アルビン・トフラー研究会(勉強会)  

アルビン・トフラー、ハイジ夫妻の
著作物を勉強、講義、討議する会です。

第三の波の政治 006

2011年08月31日 22時27分15秒 | 第三の波の政治

第5章「物質偏重」を添付します。
この第五章も、「パワーシフト」の「第七章 物質尊重!」を改訂して記載しています。
なぜ「尊重!」が「偏重」と改題したか?おもしろいところです。著者の意図しているところは、まさに「物質ばかりを尊重している愚かさが問題だ!」と言う意味で、「偏重」という訳がぴったり当てはまります。
「失業」をテーマとして「新しい仕事」を目指す者にとって、必読の個所となります。
しっかり、読み込んでください。大切な個所です。

この章の中で、「失業の新しい意味」・「頭脳労働領域」・「低度知識対高度知識」・「ロウブラウ(低度知識)のイデオロギー」・「ハイブラウ(高度知識)のイデオロギー」と順序立てて物質偏重の欠落点をまとめて、知識経済への移行(スーパーシンボリック経済)を促しています。これは次に続く「第6章 社会主義と未来との衝突」で明らかになるところですが、第二の波の煙突産業経済が生み出した共産主義思想(科学的社会主義=唯物史観)を根底から止揚(アウフヘーベン)し、金銭経済学(労働=対価)のいい加減さを端的に述べています。

しかし、この論点(労働=対価とする唯物史観)は、2006年に出版される「富の未来」で具体的に論及しますが、すべての社会事象を金銭経済で括りつけて計画経済を破綻させたのが、社会主義国家ではあるが、逆の資本主義社会にあっても、マネタリスト(貨幣信望者)やケインジアン(ケインズ経済学信望者)らが主張し、今も使用しているその理論もまた、経済を破綻させ、多くの失業者を生むことになると述べています。この根本に「物質尊重主義(物質偏重主義)」があるのだとトフラーは、述べているのです。
本章の後段最後で、
『要するに、生産という概念は、ロウブラウ経済における経済学者や観念論者の考え方より、遥かにその範囲をひろげている。そして、今後時代が進むにつれ、生産に取り込まれ、価値を付加するのは安価な労働力ではなく、知識となるし、また原料ではなく、シンボルとなる。
付加価値の源をこう再定義すると、その影響力は大きい。それは自由市場主義とマルクス主義の前提をともに打ち砕き、その両者を生んだ物質偏重主義をも打ち砕く。』
このようにまとめています。まさに2006年の「富の未来」を書く下地がこの時に出来上がったと理解できる個所です。それはさておき、本書で、語句の訂正をしておきます。87ページの「マニタリスト」は、「マネタリスト」に訂正しています。語句説明は、ウィッキペディア等を参照してください。

さて、「知識」の流行と言えば「もしドラ」が有名ですが、またまた柳の下のどじょう本が出版されましたね。題して「ラーメン屋の看板娘が経営コンサルタントと手を組んだら」
㈱繁盛塾代表取締役 木村康宏著 幻冬社新刊1,365円
タイトルは「うまくいく商売の法則がちりばめられた、笑いと感動の物語!
自己流だと、モノは売れない。
-つぶれかけのラーメン店の大将が、健気なひとり娘とドSな妻に叱咤されて、
店舗再生に挑む。頼みの綱は、衝突してばかりの経営コンサルタント!水と油
の二人のバトルは、奇跡を起こすのか?-」
 となっていました。これも「知識」の成せる技ですね。
文字が読めるということは?先の「第三章 究極の代替物」の初めの部分でトフラーが述べたとおりです。
しっかり、読んでいきましょう!

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第5章 物質偏重
ロナルド・レーガンがまだホワイトハウスにいたころのある日、アメリカの長期的未来を討議するため、ホワイトハウスの家族食堂のテーブルの周りに、小さなグループが集まった。グループは八名の有名な未来学者から成り、大統領のほか、副大統領と、新しく首席補佐官に任命されたばかりのドナルド・リーガンがいた。
会合はホワイトハウスの要請により筆者が手はずを整えたもので、技術的・社会的・政治的問題については学者間に多くの異論があるものの、経済全体に質的な変化が起こりつつあることに関しては見解が一致しているとのあいさつで会議ははじまった。
その会議で、首席補佐官のリーガンが、いきなり、「そうすると今後、われわれは床屋とか、ハンバーグを焼いたりするような職業に就くと、君らはみんな考えているのか。この国の偉大な工業力は、もうおしまいというのかね」とがなり立てたため一同が声を失う場面があった。
大統領と副大統領は、受けて立つのは誰かと、席を見回した。テーブルに付いていた男たちのほとんどが、唐突で不躾な発言に唖然としているなかで、リーガンの質問に応じたのは、ハイジ・トフラーだった。「それは違うのです、合衆国の工業力は依然、偉大でありつづけます。ただ工場で働く労働者の数は減るだろうということなのです」と腹立たしさを冷静に抑えて、彼女は答えた。
昔からの工業生産の方法と、マッキントッシュのコンピュータが造られたさいの生産方法の違いを説明しながら、彼女は、農業に従事する人は二パーセントに満たないけれども、合衆国は間違いなく世界最大の食糧生産国の一つである事実を指摘した。実際、過去百年にわたって農業従事者は他部門との比較のうえで減り続けているが、合衆国の農業力は弱くなるどころかかえって強くなっている。工業力についても同じことがいえないはずがない。
驚くべきことに、合衆国の製造工業における1988年の雇用者数は、1968年とほぼ同数の千九百万人強で、その間に何回もの高下はあったものの、結局変わっていない。国民生産に占める製造工業の割合も、三十年前と同じだ。しかし、労働力全体からみると、より少ないパーセンテージの労働者で生産実績のすべてをこなしていることになる。
さらにいえば、この傾向は今後とも変わらないものと思われる。アメリカの人口と労働力は共にふえる勢いだし、多くのアメリカの製造業者は1980年代から90年代にかけてオートメ化と再編を済ませているから、全体からみた工場での雇用の減少はつづかざるをえない。ある推計によると、次の十年間、アメリカでは一日に一万件の新しい職種が創出されると思われるが、工場関係の分は、もしあったとしてもごくわずかだろうという。同じ過程がヨーロッパと日本の経済をも同様に変えつつある。
にもかかわらず、いまにいたってもなお、ドナルド・リーガン風の言葉が、経営不振のアメリカ工業界の社長連、加盟者の減少を抱える組合指導者たち、製造業の重要性を派手に宣伝する経済学者や歴史学者などのあいだから折にふれて、聞こえてくるのである。
こうした言辞の背後には、概して筋肉労働からサービス、頭脳分野の仕事への雇用の移行は、経済に何らかの悪影響を及ぼすし、その結果生じる製造業分野の縮小(雇用の面で)は、経済の空洞化を招くという考えがある。こうした考えは、工業経済を想像することができずに農業こそ唯一の“生産的”活動であるとした十八世紀のフランスの重農主義者の主張を思い起させる。

失業の新しい意味
 製造業の“下降”を嘆く声の多くは第二の波型の利己主義から出たもので、富や生産、失業についての時代おくれの観念に基づいている。
 1960年代以来第二の波型の筋肉労働から第三の波型のサービスの仕事や超象徴的な仕事への移行は広範囲なものとなり、劇的でかつ、あともどりのきかないものとなった。今日のアメリカでは、新分野の仕事は全体の四分の三を占めるにいたっている。これは世界的傾向で、次の驚異的な事実がそれを如実に示している。世界におけるサービスと“知的財産”の輸出量は、電子工学機器と自動車を合わせたものに等しく、あるいは食料と燃料を合わせた輸出量に匹敵する。
 この方面の著者や未来学者はこのような大変化がやってくることを1960年代にすでに予告していたが、この早めに出された警告が無視されたために、この移行は不必要な混乱を引き起こした。
大量解雇や倒産などが経済を見舞ったのである。アメリカ北部・北東部の在来型のさびついた産業は、コンピュータ、ロボット、電子情報システムの導入におくれをとったうえに、組織再編にも手間取ったため、フットワークの軽い企業との競争に完全に負けてしまった。だが、敗者の多くはその責任を外国との競争や、利率や、強すぎる規制など、ありとあらゆるもののせいにした。
 それらのなかのいくつかが影響していたことは否定できない。しかし同様に責められるべきは、自動車、鉄鋼、造船、繊維などアメリカ経済をあまりにも長く支配してきた巨大な煙突型産業の会社群の傲慢さである。近視眼的なそれらの会社の経営陣は、製造工業の立ち遅れにほとんど責任がなく、しかも自らを守ることがいちばん難しい人たち、つまり従業員たちにその罪をおっかぶせてしまった。
 1988年における製造業の雇用総数が1968年と同じレベルだという事実は、その間に解雇された従業員がそのまま元の職場に戻ったことを意味しない。それとは反対に、より第三の波型の先進技術が必要となって、会社はこれまでとまったくちがった能力を有する労働者たちを必要とするようになった。
 第二の波型の古い工場が、基本的に交替可能な従業員を必要としたのに対し、第三の波型の工場での操業は、多様で、しかもつねに向上する技術を必要とする。ということは、つまり、従業員がますます交替不能になるということにほかならない。したがって、この状況は失業問題のすべてを根本から覆す。
 第二の波型の社会、すなわち煙突型産業社会では、資本の投下や消費者の購買力によって経済が刺激され、雇用が増加した。百万人の失業者がいても、経済に呼び水をさせば、理屈のうえでは百万人の雇用を作り出せた。仕事が交替可能、つまり技術をほとんど必要としないものだったので、誰でも一時間以内に要領を修得でき、失業者はすぐにどのような職にもつけたのである。
 だが、今日のスーパー・シンボリック経済のもとではそうはいかない。現在の失業問題が手に負えなくなって、伝統的なケインズ学者もマネタリストも打つ手がなくなっているのは、そのせいなのだ。思い起こせば、大不況対策としてジョン・メイナード・ケインズは、消費者の懐を豊かにするために、政府による赤字支出を要請した。消費者がカネを手にすれば、物を買いに走る。物が売れれば、製造業者は生産を拡大し、もっと人を雇う。そしてそれは“失業よさようなら”ということであった。マネタリストは、その代わりに利率や通貨供給の操作によって、必要な購買力を増減させるよう進言した。
 今日の地球規模の経済下では、消費者のポケットへ入ったカネは、国内経済を助けることなく、そのまま海外へ流出してしまうかもしれない。新しいテレビやコンパクト・ディスク・プレーヤーをアメリカ人が買えば、ドルを日本、韓国、マレーシアなどの国へ送るにとどまってしまう。カネをいくら使っても、自国の雇用に役立つとは限らない。
 しかし、それにも増して古い戦略には、根本的な欠陥がある。知識よりカネの流通になおこだわっている点だ。だが、仕事の口を単に増やすだけでは、もはや失業の減少に繋がらない。問題は仕事の件数ではないからだ。失業は量の問題から質の問題へと移ってしまっているのである。
 失業者自身とその家族が生きていくのには、どうしてもカネが必要であり、彼らにそれなりの公的扶助を与えるのは、当然かつ道義的義務である。しかしスーパー・シンボリック経済において、失業者数を少なくするのに効果的な方法は、富の問題ではなくて、知識の分配の如何にかかっている。
 しかも、新しい仕事は、製造業のような、われわれの頭にすぐ浮かぶ職種ではない。したがって、われわれは人びとに学校教育をさずけ、実習をさせ、人的サービスというのは、例えば、急速に増加しつつある高齢者たちの介護とか、幼児保育とか、さらには健康管理から、個人的なあんぜん、各種の訓練、レジャー、レクリエーション、旅行にいたるまでのサービスのことである。
 また、人的サービスの仕事に対しては“ハンバーグの引っくり返し”などと意地悪い侮辱的な態度をとらず、これまで製造業の技術に払ってきたのと同じ敬意をもたなければならない。教職、デートのサービス機関、病院のレントゲン・センターの業務など広範囲に及ぶ人間活動全部をマクドナルドで引っくくって象徴できるわけがない。
 さらに付言しておくが、しばしば安すぎると批判される、サービス部門の賃金の問題を解決するためには、製造工業関係の仕事の減少を嘆くことではなくて、サービス業の生産性を高めるとともに、新しい型の労働団体と新しい団体交渉の形態を考え出せばよい。基本的に職工や大量生産向きに作られている現在の労働組合は、完全に体質を変えるか、それともスーパーシンボリック経済に見合った新しいスタイルの組織に変えるべきなのだ。組合として生き残るためには自宅勤務体制、自由勤務体制、ジョブ・シェアリングなどに反対せず、逆にこれらを支持することである。
 要するにスーパー・シンボリック経済の出現は、失業問題の全体像を根本から考え直すことをわれわれに強いている。陳腐な思い込みに挑戦することは、同時にそこから利益を得ている連中に挑戦することでもある。第三の波型経済における富創出システムは、このように企業、労働組合、政府のなかで長らく築かれてきた力関係に脅威を与えることになる。

頭脳労働領域 
スーパー・シンボリック経済は失業についてのこれまでの考え方のみならず、労働についての考え方も時代おくれのものにしてしまう。この経済とそれが引き起こす力の争いを理解するには、新しい語彙さえも必要になるだろう。
 “農業”“工業”“サービス”という産業区分は今日では物事を明瞭にするより、むしろ曖昧にする。現代の急速な変化は、かつては歴然としていた区分をぼやけさせた。産業の古い類別に固執する代わりに、レッテルの背後を覗き込み、付加価値を創り出すのに会社のなかでどういうことをしているのか、訊いてみる必要がある。この質問を発しさえすれば、産業三分野のすべてで現代の仕事がシンボリックな工程、すなわち頭脳労働に依存する傾向を強めている事実がわかる。
 農業従事者は穀物飼料の計算にコンピュータを使い、鉄工場の作業者はコンソールやビデオスクリーンをモニターし、投資銀行家は金融市場をモデル化するさい、携帯用パソコンのスイッチを入れる。経済学者がこれらの作業に“農業”とか、“製造業”とか、“サービス業”とか、どんなレッテルを貼ろうとも、それはたいした問題ではない。
 職業上の分類すら、壊れつつある。倉庫係とか、機械運転士とか、販売担当者とか呼んでみたところで、仕事の内容は、はっきりするどころかかえってわからなくなる。したがって今日、労働者を分類する場合には、職種や、店、トラック、工場、病院、オフィスなど、彼らがたまたま働いている場を問題にせず、その仕事を遂行するうえで、どれだけシンボリックな工程、つまり頭脳労働を必要とするかによって区分けするほうがよほど効果的だと思われる。
 “頭脳労働領域”と呼べるもののなかに含まれるのは、リサーチ・サイエンティスト、金融アナリスト、コンピュータ・プログラマー、さらには、一般の書類整理係などである。なぜ書類整理係と科学者が同じグループに入るのか、との質問が出るかもしれない。
答はこうである。
仕事の目的は明らかにちがい、仕事内容の抽象の度合にも大きな隔たりはあるものの、双方とも -そしてこのグループに属する多くの人がそうであるのだが- 情報を駆使するか、あるいは新しい情報を生み出す以外には何もしない。どちらの仕事も完璧にシンボリックなのである。

頭脳労働領域の中ほどに、大きな部分を占める混合的職種がある。筋肉労働を必要とする一方、情報をも操作する仕事だ。フェデラル・エクスプレスやユナイテッド・パーセル・サービスなどのドライバーは、箱や小包を上げ下ろしし、トラックを運転するが、同時に傍らに置いたコンピュータをも操作する。先進工場での機会の操作員は、高度に訓練された情報操作者でもある。ホテルの事務係や、看護士などの職種は、人間を相手にした仕事だが、勤務の相当時間を情報の創出、入手、送り出しにも充てている。
例えば、フォード販売会社の自動車整備士は、いまだに油で汚れた手をして仕事をしているかもしれないが、まもなくヒューレット・パッカード社でデザインされたコンピュータ・システムを使うようになるだろう。このコンピュータには、故障個所の発見を助ける“エキスパート・システム”が組み込まれていて、CD-ROMに内臓されたデータや100MBの図面を瞬間的に引き出せる。このシステムは修理中の車について、より多くのデータを求めたうえで、整備士が技術的要素がいっぱいつまった情報のなかから直感的に検索するのを許し、また自らも推理する。そのようにして、整備士を修理個所へと導いていくのである。
整備士がこのシステムと情報を交換し合っているとき、果たして彼は“メカニック”だろうか、それとも“頭脳労働者”だろうか。
頭脳労働領域の底辺に位置する純然たる肉体労働は、いまや姿を消しつつある。経済のなかで肉体労働がわずかになった現在、“プロレタリアート”は少数派となり、代わりに“意識労働者階級(コグニタリアート)”が多数を占めるようになった。より正確にいえば、スーパー・シンボリック経済が花開くにつれ、プロレタリアートはコグニタリアートに変身するのである。
今日の仕事に関する重要なポイントは、どれだけ情報を取り入れた仕事か、どれだけプログラム化できるか、どの程度の抽象性が含まれているか、中央のデータバンクと経営情報システムにどれだけタッチできるか、どれだけ自分の判断と責任で仕事を進められるか、ということなのだ。

低度知識(ロウブラウ)対高度知識(ハイブラウ)
 このような大規模な変化は、力の争いを引き起こすことになるが、頭脳労働領域という基準で会社を考えれば、その争いでどの会社が勝ち、どの会社が負けるかが容易に予測できるだろう。
 会社を分類するさい、製造業、サービス業といった各目的なちがいにとらわれず、従業員が実際に何をしているかを基準にする必要がある。
 例えばCSXという会社はアメリカ合衆国の東半分に鉄道網をもっているが、同時に世界最大級の大洋運航のコンテナ船事業も経営している。しかし、CSX社は自分たちの事業が情報ビジネスであると、次第に考えるようになってきている。
 CSX社のアレックス・マンドルは「われわれのサービス事業における情報的要素はどんどん大きくなっている。商品を運搬するだけでは、もう不十分だ。お客は情報を欲しがる。商品はどこで集め、どこで降ろすのか、毎日の何時にどこへその商品を運ぶのか、料金は、関税はどうなっているか、などなど。情報なしでは動かぬ事業である」と言っている。ということはCSX社の従業員中に、頭脳労働領域の中位から上位にかけての仕事をする人間がふえつつあることを意味する。
 このことから考えると、どれだけ知識に頼ることが多いかによって、企業を“高度知識”“中度知識”および“低度知識”の三つに大まかに分けることができよう。ある会社、ある産業は他に比べて富を創出するのに、より多い情報をその工程上に必要とする。となれば個人的職種と同じように、会社もまた必要とする頭脳労働の量と複雑度によって、頭脳労働領域のある一定の線上に位置づけることができる。
 ロウブラウの会社は、一般に頭脳労働をトップと少人数だけに集中させ、ほかのもの全員を筋肉労働や頭を使わない仕事に就かせる。労働者は無知であり、労働者の知識はあくまで生産には無関係だという考えが経営上の前後になっているのである。
 ハイブラウ部門でも今日、「単純作業化」の例がみられる。つまり仕事を簡略化し、できるかぎり細分化し、さらに一工程ごとに製品のでき具合をモニターするのである。しかし二十世紀の初頭、工場で利用するためにフレデリック・テイラーが考案した方法を、いま適用しようという試みは、ロウブラウの過去の波であって、ハイブラウの将来に資するものではない。反復的かつ簡単で、頭を使わずに遂行できる仕事は、すべてロボット化される運命にある。
 経済が第三の波型生産に移行するにつれ、すべての会社は知識が果たす役割の再考を迫られていく。ハイブラウ分野でもっとも賢い企業は、真っ先に知識が果たす役割を再考する会社であり、仕事そのものを再編成する会社である。そういった会社は、頭を使わない仕事を最小限に圧縮し、先進技術に切り替えれば、従業員の潜在能力が最大限に生かされ、生産性と利潤率は飛躍的に増大するという前提に立って経営する。高賃金で、しかもより少ない人数の、より賢い労働力の獲得を目指しているのである。
 仕事上、なお筋肉を使う必要のあるミドルブラウの経営でさえ、知識への依存度をますます高め、頭脳労働領域の占める地位を上昇させつつある。
 ハイブラウな会社は通常慈善的な法人ではない。そこでの仕事は一般的にロウブラウな操業と比べ肉体的につらくなく、環境も申し分ないほうだが、そうした会社は、概して、ロウブラウな会社よりも従業員から多くのものを引き出そうとする。従業員は合理的な考え方をするようにしむけられるだけでなく、自分の感情、直感、想像力をも仕事に注ぎ込むよう勧められる。このためマルクス主義の批評家は、この点を取り上げて、労働者に対する、より邪悪な“搾取”だというのである。

ロウブラウのイデオロギー 
 ロウブラウの工業経済では、通常、富が財貨の所有によって測られる。財貨の生産が経済の中心だと考えられているからだ。一方、シンボリックでサービス的な活動は、必要ではあるものの、非生産的なものと見なされる。
 自動車、ラジオ、トラクター、テレビなどの商品の製造は“男性的”な活動と見られ、実際的、現実的、あるいは手堅いといった言葉が付いて回る。対照的に知識の生産、あるいは生産情報の交換は単なる“書類いじり”と軽んじられる。
 こうした態度から、次のような見方が次々と生まれてくる。例えば -“生産”というのは、物質的原料と機械と労働の結晶である・・・会社のもっとも重要な財産は、形のあるものである・・・一国の富は商品貿易の黒字から生まれる・・・サービス業は商品取引きを助長したときのみ意義をもつ・・・大部分の教育は、それが職業専門的でない限り、無駄である・・・調査研究は実体のない、浮ついたものである。何が大切かといえば、結局それは物なのである。
 こうした考えは資本主義社会の低俗な実業家だけがもっているわけではない。共産世界でも似たような現象が見られる。マルクス経済学者にとって、彼らの枠組みのなかへハイブラウな仕事を嵌め込むことは、なかなかむずかしい。芸術における“社会主義リアリズム”というと、大きな歯車、並び立つ煙突、蒸気機関車といった背景にシュワルツェネッガー的筋肉を盛り上がらせた、多数の幸福な労働者が描かれている。こうしたものがプロレタリアートの栄光であるといい、それがまた前進的な変化の先駆けをするのだという理論は、いずれもロウブラウ経済の原理を反映したものである。
 以上述べたような考えが合体した結果できたのは、個々ばらばらな意見やら仮説やら感情的な傾向やらを寄せ集めた、単なる混合物ではなかった。一つのイデオロギーが形成されたのである。そして、このイデオロギーは、男性的物質主義とでもいうべきもの -がさつで、鼻柱の強い「物質偏重主義」- を土台とし、自己を強化し正当化していったのだった。つまり事実上、第二の波の大量生産のイデオロギーとなっていたのは、「物質偏重主義」だったといえるのである。
 昔であれば、物質偏重主義も意味をもちえたかもしれない。だが、いまは、大部分の製品の真の価値が、製品のなかに嵌め込まれた知識によりもたらされる時代である。そのような時代においては、物質偏重主義は反動的で、かつ愚鈍なものでしかない。物質偏重主義に基づく政策を追求するかぎり、いかなる国家も、二十一世紀には最貧国にならざるをえないのだ。
 
ハイブラウのイデオロギー
 第三の波型の経済に重大な関心と利害をもつ諸企業、諸機関、そして人びとは物を偏重する考えに対抗する首尾一貫した理論的基礎を、まだ形づくっていない。しかし基盤となる考えのいくつかは、形を整えつつある。
 新しい経済学の最初の断片的な基礎は、次のような人びとの、いまだ世間に認められていない著述のなかに垣間見ることができる。故ユージン・ローブルは、十一年間を共産主義国チェコスロバキアの牢獄で過ごすあいだに、マルクス経済学と西側の経済学の双方の仮説を深くかんがえなおしてみた。香港のヘンリー・K・H・ウーは、“富のいまだ見えざる局面”を分析した。ジュネーブのオリオ・ギアリエは将来のサービス業についての分析で、リスクと不確定性原理の概念を導入した。アメリカのウォールター・ワイスコフは経済発展における非平衡条件の役割について書いた。
 今日の科学者は、システムが乱気流のなかでどう動くか、秩序が混沌状態のなかからどう進化するか、発展中のシステムが多様性のある高度のレベルへとどう飛躍するのか、問い続けている。ビジネスや経済にとってこのような問いかけは、まことに的を得たものである。経営管理学の本でも“混沌のうえに築かれる繁栄”について述べている。“創造的破壊”こそ進歩にとって不可欠といったジョセフ・シュムペーターを、経済学者たちは見直しつつある。乗っ取り、企業分割、再編成、倒産、操業開始、ジョイントベンチャー、内的再編成といった嵐のなかで、経済全体は新しい構造をもちつつあり、その構造は古い煙突型経済とは異なり、あっというまに多様化し、急速な変化を遂げ、より複雑化していく。
 多様性の高度なレベルへのこの“飛躍”と、そのスピード、複雑性は同時に、これに対応する、高度で、より洗練されたかたちでの統合を必要とする。ということは、一段と高いレベルでの知識による処理が要求されてくる。
 十七世紀にルネ・デカルトが書いたことに従い、産業主義の文化は問題や過程をより小さな構成分子へと限りなく分解できた人に報酬をあたえてきた。この分解的、分析的なアプローチが経済学に持ち込まれた結果、コマ切れ段階をひとつづきとしたものが生産だという考え方が生まれるのである。
 スーパー・シンボリック経済から生じる生産の新しいモデルは、これとは劇的に異なる。全体的、または統合的な見地に基づき、生産は同時的、合成的なものとする見方がますます強くなる。過程の各部分は完結的でなく、互いに切り離すこともできない。
 “生産”というのは、工場にはじまり工場に終わるものではないことが、あらためて理解されつつある。経済的生産の最新モデルは、かくてそのプロセスを上流と下流の双方へ伸ばしている。 -製品が売れた後までも、その製品に対してのアフターケア、ないしは“サポート”に責任をもつ。自動車を売ったときは修理に関して責任をもち、コンピュータを買った人には後々までサポートをつづけるといった具合である。それほど遠くない将来に、生産という概念は製品を使用したのちの環境的安全廃棄問題までも含むことになるだろう。各企業は、使用したのちの浄化方法までをとりしきり、また部品のデザインを変えたり、コスト計算や製造法を再考したりなどして、準備しなければならなだろう。そうしながら、製造部門よりサービス部門により多く気をくばり、製品価値を増やすことになる。“生産”はこうした機能をすべて含むことになるはずである。
 同様に、そのような生産の定義が後方部門へ延長されれば、従業員の研修、幼児保育への配慮、その他のサービスといった機能も含まれてくる。不遇をかこつ筋肉労働者も“生産的”に変えられねばならない。高度にシンボリックな活動においては、心地よく働く労働者はより多く生産する。したがって、生産性の問題は、従業員が会社へくる前からはじまる。昔気質の人には、このような生産の定義の拡張は、わけのわからぬばかげたものに映るだろう。しかし、生産を孤立した段階とみずに、全体としてシステマティックに考えることに慣れた新しい世代のスーパー・シンボリック型指導者にとって、それはまったく自然なことである。
 要するに、生産という概念は、ロウブラウ経済における経済学者や観念論者の考え方より、遥かにその範囲をひろげている。そして、今後時代が進むにつれ、生産に取り込まれ、価値を付加するのは安価な労働力ではなく、知識となるし、また原料ではなく、シンボルとなる。
 付加価値の源をこう再定義すると、その影響力は大きい。それは自由市場主義とマルクス主義の前提をともに打ち砕き、その両者を生んだ物質偏重主義をも打ち砕く。かくして、物質偏重主義に根ざす二つの思想、すなわち、価値は労働者の背の汗からだけ生まれるという考えと、価値は輝かしい資本主義的企業家によって生み出されるという考えは、ともに、政治的にも経済的にも誤りで人を迷わせるものだとうことが明らかになるのである。
 新しい経済のもとでは、受付係、資本を集める投資銀行家、キーパンチャー、セールスマン、システム・デザイナー、通信専門家といったすべての人が価値を加える役割を担う。さらに重要なのは消費者もそうであることだ。価値はプロセスのなかの切り離された単一の段階がもたらす果実ではなく、全体の努力から生まれる果実となる。
 高まりつつある頭脳労働の重要性は、たとえ製造業の土台が消えていったあとに起こる恐ろしい結果について警告したり、あるいは“情報経済”の考えを嘲けったりするような、幾多の恐怖物語が出版されようとも、消え去るものではない。富がいかにして創出されるか、という新しい考えも同様である。
 なぜならわれわれの目前で起こりつつあるのは強大な第三の波の諸変化の収斂 -資本とマネーの質的変革を伴って到来する、生産の質的変革- だからである。三者は一体となって、この地球上に革命的な富創出の新しいシステムを作り上げていく。