アルビン・トフラー研究会(勉強会)  

アルビン・トフラー、ハイジ夫妻の
著作物を勉強、講義、討議する会です。

第一部 第三章 諸文明の衝突

2012年10月09日 00時38分06秒 | 戦争と平和
さて、数ヶ月ぶりになりますが、トフラーの「戦争と平和」を再開します。
このブログでは、極力本文を抜粋しないように心掛けますが、著作権もありますので
丸写しではアップしません。ポイントも外し、深く読みたい方は、公共図書館または
本を購入して読了してください。では、続きを。





WAR AND PEACE IN THE POST-MODERN AGE 1992
アルビン・トフラーの戦争と平和  21世紀、日本への警鐘

第一部
第三章 諸文明の衝突
明日の時代の戦争の形態は、3つの生活様式がぶつかり合う中で決定されるだろう。
現代のメディアが、民主主義や、市場主義や、民族独立の世界的広まりについて云々している間にも、はるかに深いところで何かが起こりつつある。
最新の新聞見出しの裏にあるものを見抜いたり、テレビの報道を単なる騒々しさ以上のものとして聞き取れるためには、メディアが使っているカテゴリーを超えた発想が必要である。国家、宗教、民族集団、政治的イデオロギーなどを超えて滔々と流れる歴史に目を向ければ、無視されていた事柄や、以前は見えなかった物事が見えてくる。その時、今日の世界は基本的には三つの文明、すなわち前近代、近代、脱近代文明に分かれている、ということがわかってくるだろう。
 前近代文明は、それが中国やメキシコのものであろうが、はたまたヨーロッパに見られるものであろうが、必ず大地と結びついている。場所により形態に違いがあっても、また言語や宗教・信仰がまちまちであっても、前近代文明が、あくまで歴史的変革の第一の波、つまり農業革命の産物であることに変わりはない。今日でも、前近代的農業社会の中で、何世紀も前に祖先がやっていたのと同じように、痩せた土地を掘り返しながら、生活し、そして死んでいく大勢の人びとがいるのである。
 近代文明の起源については、いろいろな説がある。中には、その源を、ルネサンスあるいはそれ以前の時代にまでたどる歴史家たちもいるほどだ。しかし、多くの人びとの生活に根本的な変化が生じたのは、大雑把に言って、330年ほど前のことと考えるのが理に適っているように思われる。ニュートン学説が生まれたのがその時代だった。また、蒸気機関が初めて生産に利用され、イギリス、フランス、イタリアで初期の工場が急増しだしたのもその頃である。農民は都市への移動を開始した。大胆な、新しい思想も広まりはじめた。進歩的思想、個人の権利に関する耳新しい理論、ルソー的な社会契約思想、世俗主義、政教分離論、そして、指導者は神権によってではなく人民の意思によって選ばれるべきだとする新思潮などが登場したのだった。
 こうした変化の多くを促進する力になったのは、富を創出する新たな方法、すなわち工場生産であった。そして、まもなく、さまざまな要素が結合し、一つのシステムを作り上げた。それは、大量生産、大量消費、大衆教育、マスメディアなどが、相互に関連する形で繋ぎ合わされたもので、学校、企業、郵便局、政党などの専門機関がそれを支えたのである。家族構成までもが変化し、数世代が共棲する農村風の世帯から、産業社会特有の小規模に分解した核家族へと移行した。
 これら多くの変化を体験した人びとには、生活はさだめし混沌としたものに思われたことだろう。しかし、じつのところ、そうした変化は、すべて相互に深い関連を持っていたのである。それらは、単に、第二の波の文明である大量産業社会、すなわち私たちの言う近代社会が成熟期へと向かうステップに過ぎなかったのだ。
 この新しい文明は、あらゆる段階で猛烈な抵抗を受けながらも、歴史に楔を打ち込んでいった。産業化しつつある国では、例外なしに、近代化を目指す人びとと前近代的な勢力との間で熾烈な闘争が起こり、幾度となく血が流された。前近代勢力の先頭に立ったのは地主たちだったが、大方、教会(自身も大地主であった)が彼らの後ろ盾となっていた。
 いつ果てるとも知れぬストライキや抵抗運動、国内動乱、国境紛争、民族主義的暴動などが噴出したのは、近代と前近代の戦いが時代の中核的紛争となったからである。つまり、その緊張を中心にして、他の紛争が派生したのである。このパターンは、産業化の道を歩む、ほとんどすべての国で繰り返された。アメリカ合衆国では、北部の産業派が南部の農業エリートを打ち破るのに、凄惨な南北戦争が必要とされたのである。かくして、近代は前近代を制圧したのだった。
 興隆する新文明は、国家間の関係も不安定なものにした。産業化の波は、国内市場の拡張とそれに伴う国家主義的イデオロギーをもたらした。国家統一の戦争が、ドイツ、イタリアなどの国を駆け抜けていった。新文明の成長度の違い、市場獲得競争、工業技術を利用した武器生産など、ありとあらゆる変化が既存の力関係を覆し、19世紀半ばから後期にかけてヨーロッパと近隣諸国を引き裂いた戦争の大きな誘因となったのである。世界の力のバランスは、オスマン帝国とツァーの支配する封建ロシアから近代化されつつあるヨーロッパへと移り始めた。大きな第二の変革の波の産物である近代文明がいち早く根を下ろしたのは、広大な大西洋の北岸であった。
 大西洋の強国は近代化するにつれ、市場と遠隔地の安価な原料が必要になった。かくして、産業先進国は植民地征服の戦いを推し進め、アジア・アフリカ中の前近代国家を支配するに至ったのである。
 こうして、近代化推進派は、国内の権力闘争に勝ったのとまったく同じように、より大規模な世界的覇権の争奪戦をも制した。一世紀以上にもわたり世界の構図を基本的に決定したのも、やはり、
近代化推進派対反近代化派の中核的紛争だったのである。これにより枠組みができあがり、それ以降の戦争は、おおむね、その枠内で行なわれることになった。
 さまざまな原始的農業集団間の部族戦争や地域戦争も、昔ながらの形態でひっきりなしに起こった。しかし、これらの戦いは大して意味のあるものではなく、結局双方の力を弱めることにしかならず、その結果、両者ともに、やすやすと産業文明化された植民地支配勢力の餌食になるということが多かった。南アフリカで、セシル・ローズ(訳注:アメリカにはセシル・ローズ資金という奨学金があり、フルブライト元上院議員やクリントン大統領はその資金でオックスフォード大学に留学した)とその軍隊が、原始的な武器で必死に戦い合っていた農業部族集団から広大な土地を奪い取ったのも、その一例である。
 世界のその他の地域でも、なんの関係もなさそうな戦争がいくつとなく起こったが、これらも、じつに、いがみ合う国家間の紛争としてではなく、勢力を競い合うふたつの文明間の世界的対決の表れとして捉えることができる。しかし、まさに近代最大の、そして最も多く血を流がした戦争は、ドイツ、イギリスなどの近代国家が激突した産業国間戦争であった。そうした戦争では、各産業国が、世界中の前近代国を配下に従えながら、世界の覇権をかけて争ったのである。
 最終的に、世界ははっきりと区分された。産業時代は、世界を、支配勢力としての近代文明圏と、不満を持ちながらも従属する多数の前近代国家とに二分したのである。私たちのほとんどは、近代と前近代とに分割された世界で成長した。そして、どちらの文明が優勢であるかは、私たちの目には歴然としていた。
 今日、世界文明の構成は変わった。現代の力の分布は、前代とは完全に異なる形へと急速に変貌しつつある。世界は二つの文明ではなく、三つの対照的で、かつ敵対し合う文明に分割されようとしているのである。その三つの文明は、それぞれ鋤、流れ作業、そしてコンピュータによって象徴される。
 この三分割された世界では、前近代的セクターが農産物と鉱産資源を供給し、近代セクター(ますます後退しているが)が安い労働力で大量生産を行い、そして、急速に拡大しつつある脱近代セクター、すなわち第三の波のセクターが全体を統括する地位に上ろうとしている。
 コンピュータ化された脱近代経済においては、大量生産はすでに時代遅れな生産形態と化している。そこでは、少量多種生産-短期稼動の高度注文生産-こそが先端的生産形態なのである。サービス業務が著しく増え、情報のような無形資産が重要資源となる。教育水準が低かったり、技術を身につけていない労働者は職を失う。産業スタイルの古い巨大産業は、自らの重みに耐えかね瓦解する。大量生産の時代に栄えたゼネラルモーターズ社、IBM社、アメリカ電話電信会社などはいまや不安定な状況下におかれている。大量生産分野の労働組合の規模は縮小される。生産部門同様、メディアも多種化され新しいチャンネルが増えることにより大テレビ局の経営はこれまた不安定なものになってきた。家族構成も非マス化される。近代の標準形態であった核家族は少数形態に転じ、父子・母子家庭、再婚夫婦、子供のない家庭、そして独り住まいの世帯が増えるのである。
 したがって、社会の構造全体が変わることになる。近代社会の均一性は、脱近代文明の不均一性に場を譲ることになるのだ。
 文化は、基準が明確に定められ、階層的に体系化されていたものから、思想、イメージ、シンボルが渦巻くものへと移行している。そして、個人は、花でも摘むかのように個々の要素を拾い上げ、それらでもって自分のモザイク画やコラージュを作り上げる。既存の価値基準は激しく攻撃されるか、さもなければ、まったく無視されることになる。
 脱近代経済は加速的な加速的なスピードで展開するため、その中にいる前近代的供給者は、なかなかそのペースについていけない。おまけに、情報が大量の原材料や労働などの代わりを務める傾向が強くなるにつれ、脱近代世界は、前近代世界に-そして市場を除けば、近代世界にすら-依存することが少なくなる。言い換えれば、こうした変化は、富める経済組織を、貧しい経済組織から切り離す恐れがあるのだ。
 しかしながら、完全な分離はあり得ない。なぜなら、汚染、病気、そして移民が脱近代国家の国境を浸透するのを防ぐわけにはいかないからだ。また、かりに貧しい国家が、世界中に害を広めることを目的に環境を操作することによって環境戦争を仕掛けてきた場合には、富める国家といえども生き残ることはできない。これらの理由から、脱近代文明と他の二つの文明間では、絶えず緊張が持ち上っているのである。したがって、新たな文明は、かつての近代文明と同じように、世界の覇権を確立するために戦うことになるだろう。
 二分割された世界から三分割された世界への移行は、地球上の最も根源的な権力闘争を引き起こす引き金となる。
 今日の武力紛争の多くと来るべき戦争とは無関係のように見えるけれども、前世紀の民族統一の戦いや植民地戦争同様、それらは、ともに、地球上に新文明が加速的に波及することによってもたらされる、とてつもない緊張関係から派生するものなのだ。
 もちろん、すべての武力衝突が、私たちが言う中核的紛争から生じるわけではない。中東紛争、イスラム教対キリスト教など他宗教との深まる対決、かつてのソビエト連邦内の極度の情勢不安、こうした事柄はすべて一触即発の危機を孕むものである。旧ソ連の各共和国間で、近い将来、ないしは中期的将来において武力衝突が起こる可能性は依然として高い。ユーゴスラビア型の民族戦争が東欧の他の地域で勃発する可能性も否定できない。テロリストの攻撃も大いに考えられるし、麻薬王、もしくは麻薬王によって間接的に支配されている国との戦いが拡大することも十分に有り得る。
 実際、これだけ多くの危険な緊迫点が現にあるからには、ハイテク列強の一つ、ないしは複数のハイテク国家を巻き込んだ戦争が、10年もしくは20年のうちに起こる可能性はきわめて高いのである。
 これら一触即発の危機を孕む引火点はすべて、なんらかの点で文明の衝突と関連があるのだが、それらが生じる原因は他にもある。まして、歴史的激動の時代である。偶然が果たす役割も平静時より大きい。見通しはますます悪くなっているのだ。
 こうした状況に、戦略家たちは大いに頭を悩ませている。世界中の国の軍部が不測事態対応計画び策定に取り組み、問題が突発する可能性のある地域を想定しながら仮想戦争のシナリオ作りをしている。ペンタゴンが最近作成した計画は、不特定の「侵略大国」を対象としているだけではない。そこでは、イラク、北朝鮮、フィリピンおよびパナマのクーデター、さらにはロシアによるリトアニアとポーランドの攻撃を含む7つの特定された仮想戦争も取り扱われている。
 次の世界的問題となる紛争の場がなかなか予想できない中で、現在、ペンタゴンの戦略家たちは包括的なシナリオも作成中だ。たとえば、アメリカ市民救難を目的とする米軍の軍事介入を想定した2000マイル・シナリオや6000マイル救難シナリオがそれである。ソビエト連邦再編シナリオさえ考えられている。
 政治家やジャーナリストの中には、将来、戦争は、起こっても「小さな戦争」、つまり「地域紛争」にかぎられる、という相変わらずの意見がある。だが、未来に対する不透明感が広がる中で、
もし従来の考えが間違っているとしたら、どうなるのか。
 政策立案者やマスコミに登場する専門家諸氏のほとんどが目を一方にのみ向けている間に、中核的紛争の展開に合わせて、他のどこかで明日の時代の鍵を握る危機的状況が持ち上がったら、どうなるのだろうか。しかも、明日の戦争が、もはや周辺地域に限定されたものではなく、世界で最も「先進的」で富裕な国を巻き込む形で繰り広げられたとしたら?日本は巻き込まれることはないのか。ドイツ、フランスはどうか。未来の中国は?
 にわかには信じがたいが、大いに起こる可能性のあるシナリオを、二つだけ検討してみよう。











アルビン・トフラーの戦争と平和 002

2012年06月21日 23時09分29秒 | 戦争と平和
WAR AND PEACE IN THE POST-MODERN AGE 1992
アルビン・トフラーの戦争と平和  21世紀、日本への警鐘

第一部
第二章  周辺地域での殺戮
 今日、いちおうの知識を身につけた大人に、第二次世界大戦後にどんな戦争があったかを尋ねれば、躊躇なく、朝鮮戦争(1950~1953)、ベトナム戦争(1957~1975)、アフガ二スタン紛争(1979~1992)、アラブ・イスラエル紛争(1967、1973、1982)、湾岸戦争(1990~1991)と述べ、その他に、あるいはもう2,3の戦争があったかも知れないと言うだろう。
 しかし、数え方次第では、にわかに「平和」が訪れた1945年以降、世界中で勃発した戦争・内戦の数は、150から160にも上るということ、また、総計でおよそ720万の兵士が惨めな死を遂げたということを知っている人は、ほとんどいない。720万というのは戦死者だけの数であって、負傷した者、拷問にかけられた者、あるいは手足を切断された者はその中に含まれていない。それ以外にも、その数をはるかに上回る民間人犠牲者や、戦争の余波で死んでいった人びとがいるのだ。 
 皮肉なことに、あの第一次世界大戦での総戦死者数でさえ、約840万人で、720万人という数を若干上回っているにすぎない。ということは、かなりの誤差を見込んでも、戦闘犠牲者の数からすれば、驚くなかれ、世界は、1945年以降現在に至るまでに、第一次世界大戦にほぼ匹敵する戦闘を繰り返したことになる。
 民間人の死亡者も加えれば、死者総計は3300万人から4000万人という膨大な数になる。そして、この数の場合にも、負傷者、強姦された女性、行方不明者、戦病者、財産を失った者は含まれていないのである。
 戦闘は、ブルンジ、ボリビア、キプロス、スリランカ、マダガスカル、モロッコなどで繰り広げられ、人びとは、銃、剣、爆弾、毒ガスなどを武器に殺し合いを続けてきた。今日、国連加盟国はおよそ175ヵ国だが、そのうち戦争体験のある国は優に60を超える。SIPRI(ストックホルム国際平和研究所)の調査によると、1990年だけでも、続行中の武力紛争は31件を数えたという。
 実際、1945年から1990年までの2340週のうち、この地上が真に戦争から開放された週は全部で3週間しかなかったのだ。したがって、1945年から現在までの期間を「戦後」と呼ぶのは、悲劇と皮肉をごちゃまぜにするようなものである。
 ところで、この間のおぞましい戦いを一つ漏らさず丹念に拾い上げてみると、そこには、特定のパターンが見出せる。
 過去数十年間続いた核による米ソ関係の膠着状態は、事実上、1950年代以後の世界の安定に役立った。全世界がまったく異質な二つの陣営に区分される中で、各国は、自国が世界体制のどこに位置しているのかを、多少なりとも知っていたのである。60年代に入ると、米ソ二大国の直接戦争の行き着く先は「相互確証破壊(MAD)」であるとの認識ができあがった。その結果、それ以降の戦争は、二極体制の、いわば周辺へと押しやられることになる。20世紀後半の戦争による災禍は、世界体制の中心部ではほとんど見られなくなり、大量殺戮は、もっぱら周辺地域で行われたのである。
 かくして、戦火が燃え盛ったのは、ベトナム、イラン・イラクであり、カンボジア、アンゴラ、エチオピアであり、あるいは、さらに周辺部の第三世界の地域であった。戦闘が主要な大国の領域内で行われたことはなく、したがって、大国の経済にとって大問題となることも決してなかった。
 最近では、年間に約7500億ドルが軍事目的で使われているが、その軍事費を計上してきたのは主に超大国とその同盟諸国である。この莫大な金は、大国が支払う「保険料」と考えてもいいだろう。なぜなら、大国はそうすることにより、自国の国境線内で戦争が起こるのを防いでいるのだから。しかし、この莫大な軍事費を保険料とみたてる人はあまりいない。
 アメリカと旧ソ連の二超大国は、従属国や衛星国、もしくは同盟国が行った、いくつかの戦争については、兵器、物資、さらにはイデオロギーという武器をも供与することにより、明らかに火に油を注ぐようなことをやった。しかし、全般的に見れば、おそらく治安警察国としての役割を果たした場合のほうが多いだろう。両国は、属国間の紛争を抑えたり、局地的な争いの調停をしたりし、陣営内の結束が乱れないようにと平素から気を配っていた。彼らは、最終的に戦火が核戦争へとエスカレートすることを恐れていたのである。
 (次の事実は注目に値する。ソ連の主要な従属国イラクのサダム・フセインは、ソ連から大量の武器を供与され、同時にソ連式の訓練を受けた軍隊を保有していたわけだが、中東におけるソ連の力が薄れ、モスクワがもはや彼を抑えることができなくなった時に初めて、クウェートへの侵攻を開始したのだった)
 今日では、上から属国を抑え込むことのできる強国は姿を消してしまった。ソ連陣営は消滅したし、自由陣営に属する国も、湾岸戦争の際のように、自国の利益が明らかに危機に瀕している場合を除いては、ワシントンに注意を払うことが少なくなってきている。
 ワシントンも、ブリュッセルも、ベルリンも、そして、もちろん東京も、明日の戦争は「第三世界の戦争」であり、したがって、戦争の周辺化(戦争当事者にとっては「周辺」どころではないが)という従来の傾向が続くだろう、との確信のもとで安閑としているところがある。だが、もし、この仮定が間違っていたらどうなるのか。
 「先進」経済に支えられた民主主義国家間では戦争が起こることはないだろう、という考えが、結局、誤りであったとしたら、どんなことになるだろう。たとえば、日米間の戦争はまったく有り得ないのだろうか。ドイツが威を振るいだした時、ヨーロッパの他の諸国はドイツの支配を快く受け入れるのだろうか。
 最近自己主張の強くなったドイツは、ヨーロッパ共同体(EC)に、ユーゴスラビアの解体とクロアチアの分離を強引に承認させた。ところで、クロアチアは、第二次大戦中にナチスドイツを熱狂的に支持した国である。ドイツは、クロアチアの分離を承認させるに当たって、フランスや他のEC加盟国の強い反対を押し切った。近隣諸国にとってさらに心配なのは、ドイツが弱小従属国家からなる東欧圏を作ろうとしていることだ。おまけにドイツは、ドイツ系ロシア人の自治区を作るよう、ソ連解体後のロシアに強く圧力をかけてきたのである。
 新国家内での少数民族に対する保護政策は、外部の世界にとっても重大な関心事である。しかし、ポーランドのドイツ系市民の場合はどうなるだろうか。ドイツ系住民が問題となる国家はまだ他にもある。1938年にドイツがどんな口実を設けてチェコスロバキアのズデーテン地方を占領したか記憶している人びとは、こうしたニュースを聞き、不吉なことが起こるのではないかと心をいためた。
 再び台頭してきたネオ・ナチズム運動は、由々しき民族的憎悪を煽り立てながら、すでにヨーロッパ一帯に広まりつつある。この運動が餌にしているのは、他民族の大量流入に対する恐怖心なのだ。基本的には依然として繁栄を続けている西欧で、こうしたことが現に起こっているのである。かりに、なんらかの理由で、ヨーロッパ経済がさらに引き締められるようなことにでもなったら、この過熱しつつある人種主義、報復主義、民族意識がどうなるかわかったものではない。太平洋地域の技術革新やその他の変化にますますついていけなくなれば、ヨーロッパ経済の縮小という事態も起こり得る。その結果、万一、失業率が急上昇したらどんなことになるのか。現在の国境線が侵されることはない、とか、近代から脱近代への過渡期にある国家間では決して戦争は起こらない、などとは誰にも言い切れないのである。
 このようなシナリオは、目下のところは、飛躍しすぎたものと思われても仕方がない。しかし未来は、往々にして、不可能とまでは言わないが、可能性が非常に薄いと思われる出来事で成り立つものだ。
 将来そのような国家間対立が生じる可能性はきわめて低い。けれども、極端な方向に進むことも有り得るのだから、政治家、財界の指導者、そして、とりわけ軍の高官たちがその可能性を無視するとしたら、愚かと言う他はない。現在、たいへん不安なのは、米ソ二大警察国が世界の安定のために維持してきた強固な枠組みが取り払われると同時に、すべての思惑が宙に浮いてしまったころである。したがって、脱冷戦的思考でさえ時代にそぐわないというのに、政治家や軍の高官たちが、相も変わらぬ冷戦時代の頭で物を考え、私たちが直面している文明上の大変動を無視するかぎり、国家間の紛争の起こる危険性は増すことになるだろう。
 明日の時代の形を本質的に規定するのは経済戦争だ、とする欧米(とくにアメリカ)の知識人たちの大合唱が、今日、高まりを見せている。聡明な戦略家であるエドワード・ラットワックは、「地理経済」的新時代においては軍事力の重要性は減少しつつある、と主張する。カリフォルニア大学ロサンゼルス校にある国際関係センターのリチャード・ローズクランス教授は、「貿易国家の興隆」について言及し、これらの国は国家間協力に頼り、相互依存的であるため、互いに武力衝突する傾向は少なくなる、と語っている。また、C・フレッド・パーグステン国際経済研究所所長も同じテーマを取り上げ、新世界体制下では「安全保障問題より経済問題が優先される」という意見を述べている。
 これらの説は人の心を明るくしてくれるが、その評価は慎重に行わなければならない。表面的には理に適っているように見えても、その実「眉唾」なところがあるからだ。そこでは、より大きな歴史的現実が見過ごされているのである。
 国家の政治的指導者は会計係ではない。彼らは、必ずしも、経済的損益計算をしてから戦争に突入するわけではない。その代わりに彼らが計算に入れるのは、自身が政治権力を掌握し、保持し、
拡張する機会があるかどうかである。まして、「地理経済的戦争」は、軍事紛争の代替物ではない。多くの場合、それは実際の戦争への序曲-むしろ、誘因と言うべきか-にすぎない。
 経済的計算が重要な意味を持つとしても、しばしば誤解を招いたり、狂っていたり、他の要素と混ざり合っていたりする。これまでも戦争は、不条理な思想、計算違い、排外主義、狂信的行為、宗教的過激主義、さらには単なるめぐり合わせの悪さなどが原因となって勃発した。しかし、そんな時でも、あらゆる「合理的」経済指標は、万事につけ、平和こそ好ましい政策だ、と指し示していたのである。
 おまけに、楽天的な地理経済主義によれば、小国間の経済戦争はいうまでもなく、主要経済国間の熾烈な競争についても管理・規制が行き届いたものになるから、馬鹿でかい、世界規模での経済危機が起こる可能性は未然に排除できる、と言うのだ。今日の指導者や自己満足に浸っている彼らの経済顧問の主張には、確たる論拠がほとんど見当たらないのである。
 事実、生れつつある21世紀の経済は、経済専門家たちが使用している方法が考案された19世紀や20世紀の経済とはほとんど形態を異にしている。つまり、方法そのものが時代遅れになってしまったのだ。
(たとえば、経済専門家が嘆いているのは、サービス産業の興隆に伴う「生産性」の低下である。
しかし、彼らが「生産性」を測る物差しとしているものは、自動車やインゴットスチールの数量を測るのに適していても、新時代の経済の生命線ともなるサービスや情報のような無形物の生産高を測るのには不向きであることが歴然としている)
 完全に異質な時間的視野、価値基準、伝統、そして宗教を抱える資本主義経済国家間で、激しい地球規模での競争が起こることも有り得る。異文化間の誤解も生じるかもしれないし、政治的な大衆扇動が行なわれ、問題の短期決着を主張する動きが出てくる危険性も絶えずある。そんな中で、経済的破綻から戦争が起こる可能性をまったく無視してしまうわけには、到底ゆくまい。
 大国間では経済戦争が戦争にとって代わるだろう、という甘い考えは、新たな政治的現実をも見落としている。じつは、私たちの政治体制も崩壊の危機に瀕しているのである。多くの大国が、今日、大規模な国家再編への岐路に立たされている。「ペレストロイカ」の波が、西欧の民主国家、日本、さらには他の諸国にも押し寄せようとしているのだ。そして、この先どうなるかは、なんとも予測しがたい。結果を見ずに終わってしまった最近のペロー現象などは、明日の政治がどこへ弾けてゆくのかを暗示する第一弾にすぎない。
 アメリカの二大政党に対する彼の挑戦は、世界のほとんどの大国に広まっている大衆の根深い政治的離反を反映したものである。経済専門家が昨日の概念を物差しとして新経済を測ろうとしているのと同様に、これらの国は、古びた政治機構の中で政治を続けようとしている。今の議会、すなわち立法機関というのは、農業時代の産物なのだ。また、官僚からなる各省庁は産業時代の産物である。ところが、多くの国家は、いまや産業時代を超えて新たな時代へと移ろうとしている。つまり、政治機関以外のほぼすべての点で、前近代および近代から脱近代へと急速に脱皮しつつあるのだ。その結果、いまや、政治の将来の方向とペースを定めるのは、新しい政治勢力 -選挙によって選ばれたわけではなく、責任もない勢力- としてのメディアの役割になってきている。
 単にあれやこれやの政党の失策ではなく、政治自体のこの深刻な遅れに目を向ける時、私たちは、「産業民主国家」と称される多くの国で、社会を引き裂くほどの体制上の大変動が起こるにちがいない、と予測せざるを得ないのである。そしてある国では、これらの変動が武力による政治抗争を伴うことになるだろう。
 また、こうした変質は、世代交代とも符合する。日本では自由民主党の年老いた指導者たちが、40年にわたり支配的地位にあったわけだが、今まさに、第二次世界大戦と戦後の民主化時代の体験がなく、加えてアメリカに追随することに憂き身をやつしたこともない若い世代(女性さえ含まれている)が彼らにとって代わろうとしているのである。
 ヨーロッパでも、政治的大変動が始まろうとしている。一つだけ例を挙げると、イタリアでは、キリスト教民主党、社会党、並びに共産党による、居心地よい「政党政治」と、政治家とマフィアの近親相関的関係が、戦後始まって以来の厳しい攻撃に曝されている。共産党による政権奪取の脅威はなくなった。その結果、各党派とその支持者 -つまり冷戦時代- は、余命いくばくもない状態に追い詰められているのである。
 喜んで「地理経済学」に飛びつくと、世界のいくつかの強国で起きようとしている政治的大変動に目が向かくなる。戦争と平和の決定は、理性的な地理経済学者によってなされるわけではない。その決定は、今後ますます、カリスマ的な扇動家によってなされることが多くなるだろう。つまり、想像もできないような新たな圧力下にあり、いつ崩れるとも知れない新政治体制の中で動く急進改革的指導者たちの手に決定権が委ねられることになるのだ。
 新たな圧力の一つとしては、歴史の流れが先例を見ないほどに速められていることが挙げられる。
今日の目まぐるしい変化の中では、政府が平和を支持するような思慮分別のある判断をする余裕がなくなってしまう。
 80年代のイラン・イラク戦争の際、アメリカはイラクに技術、資金、情報を提供した。その結果、アメリカの同盟諸国も右へならえすることになった。当時、この政策はまったく得心のゆくものであった。なにしろ、イランの原理主義体制がアメリカ人を捕虜にしたうえで、アメリカを悪魔に見立てて、いたるところでテロと宗教的過激活動を唆していたからである。イラクを援助するにあたり、アメリカは、敵の敵は味方、という古くからの鉄則に従ったにすぎない。
 そして、ひとたびアメリカ政府がイラク側に「まわる」ことを決定すると、数多くのアメリカ政府機関がこのイラク援助に関わることになった。国務省、国防総省(ペンタゴン)、国家安全保障会議、農務省管轄の農産物信用公社などを含む多数の機関が動き出したのである。アメリカおよび外国のさまざまな企業や銀行が間接的に潤ったし、賄賂で利権を得る者も出た。
 かくして、政策は一人歩きしはじめた。いろいろな層の関係団体がイラク支持に賭けた。
 アメリカは、イラン・イラク戦争が終わったその日に、イラクに対する支持を打ち切るべきだった。しかし、現実にはそうはいかず、サダム・フセインが新たな侵略の準備をしているとの情報が入ったにもかかわらず、親イラク的傾向は、サダムの戦車がクウェートに侵略する直前まで続いていたのである。これが結果として、イラクの独裁者に、たとえイラクが侵略戦争をしてもワシントンの親イラク的ブッシュ政権は対抗措置を取らないだろう、という感触を与えてしまうことになった。
 ようするに、事の動きがアメリカの政策よりも早く動いてしまったのである。イラン・イラク戦争が終結すると同時に、アメリカがイラクに対する支持を打ち切っていれば、湾岸戦争は全面的に回避されたかもしれない、と言う批評家たちもいる。サダムは、アメリカの態度を誤認することがなかったであろうし、クウェートを侵略したりサウジアラビアの油田を脅かしたりすれば猛攻撃を食らうことになることを予測し得ただろう、と言うのである。
 どうなっていたかは、誰にもわからない。だが、アメリカの政策立案者たちが加速する変化についていけなかったことが、現実に、起こらなくてもいい戦争を起こす要因の一つとなった、ということはおそらく言えるだろう。それにしても、官僚、とりわけ外交政策を練る連中の動きはあまりにも遅く、のろまな亀でさえ超スピードで駆けるバイオウサギのように見えてくるほどだ。
 変化のスピードが加速していることと、政策決定に至る速度が国家によってまちまちであることから見て、誤算から起こる戦争勃発の可能性は、先々、さらに増すものと思われる。そうした中で、駆け足で過ぎていく出来事についていけなくなった政府が、いわば未来の衝撃の被害者となるのである。
 これから先の時代には諸政府 -多くがいままでとは違った不慣れな政治機構を抱えることになる- は、不安定な状態で、さらに、新たな次元の複雑な問題に取り組まなければならなくなる。
 貿易とか財政の面で国家間相互の依存度が高まれば軍事紛争は少なくなる、と多くの地理経済学者たちは言う。しかし、この論理が見落としているのは、相互依存は世界をより複雑にすることにもなる、ということである。
 国家間の関係はすでに複雑化しているため、きわめて頭の切れる政治家やそのブレーンでさえ、彼らの決定が副次的にもたらす結果を把握することがほとんど不可能になっている。
 もっと単純な時代であれば、最近流行の楽観主義の論拠となっている、経済中心の合理的意思決定でも通用したかもしれない。しかし、今日のスピードと複雑さを考えれば、そういった時代は過ぎたと言わざるを得ない。
 相互依存というのは、ようするに、A国がとる行動の結果は、必ずB、C,D,以下の国に波及し、それらの国内になんらかの動きを引き起こす、ということである。相互依存関係が大きくなればなるほど、関与する国の数も増える。
 今日では、ある国の政府にとって、自分たちの決定に対する他の一政府の動きすら読みにくくなっているのだから、その他の国への波及効果まで考慮することは、さらに困難なのだ。ということは、結局、A国の意思決定者は自分たちの政策の意味を正しく理解できない、ということになる。
そうした状況の中では、目的と行動の関連が弱まり、憶測ばかりが先走る。こうしたことが、今まさしく、世界体制の中で起きているのである。「新世界秩序」なるものは、どのような衣装をまとおうとも、合理的秩序では有り得ないのだ。
 加速したスピードが多元性と結びつき、先行きがますます見えにくくなっていく時でも、加速要因はより速い反応を求める。したがって、見通しが立たないうえに計算違いをするという危険性が急激に増すことになる。つまり、相互依存は、必ずしも、世界をより安全にするわけではないのだ。
 さらに悪いことには、政府は各部署によって、反応次官が大きく異なる。官僚機構のゆっくりした動きや非効率性とよく対照されるのが、軍の迅速な反応である。軍人は指令を受けることに慣れているので、動けと命令されるとたちどころに動く。異常な状況下を除けば、軍は上からの指示に従うものである。「だから、政治家は過度に軍を使いたがるのだ。私たちは反応のいい道具というわけだ」と、ある陸軍大将が私たちに語っていた。
 明日の政府指導者たちは、加速しながら次々に起こる出来事に攻めたてられたり、自らの動きが引き起こした結果に唖然としたり、各省庁内の機能低下、麻痺、あるいはまったくの造反に愕然とするあまり、どうしてよいかわからない状態にしばしば陥ることだろう。そんな時彼らが、別の悩みの種となっている外交問題の打開策として「特定国たたき」に走ることも大いに考えられるのである。
 このように見てくると、次に出現するものは、地理経済的な平和の時代、つまり安定した新たな世界秩序ではなく、戦争の危険を大いに孕む、きわめて不穏な時代だと思われる。
 しかし、ここで、もう一つ押さえておかなければならない、さらに重要なポイントがある。それは、私たちがこれから入っていこうとしている時代を理解する鍵となるものだ。そのポイントとは、衝突するのは単に国家だけではなく、文明同士もまた戦う、ということである。そして、この決定的な意味をもつ文明間の戦いが、今まさに始まろうとしているのである。


アルビン・トフラーの戦争と平和 001

2012年05月22日 23時58分04秒 | 戦争と平和
第一部 第一章を紹介します。

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WAR AND PEACE IN THE POST-MODERN AGE 1992
アルビン・トフラーの戦争と平和  21世紀、日本への警鐘

第一部
第一章 集団的エクスタシー
 ほぼ半世紀の間、世界は東西両陣営に二分されていた。ところで、1960年代以降、核戦争を抑止するための方法としてもちいられたのは、「MAD」すなわち「相互確証破壊(Mutually Assured Destruction)」の名で知られる組織的狂気に基づく戦略であった。アメリカ合衆国とソビエト連邦は、莫大な費用と大きな危険を伴う、史上最大の軍拡競争にのめり込んでいった。その間、原子時計が時を刻み、世界は息をひそめていたのである。

 だから、ベルリンの壁が崩れた時 大勢の人々が誰も彼も感極まって冷戦の終焉を迎えた気持ちは、容易に理解できる。私たちは皆、急に息を吹き返したかのようであった。
 平素はそう簡単に浮かれることのない政治家までが、平和な新時代がもうそこまで来ていると喜びの声をあげた。博学な先生方は「平和の到来」について書き立てた。「巨額の『平和の配当』が待っている」「いまや経済競争が戦争にとって代わろうとしている」「民主国家間にかぎって言えば、戦争はもう決して起こるまい」などと言った。戦争は、まもなく、奴隷制度や決闘と同じように、過去の愚行として博物館入りすることになろう、という大胆な考えを述べる思想家さえ現れた。

 世界の指導者たちが、もうこれからは永遠に平和が続くという幻想に囚われたのは、これが初めてではない。H・G・ウェルズは、1914年にこう書いている。「20世紀初頭の人びとにとっては、戦争が急速に姿を消しつつあるということほど、明白な事実はなかったはずだ」と。しかし、その後まもなく、第一次世界大戦の塹壕の中で命を落としていった何百万もの不幸な人びとにとっては、明らかなことどころではなかった。1914年から1918年まで続いた、その戦争の謳い文句は、「すべての戦争を終わらせるための戦争」というものであった。

 ひとたび戦争が終わると、1922年には、再び、楽天的な観測が外交交渉の場で盛んに語られた。そんな中で、当時の大国は、軍拡競争緩和のために自国の軍艦の多くを沈めるという協定を本気で結んだのだった。
 1932年、アメリカ大統領ハーバート・フーバーは、軍縮への熱意から、「世界の勤勉に働いている人たちの上に、いま非常に重くのしかかっている軍縮」を削減する必要があることを説いた。彼の演説によると、「すべての戦車、化学兵器、および、すべての機動火砲・・・そして、すべての爆撃機の廃棄」が目的であった。ところが、7年後に、史上最も破壊的だった第二次世界大戦が勃発したのである。
 広島、長崎へのおぞましい原爆投下によって第二次世界大戦が終わると、国際連合が作られ、世界は再び、永続的平和の到来は間近だ、という幻想にしばし酔い痴れた。しかし、ほどなく冷戦と核の均衡が生じることになる。
 今日の幻想はさらにはかないものだ。ベルリンの壁の崩壊、バグダッドの爆撃、冷戦を呼び戻すことにもなりかねなかったモスクワのクーデターという3つの出来事が、二年に満たない期間に立て続けに起こった。そして、人は冷たく、暗い、新たな現実へと早々に引き戻されたのである。
 冷戦は終わったのかもしれない。だが、平和がすぐそこまで来ていると考えた人たちは、ひどいショックを味わうはめになった。イラク、クロアチア、ボスニア、ソマリア、さらにはパキスタンの国境で、またしても銃声が鳴り響いていたのである。
 実際、アメリカや他の大国が軍事予算の大幅削減をしている間にも、シリア、イラン、パキスタンなどの国々は兵器輸入におおわらわだし、旧ソ連から分かれた新国家は、赤軍、空軍、艦隊の指揮権をめぐって争っている。西側諸国が軍縮すれば、一方には、格安の値段で兵器を買い占めようと競い合う国家が存在するのである。

アルビン・トフラーの戦争と平和

2012年05月12日 21時29分13秒 | 戦争と平和
さて、ベルリンの壁が崩れて米ソ対立、冷戦が終焉して平和な世界が築かれるかと
思っていたのも、束の間、イラク、クロアチア、ボスニア、ソマリアと紛争は激化
して21世紀を迎えました。1992年11月にまとめられ出版された本書を抜粋しな
がら、勉強していきましょう。

年金破綻から、確定拠出年金(401K)、銀行窓販の一時払終身保険まで、不確定
な商品に金銭を投資し、これまた、元本割れが永遠に続くのではないかと危惧されて
います。つい最近まで保険業界では「ライフプラン」と称して「豊かな老後(セカン
ドライフ)のお手伝い」などと高額なドル建て保険を販売していましたが、今は
どうしたのでしょうか?銀行でも外貨預金と称して高額な為替手数料を得るために
バンバン販売していたのに、どうしたのか?FPと称するプランナーが数年前まで
推薦していた利殖はどうなったのか?富の未来における少子高齢化の日本はどうな
るのか?何故、年金は破綻するなどと言われ続けているのか?
日本の年金制度は、昭和20年の終戦を迎えるまでに戦争犠牲者となった約230万人の
兵員と約80万人の一般市民の上に成り立っていることを忘れてはなりません。
そして、現在年金を受けて悠々自適の生活をされている数パーセントの高齢者の
姿を自分に照らし合わせてはならないと言う現実を見定めなければ、未来を見失う
ことになります。金銭だけに頼る経済活動は減速社会では通用しなくなると言うこ
となのでしょうか?


戦争は最終経済、戦争によってすべてが精算され、再び経済は生まれ変わるなどと
今も戦争を賛美し、崇拝する者が多数います。科学の目とかマルクスの目などと呑
気な議論をしている科学的社会主義や古い知識に基づく功利主義の経済学者の中に
も多数存在しているのも事実であり、強欲で傲慢なアメリカ資本主義の戦争賛美者
ばかりではないことを認識しておきたいと思います。

では、初めに目次を紹介します。

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WAR AND PEACE IN THE POST-MODERN AGE 1992
アルビン・トフラーの戦争と平和  21世紀、日本への警鐘
<目 次>
第一部
第一章  集団的エクスタシー
第二章  周辺地域での殺戮
第三章  諸文明の衝突
第四章  太平洋の引火点
第五章  大西洋の引火点
第二部
第六部  戦争における大変革の前提
第七部  第一の波の戦争
第八部  第二の波の戦争
第九部  空・陸部隊統合戦術(エアランド・バトル)
第十部  第三の波の戦争
第十一部  ディープ・バトル
第十二部  戦争形態について
第十三部  ミクロ戦争の専門家
第十四部  宇宙戦争
第十五部  ダ・ビンチの夢
第十六部  シリコン対鋼鉄
第十七部  K戦争の要素
第十八部  戦うメディア
第十九部  死の論争
第二十部  「ゴーレム」戦争
第二十一部 無血戦争
第二十二部 交点
第三部
第二十三部 新世界の「三層からなる秩序(トライ・オーダー)」
第二十四部 国境の取引
第二十五部 未来の聖戦
第二十六部 アメリカの優位
第二十七部 世界警察の夢
第二十八部 平和の形態
第二十九部 新しい世界の体制
第三十部   新しい平和の形態 
プロローグ
エピローグ
日本の読者へのあとがき