ちょっと前までは50PVを越えると、スゴい! とよろこんでいた。最近は3ケタの方に覗いてもらう日のほうが多くなった。「読んでよ」と伝えたひとは30人ぐらいなものだから、ありがたいし、こわいぐらいでもある。自分の文章を、知人友人以外にも読んでくれる人がいるって、いまだに奇跡のように感じて頬をつねりたくなる。
こうなると手ぶらで帰ってもらうのは申し訳なく、せめて週に1度は更新させて頂かなくてはと思うのだが、現在なかなか時間がとれない。世話になったひとの見舞いにも行けない薄情が心苦しくて、胃の底がいつもチクチクしている。
なもので、セルフ折衷案。
よくこんな長文を張り切って書いては、「スクロールが面倒」「フェイスブックでやることじゃない」などと文句を言われた。あんまりにも評判が悪いので、それで、そうかブログを始めればいいのか、ブログなら読みたくない人に迷惑をかけずに済む! と思い至ったのだった。
(2012年11月7日)
試写で拝見しました。友人知人が、いい映画を作りました。実に晴れ晴れと、いやー、参りました、という気分です。
この映画の、ホントのところはよくわかっていないンだろうという気も多分にしています。ワタシは女ではなく、ましてや娘でも母でもないからね。
男には自分の中の「少年」を、大人になった(社会的動物化した)今の自分とは分けて保存し、甘美に扱い、また仕舞い込める楽天性がいつもどこかにあるものです。
一体に、女性のほうがはっきりした肉体の変化があるだけ具体を生きるリアリストであり、ライフステージの切り替えも男性より早いと、よく言われていますよね。僕もおおよそその通りではないかと思ってきました。
しかしこの映画は、いや、むしろそういう女性だからこそ、自分の中の「少女」の取り扱いには、時には激しい感情が伴うのだと(引用の言葉、そして登場する女性の言葉などで)教えてくれます。今の自分と「少女」の連続性は、1回きりの持続する闘いなのだと。ロングセラーを続ける絵本が、そこまで描き出すための媒体となっているのは言うまでもありません。
要するに、僕はたじろいだわけです。たじろいで、男にはわからないところが多分にあるんでしょうね、と及び腰になった。女性のための映画だと、つくづく思った。
一方で僕は、共感は映画を見る時の最良の基準ではない。むしろ映画を捉える目を曇らせる、というテーゼも独自に育てています。例えば、自分の身に引き寄せて見て泣ける=いい映画とするのは、あくまで趣味、ファンのごひいきの行為であって。いったんでも映画評を書くことを自分の役割にしてしまった者は、映画を公正に捉えるエンジニア的態度と好き嫌いを、まぜこぜにしてはいけないよね、ということです。
だから、『ドキュメンタリー映画 100万回生きたねこ』は、とことん女性の映画だと思いつつ(男がいかに登場しないか、そして佐野洋子が語る、劇中で―劇中で、とつい、しかし、直さずにそのまま言いますが―もっとも印象に残る男は誰か、はぜひ見てください。佐野さんの声とともに思い出すとズーンと響いてくる)、その真っ直ぐな絞りかたが、とても良かった、と言い切ります。
母から娘への読み聞かせのすがたを、こんなに掛け値なしの状態(それは100%温かい愛に溢れた行為だといった、あらかじめのフィルターをかけていない)で提示するものを、僕は初めて見たと思います。
それに、おかあさんが知らない大人(小谷忠典監督らカメラを据えたスタッフ)と、おかあさんではなく自分自身として話している時、膝の上や隣でいつも以上にじゃれてみせて邪魔をしながら、カメラ側に向ける、小さな女の子たちの敵意と、(あたしのおかあさんなんだぞ!)という誇示の混ざり合った目。これは本当に、よく撮ってるよなー。
そりゃもちろん、そんな子どもらしい生態はホームビデオにだって映るものだけど、一瞬の三角関係が、フレーム内ドラマとしてピリッと沸き立っているところがね。凄いです。これもフィルターをかけていないから、録れたのだと思います。
そして、「猫や動物はみんな孤独な目をしている」、子どもの目もそうだ、という佐野さんの言葉につながる。映画の軸がピーンと張られる。唸りました。
女優・渡辺真起子の登場が後半からだと、見るひとは意味を余計に考えちゃうよ、などといった感想をちょこちょこ大澤一生プロデューサーらに話しましたが、それこそ大して意味のないことを言ったな、という気はします。
出てくる女性は、
「みんな さのようこさん なのです。」
という映画なので。
女優さんが、女優ならでは、という特別な身振りは無いまま、佐野洋子が幼い頃まで暮らした北京の胡同を訪ねる場面は、後半、また特に良かった。そのひとは、佐野洋子の化身でもありリポーターでもあり、そしてみんなの総体でもあり、女優をしているひとりの女性として、胡同が消えていく姿をしゃがみこんだまま見ている。
やや、ハイブロウな作品なのは確かです。佐野洋子のスタンダードな評伝映画ではないし、ロングセラー絵本の愛される秘密を、正面から検証・顕彰するものでもない。佐野洋子や絵本を通して女性の生き方を見つめる、という視点を持ちつつ、その「女性」から社会の隠れた実相を掬い上げんとするジャーナリスティックな意図もまた、さらさら持っていない。
なにしろ、
「みんな さのようこさん なのです。」
という映画なので。
各要素をつなぐ行間みたいな、間接的なものが、とてもきめ細やかで豊かな映画だということが、伝わるといいなーと思います。さいわい伝わった暁には、それはとてもパーソナルな、あなたの映画です。
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