らは、さほど未来について深く考えているわけではないが- は、目の前にある世界が際限なく続いていくと考えている。自分たちがまったくいまと違った暮らし方をするなどということは、想像することもできない。ましてや文明が全面的に新しい様相を呈することになるなど、思ってもいない。もちろん彼らも、物事が変化しているのは認める。しかし、現在進行中の変化は、ともかく自分たちの傍を通りすぎていくだけで、慣れ親しんできた経済機構や政治体制は、微動だにしないと決め込んでいるのだ。未来は現在の延長線上にある、と信じて疑わないのである。
 だが、最近のさまざまな出来事は、こうした確信に満ちた未来像を、激しく揺さぶっている。そして、それに伴い、人びとのあいだには悲観的なビジョンが広がりはじめた。間断なく提供される暗いニュース、パニック映画、一流のシンクタンクが発表する悪夢のような未来予測などをすっかり信じ込んだ結果、どうやら多くの人びとが、「今日の社会が未来においても存続するなどということはありえない。そもそも未来そのものがないのだから」と考えだしたらしい。彼らはハルマゲドンが目前にせまっており、地球はおそるべき終末に向かってひた走りに走っている、と感じているのである。
 これら二つの未来像とは異なり、私たち筆者の論は、私たち自身が、「革命的前提」と名付けた考えに基づいて展開される。私たちが大前提にしている仮説は、今後に、三十年間は動揺と激動にみちた、おそらくいま以上に暴力的風潮がはびこる時代になるだろうが、人類が全面的に自滅することはありえない、ということである。次に私たちは、われわれがいま経験している衝撃的な変化は、決して無秩序で方向性のないものではなく、実際には、明確な一定の流れを形成しているという説に立ち、その上で、こうした変化の累積がやがてわれわれの生活、仕事、遊び、思考の様式を大きく変えることにより、健全で、望ましい未来を可能にすると考える。要するに、筆者が以下に述べる主張は、現在起こりつつある事態が全地球規模での革命ともいうべき一大飛躍にほかならないという前提から出発するのである。
 換言すれば、私たちの論は、われわれが古い文明の最後の世代であると同時に、新しい文明の最初の世代であるという前提からはじまる。われわれの個人的な混乱、苦悩、方向感覚の喪失は、われわれ自身の精神、すなわちわれわれを取りまく政治制度のなかで繰り広げられている闘争の反映であり、死期の迫った第二の波の文明と、それに代わろうとしている第三の波の新しい文明とのあいだの相克を、直接反映するものにほかならないのである。
 われわれが以上のことを理解するとき、一見無意味な出来事のすべてが、急に鮮明な意味を帯びてくる。変化の大きな流れが、はっきりと見えはじめ、生き残るための行動を起すことがふたたび可能になるし、また現実的なものにもなる。要するに、革命的前提は、われわれの知性と意志を解放してくれるのだ。
 
社会的波の行方
 社会的変化の流れを見きわめるための強力な新しい方法は、社会の変化の「波がしらの分析」とでもいえる方法である。この方法は、次々とうねりを見せる変化の連続が歴史であると考え、そのうえでおのおのの波の力がわれわれをどこに運ぼうとしているのかを問う。したがって、歴史の連続性ももちろん大切だが、この手法においては、むしろその不連続性、すなわち断絶と革新に注意が向けられることになる。主要な変化の流れを見きわめれば、その方向づけも可能になるだろう。
 「波がしらの分析」は、農業の出現を人間社会の発展の最初の転換点とし、産業革命を第二の飛躍とする単純明快な考え方から出発する。ただしこの分析は、これら二つの変革を、それぞれ別個の、一過性の出来事と見ているわけではない。一定の速度をもった、変化の波と考えているのである。
 第一の波による変化が起こる以前、人類の大半は小グループに分かれ、各地を放浪しながら生活しており、採集、漁労、狩猟、牧畜で食糧を手に入れていた。それがある時点、ごくおおまかにいって、一万年くらい前に、農業革命がはじまり、地球上に徐々にひろまっていくとともに、村や集落や耕作地ができ、新しい生活様式がひろまっていった。
 この第一の変革の波は、ヨーロッパ全域で産業革命が起こり、第二の大きな世界的変革の波が押し寄せてきた十七世紀の末になっても、まだ命脈を保っていた。この新しい変化、つまり産業化は、第一の波が引き起こした変化よりはるかに急速に、国から国へ、大陸から大陸へとひろがっていった。こうして二つの別々な、はっきりとその性格の異なった変化の波が、異なったスピードで地球上を同時に進んでいったのである。
 いまでは、第一の波はほぼ動きを停止した。いまだに農業を知らないのは、たとえば南米とかパフアニューギニアなどにみられる。ごくわずかな小部族だけである。さしもの第一の波の力も、事実上使い果たされたのだ。
 一方、ヨーロッパ、北アメリカ、そのほか地球上の何個所かで人類の生活をわずか二、三世紀の間に革命的に変えてしまった第二の波は、いまなお基本的には農業社会のままである多くの国々にひろがりつつある。次々に製鉄工場や自動車工場、繊維工場、鉄道、食品加工工場が建設されている。産業化の勢いがいまだに感じられることからもわかるように、第二の波はその力を使いつくしたわけではない。
 しかし、第二の波がいまだに進みつつあるなかで、それと平行して、いっそう重要な変化がはじまった。第二次世界大戦後、二、三十年して産業化の波がそのピークに達すると、まだその正体のはっきりしない第三の波が、地球上のあちこちに押し寄せはじめ、その波に触れるものすべてを変質させていったのである。
 その結果、現在、多くの国が、速度と力の異なる二つ、ないしは三つの変革の波の衝撃を同時に受けている。
 私たちは、便宜上、第一の波が単独で地球上を支配していた時代は、ほぼ紀元前8000年にはじまり、1650年から1750年ごろまでつづいたと仮定している。そしてこのころから、第一の波の力がおとろえはじめたのに伴い、第二の波が勢いを増していった。やがて第二の波の産物である産業文明は、第一の波の文明に代わって地球を席巻し、ついに頂上までのぼりつめたのち、衰退へと向かう。この歴史上もっとも新しい転換点にアメリカが達したのは、ほぼ1955年から65年にかけての十年で、その間に、ホワイトカラーとサービス産業で働いている人びとの数が、史上はじめてブルーカラーの数を超した。大幅なコンピュータの導入、ジェット機による観光旅行ブーム、避妊ピルの普及、そのほか多くの衝撃的な変革が次々と起こったのも、この十年間であった。アメリカでは、まさにこの時期に、第三の波の力が貯えられたのである。その後、時間的に多少のズレはあるが、ほとんど、どの工業国でも同じようなことが起こった。今日、高度の工業技術をもつ国は、第二の波の時代おくれの装飾をほどこされた経済および諸制度と、第三の波とのあいだに生じる衝撃を目のあたりにして、例外なく動揺をつづけている。
 こうした状況を理解してはじめて、われわれの周囲で起こっているさまざまな政治的・社会的軋轢の意味を明確につかみとることが可能になるのである。
 
未来の波
 どんな社会にあっても、きわだった変化の波がただひとつであれば、未来へ向かってその社会がどのような図式で発展していくかは、比較的見分けやすい。作家、画家、ジャーナリスト、その他さまざまな一般市民が“未来の波”を発見する。したがって、十九世紀のヨーロッパでは、多数の思想家、実業界の指導者、政治家、それに一般の人びとですら、未来についてはっきりした、基本的に正確なイメージをもっていた。彼らは、機械化されていない農業に対する工業の究極的勝利に向かって歴史が動いていることを感知していただけでなく、その勝利とともに、第二の波がもたらすであろうさまざまな変化を、かなり正確に見通していた。つまり、より強力なテクノロジー、より大規模な都市、より高速化する輸送機関、さらには一般教育等々がもたらされることを察知していたのである。
 このように未来像がはっきりしていたということは、政治に直接影響があった。政党や政治活動はまるで三角法で測定するように、未来を測定することが可能であったのである。旧勢力である農業関係者は団結して、徐々に浸蝕してくる産業主義を相手に、大企業や“組合のボス”“悪の巣窟である都市”などに対して、最後の一線を防衛していればよかった。労働者と資本家は、幕が上がりつつある産業社会のいちばん大切な操縦桿を、どちらが握るかを争っていればよかった。少数民族は自分たちの権利を産業社会における待遇改善にしぼり、採用に関しての門戸開放、昇進の機会均等、都市における住宅の確保、資金の引き上げ、公立学校による義務教育などを要求した。
 この産業中心的な未来のビジョンは心理にも重要な影響を及ぼした。世間一般が共有していたこの未来像により、人びとの選択の幅が限定されていたため、ひとりひとりの人間は、単に自分の何たるかが感じとれただけでなく、自分の将来についても、およその見通しをもつことができた、つまり、きびしい社会的変化のさなかにあっても、ある程度の安定感と自己意識をもちえたのである。
 これに対して、社会が二つないしそれ以上の変化の大波に襲われ、しかも、そのいずれが優位に立つのかがまだはっきりしない段階では、未来像は分裂せざるをえない。変化と、それにつれて引き起こされる軋轢の意味をきちんと位置づけることが、ひどくむずかしくなるからだ。波がしらと波がしらがぶつかり合って海は大荒れになり、本流とは関係ない渦が、一面に逆巻く状態になる。そして、そのために、その奥低に流れる、より重要な歴史の潮流が隠されてしまうのである。
 今日、アメリカでは -ほかの多くの国の場合も同じことだが- 第二の波と第三の波のぶつかり合いが社会的緊張を生み、危険な紛争を引き起こしている。階級、人種、性、あるいは党派といった常識的区分を超越した、まったく新しい政治的波がしらが生じているのだ。この軋轢が伝統的な政治用語を混乱させ、進歩主義者と反動主義者、盟友と仇敵の区分させ、ひどく困難にしている。このため古いかたちでの対立や連帯が、すべて意味をなさなくなってしまうのである。
 支離滅裂にみえる政治情勢が個人生活に影響を与え、人びとの不適応症をひどくしている。精神分析医や神がかりの治療師が大繁盛で、多数の人びとがさまざまな精神療法のなかをあてどもなくさまよっている。この世は不条理で、狂っており、無意味だと思い込み、狂信者集団や魔女の集会まがいのものに足を踏み入れたり、病的な私生活に閉じ籠ったりするのは、そんな人たちなのだ。たしかに人生は大きな宇宙的見地から見れば、不条理であるかもしれない。しかし、だからといって、今日の出来事が不定型だということにはならない。事実、隠されてはいるが、明確な秩序が厳然と存在するのであって、それは、第三の波による変化といまや衰えつつある第二の波による変化とを峻別するすべを体得しさえすれば、すぐに見つけ出すことのできるものなのである。
 変化の波と波がぶつかり合って生じる激流は、職業、家庭生活、性的行動、個人的倫理観などに反映する。それはライフスタイルや選挙のさいの投票行動などにもはっきりあらわれてくる。なぜなら、個人生活においても政治的行動にさいしても、物質的に恵まれた国に住むわれわれは、自覚しようとしまいと、本質的には以下の三つの類型に大別できるからである。つまり、われわれは、消滅の運命にある秩序を維持しようとする第二の波の人間であるか、現在とは根本的にちがう明日を築こうとしている第三の波の人間であるか、さもなければ、それら二者のあいだで混乱しながらも自己のバランスを保とうとする中間派のいずれかなのである。
 第二の波のグループと第三の波のグループとの対立が、じつは、今日の社会に蔓延している政治的緊張関係の主要な原因になっている。より基本的な政治問題は、これから明らかにするように、だれが産業社会の末期を支配するかではなく、急速に産業社会にとって変わりつつある新しい文明を、だれが具体化していくかということである。一方にまだ過去の産業中心主義の熱烈な支持者がいることはいるが、世界のもっとも緊急な課題が、もはや産業主義体制の枠のなかでは解決できないことを認識しはじめた人たちが、何百万という単位でふえつつある。この両者の対立こそ、ここでいう「明日への大闘争(スーパー・ストラツグル)」にほかならない。
 第二の波の既得利権を手放すまいとする人びとと、第三の波の世界に生きようとする人びとのあいだの対決は、すでに各国の政治をとおして、電流のように急速に伝播している。非工業国においてさえ、押し寄せる第三の波によって、これまでの戦線はいや応なしに書き変えられてしまった。農業社会の封建的特権階級と産業社会のエリートとのあいだのこれまでの闘いは、資本主義体制下であれ社会主義体制下であれ、現実化しつつある産業主義の退潮によって、新しい様相を呈することになった。第三の波による文明が出現しつつある現在、急速な産業化は新植民地主義(ネオ・コロニアリズム)と貧困からの解放を意味するのだろうか、それとも実際には、属国状態の永続を保証するものでしかないのか。
 こうした広範な背景を頭に入れてはじめて、われわれは新聞の見出しの意味がわかるようになる。何がわれわれにとってより重要なのか、どうやって自分たちの生活の変化をコントロールする賢明な戦略を立てたらよいのかが理解できるようになる。産業中心主義を維持しようとしている人びとと、それに代わる時代を切り拓こうとしている人びととのあいだで、現在、熾烈な戦いが繰り広げられてわけだが、このことさえはっきり認識すれば、われわれは世界情勢を理解するための、強力な鍵を手にすることができるのである。
 しかし、この道具を使いこなすためには、古い産業中心の文明を延命させる変化と、新しい文明の到来を容易にする変化とを峻別しなければならい。要するに、新旧両方の社会、われわれ大部分の者が生きていた、第二の波の産業中心の社会体制と、これからわれわれ自身およびわれわれのこどもたちが生きていくことになる第三の波の文明を、両方とも理解しなければらないのである。