わたしの癒しTime。

日々のことやお気に入りを綴ります。

『BAD』時代のMichael②

2019-04-30 00:15:20 | MJ

YouTubeを観てたら、すごいモノを見つけたよ~~☆

*大都会 吉井和哉&草野マサムネ

THE YELLOW MONKEYの吉井和哉さん&スピッツの草野マサムネさんの『大都会』(クリスタルキング・1979年)!

私、草野さんがこんなに高音で大声を張り上げているのを聞いたことがない。(ま、『大都会』を歌うには、そうするしかありません。。。) 歌唱力が最高に高いお2人なので、本家に比べるとややソフトな感じで、超ハイクオリティなカバーになっています。

イエモンはロックなので、私はあまり聴いていないのだけど、吉井さんの歌い方は好みです。ずっと以前からお上手だと思っていました。スピッツは90年代に好きだった。 朝ドラ「なつぞら」の主題歌も良いよね☆ 草野さん、カバー・アルバム出してくれないかな~~。

いやぁ平成のラストに良いものを聴いたわ。


そして、思いついて、マイケル・ジャクソンのスズキ「LOVE」のCMを探してみたの。 たくさんあったのですが、これ観て♪ ↓

*「Off The Wall」編

*「Don’t Stop 'Til You Get Enough」編

んまあ、ラブリー♪

「〝Love is my Message〟」の甘~~い声と、超可愛い両目ウインクにメロメロ。

「LOVE」のお値段は109000円だって~~~。 (このCMは1981年か82年頃)

少し不鮮明だけど、キュートなお写真も♪ ↓

 

可愛すぎる。 足が長~~~い☆

多分『Thriller』の発売前で、もっとも悩み事がなかった頃のマイケル・ジャクソンです。素敵なメイキング映像もあったけど、不鮮明で目が悪くなりそうだから、何度も観ない方がいいかも。でもこれ、DVD化してほしいくらいだわ、スズキさん。ホントに魅力的なマイケルでした。 この頃のマイケル、とてもハンサムでチャーミングだよね。可愛いけど男っぽくもある。

ジャクソンズ時代のマイケルは、ポップでお日さまが似合う若者だったけど、ソロはやっぱり繊細でカッコよく〝MOON〟なイメージ?


というわけで、本題です。

前回に引き続き、「AERA dot.」に掲載された和田静香さんの記事をご紹介☆ 今回も興味深い内容です。バブル時代のキラキラなJAPANを感じる。当時は昭和62年(1987年)です。昭和がどんどん遠くなるわね。。。(遠い目)

事実誤認を数か所訂正しています。(Lahさんという方のTwitterで知りました)


*バブルスと日本で過ごした最愛の日々

(前略)1987年9月9日に日本にやってきたマイケルは、初のソロ・コンサートを東京・後楽園球場などで大々的に行っただけでなく、オフの時間も精力的に動いていた。当時マイケルの所属するEPIC・ソニーで担当A&Rだった清水彰彦さんは回想する。

「記者会見やインタビューなどは一切やらなかったんですが、大阪市役所をバブルス(マイケルの飼っていたチンパンジー)と一緒に表敬訪問し、そこがメディア向けの撮影の機会となりました。お茶に手を出していたずらしようとしたバブルスに、マイケルが指でバツを作って駄目だよって叱った場面は有名になりましたよね」

ありましたね、そんなこと。ちなみにバブルスはパスポートを持って飛行機の客室、しかもマイケルと同じファーストクラスに乗って来日したと、マイケルを日本に招へいした当時の日本テレビ事業部部長・白井荘也さんが「マイケル・ジャクソン来日秘話」(DU BOOKS/2017年)に書いている。機内食はバナナと牛乳だったそう。(注:バブルスは別便だったそうです)

そのバブルスにも会っているのが、マイケルに「アキ」と呼ばれて信頼を寄せられていた、当時のEPIC・ソニー国際部にいた田中章さん。田中さんはマイケル来日中、何度も会って会話を交わしていた。

「打ち合わせで赤坂・キャピトル東急ホテルのマイケルの部屋に行くと、バブルスもいました。マイケルが『抱っこしてやってください』というので抱っこしました。嫌がったりしなくて、大人しい、いい子でしたよ」

(中略)ちなみにマイケルのもう1人(?)のペット、蛇のマッスル君も「いっしょに来日していたんじゃないか?」と清水さんは言う。(注:マッスルズは前年に死亡しているそう) チンパンジーや蛇など爬虫類をペットに愛するのも今どきでは何ら珍しいことではないが、当時はあれこれ言われていたのを覚えている。

しかしマイケルはオフの時間、部屋でペットたちと遊んでいたわけではない。来日中もクリエイティヴな活動を欠かさなかった。

「マイケルの部屋には聞いたところによるとレンタル料だけで1千万円の特注のペルシャ絨毯が敷かれていたんですけど、それは別にマイケル側からのオファーではなく、日本テレビの計らいでしょうが、事前に部屋を見せてもらったときに、その絨毯の上に1メートルちょっと四方ぐらいの特注の板が敷かれていました。1人部屋でダンス・レッスンをする用だとかで、これだけはマイケルが材質や大きさなど本人が指定したそうです。そこでダンス・レッスンを本当に汗びっしょりになってやっていたそうです」(注:ペルシャ絨毯はキャピトル東急が用意したそう)

ステージで見せる華麗なダンスは毎日コツコツ積み重ねる、練習の賜物だったのだ。マイケルはツアー中もそれを欠かさなかった。

「さらに、ダンスだけじゃなく、レコーディングもしています。六本木の四明ビルにあった(注:現在は取り壊し)CBS・ソニーのスタジオで、確か『ザ・ウェイ・ユー・メイク・ミー・フィール』のビデオの頭のところ用です。映像にすると音が足りないってことで自らガヤ、つまりホーとかワウとか声を入れたいと言って、スタジオに行きました。その前にビデオの監督から国際電話が入って、そういう電話にも勿論マイケル本人が直接あれこれ答えるんですけど、『あのシーンは特にいいよ。君に頼んで良かったよ。でも、こうしたらもっとよくなるんだよね』とかホメながらも細かく駄目出しするのを横で聞いていました。マイケルは相手をホメて伸ばす男ですね(笑い)。それで、そのビデオ用の音声を録音したんです。スタジオの中からマイケル自ら、日本のエンジニアに向けて大きな手でキュー出し(人差し指と中指を揃えて下ろす)、1時間ぐらいやってましたね」

スタジオに入るとマイケルは生き生きとし、また、その前に清水さんと一緒に寄った、当時六本木にあったCDショップ「WAVE」で買ってきたダイアナ・ロスのCDを喜んで開けていたとか。

WAVEでは1フロア貸切にしてもらい、ゆっくりCDを選んでいましたが、当時はアナログレコードからCDへの移行期。色々な企画盤が出ていて、ビクターが2枚のLPを1枚のCDにまとめた『2 in 1』シリーズというお買い得盤を出していたんですが、マイケルはそのダイアナ・ロスのを買って『これはいいアイディアだねぇ。2枚が1枚だなんて!』とご満悦でした。そこで僕がちょっかいを出して『そのシリーズでジャクソン5も出ているよ』なんて言ったら、マイケルが『ああ、あれはいいよ。どうせオレには一銭も入らないから』なんてあっさり軽く答えたんですよ。『ホント?』って聞き返すと笑ってました。モータウンとマイケルたちの契約は酷いもので、印税どころかアーティストとしての自由も何もない搾取でマイケルが苦悩した話は今では有名ですが、そうやって軽く笑い飛ばしてもいたんです」(清水さん)

スタジオで生き生きとレコーディングし、軽口を叩いて笑うマイケル。ミュージシャンとしてのマイケルは他のアーティストたちと何ら変わらない、音楽を愛する1人の青年だった。ちなみにこのときは、東京・信濃町に出来たばかりだったCBS・ソニーのスタジオの見学にも訪れている。

「そのときはプロデューサーのクインシー・ジョーンズと、当時マイケルのレコーディングのエンジニアをしていたブルース・スウェディーンも一緒に来ました。もしかしたら次のレコーディング場所を探していたのか?とにかく熱心に見学していて、壁に彼らが日本語も交えてサインを大きく書き残していったんですが、今そのスタジオはソニー・ミュージックから別の人手に渡ってしまったんで、どうなったのか?わからないんです」(田中さん)

田中さんは六本木のスタジオでマイケルがガヤをレコーディングするのにも立ち会っていて、そのときに忘れられない思い出があるという。

「レコーディングの合間にマイケルがお手洗いを借りたいというので、僕が案内した時のことです。ビルの端、角のところにトイレがあったんですが、そこにちょうど掃除をしている係の男性がいらして、パッと見てすぐ分かったんですが、彼の顔が大きくケロイド状になっていたんです。するとマイケルが『この方と握手したいんですけど、お願いしてもらえませんか?』と言う。そこで、『こちらの人があなたと握手したいと言ってるんですが、いいですか?』とだけ尋ねると、向こうも面食らったと思いますが、黙って頷かれたので、マイケルはその人の手を暫くの間握り、そして洗面所に入りました。その方にも特に、こちらマイケル・ジャクソンというスターの方で、とか説明はしませんでしたし、マイケルにもどうして握手したいのかも、聞きませんでしたが、僕が思うにマイケルは自らが黒人というマイノリティで多くの差別を受けたことで、社会的に弱い立場にある人に寄り添って行動する人だったんじゃないでしょうか。握手もその意思表示。偽善とかそういうことではないと思っています。だって、その場には僕とマイケルと、掃除の方しかいないわけですから、気取る必要もありません」

この話を聞いて、マイケルは顔にケロイドを負ったトイレ掃除の人を仲間だと思ったんだなと感じた。握手は友情を分かち合う行為。よく黒人ラッパーの仲間同士がイエイエイ~とか言いながらハンドシェイクでハイタッチするが、あの感覚だったんじゃないか?と思う。「黒人のミュージックビデオは放送しない」(80年代初期MTV)とか、「黒人を表紙にしたら売り上げが落ちる」(80年代までの音楽雑誌『ローリング・ストーン』)とか、信じられない黒人差別、偏見の中を生きてきたマイケルだ。成功と引き換えにいわれなきバッシングの嵐にも遭った。後に肌が白くなったのも「白人になりたいから脱色している」などと揶揄されたが、本当は尋常性白斑という難病だったのは亡くなった後の検視ではっきりと発表された。何か事が起こってバッシングされる度に、マイケルはアメリカ社会に於いて自らが黒人というマイノリティであることを常に背負わざるをえなかった。だからこそ世の中で虐げられる人、貧しい人、子どもたち、弱者に寄り添い、生きたのがマイケル・ジャクソンなのだろう。

さて、マイケルは日本を好きだったんだろうか?『マイケル・ジャクソン来日秘話』には「日本人の目はいつも優しく、こちらを見て話しかけてくれる、それにみな、心がこもってる、こんなに気持ちが楽でいられる国は初めてだ」とマイケルが何度も言っていたとある。またマイケル自身、話し声がとても静かで穏やか、話し方は誰に対しても丁寧なのは田中さん、清水さん共に言っているが、日本人の話し方を好んでいたそうだ。とはいえ、それは特に日本だけに限らず「マイケルはとにかくアメリカに居るのがイヤだったんじゃないか?と思います。特に90年代以降になると、アメリカでマイケルは犯罪者扱い。それがロンドンやパリに行くと熱狂され、日本もそう。温かく迎えてくれますからね」と清水さんは推測する。

日本といえばまた、あらゆる意味でイノベーターであったソニーの創始者・盛田昭夫さんをマイケルは尊敬し、87年来日時にはマイケル側からお願いして自宅を訪問。大皿に山盛りの二十世紀梨を1人でぺろりとたいらげた、なんていうエピソードを夫人がコラムに書いている。ちなみに現在のソニー会長である平井一夫さんがまだCBS・ソニーに入社して3年目の頃、マイケルのアルバム『BAD』が完成。マスタリング・テープを当時はハンドキャリーで運ぶのが一番早い安全な方法とされていて、たまたまロサンゼルスにいた平井さんに「すぐに取りに行って持って帰ってきて、成田空港で清水さんに渡して。何があってもマスターテープだけは守ってください」と上司からお達しが下り、平井さんが「パシリとして」音源を運んだのだそう。イッツ・ア・ソニー。マイケルを巡る日本の物語だ。

さて、マイケルがもし生きていたら、今年で還暦を迎えるはずだった。(注:昨年が還暦で、今年は61歳です)

「マイケルの周りで仕事をしていたアメリカのレコード会社の人たちとは今もFacebookなどを通じて繋がっていますし、仕事をすることもありますが、彼らは口を揃えて『今回のTVドキュメンタリーになったようなこと(少年虐待疑惑)は絶対にありえない』と言います。マイケルはスーパースターになったが故に、しかも黒人のスーパースターということで根深い差別があるのだと僕は考えています」と田中さんは言う。

 あまりに巨大に成長したスターへは時に常軌を逸したバッシングが行われる。バッシングする側に、さらにそれを読んだり見たりする側にもリアルな人間像が描けなくなってしまうのかもしれない。しかもマイケルは、今でもアメリカ社会で差別される側であり続け、歌の世界でもその差別が大きくクローズアップされ続ける「黒人」、その最初の超ド級のスーパースターだ。今もはこびるバッシングの底辺には、長年の黒人差別の歴史が常にあることをマイケルのニュースを読むたび、私たち自身が決して忘れてはいけないと自戒したい。

マイケル・ジャクソン。享年50。いわれなき差別と誤解の中でもひたすら純粋に自分の目的を持って遂行して生きた人だった、と私は感じている。


私と全てが同じ意見というわけではないのだけど、心が温かくなる良い記事です。

マイケルは、日本が好きだっただろうと私も思います。みんなが良い人というわけではないけど(失礼しました)、全体的にみて、日本人は優しくて奥ゆかしい。その上、マイケル・ジャクソンのような人が好きだからね~~☆

日本には、人を肌色で区別するクダラナイ習慣はありません。


あと少しで平成も終わり。。。
令和が昭和の末から平成のはじめの頃のように、キラキラした豊かな時代になりますように。

 

マイケル・ジャクソン来日秘話 テレビ屋の友情が生んだ20世紀最大規模のショービジネス
白井荘也
DU BOOKS
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『BAD』時代のMichael①

2019-04-27 10:06:00 | MJ

先日購入した『Thriller』25周年の記念本が届きました。 

レビューにあるとおり、当時のマイケルのレアなお写真が満載♪ しかもアップが多いので、彼のハンサムなお顔をじっくりと眺めてしまいます。 密集した濃く長~~い睫毛(まつげ)がくるりんとカールしてて、超羨ましい。。いいわねぇ、ビューラーが要らなくて。

ただ、説明では「ほぼ新品」とあったのですが、表紙のマイケルの可愛いお顔に小傷があり()、角も傷んでるし〝昔の本の香り〟が漂ってる。。。 臭いを消すため新聞紙で包(くる)んでるけど、これで消えてほしい。。(注:新聞紙は効果が高いらしい) ハードカバーではないので、DAISOの透明カバーをしようかな~~。そしたら傷みが気にならず、見た目も立派になりそう。

そして、上記のお写真は、『Harper's BAZAAR』2017年12月号に掲載されていたものです☆ NYにほんの数年だけ存在した伝説のお店「スタジオ54」で撮影されたものだとか。1977年、19歳の可愛いマイケルです。 この笑顔が眩しくて。。

マイケルがお話しているのは、スティーブン・タイラーだそう。ほとんどお顔が見えないんですけど。。(あらら)

このページはスクラップしようと思ってるの。後年に比べれば、ほとんど何の苦悩もなかった頃のマイケル。


彼は輝かしい栄光の陰で、多くの苦悩を抱えていました。マイケル・ジャクソンの辛い部分を見たくないけど、これを知れば、彼がどんなに偉大な人物であるのかが分かるのです。批判しかしない人は、彼のことを何も知らないのでしょう。知らない人のことを理不尽に責めてはいけません。

*マイケル・ジャクソンは、黒人としては唯一、本当の意味で〝最高の地位〟に登りつめたアーティストであり、アイドル的な立場でもあったためか、他の大物アーティストが経験したことがないほどの理不尽なバッシングを受け続けました。人種差別主義者の格好の標的だったのだと私は思っています。(今も続いている)

メディアの攻撃(〝口撃〟かも)は凄まじく、マイケルの善行(慈善活動など)を一切報じないばかりか、数多くの作り話を世間に吹聴し、彼が子どもたちに親切にすることを揶揄、誹謗中傷しました。メディアが1993年、2003年、今年2019年の事件の「元」を作ったのだと言っても過言ではありません。(他にソニーとの深刻な確執、マイケルのおカネを狙う人々にも苦労していた)

さらに彼は数多くのケガ(及び後遺症)、難病にも悩まされており、一般人が想像できないほどの苦悩を背負っていました。肌の色や40代以降の外見の変化は、病気(白斑、SLE)によるものです。彼は常に身体の痛みに耐える人生だったはず。このことを本当に理解してくれる人は(3人の実子以外の)家族にも多分おらず、マイケルはとても辛かったと思います。

思いやりの心と想像力が僅かでもあれば、マイケルの辛さが誰でも多少は分かるはずです。

それでも彼は人々に優しく親切にし、自身の辛さをほとんど人に見せませんでした。マイケルはとても強い人だったのですね。彼の内面を深く愛するファンが大勢いる理由が分かるでしょ?


さて今日は、「AERA dot.」に掲載された和田静香さんという方の記事をご紹介します。

私のブログに保存したいということもあり、抜粋して載せたいと思います。

1987年のBADツアーで来日した時のエピソード。 マイケルの興味深い事柄が満載♪ 昔ながらの音楽雑誌風の文章もイイ感じ。

文中に事実誤認、誤植などが数か所あるため、訂正しています。(事実誤認の箇所は、Lahさんという方のTwitterで知りました)

では、どうぞ。


*マイケル来日パーティー キャピトル東急スイートルームの真実

(前略)今、新しい時代を迎えようとしているこの日本で、昭和57年(1982年)12月5日(注:正確には12月10日)に発売されて大ヒットしたアルバム『スリラー』でトップ・スターになったマイケル・ジャクソンという1人の偉大なアーティストの人間像が語られることは、ファンを対象にしたメディア以外では滅多に目にすることもなくなった。(中略)

一体、マイケル・ジャクソンとはどんな人だったのだろうか? その死から10年、今一度探ってみたい。

「マイケルはステージで見せる自信に満ち溢れたスター像とは違い、普段はとても穏やかな人でした。スターにありがちな尊大さなんて全く見せません」

そう語るのは、マイケルの日本での発売元であるレコード会社「EPIC・ソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)」で、海外との契約やマーケティングに関する交渉などを行う日本側の「国際部」に所属していた田中章さん。田中さんは国内外でマイケルに何度も会っている。

「1987年に来日した際、レコード会社主催の歓迎レセプションを開くことになりました。当時のEPIC・ソニーとCBS・ソニーでは、海外からアーティストが来日すると銀座のソニービルの地下にあったフレンチ・レストラン『マキシム・ド・パリ』でオフィシャル・ディナーを開くのが常だったんですが、マイケルはそうした儀礼的な席は好まないだろうと判断し、宿泊していた赤坂・キャピトル東急ホテルのスイートルームを借りて開くことにしました。僕の提案で、子ども好きのマイケルだから社員も子どもたちを連れて出席してマイケルを迎えようとなり、うちの当時6歳だった娘にもミッキーマウスのTシャツを着せて一緒に出席しました。マイケルはこうした席だと恥ずかしがり屋で積極的に話をすることは少ないんですが、それでも『ありがとう』とその度に言って、疲れた顔を見せず記念撮影に応じてくれました」

なるほど、「マイケルは子どもが好き」という噂は、87年当時すでによく知られていたことが分かる。このときの来日公演は「日本テレビ」の主催だったが、その交渉をした伝説のTVマン白井荘也さんが書いた「マイケル・ジャクソン来日秘話」(DU BOOKS/2017年)を読むと、日本テレビが主催したパーティーにも、ミュージカル「アニー」に当時出演していた子どもたちが参加して「トゥモロウ」を歌ってマイケルを迎えたとある。(中略)

「マイケルは子どもだけが好きというより、どちらかというと大人を信用できなかったといった方がいいんではないでしょうか。自分と同じような年齢の、もしくはもっと上の大人たちは皆お金目当てであったり、誰かの差し金であったり、何か仕事を頼みたいとか利害関係で近づいてくるに決まっていると、マイケルは常に警戒心を抱いていたと思います。来日したのは『スリラー』が大ヒットして、続くアルバム『バッド』が発表された頃です。最も難しい時期と言えるでしょう。『スリラー』の爆発的ヒットであらゆる人が手のひら返し、誰も信じられない!と思っていたのは想像するに容易です」

そう語るのは、当時「EPIC・ソニー」でマイケルを担当するA&Rだった清水彰彦さん。見知らぬ大人などとは会いたくない、話をしたくない、心を開かない、それが当時のマイケルだったんじゃないか?という。

「そのためにマイケル側のスタッフは、フランク・ディレオというマネージャーだけでした。ビジネスはフランクが担当し、ボディガードが1人と、弁護士は別にもう1人いましたが、音楽面のクリエイティヴなことはマイケルが全部やるんです。バンドにはグレッグ・フィリンゲインズというキーボード奏者がいて、彼がバンマス(バンドマスター)で細かいところはやるけど、普通は複数人いるアシスタント・ディレクターみたいな人や取り巻き的な人は誰もいない。ステージでのアレンジの変更や何時までにリハしてとか、そういうことを全部マイケル本人が決めるんです。スタジアム規模のツアーでそんなことしてる人、他に誰もいません。

変な話、衣装とか普段着とか洗濯してくれる人、いるの?とかも心配でした。そりゃもちろん日本側スタッフに頼んでくれれば何でもしますよ。でもマイケルが頼んでくれないと、何もこちらからは手出しできませんからね。当時、スポーツ新聞やワイドショー用に『今日のマイケル』みたいなネタをレコード会社から送っていたんですが、その写真なんか見ると、同じような服を毎日着ていて、エリがクタッとなっていたりする。もしかして昨日と同じ服?マイケル大丈夫かな?と心配していました」(清水さん)

部屋のバスルームで1人コシコシとパンツや靴下を洗うマイケル……というのも、ありえない話ではないと清水さん。実際多くのアーティストは、自分でそうやって部屋で洗濯をすることも多いんだそうだが、よもやマイケルもそうだったのか?

日本テレビの白井荘也さんの本にも、87年のマイケル来日公演は元々、幼少期からの友人であるオズモンド・ブラザーズ(注:70年代に人気を博したファミリー・コーラス・グループ)のジミー・オズモンドに、マイケル本人が「日本で誰か信用できる人はいないか?」と尋ねたことから始まったとある。

マイケルに尋ねられたジミー・オズモンドは、自分が17歳から出演していた日本のTV番組「日曜お笑い劇場」のディレクターだった白井さんを、「この人なら」とマイケルに紹介した。コンサート・プロモーター探しなど、普通アーティスト自身がやることではないが、マイケルはそこまで自分でやっていたのだ。

マイケルは誰も信用できずに、何もかも自分でコントロールしたくなるコントロール・フリークになっていたともいえる。しかし、その反面でまた違うマイケルの顔が見える。

「でもジミーは当時すでにかなりやり手のビジネスマンでもあり、ディズニー・オン・アイスの興行権なども持っていたと聞きます。マイケルはそうした面も鑑みて、ジミーを信用していたんだと思いますよ」と清水さん。

また田中さんは、「マネージャーのフランクは元々アメリカのEPIC・レコードのプロモーション部門のヘッドだった人です。その仕事ぶりをマイケルが見込んでマネージャーに雇いました。日本はマネージメント会社がアーティストを雇いますが、アメリカは逆。アーティストがマネージャーを雇います。フランクはいかつい外見ですが、元々レコード会社の人間だっただけあり、物わかりのいい、こちらのやりたいことに応えてくれる人でしたよ」という。

ナイーヴな子ども好きのマイケル像から一転、生き馬の目を抜く厳しい米・ショービズの世界で信用できる人物を自ら選定して起用する、ビジネスマンとしての冷静な視線を持つマイケル像が見えてくる。

「日本では田中章さんをアキ、と呼んでマイケルは一番信用していましたよね。同じアキでも、清水彰彦の僕はアキ2でした。田中さんは同じ会社にいた僕から見ても損得関係なく動く信頼できる人ですからね」(清水さん)という。ビジネス面だけじゃなく、マイケルは人の本質も容易に見抜いて、付き合う人を選んでいたんだろう。私から見ても、田中さんを信頼するマイケルは分かってる人だなぁと思う。

となると、マイケルの子ども好きは単なる噂だったのか? 
「マイケルがまだネヴァーランドに引っ越す前、エンシノに住んでいた頃に訪ねたことがあります。そこは事務所にもなっていましたが、家の中に『お菓子の家』がありましたね。いや、お菓子で出来てるんじゃなくて、あらゆるお菓子が用意されてるんですよ、いつ子どもたちが遊びに来てもいいようにって」(田中さん)

「ほら、やっぱりね」なんてほくそ笑む人もいるかもしれないけど、ごく普通な自分と、世界で3億5千万枚以上ものレコードやCDを売り上げることができる男の考えることは、まるで違うんだと自覚せねばならない。

東京大学の安富歩教授は「マイケル・ジャクソンの思想」(アルテスパブリッシング/2016年)という本の中で、マイケルが1993年のグラミー賞で演説した「子どもたちは最も深い智恵に到達していて、そこから創造性を得る方法を教えてくれる」を何度も引用する。マイケルが子どもたちを愛したのは、そういう深い思索のところに所以があるというのだ。だいたい考えてもみてほしい。もし本当にマイケルが子ども達を性愛の対象として見ていたのなら、絶対にそれを隠し、家に用意したお菓子の家を外から来る人が安易に見られるようにしておかないのではないか? 最少の人件費で冷静にビジネスを遂行し、3億5千万枚を売り上げられる男なのだ、それぐらい考えられるだろう。

実際のところ、マイケルは恵まれない子どもたちへ何よりも大切な教育支援に本当に熱心で、87年に来日した折には多額の寄付を各所にしていた。

「マイケルは来日前に日本ユネスコ協会に連絡して協力を申し出てステージ衣装などをオークションに出し、さらにマイケルの肖像入りゴールドメダルの製造を許可して両方の売り上げを加え3000万円あまりを全て日本ユネスコ協会に寄付したそうです。日本ユネスコ協会はその資金を元に『ユネスコ世界寺子屋運動』という、世界の子どもたちに学ぶ機会を与えるための基金を作って今に続き、世界で124万人に学ぶ機会を提供しています。

当時日本ユネスコの事務局長だった方が「何故ユネスコに寄付してくださるのですか」と問うと、マイケルは「僕自身、子どもの頃に音楽の仕事があり学校に行けなかった。だから教育を受ける機会の無い子どもたちのことがとても気になります。どうか、彼らの為に役立てて下さい。そしてユネスコの支援活動は一過性のgiftではありません、共に歩んで行くCo-oprative Actionで、それに僕は共感しています」と答えたそうです。

「それでは!」と、寺子屋運動に「マイケル・ファンドと名付けさせてください」とユネスコ側が申し出ると、マイケルは断ったとか。売名行為と取られるのを嫌がったんですが、上から目線で恵んでやるのではなく、共に歩もうとする姿勢がマイケルらしいですね。

またこれとは別に、女優の宮城まり子さんが代表を務める児童養護施設ねむの木学園」への寄付もしています。こちらはマイケルから私に寄付をすべき日本の団体を選んで欲しいと頼まれ、紹介したものです。「ねむの木学園」ではその後、天皇皇后両陛下がご訪問された折にマイケルの歌を子どもたちが歌ったりして、マイケルへの感謝を表しています。これらのことは公表を控えて欲しいというのがマイケルの意向だったので、僕も今まで人に話したことが殆どなかったため、報道されることもありませんでした」(田中さん)

日頃喧伝されるマイケル像とは違う姿をすぐ側で見ていた田中さん、清水さん。(「バブルスと日本で過ごした最愛の日々」に続く)


時はバブルの最中。当時の日本のエネルギッシュでキラキラした雰囲気が伝わってきます。

マイケル・ジャクソンのシャイなところ、思いやりある優しい心、困っている人を助けたいと思う気持ちがよく分かる素晴らしい記事です。(マイケルはこの頃までは自ら仕事を管理しており、全てが上手くいっていたようですね。彼がビジネス面で〝やり手〟だったのは事実です)

最近はマイケルの実像とかけ離れた下品なドキュメンタリーの話ばかりで、私は精神的に疲れていました。

でも、この記事で気分が上がり、元気が出た。

後半も興味深いお話が満載です♪

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エビフライとヒレカツ♪

2019-04-25 13:22:55 | 日々の出来事

数日前、出雲の「かつ楽」というお店にランチに行きました。

外食は時々しているのだけど、お写真がイマイチだったり味が「何だかなァ」という時は、記事にしていません。。。


午前11時半くらいにお邪魔したので、限定20食のレディースランチを注文できた。

このお店に来るのは久しぶり。。。

友人と4人で行ったのですが、みんなレディースランチ♪

待つことしばし。

運ばれてきたのはコレ。

大きくて全体が写せなかった。。。

左側にご飯(可愛い桜のお茶椀 )とカラフルな野菜サラダがあります。

あとはメインのヒレカツとエビフライ、大根と人参と玉子のなます、茶わん蒸し、ワカメとなめこのお味噌汁、お漬物。

大ぶりのエビフライはぷりぷりで、タルタルソースも美味ちかった。 ヒレカツもすごぉく柔らかくて、女性向けの揚げ物という感じ。これまた美味ちい。 最初「2つって少ない」と思ったけど、どちらも大きかったので、これで適量だったわ。

お野菜がたっぷりあるから、ヘルシーです。

さらに飲み物とデザート付き♪

  

プリンとアイスカフェラテ。(ビールみたいね) 他の人はホットコーヒーやアイスコーヒーでした。

これで1000円くらい。

ソースは自分でミニすり鉢で擦ったゴマにトンカツソースを入れるスタイルです。トンカツ専門店は、こういうところが多いのかな~~?? 前も別のお店でゴリゴリしたことがある。

また他のカツも食べたい。

私のランチ、今までは全て麺類だったわね。。


さて、平成もあと6日になりました。

なので、日記帖を新調しようと思って。

私はいつもB6サイズのノートを使うので、今回も同じ大きさの可愛いモノを物色しました。

見つけたのがコレ。 ↓

大人な感じのミニーのノートです。アンニュイな表情のミニーと、クラッシックな雰囲気の絵が可愛くて好き。

Yahoo!ショッピングで半額のお店を見つけたし、ちょうど期限が迫ったポイントを持っていたので、買っちゃいました。というか、全てポイントで支払ったので、0円です。 

700円以上もする高級ノートなので、新時代にふさわしい。

大切に使おうと思います。

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『Thriller 25th Anniversary』Bookを☆

2019-04-21 17:34:39 | 映画&音楽&本

春らしい暖かくて爽やかな日が続いています。

あと少しでゴールデンウィーク。その途中で元号が新しくなります。キラキラした時代になるよう、努力しなくては☆

うちは多分、あまりお出かけはしないと思いますが、令和の始まりとともに、今までよりも充実した日々を送りたいと思っています。常にポジティブに、明るく楽しい毎日を過ごしたい。

なので、久々に読書しようかな~~と。

今はマイケルのことがあるし、心が落ち着かない。気を紛らわせるため、軽いミステリ小説などを読むつもり。

購入したまま読まずにいた2冊。 ↓

  

なぜか画像の大きさが違うんだけど。

私のお気に入りの〝コクと深みの名推理〟シリーズの新刊『沈没船のコーヒーダイヤモンド』と、〝お茶と探偵〟シリーズの新刊『セイロン・ティーは港町の事件』です。

『沈没船のコーヒーダイヤモンド』は読み始めています。私が好きそうなゴージャスなジュエリーにまつわる謎。

『セイロン・ティーは港町の事件』は、これからの季節に合いそうなイメージ。内容はまだ不明だけど。


そして、5月は私の誕生月。

というわけで、自分へのプレゼントに、この本を注文しました~♪ ↓

マイケル・ジャクソンの『Thriller 25th Anniversary: The Book, Celebrating the Biggest Selling Album of All Time』(2008年)です。

これは、史上最高の売り上げを誇るアルバム『Thriller』(1982年)の発売25周年を記念して出版された本です。

CDの『Thriller 25』は既に持っていて大切にしていますが、先日、Amazonを色々検索していたら、偶然見つけたの。私はこの本のことは知らなかったので、レビューやブログ記事を読み、購入を決断しました。

洋書だけど、辞書を片手に気楽に読んでみようかな~~。

この本の定価は分からないけど、世間では5000円以上で販売されているようです。私は中古の極美品を買ったのですが、お値段は3500円。(高いわ。。。

ですが、マイケルのためなら、いくらでもお財布のヒモが緩むワタクシなので、「誕生日だしぃ」と心の中で言い訳しながら、ぽちっとしちゃいました。

↑ 1984年に『TIME』誌の表紙を飾ったアンディ・ウォーホルの絵。

内容は、もちろん『Thriller』に関するものです。1982年~1984年頃のことかな~~?? レアなお写真が満載で、装丁も豪華な本なので、読むのが楽しみ♪

当時のマイケルは、とてもシャイで優しく大人しいながらも、世界のトップに登りつめた自信にあふれ、目がキラキラと輝いていました。後に自身が振り返っているように、彼の人生で最も幸福な時代だったと思います。

この頃は現在のような状況になるとは、誰も思っていなかったでしょうね。。今日も、モータウン60周年のイベント(詳細は知らない)から、ジャクソンズ(元のジャクソン5)が外されているという話を見かけ、あのドキュメンタリーの悪影響はかなりあるのだな~~と思いました。

モータウン出身の最大のスターは誰ですか?

この上もなく善人で、世の人々の幸福に尽力してきたのに、今、存在を消されそうになっているのは何故なのか?

ホントに酷い世の中です。

ただ、人々がマイケル・ジャクソンを完全に忘れ去ることはできないでしょう。彼の音楽やパフォーマンスを愛する人は圧倒的に多いし、その功績は誰よりも大きいのだから。

日本でも「エマニエル坊や」として人気だったエマニエル・ルイスとともに、ディズニーキャラに囲まれた可愛いマイケル。

エマニエルくんは、私よりもかなり年下だと思ってたけど、ナント! 同じ年齢(1971年生まれ)だったの~~~。 んまあ。(どうりでシッカリしていたわけね)

1984年当時、彼はマイケルに何度も抱っこされてる。。。(13歳なんですけど)

羨まぴ~~~~~。


早くマイケルの本が届かないかな~~。

 

Thriller 25th Anniversary: The Book, Celebrating the Biggest Selling Album of All Time
Michael Jackson
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平成31年の桜とMichael♪

2019-04-07 15:18:33 | MJ

昨日は良いお天気で暖かかったので、お買い物のついでに、さらっと桜を鑑賞してきました。

人気の桜の名所には近づけないと思ったので、通りすがりの桜ちゃんを少しずつ見たの。人だかりで具合悪くもならず、静かで落ち着いてて、なかなか良かったです。ミルクティーを飲みながら、のんびり眺めていました。

お写真が撮りにくい場所ばかりだったので、何だかイマイチだけど、平成最後の桜ちゃんなので、載せとく。

ちょうど陰になる場所で、太陽の日差しに煌めく桜ちゃんは撮れなかったけど、これも儚(はかな)い感じで可愛い。

わが県(=島根)は桜の開花後、また寒くなったので、今年はお花が長持ちしそうです。明日以降、機会があったら名所にも行ってみたい☆ 今日はお天気がイマイチだわ。。散りませんように。




さて、私は今、頭がマイケル・ジャクソンでいっぱいなので、毎日彼の情報をチェックしています。

昨日はマイケルの専属ヘアメイクだったカレン・フェイのツイートを読み、何だか彼が可哀想で涙していました。。

カレンの話で、マイケルの並外れた優しさと思いやりと寛大な心、また、それを当然のように利用する人々がいることを改めて知ることになり、何とも言えない気持ちになりました。先日ご紹介したシュライハーさんのお話と似ています。

ネバーランドに来る家族の中には、やはり「良くない人々」もたくさんいて、彼らはマイケル・ジャクソンをATM代わりにしていたようです。その要求が過度になり始めると、マイケルは彼らから離れたの。その中には、あのエヴァン・チャンドラーもいたのです。エヴァンはマイケルに家を建ててくれと言ったそうです。イカれてる。。 (マイケルはこれが原因でエヴァンを避け始めたの。当然の判断だと思うけど)

彼らはマイケルに高価な品を〝おねだり〟し、人の頼みを断ることが苦手なマイケルは、ある程度はその要求を叶えてあげたようです。ブランドのお洋服、ロレックスの時計、カルティエのジュエリー、あるいはクルマなどを。

ネバーランドのマイケルの寝室は、2階建てで途方もなく広く、一般の人が思うような状況(=ベッドで子どもと2人きり)ではありませんでした。子どもたちとその両親は彼らをマイケルの部屋に泊めてほしいと懇願し、マイケルはいつも困惑していたそうです。カレンはこれを何度も目撃したとか。彼女自身もマイケルのベッドで眠ったことが何度もあるそう。(セクシャルな状況ではありません。周囲はきっと〝子どもまみれ〟だったのでしょう)

そういう時、マイケルは別の部屋で寝るか、他の場所で仕事をしていたそうです。


マイケル・ジャクソンの過ちとは何だったのか。

カレンは〝Michael’s only guilty of generosity, kindness, trusting and naivety.〟と言っています。

ただ、人を信じる優しさは彼の長所でもあります。

マイケルの優しさや誠実さを気にも留めず、彼のおカネだけを欲する人々にすべての罪がある。

マイケルに非は一切ありません。




最近はYouTubeでもマイケルの動画ばかり観てしまいます。

MJエステートは、『HIStory』ツアーのDVD化を考えているそうですが、今回のことで、どうなるのか心配。

マイケルの人気に陰りは全くないので、発売するかもしれないけど、どうなのかな~~??



平成の桜も、あと少しで見納め。

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