goo blog サービス終了のお知らせ 

思いつくままに

ゆく河の流れの淀みに浮かぶ「うたかた」としての生命体、
その1つに映り込んだ世界の断片を思いつくままに書きたい。

どうして批判ばかりするのか

2017-08-16 18:03:55 | 随想

 政府を批判する人たちに対し、「批判ばかりしていないで、国民としての義務を果せ」と叱責する人がいる。そして、「国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを考えよう」(J.F.ケネディの大統領就任演説のことば)などと、したり顔で言ったりする。しかし、政府を批判する人たちは、「国」を批判しているのではない。時の政府=国とは考えていない。日本国憲法にあるように、政府は国の主権者たる国民の信託を受けて政治を行う機関だと考えている。そして、批判の対象は、時の政府の行為であり、国民それぞれが持っている「国の在り方=国家像」を、時の政府が蹂躙していると感じ、批判しているのだ。まさに、国のために自分ができることとして、時の政府を批判しており、批判という平和的手段で政策の方向を修正させたり、政権交代をさせたりすることで、この国を守ろうとしているのだ。

 いま、この国では、国民が抱いている国家像と、政府が抱いている国家像が大きく乖離してきている。「そもそも国民に主権があることがおかしい」(西田昌司自民党副幹事長)「国民主権、基本的人権、平和主義、この三つをなくさなければですね。本当の自主憲法にはならないんですよ」「たとえば人権がどうだと言われたりすると、たとえば平和がどうだと言われたりすると、おじけづくじゃないですか」(長勢甚遠元法務大臣)「血を流さなければ国を護ることなんてできないんです!」「戦争は霊魂の進化に必要な宗教的行事、それが私の生き方の根本」(稲田朋美元防衛大臣)「日本にとって一番大事なのは、皇室であり、国体であると思っております」(城内実元外務副大臣)などの言葉から、現在の政府が抱いている国家像がどういうものかがわかる。この国をそういう国にしてほしいと思っている国民がどれほどいるというのだろう。首相のお友達には、無償の土地が提供され、莫大な補助金が交付され、刑事部長の一存で準強姦はなかったことにしてもらえるような国、政府にとって都合の悪い情報はすべて隠され、消去される国(ここまではすでに実現している)、政府の方針に反対できなくなる国、政府にとって都合の悪い事実が報道できなくなる国、政府が戦争したいと思えば戦争ができる国、そんな国にしたいと思っている国民がどれほどいるというのだろう。現在の政府を批判している人たちは、そんな国にしたくないと考えているのだ。

 国民の国家像が政府の国家像と大きくずれてきているとすれば、国民の反発は当然に大きくなってくる。そこで、政府はその反発を押さえるために、強制的手段を行使することが必要になってくる。まずは、テレビや新聞などのマスメディアをコントロールし、彼らにとって不都合な真実を報道させないところから始め、特定秘密保護法、通信傍受法、共謀罪などを準備し、警察力によって不逞の輩を逮捕できる体制を整えている。

 彼らの改憲案の第十二条では「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」とあって、「公益及び公の秩序」が「自由及び権利」に優先している。「公益及び公の秩序」という概念はあいまいなものであって、それを利用する側にとっては何とでも都合よく解釈できる。戦前の治安維持法も「治安」という概念を都合よく解釈し、国民の自由や権利に対し猛威を振るった。こんどは「公益維持法」などを制定して、公益および公の秩序を維持するためとして、同じことができるようにしようとしているように見える。

 また、草案の第九章(九十八条、九十九条)に「緊急事態条項」が追加されている。総理大臣が緊急事態を宣言しさえすれば、総理大臣にすべての権限を集中させ、立法機関である国会ではなく、行政機関である内閣だけで法律と同様の効果を持つ政令を制定することができ、各種の基本的人権を制限することができるようになっている。

 安倍首相のスローガン「日本を取り戻す!」は、当初、何から何を取り戻すのかがまったくわからない意味不明のものであったが、ここに至って明確になってきた。敗戦によって為政者から奪われた主権を、国民から為政者に取り戻すことであったようだ。「そもそも国民に主権があることがおかしい」という言葉がそれを証明しているのではないか。

 そもそも、それぞれの人は「国」を守るために生まれてきたわけではない。人は環境によって作られるが、国はその環境の一つでしかない。人は、国などというものがなかったときから生きてきている。250万年前、地球上に「ホモ=人」属が現れ、20万年前に現生人類である「ホモ・サピエンス」が現れ、最初の王国ができたのが5000年くらい前だとすれば、国というものが人の環境になったのはつい最近のことである。そして、いまは人々が当然に在るものとして考えている「国」というものが、いつまで存在し続けるのかはわからない。人にとって不要になるときがくるかもしれない。だから、国のために尽くすことが人の使命であるわけがない。歴史的には、国というものができることによって、個人間の暴力がコントロールされ、貨幣が生まれ、市場が生まれ、人の生産力が増大した。そうであっても、人が国のために存在するのではない。国が人のために存在するのである。逆転させてはならない。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。