わたしの癒しTime。

日々のことやお気に入りを綴ります。

Rolling Stone誌のパリスのインタビューから。

2019-05-06 23:23:31 | MJ

先日UPした記事(コチラ)でご紹介していた動画。。マイケル・ジャクソンの生前最後のグラビア撮影だった、雑誌『VOGUE』のドキュメンタリー。

何度も観るうちに辛くなったので、削除しました。あのラスト近くの苦しそうな表情を見ると可哀想で。。(5月7日追加・・・今朝、その理由を知った) 同じ年の『EVONY』のグラビア撮影の動画も観たけど、こちらのマイケルは『VOGUE』の時より、明らかにリラックスして見えました。『VOGUE』はまるで見世物のような扱いで、リスペクトを感じない。ちょっと(じゃない)マイケルに失礼なのではないでしょうか。


最近は、例の〝ドキュメンタリー〟のせいで、再びマイケルの辛い面を度々見ることになり、私は自律神経が乱れまくりです。

マイケルは晩年、愛する家族にまで鎮痛剤依存を疑われ、とても苦しい日々を過ごしたはず。でも、SLEという病気は意識が朦朧とすることがあるし、鎮痛剤との相性が最悪なのです。SLE自体が原因で鬱病になることもある。マイケルは鎮痛剤依存を強く否定し、「僕を信じてくれないんだね」と母キャサリンに言ったそう。。。私は彼を信じてるけど☆

マイケルが罹患していた難病はストレスが大敵。メディアや〝カネの亡者〟の罪は重すぎる。


マイケルの兄ジャーメイン・ジャクソンは、(意外にも)私の心に響くことを言っています。2003年の事件の際に彼は「弟は変人なんかじゃない」とキッパリ言い、マイケルの死後にFBIが17年間の極秘捜査を発表した時は驚愕し「なぜ弟が生きている間に言ってくれなかったのか」と涙ながらに述べました。

ジャーメインは、私が読んだある本には弟に多少嫉妬気味で気難し屋な性格だという風に書かれていたので、こんなに頼もしい兄だと知り、思わず「意外」だと思ってしまったのでした。失礼しました。。。


というわけで本題。

今日は、雑誌『Rolling Stone』に掲載されたマイケルの娘パリス・ジャクソンのインタビューを、大事なところだけ抜粋してご紹介します♪

前ブログで記事にしていたのだけど、今はインタビュー記事がネットから削除されているし、私の元記事はロクでもないので、書き直すことにしたの。

インタビューは2016年の11月~12月頃に行われたようです。残念ながら、日本版には掲載されませんでした。。。

では、さっそく。


【(前略)パリス・ジャクソンは2016年4月に18歳になった。大人びた面を見せるときもあれば子どもっぽい面を見せることもある彼女だが、人生において大きな浮き沈みを経験してきた。彼女のヒッピーとパンクのミックス・ファッション(今日はタイダイ染めのボタンダウンにジェギンス、ハイカットのコンバースを合わせている)、そしてボーダレスな音楽のテイストは、まさに彼女が21世紀の申し子であることを物語っている。しかしながら、それ以上に、彼女はあの父親の娘なのである。「性格的には、彼女はほとんど父親そのものだよ」と彼女の兄プリンス・マイケル・ジャクソンは語る。「違うことといえば年齢と性別くらいのものさ。彼女の長所も、そして短所もすべて父親譲りだ。とても情熱的なところ、そして判断を曇らせるほどに感情的になりすぎてしまうところも」。そう彼はパリスとマイケルの共通点を説明した。

パリスは驚くべきペースでタトゥーを入れている。未成年時には数個だったのが、今ではその数50個以上である。そしてそのうち9個は、彼女が11歳の時に他界したマイケル・ジャクソンに捧げるものだ。あの時から彼女とその弟のブランケットは、かつての守られた美しい小さな世界から連れ出されることになった。「"時が癒してくれる"とよく言うけれど」と彼女は語る。「でもそんなことはない。ただ慣れていくだけ。"オーケー、たしかに私は大切だった唯一のものを失った"と割り切って生きているだけなの。そうすれば、これから起こるどんなに悪い出来事も、それほど悪くないと思って前向きに対処できるから」。マイケルは今でも彼女の夢に現れるのだそうだ。「いつも父が私と一緒にいると感じる」と彼女は語った。

自分をピーターパンだと捉えていたマイケルは、よく娘をティンカーベルと呼んでいた。彼女の鎖骨付近には"FAITH, TRUST AND PIXIE DUST"(信じる心と妖精の粉があれば)というタトゥーが刻まれている。また前腕には父のアルバム『デンジャラス』のカバーアートからの絵が、手には『バッド』のロゴが、そして左手首の内側には父の手書きの手紙からとった"QUEEN OF MY HEART"の文字がそれぞれ刻まれている。「父の存在は私にとって喜び以外のなにものでもなかった」と彼女は語る。「その喜びをいつでも思い出せるようにしておくのに理由なんて要らないわ」。

(中略)右の手首には、マイケルがアフリカで購入した翡翠つきのブレスレットを着けていた。彼が亡くなったときに着けていたもので、彼女の世話を担当していた使用人が彼女のために取っておいてくれたそうだ。「まだ父の残り香がするの」とパリスは語った。

(中略)父の死以前には自宅学習だったパリスだが、その後は私立学校に7年生から編入することになった。しかし彼女はまったく馴染むことができず、自分を受け入れてくれた友人とだけつるむようになった。「上級生たちがいろいろなクレイジーなことをやってたわ」と彼女は語る。「早く大人になろうとしすぎて、13、14、15歳の子どもがやってはいけないことをいろいろやってた。いい人間ではなかったわ」。また彼女はネットいじめにも遭い、ネット上での書き込みで受けた心の傷に今も苦しんでいる。「言論の自由には大賛成。でも、アメリカ建国の父たちが権利章典を憲法に加えていた時代には、ソーシャルメディアの存在は予測できなかったのよね」と彼女は語った。

(中略)彼女の最後の自殺未遂の後、彼女は10年生と11年生の前半をユタ州にある治療施設の学校で過ごした。「とても充実した時間だった。私はあの時とはまったくの別人だわ」と彼女は語る。そして、控えめに笑いながら「クレイジーだったのよ。実際、私は狂っていたの。ティーンエイジャー特有の不安みたいなものをたくさん抱えてた。そして誰の助けも求められないまま、鬱や悩みと戦っていたの」と続けた。彼女が言うには、彼女の父も生前は鬱に苦しんでおり、彼に処方されたのと同じ抗うつ剤を処方されたという。なお、現在では精神疾患用の薬は一切服用していない。

当時の悪行で今も続いているのはメントールタバコくらいのものであり、今は人生で一番まともでハッピーな時期を過ごしているパリス。彼女は18歳の誕生日のすぐ後、それまで住んでいた祖母キャサリーンの家を出て、昔のジャクソン家の屋敷へと向かった。現在、彼女はそこでボーイフレンドのマイケル・スノディと暮らしている。(注:2016年当時。パリスは今はガブリエル・グレンとお付き合い中らしい)

(中略)現在、彼女はマイケルが『今夜はビート・イット』のデモを録音したプライベート・スタジオに住んでいる。ロサンゼルスのエンシノ地区にあるジャクソン家の敷地には、まずチューター調のデザインが目を引くメインの屋敷がある。1971年にジョー・ジャクソンがジャクソン5最初期の印税で購入し、80年代にマイケルによって再建されたものである。主が住んでいないこの家は、現在改築中だ。そしてそのメインの屋敷から中庭をはさんだ位置に、マイケルが建てたレンガ造りのスタジオがある。サイズはキッチンとトイレ付きのまともなマンハッタンのアパートほどだ。そのスタジオを、パリスは温かなバイブスの宿る部屋にアレンジして使っている。

スタジオを見ると、そこにはマイケルの好みが至る所に反映されていた。入り口には額縁入りのディズニー・スタイルの絵が飾ってあり、そこには丘の上の城を背景にアニメ風に描かれたマイケル、そして彼に寄り添うブロンドヘアの少年が描かれている。その絵の下には"子どもたち、城、そして王"と書いてあった。中に入ると、絵が壁じゅうに描かれていた。そこにもアニメ風のマイケルの絵がコーナーに描かれており、"The Secret of Life"と書かれた本を手に、窓から花を見ている。そしてたくさん咲いている花の中心部には頬の赤い少女の顔が、やはりアニメ風に描かれている。

しかしパリスの好みは、父のそれとは幾分異なっている。トイレにはカート・コバーンの写真、壁にはスマッシング・パンプキンズのポスター、ラップトップにはアゲインスト・ミーとネバーエンディング・ストーリーのステッカー、そしてサイケデリックなペイズリー柄の壁掛けとたくさんのフェイク・キャンドルが飾ってある。アナログ・レコードの盤(アリス・クーパー、ザ・ローリング・ストーンズ)は壁飾りとして使われていた。カジュアルなカウンター・スタイルのキッチンに飾られているのは、クインシー・ジョーンズからマイケルに送られた額縁入りのプラチナ・レコードだ(「屋根裏部屋で見つけたの」とパリスは肩をすくめて言っていた)。

隣接のガレージの上はミニ・ミュージアムになっている。これはマイケルから家族へのサプライズ・ギフトであり、壁そして天井いっぱいに家族史を記録した写真が飾られている。ここではかつてマイケルがダンス・ムーヴを練習していた。(中略)

そのお部屋にいるプリンス。 ↓


近くの寿司レストランに出かけながら、パリスはネバーランドでの暮らしについて語ってくれた。彼女は7歳まであのアミューズメントパークと動物園、そして映画館つきの広大な夢の国に住んでいた("子どもの時にできなかったことのすべて"とマイケルはこの場所を呼んでいた)。当時は、彼女はまだ自分の父がスーパースターであることはおろか、父の名前がマイケルだったことすら知らなかった。「父の名前はただ"パパ"だと思っていたわ」と彼女は語る。「彼が誰であるか、本当に知らなかった。でも父は、私の世界そのものだった。そして私たちも、父にとって世界そのものだったのよ」

「いつでも好きなときにドライブに行ける、というような環境ではなかったわ」とエンシノの屋敷近くの暗い道端を歩きながら彼女は回想する。(中略)「けっこう普通の生活を送ってたんだから。毎日学校に行って、よい子にしてなくちゃいけなかったし。もしよい子でいられたら、2週間に1度とかそのくらい、映画館とか動物園とか、好きなところに連れて行ってもらえた。でももしよい子にしていなかったら、どこにも行けないの」。

2011
年に出版された回顧録で、マイケルの兄ジャーメインはマイケルについて「父親とはどうあるべきかということの模範だった。彼は私たちの母親が注いでくれた愛を心に刻み込み、そして私たちの父親が与えることのできなかった(それは彼自身の責任ではないが)父親としての愛を、子どもたちに与えていた。マイケルは父と母のそれぞれの役割を1人でできるような存在だった」と書いている。

マイケルは子どもたちに普通の学校に行く選択肢も与えていた。自宅学習を選んだのは子どもたち自身だ。「家にいると時々ね、私が誰よりも愛している父が勉強中に入ってきて、"いいよ、もう今日は勉強は終わりだ"と言って、それから私たちは父と遊ぶの。私たちは"友だちなんかいらない。パパがいて、ディズニー・チャンネルがあるんだもの!"と思ってた」。彼女自身も、その点について「すごく変な子どもよね」と自覚していた。

彼女がソウルフードの作り方を学ぶとき、そこにいたのはほとんどの場合父だった。「父は素晴らしいコックだったの。父のフライドチキンは世界一よ。あと、さつまいものパイの作り方を教えてくれたわ」。キャサリーンおばあさんの感謝祭のために4つのパイを焼き、傍らでガンボも作りながらパリスはそう言った。(中略)

マイケルは自分が受け入れられるジャンルである限り、パリスをあらゆる音楽に触れさせた。「父がヴァン・ヘイレンと仕事をしていたから、私もヴァン・ヘイレンにハマった」と彼女は語る。「父がスラッシュと仕事をしたから、ガンズ・アンド・ローゼズを聞いた。チャイコフスキー、ドビュッシー、アース・ウィンド・アンド・ファイアー、ザ・テンプテーションズ、2パック、ランDMCも父が教えてくれたの」。

マイケルは広い心を持つよう、パリスにいつも言い聞かせていたという。(中略)「彼が最も重要視していたことは、教育だった。私たちを愛すること以外ではね」とパリスは語る。「しかも父は"父なるコロンバスがこの地にやって来た!"という感じじゃなく、"コロンバスは原住民を虐殺したクソ野郎だった"って感じだったの」。本当にそんな言い方をしたのか?と訊くと、「そういう言葉使いはよくしていたわ。海兵隊ぐらい汚いわよ」。しかしその一方で、彼は"とてもシャイであった"とも彼女は語った。

多くの人が自分の血統について疑っていることもパリスとプリンスはわかっていた(末っ子のブランケットは色黒だったため、それほど疑われることはなかった)。(中略)

パリスは、マイケル・ジャクソンが自分と血のつながった父親だと確信している。彼女はそのことを熱く信じており、その熱は筆者である私の心を動かし、そして説得力を持って迫るものだった。「マイケルは私の父よ」パリスは鋭い目つきで語った。「これからもずっと、私の父親。そうでなかったことは決してないし、そうでなくなることも絶対にない。彼をよく知る人たちは、私が彼から受け継いだものを持っていると言うわ。それは少し怖くもあるけど」。

「私は自分を黒人だと思ってる」。そう彼女は語り、そして「ある時、父は私の目を見て、そして私を指差して"君は黒人なんだ。自分のルーツに誇りを持ちなさい"って言ったの。だから私は"父がそう言うんだもの。父が嘘をつく理由なんてない"と思ってる。私はただ父に言われたことを信じているの。なぜなら私の知る限り、父が私に嘘をついたことなんてないから」。

「私のことを知らない人のほとんどは私が白人だと思うわ。色白だし、金髪にしているから特にそうね。フィンランドとかで生まれたように見えるかも」とパリスは認める。そして彼女は人種ミックスの子どもが自分のような容姿の特徴を持つことは別段珍しいことではないと指摘する。

(中略)世間が見ている父の姿が、自分が見ているものとは違うことにパリス・ジャクソンが気づいたのは、彼女が9歳くらいのときだった。「夜に父が私のところに来て涙を見せるの」、12月中旬にニューヨークのコーヒーショップで小さなスプーンをその手に持ちながら彼女は語り始める。そして、涙が彼女の目に浮かんできた。「想像してみてよ。両親が、実際にしていないことで世界から憎まれている悲しみで泣いているのよ。私は悲しくて、父にこんなことをする世界を憎み始めたわ。あの父の姿は、私にそうさせるのに十分だった。"どうしてみんなそんなに意地悪なの?"と思って・・・」と語り、そして言葉を詰まらせた。「すみません、感情的になってしまって」。

パリスとプリンスは、彼らの父親が受けた複数回にわたる子どもへの性的虐待疑惑が、事実無根であることを一切の疑いなく信じている。そして彼らは本当のマイケルを知る人物でもある。もう一度言うが、彼らの主張には非常に説得力がある。もし彼らが世界中の1人ひとりとこのことについて話すことができたなら、世界のマイケルへの見方は変わるはずだ。「寝る前に私たちに『A Light in the Attic』を読んでくれた父を知るのは、父の子どもである私たちだけなの」とパリスは語る。「他の誰も、父親としての彼を知る者はいない。もし仮に人々がその姿を知ったなら、父への見方は完全に、そして永遠に変わるわ」。(中略)

2005
年、性的虐待をめぐる裁判でマイケルは最終的に無罪となったが、彼の社会的評価は傷つき、それは家庭生活にも影響することとなった。そして彼は、ネバーランドを永遠に去ることを決めた。(中略)

2009年からロンドンのO2アリーナで行われる予定だったカムバック公演に向けて、マイケルは準備を進めていた。「父は興奮した様子で私たちにそのことを語っていたわ」とパリスは回想する。「"そうさ、ロンドンで1年間ライブをやるんだ!"という感じだった。私たちもすごく嬉しかった。ロンドンで住む家だってもう用意してあったのよ」。しかしリハーサルが始まると、マイケルはひどく疲れていた様子だったという。「"昼寝をしたら?"と父に言ったわ」とパリスは語る。「疲れているように見えたから。私たちが学校にいると・・・つまり自宅1階のリビングルームだけれど、天井から埃が落ちてきて、床を鳴らす音が聞こえてくる。2階で父が練習をしていたの」と彼女は当時を思い出して語った。

パリスは、予定されていたTHIS IS IT公演のプロモーターであったAEGライブに対し、拭いきれない嫌悪感を抱いている。マイケルの死をめぐる不法死亡訴訟で陪審は"マイケル死亡の責任はマイケル本人にある"とするAEGの主張を認め、マイケルの遺族は敗訴した。「AEGライブのパフォーマーの扱いはおかしい」と彼女は主張する。「健康管理をろくにせず、死ぬまで働かせるのよ」(AEGの広報はこの発言に対するコメントを拒否している)。また彼女は、最近のジャスティン・ビーバーのツアーを見て「怖くなった」と語っている。「彼は疲れていて、パフォーマンスに熱が入っていないように見えた。チケットを見ると、AEGの名前が入っていた。そこで、父がいつも疲れていたのに寝ることができなかったことを思い出したの」。

またパリスは、マイケルに対する過失致死罪で有罪判決を受けたコンラッド・マレー医師にも非難の目を向ける。麻酔薬であるプロポフォールの投与に過度に頼った彼の処置がマイケルの死を招いたからだ。皮肉を込めた仕草をしながら彼を"ドクター"と呼ぶ彼女は、父の死について深い疑念を抱いていると語った。「父は自分を殺そうとしている人たちについて匂わせていたわ。ある時には"いつか彼らに殺される"と言っていたわ」。(中略)

父は殺されたのだ――パリスはそう確信している。「もちろんそうよ」と彼女は言う。「そんなの目に見えているじゃない。全ての出来事がそのことを物語ってる。こう言うとくだらない陰謀説やトンデモ論に聞こえるかもしれないけど、本当のファンや家族ならみんな知ってる。ハメられたのよ。最悪ね」。

しかし、誰がマイケル・ジャクソンの死を望んでいたのだろうか? この問いに対してパリスは数秒の沈黙をした後(おそらく特定の人物を挙げようとしたのだろう)、ただ「多くの人たち」とだけ答えた。パリスは復讐を、少なくとも公正な裁きを望んでいる。「当然よ」と、目を光らせながら彼女は言った。「絶対にそうする。でもこれはチェスのように戦略的に動かなければならないことなの。そして私は正しい手を打っていこうとしている。今言えることはそれだけ」。

マイケルは公の場で子どもたちに仮面を着用させていた。この子どもたちを守るための行動を、最初パリスは"ばかげている"と思ったが、後になってその意図を理解した。そしてこのことは、2009年7月7日、テレビ放映もされた父の公開追悼式で、いたいけな少女が大胆にマイクの前に立ち、「私が生まれたときから、パパは他の人が想像できないくらい最高の父親だった。そして今はただ、父を心から愛していることを伝えたい」と残したあのスピーチへとつながっていくのだ。

当時彼女は11歳だったが、自分のしていることの意味はわかっていた。「あの後、父を批判し、父の子育てを批判する人々がたくさんいることを知ったの。あの時はじめて私は公に父を弁護したわけだけど、絶対にあれを最後にはしないわ」と彼女は語る。一方プリンスにとってはあの時が、妹が「兄弟の誰よりも強い人間だった」ことを示した瞬間だった。(後略)】


とても長くなってしまいました~。


今回の騒動で改めて思ったのだけど、マイケル・ジャクソンは、やはり「数百年に1人」の偉大な人物なのです。

ですが、今回のような〝カネの亡者〟の他にも、彼は様々な問題を抱えていました。(他のこともマイケルに一切非はなく、みんな目的は彼のおカネなのです。。

マイケルの3人の子どもたちは大変です。今回のことで、みんな傷ついているはず。。。

でも、悪は必ず駆逐される。そう信じて、ジャクソン家総出で乗り切るしかない☆


上記のインタビュー、父親としてのマイケルの一面が分かり、とてもとても興味深いよね。

深刻な話も出ているけど、これはファンにとっても大事なことだから。

ネガティブなことはなるべく記事にしたくないけど、今回のお話は高揚感もある。マイケルのプライベートも少し見ることができた☆



マイケルがきっと助けてくれると信じたい。


*〝マイケル・ジャクソンが他人に知られたくなかったこと〟(身体の状態)に関して、私は一切、記事にしません。
彼の死に関する裁判中、メディアはあることないこと報じたようですが、全てが「事実」なのかは永遠に謎です。たとえ身内の証言でも、本当のことかどうかは分からないのです。安易に信じないようにしましょう。
マイケル・ジャクソン本人が認めたこと以外は、全て信頼できない情報です。


ぽちっとお願いします。 ↓ 

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Thriller25☆

2019-05-04 22:51:00 | MJ

*前ブログに掲載の記事に、文章を追加して再UPしました。(2017年5月27日)


今日は2019年5月4日。

マイケル・ジャクソンの母キャサリンと兄ジャッキーのお誕生日です。さらにワタクシの誕生日でもある。。。 (ワタクシはどうでもよかったですか?

先日、私は『Thriller』25周年の記念本を、自分へのプレゼントとして購入しました。 それで思い出したの。前ブログでアルバム『Thriller25』の記事をUPしていたことを。

というわけで、その記事をご紹介します。

では、どうぞ。 ↓


【前回の記事では、マイケル・ジャクソンのアルバム『MICHAEL』(2010年)のワルグチを延々と述べましたが、下がった気分を上げるため、今まで手を出そうと思ってなかった『Thriller』(2008年)の25周年記念エディションを買ってしまいました~~。

私は既に『Thriller』を持っているのに、何故これを買ったのか??

それは、マイケルが存命中に出たものだからです。

新品は高額なので、中古の状態の良いモノを注文しました☆(それでも5000円くらい

紙ケースが付いてて、ブックレットのお写真はカッコ良く、とても気に入りました☆ CDはまだ聴いてないけどね。DVDもまだ観てない。(どれも既に持ってるんだけど)

でもね、ブックレットの最初のページには、マイケル自身のメッセージが載ってるの。 ↓

日本語訳はされてないのですけど。(何故??) 辞書を引きながら読むしかないのかしら。。あ、クラウン(おっさん用の高いクルマではなく王冠)は、私が先日DAISOで買ったボタンですよ~♪

マイケルの可愛いアタマにも乗せてみる。 ↓

超似合う。。

(遊ぶのはやめて)ブックレットには、マイケルのイラストも載っていましたよ~♪ ↓

『The Girl Is Mine』です。自伝『ムーンウォーク』でも、マイケルはこの絵のような意味の歌詞だと説明していました。超可愛いよね、この絵。 (彼ってホントに絵が上手☆)

やっぱりマイケルが関わっている商品はクオリティが高いです。良いお買い物をしました。


以上です。

先日の記事(コチラ)で書いていた本の匂いは、新聞紙のおかげでかなり気にならなくなったけど、やっぱりページをめくると香ります。。 なので、面倒だけど、全てのページに新聞紙を挟み、もう少し置いておくことにしたの。これでスッキリするはず。

新聞紙は効果があった。おススメだよ~~♪


『Leaving Neverlandのことでは、つい最近、ボーイ・ジョージがさるインタビューで、マイケルを擁護していました。

ほとんどの大物アーティストが沈黙する中、彼のような人は稀有(けう)な存在です。MJファンは感激しまくり。ウルウル

ボーイ・ジョージは、マイケル・ジャクソンに会ったことはないと聞いた気がしますが、彼はマイケルのファンなのだそうです。以前、パリス・ジャクソンと会った時、彼女のことを可愛い娘(こ)だと言っていましたね☆

この問題で、マイケルを多少でも気遣ってくれた有名アーティストは、他にダイアナ・ロスとスティーヴィー・ワンダーしか思いつかない。。 今が全盛期の人々は、人気に陰りが出ては大変と思っているのでしょうね。仕方ないのかな~~。。

クインシーもね、84年のグラミー賞の映像を観てると、今の無様な態度は何??。。とムカつく。 35年前、彼は子どもみたいに飛び跳ね、はしゃいでいました。 (コチラの映像を観てね。少し不鮮明だけど、日本語字幕があり、キラキラの受賞シーンが観れる☆ それにしても、クインシーは「長い付き合い」の男が信じられないのかしら。。)


マイケル・ジャクソンは、生前から信頼していた人にたくさん裏切られていましたが、死後はもっと酷い目に遭っています。

私たちファンは、マイケルの家族・知人・友人に対し、今は〝良い顔〟をしていても、そのうち裏切るのではないか。。と疑心暗鬼になっています。

結局のところ、マイケル・ジャクソンを本当に理解しているのは、彼のファンだけなのではと私は思うようになりました。

親兄弟でも、家族のことを何でも知っているわけではなく、自分の価値観を押し付け、大事な人を孤独にしてしまうのですね。。メディアを批判しているのなら、まず、当人を信じるべきではないでしょうか。

マイケルのファンになってから、私は「人間の醜さ」をたくさん見てしまいました。

善良な人が幸せになるわけではないということも知ってしまった。


ただ、マイケル・ジャクソンには、彼の死後も一生懸命に真相を究明しようと頑張るファンがいます。

マイケルはきっと、このことを嬉しく思っているに違いありません。


この1年が少しでも幸福になるよう、私も努力しなくては。


ぽちっとお願いします。 ↓



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コメント

『BAD』時代のMichael②

2019-04-30 00:15:20 | MJ

YouTubeを観てたら、すごいモノを見つけたよ~~☆

*大都会 吉井和哉&草野マサムネ・・・

THE YELLOW MONKEYの吉井和哉さん&スピッツの草野マサムネさんの『大都会』(クリスタルキング・1979年)!

私、草野さんがこんなに高音で大声を張り上げているのを聞いたことがない。(ま、『大都会』を歌うには、そうするしかありません。。。) 歌唱力が最高に高いお2人なので、本家(コチラ。素晴らしい。。)に比べるとややソフトな感じで、超ハイクオリティなカバーになっています。

イエモンはロックなので、私はあまり聴いていないのだけど、吉井さんの歌い方は好みです。ずっと以前からお上手だと思っていました。スピッツは90年代に好きだった。 朝ドラ「なつぞら」の主題歌も良いよね☆ 草野さん、カバー・アルバム出してくれないかな~~。

いやぁ平成のラストに良いものを聴いたわ。


そして、思いついて、マイケル・ジャクソンのスズキ「LOVE」のCMを探してみたの。 たくさんあったのですが、これ観て♪ ↓

*「Off The Wall」編・・・

*「Don’t Stop 'Til You Get Enough」編・・・

んまあ、ラブリー♪

「〝Love is my Message」の甘~~い声と、超可愛い両目ウインクにメロメロ。

「LOVE」のお値段は109000円だって~~~。 (このCMは1981年か82年頃)

少し不鮮明だけど、キュートなお写真も♪ ↓

 

可愛すぎる。 足が長~~~い☆

多分『Thriller』の発売前で、もっとも悩み事がなかった頃のマイケル・ジャクソンです。素敵なメイキング映像もあったけど、不鮮明で目が悪くなりそうだから、何度も観ない方がいいかも。でもこれ、DVD化してほしいくらいだわ、スズキさん。ホントに魅力的なマイケルでした。 この頃のマイケル、とてもハンサムでチャーミングだよね。可愛いけど男っぽくもある。

ジャクソンズ時代のマイケルは、ポップでお日さまが似合う若者だったけど、ソロはやっぱり繊細でカッコよく〝MOON〟なイメージ?


というわけで、本題です。

前回に引き続き、「AERA dot.」に掲載された和田静香さんの記事をご紹介☆ 今回も興味深い内容です。バブル時代のキラキラなJAPANを感じる。当時は昭和62年(1987年)です。昭和がどんどん遠くなるわね。。。(遠い目)

事実誤認を数か所訂正しています。(Lahさんという方のTwitterで知りました)


*バブルスと日本で過ごした最愛の日々

(前略)1987年9月9日に日本にやってきたマイケルは、初のソロ・コンサートを東京・後楽園球場などで大々的に行っただけでなく、オフの時間も精力的に動いていた。当時マイケルの所属するEPIC・ソニーで担当A&Rだった清水彰彦さんは回想する。

「記者会見やインタビューなどは一切やらなかったんですが、大阪市役所をバブルス(マイケルの飼っていたチンパンジー)と一緒に表敬訪問し、そこがメディア向けの撮影の機会となりました。お茶に手を出していたずらしようとしたバブルスに、マイケルが指でバツを作って駄目だよって叱った場面は有名になりましたよね」

ありましたね、そんなこと。ちなみにバブルスはパスポートを持って飛行機の客室、しかもマイケルと同じファーストクラスに乗って来日したと、マイケルを日本に招へいした当時の日本テレビ事業部部長・白井荘也さんが「マイケル・ジャクソン来日秘話」(DU BOOKS/2017年)に書いている。機内食はバナナと牛乳だったそう。(注:バブルスは別便だったそうです)

そのバブルスにも会っているのが、マイケルに「アキ」と呼ばれて信頼を寄せられていた、当時のEPIC・ソニー国際部にいた田中章さん。田中さんはマイケル来日中、何度も会って会話を交わしていた。

「打ち合わせで赤坂・キャピトル東急ホテルのマイケルの部屋に行くと、バブルスもいました。マイケルが『抱っこしてやってください』というので抱っこしました。嫌がったりしなくて、大人しい、いい子でしたよ」

(中略)ちなみにマイケルのもう1人(?)のペット、蛇のマッスル君も「いっしょに来日していたんじゃないか?」と清水さんは言う。(注:マッスルズは前年に死亡しているそう) チンパンジーや蛇など爬虫類をペットに愛するのも今どきでは何ら珍しいことではないが、当時はあれこれ言われていたのを覚えている。

しかしマイケルはオフの時間、部屋でペットたちと遊んでいたわけではない。来日中もクリエイティヴな活動を欠かさなかった。

「マイケルの部屋には聞いたところによるとレンタル料だけで1千万円の特注のペルシャ絨毯が敷かれていたんですけど、それは別にマイケル側からのオファーではなく、日本テレビの計らいでしょうが、事前に部屋を見せてもらったときに、その絨毯の上に1メートルちょっと四方ぐらいの特注の板が敷かれていました。1人部屋でダンス・レッスンをする用だとかで、これだけはマイケルが材質や大きさなど本人が指定したそうです。そこでダンス・レッスンを本当に汗びっしょりになってやっていたそうです」(注:ペルシャ絨毯はキャピトル東急が用意したそう)

ステージで見せる華麗なダンスは毎日コツコツ積み重ねる、練習の賜物だったのだ。マイケルはツアー中もそれを欠かさなかった。

「さらに、ダンスだけじゃなく、レコーディングもしています。六本木の四明ビルにあった(注:現在は取り壊し)CBS・ソニーのスタジオで、確か『ザ・ウェイ・ユー・メイク・ミー・フィール』のビデオの頭のところ用です。映像にすると音が足りないってことで自らガヤ、つまりホーとかワウとか声を入れたいと言って、スタジオに行きました。その前にビデオの監督から国際電話が入って、そういう電話にも勿論マイケル本人が直接あれこれ答えるんですけど、『あのシーンは特にいいよ。君に頼んで良かったよ。でも、こうしたらもっとよくなるんだよね』とかホメながらも細かく駄目出しするのを横で聞いていました。マイケルは相手をホメて伸ばす男ですね(笑い)。それで、そのビデオ用の音声を録音したんです。スタジオの中からマイケル自ら、日本のエンジニアに向けて大きな手でキュー出し(人差し指と中指を揃えて下ろす)、1時間ぐらいやってましたね」

スタジオに入るとマイケルは生き生きとし、また、その前に清水さんと一緒に寄った、当時六本木にあったCDショップ「WAVE」で買ってきたダイアナ・ロスのCDを喜んで開けていたとか。

WAVEでは1フロア貸切にしてもらい、ゆっくりCDを選んでいましたが、当時はアナログレコードからCDへの移行期。色々な企画盤が出ていて、ビクターが2枚のLPを1枚のCDにまとめた『2 in 1』シリーズというお買い得盤を出していたんですが、マイケルはそのダイアナ・ロスのを買って『これはいいアイディアだねぇ。2枚が1枚だなんて!』とご満悦でした。そこで僕がちょっかいを出して『そのシリーズでジャクソン5も出ているよ』なんて言ったら、マイケルが『ああ、あれはいいよ。どうせオレには一銭も入らないから』なんてあっさり軽く答えたんですよ。『ホント?』って聞き返すと笑ってました。モータウンとマイケルたちの契約は酷いもので、印税どころかアーティストとしての自由も何もない搾取でマイケルが苦悩した話は今では有名ですが、そうやって軽く笑い飛ばしてもいたんです」(清水さん)

スタジオで生き生きとレコーディングし、軽口を叩いて笑うマイケル。ミュージシャンとしてのマイケルは他のアーティストたちと何ら変わらない、音楽を愛する1人の青年だった。ちなみにこのときは、東京・信濃町に出来たばかりだったCBS・ソニーのスタジオの見学にも訪れている。

「そのときはプロデューサーのクインシー・ジョーンズと、当時マイケルのレコーディングのエンジニアをしていたブルース・スウェディーンも一緒に来ました。もしかしたら次のレコーディング場所を探していたのか?とにかく熱心に見学していて、壁に彼らが日本語も交えてサインを大きく書き残していったんですが、今そのスタジオはソニー・ミュージックから別の人手に渡ってしまったんで、どうなったのか?わからないんです」(田中さん)

田中さんは六本木のスタジオでマイケルがガヤをレコーディングするのにも立ち会っていて、そのときに忘れられない思い出があるという。

「レコーディングの合間にマイケルがお手洗いを借りたいというので、僕が案内した時のことです。ビルの端、角のところにトイレがあったんですが、そこにちょうど掃除をしている係の男性がいらして、パッと見てすぐ分かったんですが、彼の顔が大きくケロイド状になっていたんです。するとマイケルが『この方と握手したいんですけど、お願いしてもらえませんか?』と言う。そこで、『こちらの人があなたと握手したいと言ってるんですが、いいですか?』とだけ尋ねると、向こうも面食らったと思いますが、黙って頷かれたので、マイケルはその人の手を暫くの間握り、そして洗面所に入りました。その方にも特に、こちらマイケル・ジャクソンというスターの方で、とか説明はしませんでしたし、マイケルにもどうして握手したいのかも、聞きませんでしたが、僕が思うにマイケルは自らが黒人というマイノリティで多くの差別を受けたことで、社会的に弱い立場にある人に寄り添って行動する人だったんじゃないでしょうか。握手もその意思表示。偽善とかそういうことではないと思っています。だって、その場には僕とマイケルと、掃除の方しかいないわけですから、気取る必要もありません」

この話を聞いて、マイケルは顔にケロイドを負ったトイレ掃除の人を仲間だと思ったんだなと感じた。握手は友情を分かち合う行為。よく黒人ラッパーの仲間同士がイエイエイ~とか言いながらハンドシェイクでハイタッチするが、あの感覚だったんじゃないか?と思う。「黒人のミュージックビデオは放送しない」(80年代初期MTV)とか、「黒人を表紙にしたら売り上げが落ちる」(80年代までの音楽雑誌『ローリング・ストーン』)とか、信じられない黒人差別、偏見の中を生きてきたマイケルだ。成功と引き換えにいわれなきバッシングの嵐にも遭った。後に肌が白くなったのも「白人になりたいから脱色している」などと揶揄されたが、本当は尋常性白斑という難病だったのは亡くなった後の検視ではっきりと発表された。何か事が起こってバッシングされる度に、マイケルはアメリカ社会に於いて自らが黒人というマイノリティであることを常に背負わざるをえなかった。だからこそ世の中で虐げられる人、貧しい人、子どもたち、弱者に寄り添い、生きたのがマイケル・ジャクソンなのだろう。

さて、マイケルは日本を好きだったんだろうか?『マイケル・ジャクソン来日秘話』には「日本人の目はいつも優しく、こちらを見て話しかけてくれる、それにみな、心がこもってる、こんなに気持ちが楽でいられる国は初めてだ」とマイケルが何度も言っていたとある。またマイケル自身、話し声がとても静かで穏やか、話し方は誰に対しても丁寧なのは田中さん、清水さん共に言っているが、日本人の話し方を好んでいたそうだ。とはいえ、それは特に日本だけに限らず「マイケルはとにかくアメリカに居るのがイヤだったんじゃないか?と思います。特に90年代以降になると、アメリカでマイケルは犯罪者扱い。それがロンドンやパリに行くと熱狂され、日本もそう。温かく迎えてくれますからね」と清水さんは推測する。

日本といえばまた、あらゆる意味でイノベーターであったソニーの創始者・盛田昭夫さんをマイケルは尊敬し、87年来日時にはマイケル側からお願いして自宅を訪問。大皿に山盛りの二十世紀梨を1人でぺろりとたいらげた、なんていうエピソードを夫人がコラムに書いている。ちなみに現在のソニー会長である平井一夫さんがまだCBS・ソニーに入社して3年目の頃、マイケルのアルバム『BAD』が完成。マスタリング・テープを当時はハンドキャリーで運ぶのが一番早い安全な方法とされていて、たまたまロサンゼルスにいた平井さんに「すぐに取りに行って持って帰ってきて、成田空港で清水さんに渡して。何があってもマスターテープだけは守ってください」と上司からお達しが下り、平井さんが「パシリとして」音源を運んだのだそう。イッツ・ア・ソニー。マイケルを巡る日本の物語だ。

さて、マイケルがもし生きていたら、今年で還暦を迎えるはずだった。(注:昨年が還暦で、今年は61歳です)

「マイケルの周りで仕事をしていたアメリカのレコード会社の人たちとは今もFacebookなどを通じて繋がっていますし、仕事をすることもありますが、彼らは口を揃えて『今回のTVドキュメンタリーになったようなこと(少年虐待疑惑)は絶対にありえない』と言います。マイケルはスーパースターになったが故に、しかも黒人のスーパースターということで根深い差別があるのだと僕は考えています」と田中さんは言う。

 あまりに巨大に成長したスターへは時に常軌を逸したバッシングが行われる。バッシングする側に、さらにそれを読んだり見たりする側にもリアルな人間像が描けなくなってしまうのかもしれない。しかもマイケルは、今でもアメリカ社会で差別される側であり続け、歌の世界でもその差別が大きくクローズアップされ続ける「黒人」、その最初の超ド級のスーパースターだ。今もはこびるバッシングの底辺には、長年の黒人差別の歴史が常にあることをマイケルのニュースを読むたび、私たち自身が決して忘れてはいけないと自戒したい。

マイケル・ジャクソン。享年50。いわれなき差別と誤解の中でもひたすら純粋に自分の目的を持って遂行して生きた人だった、と私は感じている。


私と全てが同じ意見というわけではないのだけど、心が温かくなる良い記事です。

マイケルは、日本が好きだっただろうと私も思います。みんなが良い人というわけではないけど(失礼しました)、全体的にみて、日本人は優しくて奥ゆかしい。その上、マイケル・ジャクソンのような人が好きだからね~~☆

日本には、人を肌色で区別するクダラナイ習慣はありません。


あと少しで平成も終わり。。。
令和が昭和の末から平成のはじめの頃のように、キラキラした豊かな時代になりますように。


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マイケル・ジャクソン来日秘話 テレビ屋の友情が生んだ20世紀最大規模のショービジネス
白井荘也
DU BOOKS
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『BAD』時代のMichael①

2019-04-27 10:06:00 | MJ

先日購入した『Thriller』25周年の記念本が届きました。 

レビューにあるとおり、当時のマイケルのレアなお写真が満載♪ しかもアップが多いので、彼のハンサムなお顔をじっくりと眺めてしまいます。 密集した濃く長~~い睫毛(まつげ)がくるりんとカールしてて、超羨ましい。。いいわねぇ、ビューラーが要らなくて。

ただ、説明では「ほぼ新品」とあったのですが、表紙のマイケルの可愛いお顔に小傷があり()、角も傷んでるし〝昔の本の香り〟が漂ってる。。。 臭いを消すため新聞紙で包(くる)んでるけど、これで消えてほしい。。(注:新聞紙は効果が高いらしい) ハードカバーではないので、DAISOの透明カバーをしようかな~~。そしたら傷みが気にならず、見た目も立派になりそう。

そして、上記のお写真は、『Harper's BAZAAR』2017年12月号に掲載されていたものです☆ NYにほんの数年だけ存在した伝説のお店「スタジオ54」で撮影されたものだとか。1977年、19歳の可愛いマイケルです。 この笑顔が眩しくて。。

マイケルがお話しているのは、スティーブン・タイラーだそう。ほとんどお顔が見えないんですけど。。(あらら)

このページはスクラップしようと思ってるの。後年に比べれば、ほとんど何の苦悩もなかった頃のマイケル。


彼は輝かしい栄光の陰で、多くの苦悩を抱えていました。マイケル・ジャクソンの辛い部分を見たくないけど、これを知れば、彼がどんなに偉大な人物であるのかが分かるのです。批判しかしない人は、彼のことを何も知らないのでしょう。知らない人のことを理不尽に責めてはいけません。

*マイケル・ジャクソンは、黒人としては唯一、本当の意味で〝最高の地位〟に登りつめたアーティストであり、アイドル的な立場でもあったためか、他の大物アーティストが経験したことがないほどの理不尽なバッシングを受け続けました。人種差別主義者の格好の標的だったのだと私は思っています。(今も続いている)

メディアの攻撃(〝口撃〟かも)は凄まじく、マイケルの善行(慈善活動など)を一切報じないばかりか、数多くの作り話を世間に吹聴し、彼が子どもたちに親切にすることを揶揄、誹謗中傷しました。メディアが1993年、2003年、今年2019年の事件の「元」を作ったのだと言っても過言ではありません。(他にソニーとの深刻な確執、マイケルのおカネを狙う人々にも苦労していた)

さらに彼は数多くのケガ(及び後遺症)、難病にも悩まされており、一般人が想像できないほどの苦悩を背負っていました。肌の色や40代以降の外見の変化は、病気(白斑、SLE)によるものです。彼は常に身体の痛みに耐える人生だったはず。このことを本当に理解してくれる人は(3人の実子以外の)家族にも多分おらず、マイケルはとても辛かったと思います。

思いやりの心と想像力が僅かでもあれば、マイケルの辛さが誰でも多少は分かるはずです。

それでも彼は人々に優しく親切にし、自身の辛さをほとんど人に見せませんでした。マイケルはとても強い人だったのですね。彼の内面を深く愛するファンが大勢いる理由が分かるでしょ?


さて今日は、「AERA dot.」に掲載された和田静香さんという方の記事をご紹介します。

私のブログに保存したいということもあり、抜粋して載せたいと思います。

1987年のBADツアーで来日した時のエピソード。 マイケルの興味深い事柄が満載♪ 昔ながらの音楽雑誌風の文章もイイ感じ。

文中に事実誤認、誤植などが数か所あるため、訂正しています。(事実誤認の箇所は、Lahさんという方のTwitterで知りました)

では、どうぞ。


*マイケル来日パーティー キャピトル東急スイートルームの真実

(前略)今、新しい時代を迎えようとしているこの日本で、昭和57年(1982年)12月5日(注:正確には12月10日)に発売されて大ヒットしたアルバム『スリラー』でトップ・スターになったマイケル・ジャクソンという1人の偉大なアーティストの人間像が語られることは、ファンを対象にしたメディア以外では滅多に目にすることもなくなった。(中略)

一体、マイケル・ジャクソンとはどんな人だったのだろうか? その死から10年、今一度探ってみたい。

「マイケルはステージで見せる自信に満ち溢れたスター像とは違い、普段はとても穏やかな人でした。スターにありがちな尊大さなんて全く見せません」

そう語るのは、マイケルの日本での発売元であるレコード会社「EPIC・ソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)」で、海外との契約やマーケティングに関する交渉などを行う日本側の「国際部」に所属していた田中章さん。田中さんは国内外でマイケルに何度も会っている。

「1987年に来日した際、レコード会社主催の歓迎レセプションを開くことになりました。当時のEPIC・ソニーとCBS・ソニーでは、海外からアーティストが来日すると銀座のソニービルの地下にあったフレンチ・レストラン『マキシム・ド・パリ』でオフィシャル・ディナーを開くのが常だったんですが、マイケルはそうした儀礼的な席は好まないだろうと判断し、宿泊していた赤坂・キャピトル東急ホテルのスイートルームを借りて開くことにしました。僕の提案で、子ども好きのマイケルだから社員も子どもたちを連れて出席してマイケルを迎えようとなり、うちの当時6歳だった娘にもミッキーマウスのTシャツを着せて一緒に出席しました。マイケルはこうした席だと恥ずかしがり屋で積極的に話をすることは少ないんですが、それでも『ありがとう』とその度に言って、疲れた顔を見せず記念撮影に応じてくれました」

なるほど、「マイケルは子どもが好き」という噂は、87年当時すでによく知られていたことが分かる。このときの来日公演は「日本テレビ」の主催だったが、その交渉をした伝説のTVマン白井荘也さんが書いた「マイケル・ジャクソン来日秘話」(DU BOOKS/2017年)を読むと、日本テレビが主催したパーティーにも、ミュージカル「アニー」に当時出演していた子どもたちが参加して「トゥモロウ」を歌ってマイケルを迎えたとある。(中略)

「マイケルは子どもだけが好きというより、どちらかというと大人を信用できなかったといった方がいいんではないでしょうか。自分と同じような年齢の、もしくはもっと上の大人たちは皆お金目当てであったり、誰かの差し金であったり、何か仕事を頼みたいとか利害関係で近づいてくるに決まっていると、マイケルは常に警戒心を抱いていたと思います。来日したのは『スリラー』が大ヒットして、続くアルバム『バッド』が発表された頃です。最も難しい時期と言えるでしょう。『スリラー』の爆発的ヒットであらゆる人が手のひら返し、誰も信じられない!と思っていたのは想像するに容易です」

そう語るのは、当時「EPIC・ソニー」でマイケルを担当するA&Rだった清水彰彦さん。見知らぬ大人などとは会いたくない、話をしたくない、心を開かない、それが当時のマイケルだったんじゃないか?という。

「そのためにマイケル側のスタッフは、フランク・ディレオというマネージャーだけでした。ビジネスはフランクが担当し、ボディガードが1人と、弁護士は別にもう1人いましたが、音楽面のクリエイティヴなことはマイケルが全部やるんです。バンドにはグレッグ・フィリンゲインズというキーボード奏者がいて、彼がバンマス(バンドマスター)で細かいところはやるけど、普通は複数人いるアシスタント・ディレクターみたいな人や取り巻き的な人は誰もいない。ステージでのアレンジの変更や何時までにリハしてとか、そういうことを全部マイケル本人が決めるんです。スタジアム規模のツアーでそんなことしてる人、他に誰もいません。

変な話、衣装とか普段着とか洗濯してくれる人、いるの?とかも心配でした。そりゃもちろん日本側スタッフに頼んでくれれば何でもしますよ。でもマイケルが頼んでくれないと、何もこちらからは手出しできませんからね。当時、スポーツ新聞やワイドショー用に『今日のマイケル』みたいなネタをレコード会社から送っていたんですが、その写真なんか見ると、同じような服を毎日着ていて、エリがクタッとなっていたりする。もしかして昨日と同じ服?マイケル大丈夫かな?と心配していました」(清水さん)

部屋のバスルームで1人コシコシとパンツや靴下を洗うマイケル……というのも、ありえない話ではないと清水さん。実際多くのアーティストは、自分でそうやって部屋で洗濯をすることも多いんだそうだが、よもやマイケルもそうだったのか?

日本テレビの白井荘也さんの本にも、87年のマイケル来日公演は元々、幼少期からの友人であるオズモンド・ブラザーズ(注:70年代に人気を博したファミリー・コーラス・グループ)のジミー・オズモンドに、マイケル本人が「日本で誰か信用できる人はいないか?」と尋ねたことから始まったとある。

マイケルに尋ねられたジミー・オズモンドは、自分が17歳から出演していた日本のTV番組「日曜お笑い劇場」のディレクターだった白井さんを、「この人なら」とマイケルに紹介した。コンサート・プロモーター探しなど、普通アーティスト自身がやることではないが、マイケルはそこまで自分でやっていたのだ。

マイケルは誰も信用できずに、何もかも自分でコントロールしたくなるコントロール・フリークになっていたともいえる。しかし、その反面でまた違うマイケルの顔が見える。

「でもジミーは当時すでにかなりやり手のビジネスマンでもあり、ディズニー・オン・アイスの興行権なども持っていたと聞きます。マイケルはそうした面も鑑みて、ジミーを信用していたんだと思いますよ」と清水さん。

また田中さんは、「マネージャーのフランクは元々アメリカのEPIC・レコードのプロモーション部門のヘッドだった人です。その仕事ぶりをマイケルが見込んでマネージャーに雇いました。日本はマネージメント会社がアーティストを雇いますが、アメリカは逆。アーティストがマネージャーを雇います。フランクはいかつい外見ですが、元々レコード会社の人間だっただけあり、物わかりのいい、こちらのやりたいことに応えてくれる人でしたよ」という。

ナイーヴな子ども好きのマイケル像から一転、生き馬の目を抜く厳しい米・ショービズの世界で信用できる人物を自ら選定して起用する、ビジネスマンとしての冷静な視線を持つマイケル像が見えてくる。

「日本では田中章さんをアキ、と呼んでマイケルは一番信用していましたよね。同じアキでも、清水彰彦の僕はアキ2でした。田中さんは同じ会社にいた僕から見ても損得関係なく動く信頼できる人ですからね」(清水さん)という。ビジネス面だけじゃなく、マイケルは人の本質も容易に見抜いて、付き合う人を選んでいたんだろう。私から見ても、田中さんを信頼するマイケルは分かってる人だなぁと思う。

となると、マイケルの子ども好きは単なる噂だったのか? 
「マイケルがまだネヴァーランドに引っ越す前、エンシノに住んでいた頃に訪ねたことがあります。そこは事務所にもなっていましたが、家の中に『お菓子の家』がありましたね。いや、お菓子で出来てるんじゃなくて、あらゆるお菓子が用意されてるんですよ、いつ子どもたちが遊びに来てもいいようにって」(田中さん)

「ほら、やっぱりね」なんてほくそ笑む人もいるかもしれないけど、ごく普通な自分と、世界で3億5千万枚以上ものレコードやCDを売り上げることができる男の考えることは、まるで違うんだと自覚せねばならない。

東京大学の安富歩教授は「マイケル・ジャクソンの思想」(アルテスパブリッシング/2016年)という本の中で、マイケルが1993年のグラミー賞で演説した「子どもたちは最も深い智恵に到達していて、そこから創造性を得る方法を教えてくれる」を何度も引用する。マイケルが子どもたちを愛したのは、そういう深い思索のところに所以があるというのだ。だいたい考えてもみてほしい。もし本当にマイケルが子ども達を性愛の対象として見ていたのなら、絶対にそれを隠し、家に用意したお菓子の家を外から来る人が安易に見られるようにしておかないのではないか? 最少の人件費で冷静にビジネスを遂行し、3億5千万枚を売り上げられる男なのだ、それぐらい考えられるだろう。

実際のところ、マイケルは恵まれない子どもたちへ何よりも大切な教育支援に本当に熱心で、87年に来日した折には多額の寄付を各所にしていた。

「マイケルは来日前に日本ユネスコ協会に連絡して協力を申し出てステージ衣装などをオークションに出し、さらにマイケルの肖像入りゴールドメダルの製造を許可して両方の売り上げを加え3000万円あまりを全て日本ユネスコ協会に寄付したそうです。日本ユネスコ協会はその資金を元に『ユネスコ世界寺子屋運動』という、世界の子どもたちに学ぶ機会を与えるための基金を作って今に続き、世界で124万人に学ぶ機会を提供しています。

当時日本ユネスコの事務局長だった方が「何故ユネスコに寄付してくださるのですか」と問うと、マイケルは「僕自身、子どもの頃に音楽の仕事があり学校に行けなかった。だから教育を受ける機会の無い子どもたちのことがとても気になります。どうか、彼らの為に役立てて下さい。そしてユネスコの支援活動は一過性のgiftではありません、共に歩んで行くCo-oprative Actionで、それに僕は共感しています」と答えたそうです。

「それでは!」と、寺子屋運動に「マイケル・ファンドと名付けさせてください」とユネスコ側が申し出ると、マイケルは断ったとか。売名行為と取られるのを嫌がったんですが、上から目線で恵んでやるのではなく、共に歩もうとする姿勢がマイケルらしいですね。

またこれとは別に、女優の宮城まり子さんが代表を務める児童養護施設ねむの木学園」への寄付もしています。こちらはマイケルから私に寄付をすべき日本の団体を選んで欲しいと頼まれ、紹介したものです。「ねむの木学園」ではその後、天皇皇后両陛下がご訪問された折にマイケルの歌を子どもたちが歌ったりして、マイケルへの感謝を表しています。これらのことは公表を控えて欲しいというのがマイケルの意向だったので、僕も今まで人に話したことが殆どなかったため、報道されることもありませんでした」(田中さん)

日頃喧伝されるマイケル像とは違う姿をすぐ側で見ていた田中さん、清水さん。(「バブルスと日本で過ごした最愛の日々」に続く)


時はバブルの最中。当時の日本のエネルギッシュでキラキラした雰囲気が伝わってきます。

マイケル・ジャクソンのシャイなところ、思いやりある優しい心、困っている人を助けたいと思う気持ちがよく分かる素晴らしい記事です。(マイケルはこの頃までは自ら仕事を管理しており、全てが上手くいっていたようですね。彼がビジネス面で〝やり手〟だったのは事実です)

最近はマイケルの実像とかけ離れた下品なドキュメンタリーの話ばかりで、私は精神的に疲れていました。

でも、この記事で気分が上がり、元気が出た。

後半も興味深いお話が満載です♪


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エビフライとヒレカツ♪

2019-04-25 13:22:55 | 日々の出来事

数日前、出雲の「かつ楽」というお店にランチに行きました。

外食は時々しているのだけど、お写真がイマイチだったり味が「何だかなァ」という時は、記事にしていません。。。


午前11時半くらいにお邪魔したので、限定20食のレディースランチを注文できた。

このお店に来るのは久しぶり。。。

友人と4人で行ったのですが、みんなレディースランチ♪

待つことしばし。

運ばれてきたのはコレ。

大きくて全体が写せなかった。。。

左側にご飯(可愛い桜のお茶椀 )とカラフルな野菜サラダがあります。

あとはメインのヒレカツとエビフライ、大根と人参と玉子のなます、茶わん蒸し、ワカメとなめこのお味噌汁、お漬物。

大ぶりのエビフライはぷりぷりで、タルタルソースも美味ちかった。 ヒレカツもすごぉく柔らかくて、女性向けの揚げ物という感じ。これまた美味ちい。 最初「2つって少ない」と思ったけど、どちらも大きかったので、これで適量だったわ。

お野菜がたっぷりあるから、ヘルシーです。

さらに飲み物とデザート付き♪

  

プリンとアイスカフェラテ。(ビールみたいね) 他の人はホットコーヒーやアイスコーヒーでした。

これで1000円くらい。

ソースは自分でミニすり鉢で擦ったゴマにトンカツソースを入れるスタイルです。トンカツ専門店は、こういうところが多いのかな~~?? 前も別のお店でゴリゴリしたことがある。

また他のカツも食べたい。

私のランチ、今までは全て麺類だったわね。。


さて、平成もあと6日になりました。

なので、日記帖を新調しようと思って。

私はいつもB6サイズのノートを使うので、今回も同じ大きさの可愛いモノを物色しました。

見つけたのがコレ。 ↓

大人な感じのミニーのノートです。アンニュイな表情のミニーと、クラッシックな雰囲気の絵が可愛くて好き。

Yahoo!ショッピングで半額のお店を見つけたし、ちょうど期限が迫ったポイントを持っていたので、買っちゃいました。というか、全てポイントで支払ったので、0円です。 

700円以上もする高級ノートなので、新時代にふさわしい。 (コチラでセール中ですが、残り少ないかも。下に貼っているのは3冊セットです)

大切に使おうと思います。


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