アルビン・トフラー研究会(勉強会)  

アルビン・トフラー、ハイジ夫妻の
著作物を勉強、講義、討議する会です。

第三の波 序論(2-2)

2014年09月29日 22時43分57秒 | 第三の波
March,1980
Alvin Toffler; The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山次郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳

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(続き) 
本書のようにスケールの大きな統合的著述を試みるに当たっては、単純化、一般化、それに要約ということが不可欠であった。(さもないと、こんな広範な領域にわたる問題を、一冊の本にまとめ上げることなど、とうてい不可能であろう。)その結果、本書は文明を農業段階の第一の波、産業段階の第二の波、それに現在はじまりつつある第三の波という、わずか三段階に分けた。歴史家のなかには、こうしたやり方に対して反対の方もあろうかと思う。
 農業文明がまったく異質な複数の文化から成り立っていること、産業主義自体が現実には実にさまざまな発展段階を経過していること、そうした指摘は容易である。過去を十二に分けることも可能なら、三十八にも百五十七にも分けることができよう。未来だとて同じことである。しかし、そんなことをやりはじめたら、どこまで細分化してもきりがなくなり、大きな区分を見失ってしまうことになろう。さもなければ、同じ問題を扱うのにとても一冊の本では間に合わず、ひとつの図書館が必要になってしまう。われわれの目的のためには、多少粗雑ではあっても、単純な区分の方が、より効果的である。
 広い視野に立つ本書は、ほかにも近道をとる必要があった。たとえば、私はしばしば、第一の波、あるいは.第二の波がこういうことをやった、ああいうことをやったなどと、文明自体を主体化している。もちろん、文明がなんの行動も起こすはずがないことは、私も十分に知っているし、読者も知っているはずだ。行動を起こすのは、あくまでも人間である。しかし、時によって、文明があれをやった、これをやったと書くことで、時間の節約にもなるし、無駄な論議を避けることができる。
 歴史家であろうと、未来学者であろうと、経済計画の立案者から占星術師や伝道師にいたるまで、だれひとり未来を知っている人間はいないし、また知りうるはずもない。そのことを聡明な読者はよくご承知のはずである。私がある事柄が起こるだろうと言う時には、当然読者はそれが起こるか起こらないか、一定の留保をしながら読んでもらえるものだと思って書いている。こうした書き方をしないと、次から次へと不必要な留保ばかり多くなってなにがなんだかわからなくなり、とても読むに耐えない冗長な書物ができ上がってしまうであろう。第一、社会予測というものは、いくらコンピューター化されたデータを利用しようと、けっして客観的な、価値観と無関係なものにはなりえない。その意味では科学的とも言いがたい。『第三の波』は客観的な予測の書ではないし、その内容に科学的根拠があると主張するつもりもない。
 しかしながら、こう言ったからといって、この書物のなかで展開した考え方が恣意的なもので、体系的でないという意味ではない。事実読んでいただければすぐわかるように、本書は多くの例証にもとづいて書かれており、文明のかなり体系的なモデルとも言うべきものと、それに対するわれわれの関係を出発点としている。
 本書はほろびつつある産業文明を、「技術体系」、「社会体系」、「情報体系」、「権力体系」という面から分析し、それら体系がいずれも今日の世界で、いかに革命的変革をとげつつあるかについて記述している。そして、前記四つの体系相互の関係を明らかにすることはもちろん、さらに進んで四つの体系と、「生命体系」、「精神体系」との相関を明らかにするようにつとめた。なぜなら、こうした人間相互の心理的、内面的つながりをとおして、はじめて外界の諸変化は、人間のもっとも個人的な生活にまで影響をおよぼすようになるからである。
 『第三の波』は、文明というものも、それ自体がある種の方法と原則を援用することによって現実を説明し、その文明の存在自体を正当化する「スーパー・イデオロギー」を発展させるものだ、という考え方をとっている。
 こうした体系、方法、原則の相関関係を理解し、それらが相互にどのような変化をせまり、それによっていかに激しい変化の潮流が生じているかを理解できれば、今日、われわれの生活に打ち寄せている巨大な変化の波について、はるかに明確な理解を持つことができる。

 本書で用いた重要な比喩は、すでに明らかなように、変化の波と波とがぶつかり合いという比喩である。この波、というイメージは、別に独創的なものではない。ノーバート・イライアスは彼の著作『文明のプロセス』のなかで、「何世紀にもわたって完成度を高めていく文明の波」について触れている。1837年には、アメリカ大陸西部への移住を、次つぎと押し寄せる「波」になぞらえる者もあらわれた。まず草分け時代の開拓者、つづいて農民、そして企業関係者が、移住の「第三の波」だというのである。1893年には、フレデリック・ジャクソン・ターナーが彼の古典的名著『アメリカ史におけるフロンティアの意味』において、同じ表現を用いて書いている。したがって、波という比喩は別に新鮮でもなんでもない。要は、それをいかに今日の文明の変化にあてはめるかにある。
 波という比喩を用いることは、本書の場合、まことに適切であることが、次第に明らかになるであろう。波という考え方は、極端に多様化した大量の情報を組織化する道具として使えるだけではない。荒れ狂ったように変化する現象の、背後を見通すのに役立つのである。波の比喩を用いることによって、さまざまに錯綜した事態の筋道が明白になる。日頃見慣れた事態が、新しい光のもとに、しばしば目を見はるほど新鮮なものとして見えてくるのである。
 ひとたび変化の波がぶつかり合い、重なり合い、われわれの周囲に相克や緊張を生んでいるのだという考え方に立ってみると、私の場合、変化そのものに対する見方まで変ってきた。教育や健康の問題からテクノロジーの問題まで、あるいは個人生活から政治の問題にいたるまで、さまざまな変革のなかで、単にうわべだけの変化、つまり過去の産業社会の延長にすぎない変化なのか、それとも本当に革命的な変化なのかということを見分けることができるようになったのである。
 しかし、もっとも有効な比喩といえども、部分的な真理をあらわしているにすぎない。あらゆることを、あらゆる側面から語りつくす比喩などは、所詮、ありえないのである。したがって、未来への展望はおろか、現代の展望すら、けっして完全なものでも終局的なものでもありえない。十代の後半から二十代のはじめにかけて私がマルクス主義者であった当時-すでに四分の一世紀も前のことになるが-私も青年の常として、自分はすべてに答えうると考えていた。しかし、私はすぐに自分が「答え」と考えたものが偏見にみち、一方的で、陳腐なものにすぎないことを悟った。もっとはっきり言えば、たいていの場合、正しい問いかけの方が、間違っている問いに対する正しい答より重要だ、ということに思いいたったのである。
 私は『第三の波』が、あれこれと問題に答えると同時に、多くの新鮮な問いを発することを願っている。
 完璧な知識など存在しないし、全面的に真理をあらわす比喩もありえないという認識は、それ自体、まことに人間的である。こうした認識さえあれば、狂信におちいる心配はない。反対論者にも一面の真理はあるものだし、自分自身にも誤りがありうる。規模の雄大な統合的見解を展開しようとすると、特に誤りをおかす危険性がついてまわる。しかし、評論家ジョージ・スタイナーが書いているように、「より大きな問いを発することは物事を取りちがいかねない危険性があるが、まったく問いを発しないことは、知的生活を無理矢理、抑制するようなものである。」
 個人の生活がばらばらに引き裂かれ、これまで確固としていた社会秩序が崩壊する一方で、奇妙に新しい生活様式が澎湃として起こっているこの爆発的変化の時代に、われわれの未来に関する最大の問いを発することは、単に知的好奇心の問題ではない。これは、人類が生き残れるかどうかの問題なのである。
 自覚しているいないは別として、われわれの大半は、すでに新しい文明の創造に参加しているか、あるいはまた、それを拒否する勢力に荷担しているか、そのいずれかである。われわれひとりひとりが、そのどちらかを選ぶかの選択にあたって、『第三の波』が役立って欲しいというのが、著者である私の願いである。(序論-了)P.6~P.16

第三の波 序論(2-1)

2014年09月28日 22時17分26秒 | 第三の波
『第三の波』発刊からまもなく35年、原著がなかなか手に入らないかもしれませんので、
このブログで、これから1年程度かけて原著をリライトして提供します。
仕事の合間で展開していきますので不規則であることをご容赦下さい。
また、音声認識アルゴリズムを使って文字変換しますので、多少の誤字脱字があると
思います。これもご容赦ください。

March,1980
Alvin Toffler; The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山次郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳

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われわれはここへ笑うためにやって来たのか
それとも泣き叫ぶためなのだろうか
われわれはいま死のうとしているのか
それとも生れ出ようとしているのだろうか
カルロス・フェンテス『われらの大地』


序論
 テロリストが人質と死のゲームを演じ、各国の通貨が第三次世界大戦の風説のなかで変動を続けている。そこここの国の大使館が炎上し、各地で機動隊が出撃体勢をととのえている。こうした状況のもと
で、われわれは毎日の新聞の見出しを、恐怖にかられて見つめている。人びとの不安の反映である金の価値は、前代未聞の高騰を続けている。銀行経営の基盤がゆらいでいる。手のほどこしようもないインフレが猛威をふるっている。そして、世界各国の政府が身動きできなくなっており、無能ぶりを露呈している。
 こうした状況に直面し、どこへ行っても耳にするのは、トロイの滅亡を予言したカッサンドラのような、不吉な予言の大合唱である。市井の一言居士は世の中が狂ってしまったのだと断言するし、専門家も世界の趨勢は破滅に向っている、と指摘する。
 しかし、本書の内容はこうした見解とは、明確に意見を異にする。
 世界はけっしてまっとうな道をはずれて狂気のなかをさまよっているわけではなく、一見したところ無意味な出来事が次から次へと不協和音を立てているようでありながら、実は、それらの背後に驚くべき傾向、十分希望を持たせるに足る傾向が読みとれるというのが本書の主張である。本書を通じて私は、そうした希望につながる傾向について語ってみたいのだ。
『第三の波』は、人類の歴史が終焉を迎えようとしているどころか、まだはじまったばかりだと考える人びとのための書である。

 今日、世界のいたるところに、いっせいに強大な波が押し寄せている。そして、人間が仕事をし、レジャーを楽しみ、結婚し、こどもを育て、やがて引退していく環境を、この波が一変させ、しばしば奇妙な状況を出現させている。こうした混乱した状況のなかで、ビジネスマンは極度に変動の大きな経済の流れに逆らって泳いでいるのであり、政治家は自分達に対する支持率が極端に上昇したり下降したりする現実に、目を見はっている。大学、病院そのほかの機関は、インフレに対して絶望的な戦いを続けている。価値体系そのものが分裂し、壊滅してしまった。家庭や教会、国家といった救命ボートも、激しい勢いで海中にたたきつけられている。
 こうした激しい変化を目前にして、われわれはそれらの変化を、不安定で、分裂と混乱をくりかえす世情を物語る現象として、ばらばらに受けとめがちである。しかし、もう少し冷静になって、もっと長期的見地から見ると、ひとつひとつの現象にひきずりまわされていた時には気づかなかったことが、いろいろ見えてくるはずである。
 
 まず第一に、今日起こりつつある変化の大部分は、相互に無関係ではないということである。また、けっしてでたらめに、脈絡もなく、こうなってきたわけではない。たとえば、核家族の崩壊、地球全体のエネルギー危機、新興宗教の隆盛、ケーブル・テレビジョンの普及、フレックスタイム制の一般化、有給休暇や健康保険など、一連の付加給与の増大、カナダのケベック州からフランスのコルシカ島まで、世界各地における独立運動の出現といった現象は、それぞれ無関係な出来事のように見えるかもしれない。しかし、注意深く観察すれば、事実はまったくその逆なのだ。こうした現象をはじめ、そのほかもろもろの一見無関係な出来事ないし動向は、相互に深い関連を持っている。それらの現象は、実は、より大きな現象の一部にすぎない。それは産業主義の終焉と、新しい文明の出現を意味している。
 諸現象を個々ばらばらにとらえ、この大きな意味を見失っているかぎり、それらの現象に対して一貫した、効果的対応をすることはできない。個人としては、われわれの意志決定が、いつまでも無目的で、自己否定を続けるにすぎなくなってしまう。また、政府の次元で言えば、危機状態のなかで、計画も、希望も、ビジョンもないまま、計画を無理やりにすすめていくことになってしまう。
 今日の世界でどんな勢力がどうぶつかり合っているのか、それについて体系的な基礎知識がないと、われわれはまるで嵐のまっただなかで、危険な暗礁の間を羅針盤も海図もなしに航海しようとしている船の乗組員のような状態に置かれることになる。専門家どうしが対立し、断片的データとやたらに緻密な分析にひきずりまわされている文化状況のなかで、総合的考察は有益だというだけにとどまらず、統合なくしてはどうにもならない事態になっているのだ。
 こうした理由から、『第三の波』はスケールの大きな総合的考察を試みた書物なのである。この本はわれわれの多くをはぐくんできたこれまでの文明について記述するとともに、われわれの間で、いま開花しつつある新しい文明の包括的な姿を、慎重に描こうとするものである。
 新しい文明は根底から革命的なものであるから、われわれが当然、正しいものとして受け入れていたすべての仮説に挑戦してくる。古い考え方、古い公式やドグマ、古いイデオロギーは、過去においていかに有効であり、尊重されていたものであっても、もはや現実に対応できなくなっている。新しい価値観やテクノロジー、新しい地政学的関係、新しいライフスタイルやコミュニケーションの方式などのぶつかり合いのなかから、急速にその姿を明確にしつつある世界は、まったく新しい発想、新しい類推、新しい分類、新しい概念を要求している。われわれは明日の世界の胎児を、過去の因習に閉じ込めることはできない。従来、正統とされていた態度や風潮もまた通用しない。
 この未知の、新しい文明に関する記述を展開していくと、いま世間に氾濫している気取ったペジミズムに挑戦する論拠が、次第に明らかになってくる。絶望が-絶望を口にして努力を放棄する身勝手が-
もう10年間、あるいはそれ以上にわたってまかり通り、文明を支配してきた。(たしか、C・P・スノウがかつて書いていたと思うが)絶望は単に罪であるばかりでなく、とうてい是認することのできない不当行為なのだ。これが『第三の波』の結論である。
 私はやたらに楽天的な幻想に酔っているわけではない。核兵器による世界の破滅、環境破壊から狂信的人種差別、局地的な暴力事件まで、今日われわれが直面している危険な現実については、いまさら詳しく述べるまでもない。私自身、こうした危険については、これまでに何度か書いてきたし、おそらく、今後も書くことになるだろう。戦争、経済の瓦解、大規模なテクノロジーの混乱、これらのどれひとつをとっても、未来の歴史は破滅的状況を迎えることであろう。
 にもかかわらず、変りつつあるエネルギー様式と新しい家庭生活様式との関係とか、新しい生産方式と自分でできることは自分でやる、いわゆる自助運動との関係など(これらはほんの一、二の例にすぎないが)、こうした新しい生れつつある相互関係を探っていくと、われわれは突然、今日の最大の危機が生んでいる状況そのものの大部分が、実は、魅力的な、新しい可能性につながっていることに気がつく。
 『第三の波』は、われわれに、こうした新しい可能性を示そうというものである。本書の主張は、ほかならぬ破滅と荒廃のさなかにあって、われわれの新しい生活がはじまろうとしているという注目すべき確証をつかむことができる、というところにある。知性を働かせさえすればそれぼど幸運に恵まれなくとも、現在その姿を明確にしつつある文明は、これまでのどんな文明にくらべてみても、より健全で、良識的な、支持するに足る文明、より人間にふさわしい、より民主的な文明たりうるということを、議論の余地のないほど、はっきり示しうると考えている。
 もし本書の議論が大筋において正しいとすれば、過渡期にはこれから嵐のような、危機に満ちた時期が何年も続いたとしても、長期的には楽観的立場に立ちうる有力な論拠がある、ということになる。
 
 この何年か『第三の波』の仕事をしている間に、私は講演の折など、よく聴衆から、『第三の波』が前著『未来の衝撃』と、どうちがうのかと質問された。
 一冊の本をめぐって、著者と読者の見方がまったく一致するなどということはありえない。私は『第三の波』を、形式の点でも議論の焦点という面でも、『未来の衝撃』とは根本的にちがうと見ている。まず第一に、『第三の波』は『未来の衝撃』より、過去についても未来についても、時間的にはるかに広範な領域を扱っている。また書物としての構成もちがっている。(洞察力の鋭い読者は、本書の構成が、波と波とのぶつかり合いという、本書の主要な比喩を反映していることに気がつかれているはずである。)
 内容的に、両書の差はさらにはっきりしている。『未来の衝撃』が今後どのような変化が起こるかという点に注目したのに対し、本書では、こうした変化が個人や社会にどのような犠牲を強いるかという点を重くみた。『第三の波』は、変化への適応のむずかしさに注目するとともに、ある種の事柄について、早く変化に適応しないといかに損失が大きいか、ということを強調している。
 さらに言えば、私は前著においては、「早すぎた未来の到来」について書いたのであって、姿を見せはじめた明日の社会について、なんら統合的な、体系的なスケッチをしたわけではなかった。『未来の衝撃』の焦点は変化のプロセスであって、変化の方向ではなかったのである。
 本書では、レンズの方向が逆になっている。私の関心はそうした変化の進展より、その変化がわれわれの生活にどう変えようとしているのかという、変化の方向に向っている。つまり、一方はプロセスに重点を置いた著書であり、この書物は構造に重点を置いている。こうした理由から、二つの書物は本篇と続篇という関係ではなく、二冊が相互に補充しあって、より大きな体系をつくりあげることを狙った
姉妹篇である。二つの著作はまったく性格を異にする。にもかかわらず、一方を読むことによって、他方の理解が、いっそう深まるはずである。(続く)