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思いつくままに

ゆく河の流れの淀みに浮かぶ「うたかた」としての生命体、
その1つに映り込んだ世界の断片を思いつくままに書きたい。

オスプレイ配備について

2012-09-02 11:07:00 | 随想


 オスプレイについて、アメリカ側も日本側も「機体に問題はない」という調査結果を発表している。今年4月のモロッコにおける事故、6月のフロリダにおける事故、共に「操縦ミスが原因」としている。しかし、いま問題になっているのは、オスプレイが人家や、人のいるところに墜落したら死傷者が出るおそれがあるということであり、他の航空機より、事故の確率が高いということである。つまり、原因が何であるにせよ、事故の確率が高いということが問題になっている。そうであるのに、「機体に問題はない」と言ったところで、何の解決にもならない。防衛大臣が自らオスプレイに試乗してみたところで、何ら安全を保証することにもならない。「操縦ミスが原因」ということは、他の航空機より操縦が難しいということになり、そういう設計になっている機体に問題があるということにもなる。邪推と言われるかもしれないが、この原因の発表は、安全性より経済性を重視した結果ではないかと思えてくる。機体に問題があるとなれば、設計そのものを見直す必要があり、設計のやり直し、その後のテストなど、多額の費用と長い時間がかかることになるのに対し、操縦ミスということにすれば、対策は人の訓練だけで済むわけだ。

 そもそも、オスプレイの配備は、アメリカの軍事戦略の一環として行なわれるものであり、その決定権はアメリカにあって日本政府にはない。日本政府には、「こんど日本にもオスプレイを配備することにしたので、よろしく日本国民に説明しておいてね」というアメリカの要望に応える役割しかない。沖縄をはじめ、オスプレイの飛行訓練域に入っている各地域の反対が続いている中、すでにオスプレイはアメリカ軍基地に運び込まれ、訓練飛行に向けて着々と準備が進んでいる。既成事実を積み重ねることによって、計画は実現するだろう。

 でも、どうして日本政府は日本国民に対して「日本政府としてはオスプレイの配備を拒否できない」と、本当のことを言わないのだろう。「機体に問題はないから、沖縄のみなさんは了解して欲しい」などという言い方しかできないのだろう。「機体に問題はない」と言えば、安全であると拡大解釈をして、日本国民は配備を認めてくれると思っているのだろうか。本当のことを言うより、こちらのほうが日本国民は受け入れやすいと考えているのだろうか。そうだとすれば、日本国民はずいぶん見くびられたものだと思う。

 いや、実際は見くびっているのではなく、一国の政府として、他の国の言いなりになるしかないことがあるということはけっして言えないと考えているのだろう。しかし、本当にそうなのだろうか。日本がアメリカの要求に従わざるを得ないことがあるのだということを国民に言ってはならないのだろうか。むしろ、太平洋戦争に負け、無条件降伏をした日本として、いまだにその負の遺産を引きずっているという事実を、国民がしっかりと認識することこそ必要ではないのだろうか。そういう認識がないと、なぜ沖縄の人に多大の犠牲を強いる、あれほど大きなアメリカ軍基地があるのかを理解できないのではないだろうか。

 敗戦時、日本の軍国主義の復活を嫌ったアメリカは、日本の憲法を根本的に作り直して完全な武装解除を図った。しかし、その後、ソビエトや中国などの共産主義国に脅威を感じたアメリカは、自国を守るための前線基地としての日本の有用性を認識し、沖縄については、最前線に置かれた不沈空母としての役割を担わせることにしたと考えても大きな間違いはないと思う。したがって、アメリカのアジア太平洋戦略が変わり、アメリカにとって沖縄に軍事的な意味がなくなるまで、沖縄は解放されないと思われる。つまり、日本政府に対してどれほど強硬に抗議をしても、答えにならない答えが返ってくるだけで、何の解決にもならないということになる。解決の鍵はアメリカの軍事戦略にある。たとえば、アメリカとロシアや中国との関係が将来にわたって良好になり、アメリカにとって日本の基地の軍事的意味がなくなれば、沖縄は解放され、沖縄以外の各地にあるアメリカの軍事施設もなくなるだろう。いま、日本としてできることは、日本自身がロシアや中国と良好な関係を維持、発展させることである。反対に、敵対的な関係になることは、沖縄の軍事的な意味を強くすることになり、沖縄の解放をますます遠ざけることになってしまうのではないかと思われる。

 蛇足ながら、これは認識しておいたほうがよい思うことは、日米安全保障条約によって日本が守られるのは、日本を守ることがアメリカの利益になる範囲でのことであり、それ以上のものではないということだ。自国を犠牲にしてまで他国を守ることなどないという、ごく当たり前のことである。個人のレベルでは自己を犠牲にして他の人を守るということもあり得るが、国のレベルでそれはあり得ない。



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